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(浦原隊長黒崎副隊長話2) カリカリとペンの音が鳴り響く。一護は夜の静寂の中、一人ペンを動かし続けていた。 カリカリカリカリ。鳴り響く音。部屋の中には一護以外誰もいない。元々、ここには主である浦原とその副長である一護以外は誰も入れないのだから当然だった。 現在、執務室に主人である浦原の姿はない。無事十二番隊隊長に復帰できた浦原は、現在隊首会に出席中だった。隊首会に副長の出席は認められてはいない。以前尸魂界をその圧倒的な霊圧で引っかき回した一護ならば例外も認められようが、その権利を行使しようとは思わなかった。あの時は自分が人間で部外者だったから許された行為で、死神としてこちらの世界の者となったのだから下手なことはできはしない。 まあ、行きたくない、といえば嘘になる。久々に白哉や冬獅郎にも会ってみたかったし、一護は隊長連中に受けがいい。何か面白い情報(主に昔の浦原や夜一について)が手に入るかもしれないと思ったのだが、そこで邪魔をするのが浦原本人だ。確かに一護は隊長連中に受けがいいものの、一応十二番隊の副隊長になったのだからきちんとけじめをつけろとのことだ。どこか口先三寸で丸め込まれた気もしないでもないが、確かにそれは一護も感じていたことなので、現在はこうやって書類仕事をしているのだ。 カリカリとペンの音が鳴り響く。人間界生まれで人間界育ちの一護は毛筆に慣れていないので、こちらでもペンを使わせてもらっていた。しかも何故か浦原特製。何か特殊な機能がついているのかと疑ってしまう一護だ。そんなことはあり得ないとは言い切れない。相手はあの浦原なのだから。何かあるということを前提にした方が無難だ。むしろあの胡散臭い男を前に、どうやったらそんな考えが思いつくのか。 一護は一端ペンを置いた。書きすぎて指が痛くなっている。いずれこのまま書類整理を続けていればペンダコでもできるかもしれない。ぼんやりとその手を眺めて、それからひっそりとため息をついた。 元々、中学、いや小学生時代から喧嘩をしていたばかりのせいで、一護の手は骨張っていた。死神として斬魄刀を握るようになってからは余計にだった。ただ、外見に似合わず真面目だった一護でも、今の今までペンダコなんてできたことはなかった。 変わっていく。浦原に関わって、一護はどんどん変わっていく。今だってそうだ。こうやって眠りもせずに書類整理をしているのは一体何故か。 別に今は夜なのだから、一護は眠っていてもいいのだと思う。それに隊首会も一応の定例会であって、それが終わったら途中から酒盛りに変わるのだと(主に恋次などの副隊長仲間から)聞いたことがある。ということはどうせ浦原も遅くなるのだろうし、一護は別に寝ずの番をしてまで今やる必要のない書類整理などやらなくともいいと思うのだ。 だが、それでも一護は眠らない。一護は立ち上がり、首を回した後、凝り固まった体を両腕を上げてぐっと伸ばす。筋肉がバキバキと鳴った。 窓辺に近寄った。冷えた空気を浸食していた窓を解放する。途端に流れ込んでくる冷気が一護の肌を刺した。黒い死覇装姿は寒くもなく暑くもない丁度いい暖かさだが、現在のように寒さが上回っていた場合はあまり効果はない。だが、それを一護は無視して窓から身を乗り出した。 見上げれば人間界にいた時よりも巨大で透明な満月。浦原を連想させる満月だ。透明で透徹で、掴みにくい。それでいて触れてしまえば切れてしまいそうな、危うい月。 やはり浦原のようだと一護は嘆息する。白く移ろう朧気なその姿。おそらく酒盛りにもそんなに参加をするような人間でもないあの男は、一体今どこで何をやっているのか。 「…浦原」 こちらにやってきてから久しく呼んでいない名を呟いた。十二番隊の隊長副隊長という立場についてから、浦原のことを隊長としか呼んでいない。以前は簡単に呼べていた名なのに、冬獅郎や白哉なんか普通に名前で呼べているのに、浦原の名前だけは呼べないのは何故だろう。 理由は、よく分からない。分からないが、本人を目の前にして何故だか呼ぶことができないのだ。 白く、息を吐く。ため息は温度差のせいでしばらく空気に停滞していたが、いつの間にか辺りの風景に同化して溶け込んでいった。 「…全く、思春期なんてとっくに過ぎ去った筈なんだけどな」 「そーでもないですよ。アタシに比べたら、貴方なんてまだまだですよ、一護サン」 背後からの声。びくりと一護は体を震わせて振り返った。 