お勉強


「あれぇ? 黒崎サン、何やってるんですか?」
 休日のうららかな午後。昼下がりの異次元駄菓子屋、浦原商店に店主である浦原は帰ってくると同時に素っ頓狂な声を上げた。思わず目を丸くする。そこに、本来いるはずのない人間がいたからだ。
 浦原は本日は買い出しに出かけていた。今回の仕入先は少々厄介なところで、いつもならばテッサイに行ってもらうところを浦原が直接出向いていた。だから当然まず浦原を迎えるのはテッサイだと思っていたのだ。だが、帰ってくるなり浦原は目を見開いた。誰もいないと思っていた筈の場所に太陽色の髪た。一護は浦原がいつも座っている場所に座って、浦原愛用の机の上で学生用の最もポピュラーで飾り気のないノートとペンを動かしていた。その手を止めて、一護は浦原を見る。
「店番。テッサイさんならちょっと急用が入ったからって出ていった。例の物が手に入ったって言えば分かるって」
「あぁ、あれねぇ…。そんじゃ、ジン太とウルルは?」
「さぁ、俺が来たときにはもう居なかったな。多分近所のガキ共と遊んでるんだろ」
「ははぁ、だから偶然やって来た黒崎さんが店番と」
「そうだよ」
 簡潔にそう言いきって、一護はノートに目を落とした。止まっていたペン先が動き出す。浦原のことなど気にしていないかのような素振り。ふぅんと浦原は小さく漏らした。
「君、今何やってるんスか?」
「ガッコーの宿題。もうちょっとで終わるから、邪魔すんなよ」
 あっさりとそうあしらわれて浦原はちょっと凹んだ。だがここでめげる筈もない浦原が一護のノートを覗き込む。確かに学校の宿題だ。しかも数学。一護のペン先は淀みなく動いている。多少迷ったりはしているようだが、基本的に迷いはない。そのことから一護の頭の良さが窺えた。
「そーいや黒崎サン。君、学校の成績って良いんでしたっけ? 確か、いつも学年50位以内には入ってるとか」
「…おっ前はどこから聞いてくるんだよ!」
 一護が勢いよく顔を上げて浦原を睨みつけた。いつも皺が寄っている一護の眉間が今日は更に険しい。それはそうだ。自分の言っていない情報を他人に言われることほど気持ちの悪いことはない。だが、今の一護の反応からして正解だったようだ。
「それは企業秘密です♪」
「…あー、そーかよ」
 浦原がいつもの決まり文句を言えば、一護は疲れ切った顔で顔を伏せた。それから頭をがしがしと掻きむしっている。恐らくは今の一護の中では浦原に対する疑問や悪口で溢れているに違いない。浦原はそれを手に取るように分かるのだが、その中身を切開して見てみたいと思うのだ。それを見たらどれだけ心地よいだろう。それを自分の物にできたら、どれだけ、
「…浦原?」
 何か危険でも察知したのか、一護が浦原に視線を向けた。いつもながらに危険や不穏な気配に対しては敏感な子どもだ。その理由までは察知できないものの、それは生きた年数や経験の差だろう。未だ15しか生きていない子どもにそれを求めるのは酷だ。だが、その希有な能力で今まで生き残れていた。浦原は子どものそういう部分が好きだった。
「ハイ、何でござんしょ?」
「いや、何か、今…」
「別に何でもないですよ。ちょっと考え事してただけです。で、その宿題さっさと終わらすんじゃないんですか?」
「あー、うん…」
 どこか釈然としない物を抱えたようだが、一護は素直にノートに向かった。自分でも敢えて話を逸らしたのは分かっていたが、彼は追求しなかったようだ。別に追求されたとしても浦原は全く構わなかったが。
 一護の視線から外れた浦原は、一護が宿題を解いている姿を見た。ついでに暇だからそのノートを見る。解かれていく計算式。少しの間見ていれば、浦原が「あ」と声を上げた。
「何だよ」
「ここ、3xっスよ。だから答えは6xの二乗」
 浦原の細長い、だけど骨張った優美な指がさした先に一つの計算式。一護は無言で覗き込んだ。多分頭の中では再計算が行われているのだろう。一護が顔を上げる。手には消しゴムが握られていた。
「…本当だ」
「ね、そうでしょ? ここ、ケアレスミスしやすいところだから注意した方がいいんじゃないっスか? あ、あとここ4xの二乗って書いてますけど、実は2xの二乗なんで。引っかけ問題っスね」
 浦原の指はノートの様々なところを動く。一つずつ消しゴムとペンを持って書き直していた一護だが、ついに吠えた。
「何で分かるんだよ!」
「何ででしょうねぇ」
 子どもの問いをさらりとかわす。また机に突っ伏した子どもが見えた。やはり見ていて飽きない。本当は、昔こちらにやってきたばかりの頃に学んだことがあるのだ。こちらの世界の文学や化学。興味があったことは何でも学んだ。それが今でも頭の中に知識として残っているわけだ。あまり役に立つとは思えない知識だったが、こんな所で役に立とうとは浦原も思っては見なかった。
 一護のノートを見た。おそらく宿題はこのページの半分だろう。一護がやっているのはその3分の2程度だ。確かにこの程度、一護の頭に浦原も手伝えばすぐに終わってしまう量だ。20分もかからない。だがそんな時間でも、子どもが己といる間くらいは己が子どもの時間を所有したいのだ。
 心が狭い。だけど改善するつもりは更々ない。こんな男に捕まったキミが悪いのだと浦原は笑う。
「ま、こんなことさっさと終わらせて」
 浦原は一護を覗き込んで艶やかに笑った。伏せていた顔を指で持ち上げて、頬と頬が触れあいそうなほどに顔を近づけて、小さく囁いた。
「早くアタシと遊びましょ?」
 一護の顔が見る間に真っ赤に染まった。それから「後でなっ!」という必死な声が聞こえたので、浦原はこれからの時間が退屈しないで済みそうだと、一護に見えないように小さくほくそ笑んだ。