Act.1 : evening glow



 ペタ、と油絵に緑色を静かに塗った。


 ペタペタとキャンパスに絵筆で緑色を塗り続ける。イメージとしては、脳内で構成された絵をそのままを写し取るみたい。だけど絵筆を自由に操って、写真のように描いていく。
 窓の外から射し込む、目に痛いけれど綺麗な西日。冬の日はとても変わりやすい。真っ赤に染まる美術室と、緑色に塗ったキャンパスの上から上書きされるように塗りつぶされていく赤色。
 美術室には私しかいない。当然だ、この教室は今は誰も使われていない教室。授業や美術部が使うような教室ではないのだ。

「…緑色」

 背景色を濃い緑色をベースに。その色を基調として同系色だが明暗の差はっきり出た色を作りだし、キャンパスへと風景を作り出していく。
 多少暗めの緑を大筆で大雑把に塗っていき、比較的明るめの緑を小筆で細かく塗っていく。
 ほら、これだけの作業で森が出来る。ただこの森に深みを持たせたいので、少し試行錯誤をしなければならない。

「うーん…」

 私は小さく唸る。これは少し難しいかもしれない。
 だけど自分でこうしようと決めたのだから、最後までやり遂げなければならない。
 もう少し多彩な色を混ぜてみてはどうだろうか、今のままでは少し緑の色が少ないような気がする。そうすれば多少は深みというものが出てくれるだろうか。
 いや、逆にもう少し色味を少なくした状態の方が深みという物が出てくれるのだろうか。それを確認する方法は私にはよく分からない。

「…よく分からないや」

 正直、色を増やすのも少なくするのも画法としてはある。その中で、自分の描きたい物に合いさえすればいいのだ。
 ただ今の自分にはそれを見極めることが出来ないだけで。そしてたったそれだけのことが致命的になるということを知っているだけで。

「…今日はもう駄目かな」

 呟いて、カタンと机に置いてあるパレットの上に絵筆を置いた。
 こんな心境で絵を描くことなんて出来ない。絵を描くときはとても慎重に、かつ大胆に、そして透明な気持ちで書きたい物のことだけを考えて描かなければならないというのに。
 それは難しい。ひどく難しいことだ。描くことにだけ真っ直ぐではいられない。それだけに真っ直ぐにいたいけど、それだけには生きていけれない。
 そんなことを鬱々と考えていれば、ふとどこからかカタンと音が聞こえてきた。ついさっき私がパレットの上に置いた絵筆が零れる音ではない。もっと遠くから響いてきた音だ。私はそちらの方を向いた。

「…あ」

 私は思わず口を開いて微笑んだ。私の背後で、使われなくなったソファに腰掛けて眠っていたのが私のよく見知った人だったからだ。
 どうやら先ほどの小さな音はその人が起きたかららしい。
 黒いサラサラの髪、瞼が閉じられていた時は若干幼く見える綺麗な顔、何故か服は並盛中の制服じゃなくて肩から羽織っている学ラン。
 私は多少寝ぼけた感じのその人に声を掛けた。

「こんにちは、雲雀くん。いつからいたの?」
「…結構前からだと思うけど」

 雲雀くんはいつものように欠伸をしてそう言った。
 天井に向いている視線の焦点もそんなに合ってなくて、本当に眠そうだ。私は雲雀くんに申し訳なさそうに謝った。

「あ、ごめんね、気がつかなくて。私いっつも絵を描いてるから…」
「別に。君がいるからここに来るわけじゃないし、ついでに君に何かをしてもらいにここに来るわけでもないよ、

 そう言うと思った。いつも通りの言葉に私は笑って頷いた。

「うん、知ってる。今日も応接室追い出されたの?」
「流石に本来の目的で使われる時は僕にもどうしようもないからね」

 普段は風紀委員長として応接室を陣取っていても、他の学校から教員を迎え入れなければならない時などは流石に仕方がない。
 そういう時は渋々とこの人は応接室から動いて、この人曰くの草食動物を狩ったり、群れている雑魚を狩ったり、たまに本来の風紀の仕事をしたり、そして本当にごくまれにここにやってくるのだ。
 そう言うと雲雀くんは酷く眠たそうに欠伸をした。この人はいつだってどこでだって欠伸をしているので、それがもう癖みたいなものなのだと私は思っている。