「う、浦…、……隊長」 「今はプライベートっスよ?」 そんなことも忘れちゃいましたかと、黒い死覇装に相対する、十二の文字に染め抜かれた白い羽織を纏った浦原は口元を歪めながら一護に近づいてくる。ただし口元は笑っていても目が笑っていないのが妙に生々しい。 「いや、でも…あの、」 「ここ数ヶ月。…そうっスね、尸魂界に来てからちょっとって辺りですか?」 自分でも何を戸惑っているのか分からない一護に、浦原は突如として方向を変えた。一護は不可解そうに眉根を寄せた。だが浦原はそんな一護さえ愉快そうに目を細めた。ただやはり目は笑っていないので、恐ろしさは倍増だが。 「…何が、」 「キミがアタシの名前を呼ばなくなったことっスよ」 緩やかに、浦原の優美だが武骨な手が一護の頬に触れた。一見繊細そうに見えるが、紅姫を扱う浦原の指は武骨だ。微かに視線を合わせていなかった一護の目線を、浦原は強い力で浦原へと向かせた。 「何でなんスかねえ。理由、あるんでしょ?」 教えて、浦原の冷えた月色の眼差しが一護に直接突き刺さった。その殺気にも似た、だけど紛れもなく殺気ではないその眼差しに、一護は思わず怯む。 どれだけ強大な敵に立ち向かってきても、きっと一護は浦原には適わないだろうと思う瞬間はこんな時だ。一護は絶対に浦原には適わない。だけど、決意一つで浦原すら斬れる。浦原だって殺してみせる。 …矛盾した結論だ。一護は微かに自嘲した。 視線に視線をかち合わせれば、まず見えるのは浦原の月色の瞳だ。前はあの趣味の悪い帽子を被っていたせいか、見えることは滅多になかったけれど。 ――――これだ。 一護が浦原を名前で呼べない理由。隊長としか呼べなくなった理由。 初めて一護が浦原にあったとき、浦原はあの通り怪しい商店で下駄ボーシと呼ばれる存在だった。あの帽子が浦原の感情を覆い隠す役割をしていたことは一護も知っていた。知っていたのだが、これほどの威力があるとは思いもしなかった。 尸魂界に来て、浦原は昔のあの格好を止めて、服装を隊長服へと替えた。それはまぁ、別にいい。隊長に戻ったのだから隊長服を着るのは当然のことだ。むしろこの男が着なければ、他に誰が着るというのだ。 …そんなことを言っていれば、どうせこの男はあっさりと「一護サンが着ればいいじゃないスか〜♪」とか言うに決まっているのだが、そんなことは知ったことではない。 これがただの隊長ならよかった。ただの隊長ならば一護だって普通に接することができる。現に浮竹にだって山ジイにだって普通に接している。ただ、問題は相手が浦原だという事実だ。 不確かな月色の瞳にかち合う。十二の文字に染め抜かれた白い羽織が舞う。紅姫を優雅に操る。しかも浦原はこちらに来てから人間界にいた時とは考えつかない程働く。あの時のぐうたらっぷりは一体何だったのだと問わずにはいられない程の働きっぷり。それが一見すれば隊長らしくて、一護は浦原に戸惑うばかりなのだ。 まるで一護が知っている浦原ではないよう。確かに一護が知っている浦原もきちんといるのだが、それ以上に一護の知らない浦原ばかりが見えて困っているのだ。 だから、一護は浦原を名前で呼べない。仕事中はともかくとして、プライベートでも他人行儀に隊長としか呼べないのだ。こちらの浦原はあまりにも別人すぎて、一護からは遠すぎて困る。 …つまり、どういうことなのかといえば。 救いようがねぇ、一護は自分に同情した。 つまり結局のところ、一護は浦原に惚れ直しただけなのであった。 素晴らしく認めたくない事実であるが、どうやらこれが事実なようだ。今まで悩んできたことが馬鹿みたいに胸の中にすとんと落ちてきて今も居座り続けている。 あぁ、浦原に言いたくない。この男を喜ばせそうなこと死んでも言いたくない。むしろ墓石にまで持っていってしまおうか。…と、いうよりも死神にも死はあるのだろうか。というか目の前の男がそんなにも簡単に自分を死なせてくれるのだろうか。そういえば以前一護がルキアを助けに尸魂界に行くときに浦原に「キミが死んだらその魂を天の果てだろうが地の果てだろうが、どこまでも追いかけて捕まえて、アタシが作った特別製の擬骸に詰め込んでさしあげまショ」とか言われたことがある。あれが紛れもなく浦原の真実なのだとしたら…。 …恐ろしい事実にぶち当たってしまったような気がする。つまり自分はこの男に絡め取られることを良しとした日から骨の髄まで、いや髪の毛一本毛先の先までこの男の物なのだろうか。 なんて質の悪い男だ。それが分かっていないはずがないのだが。 「一護サン? アタシを前にして暢気に考え事ですか? …いい度胸ですねェ」 「…あ、」 そうだ、考え事に熱中しすぎて、目の前に誰よりも危険なこの男がいるという事実を忘れていた。 とうとう堪忍袋の尾が切れたらしい浦原は、手慣れた仕草で軽々と一護を荷物のように肩にかつぎ上げるとすぐ傍にある仮眠用のベッドにそのまま横たえた。そして一護の上に乗り上げ、一護が暴れて逃げ出せないようにとツボを押さえた。浦原の一連の動作のあまりの手際の良さに、一護は声も出せない。 「このッ! 浦原! 離せテメーは!」 ジタバタと暴れようにも、浦原の押さえているツボは的確だ。自然と力が入らなくなる箇所をしっかりと指で押さえているので、一護に為す術はなかった。 「…で?」 「は…?」 浦原の声色が変わった。一護も思わず尋ね返す。 「教えてくれるンでしょ? アタシの名前を呼ばなかった理由」 顔を近づけて耳元に息を吹きかけるように、浦原は壮絶な色香を漂わせて一護に囁く。ついでとばかりにその耳に噛みついておいた。 「…ッ」 耳に吹きこまれた息が、色香を伴った浦原の声が、ゾクゾクと一護の熱を煽っていく。 この数年間で浦原に叩き込まれた快楽に、浦原と付き合うまでまっさらだった一護の体は抵抗する術を持たない。浦原に与えられる快楽には従順になるようにできている。 体の力が抜けていく。燻っていた熱が徐々に上がっていく。体は様々な意味で動かすことができないし、一護は逃れることはできない。 「一護サン? 答えないンですか?」 しかもこの男、煽るだけ煽っておきながらそれ以上はしようとしないのだから質が悪い。 きっとこれは罠だ。一護を煽るだけ煽って、一護に答えを言わせるための罠。この程度一護にだって分かっている。 だが言っていいのか。浦原を喜ばせるようなことを言っていいのか。それは一護のなけなしの正気が躊躇させる。本当にいいのか。 嫌だ。 本気で嫌だ。真面目に嫌だ。何が何でも嫌だ。 だがこの状態では何も始まらないし、一護はこのままの状況が続いた次の状況が見えていた。 どうせこういう場合は一護が意地を張り続けて、それから確実にヤられる。それだけは分かっていた。目に見えて分かっていたのだ。だけどそれでも一護は言わなかった。 「答えないンなら仕方がないっスね」 浦原の指先が、膝から太股へと昇っていく。その度に自分の意志とは関係なしに身体が震える。浦原の仕草の一つ一つに丁寧に反応を返す己の身体が恨めしい。せめてこんな時は反応を返さずともいいものを。 羞恥で顔が赤くなる。このままでは確実にヤられる。選ばなければならない。こうなれば二者択一だ。素直に言ってヤられるのを防ぐか、このまま言わずに浦原の(ある種の)地獄の責め苦を受けるか。しかも地獄の責め苦を受けても、最終的には問いただされるのでヤられる意味はあまりない。 …そう考えればそうだ。大抵浦原は快楽に流されやすい一護の身体を利用して、様々なことを聞き出そうとしている。が、一護は口が堅いので、それが成功した試しがないが。 だがいいのか。こんなどうでもいいことであんなにもヤられていいのか。一護がぽろっと口を滑らせればいいだけのことで、ボロボロになるまでヤられてもいいのか。 良くないに決まってる。 決めた。一護は耳に舌を這わせていた浦原を無理矢理引っぺがして、強い意志の眼差しで浦原に視線を合わせた。その視線の強さにか、おやと意外そうな顔を浦原は見せた。 一護は息を吸い込んだ。先ほどの羞恥とは比べ物にならないくらいの顔の赤さで浦原を睨みながら叫ぶ。 「……お、俺は…俺はな――――ッ!」 「ハイ、何でショ」 いつまで経ってもこうやって前座を置く一護に、慣れた様子で浦原が合いの手を入れた。ようやく一護が話し出そうとする態度を見せたからか、今度は本来の笑みを浮かべている。 「テメェに惚れ直しただけだよ! 悪いかコンチクショウッ!」 しばらく時間が経って。 いつまで経っても反応をしない浦原に一護が心配になって覗き込んだ。 浦原は口元を覆い隠して、クツクツと声を上げながら笑っている。 「浦…原?」 「つまりキミは、こっちのアタシの活躍が格好良すぎて惚れ直して。それでちょっとアタシが遠く感じて名前を呼べなかったと?」 浦原の言っていることは今までの一護の思考パターンに全て合致していて、図星を突かれた一護は何も言えずに押し黙るのみだ。それをきちんと正しい意味で理解した浦原は何も言わずに一護の唇に口付けた。 「カワイイコ」 浦原の声音が嬉しそうで、口付けがとても優しくて。だから一護はもういいと思って。 そして、一護は浦原の首に腕を回した。 |