「いつもみたいに下校までここで寝ていくの? 雲雀くん」
「さぁ…」

 ソファから起き上がろうともしない雲雀くんは、このままでは明らかにここで眠ってしまうことだろう。だけど仕方がない、何故ならば雲雀くんなのだから。
 雲雀くんはどうしてかは分からないけれど睡眠に対して異常なまでに貪欲だ。そのせいか校内で二番目に静かな(勿論一番目は応接室)この廃教室の物置にやってくる。

「眠そうだね、雲雀くん」
「眠いよ」

 いつも通りの答えに何となく安心してほっと息を吐いた。いつの間にかほんの少し緊張していたようだ。
 雲雀くんはそんな私の一呼吸でいつもと違うことが分かったのか、天井からちらりとこちらに視線を向けた。それから私の緑色のキャンパスに目を向ける。

「…何を描いてるの?」

 今の緑一色に塗られたキャンパスからはこれから描かれる物が想像が付かないのか、雲雀くんは素直にそう尋ねてくる。

「森の中の太陽。今回はそんな感じだと思うの」

 だと思う、としか言えないのがまだイメージと背景しか描けておらず、かつ今はその背景でつまずいているからだ。
 正直完成するかも危ういが、今までもその不安を抱えながら完成させてきた作品達だ。多分今回もどうにかなると思いたい。
 私がそう言うと雲雀くんは興味がなさそうに相槌を打ってくれた。相槌を打ってくれるだけ、雲雀くんの対応はとても友好的だ。雲雀くんは興味がないことにはとても冷たいし、下手をすると無視だけではなく咬み殺される。長年の付き合いがこんなところに生きている。
 でも今日はその中でもほんの少し機嫌がいいかもしれない。まず雲雀くんが自分から私に話しかけてくれたし、ついでに相槌も打ってくれたのだ。
 だから答えが返ってくるかは分からないけれど、何となく呟いてみた。

「でも何をどんな風に描きたいのか分からなくなって…今それで悩んでるの」

 分かっている。本当は答えなんて返ってこないことは分かっている。返されたとしても分からないとしか言い様がないのは分かっている。だって雲雀くんは絵のことなんて何も知らない。私の傍で私の絵を見ているだけで、そんなことは何も知らないのだ。
 だけど真っ直ぐな人だから。とても真っ直ぐな人だから。いいことはいいことと、悪いことは悪いことと、好き嫌いもはっきり言い切れる人だから。
 だからきっと、私は私の悩みなど切り捨てて欲しいのだ。「何そんなことで悩んでるの」とあっさりと切り捨てて欲しいのだ。

「珍しいね、君が絵に関してそこまで悩むなんてさ」
「絵に対することだからだよ、雲雀くん」

 雲雀くんは知らない。私が絵に関してはいつも悩んでいることを。
 私はいつだってさっさと決めて一直線に進んでいるように見えるのだろうけれど、本当はいつだって怖くていつだって怯えていて、それでもみんなには評価してもらえて。
 今だってとても怖いのに、多分この人はそんな私は微塵も分からないのだろう。

「…何を描きたいって思ったの?」

 私の期待した答えとは裏腹に、雲雀くんは静かにそう尋ねてきた。

「イメージでいいかな。あんまり上手く掴めてないけど」
「ふぅん、それでもいいんじゃない?」

 雲雀くんは自分が聞いたというのに全く興味がなさそうだ。だったらどうしてこんなことを聞いてきたのだろう。ついさっき言ったばかりだというのに。
 私は自分の中の欠片を拾い集める。まだ私の中にバラバラで落ちている欠片達。それを大まかな所でもいいから拾い集めて組み合わせて一つの絵にする。

「森の中の太陽。孤独な太陽と静寂の泉。明るすぎる光に浮き彫りにされた闇。動物たちは目を焼かれ、それでも生き残った者達はその周りで踊り始めるの」

 欠片達を組み合わせれば、意外なまでに光と闇に別たれていた。珍しいと思う、普段はここまでシビアな物は描かないはずなのに。
 描かないというよりかは描けないというのが正しいのだけど、一体どうしたことだろう。心境の変化だろうか。
 そう考えていれば、質問してきた雲雀くんがため息を吐いた。

「どうしたの? 雲雀くん」

 パレットの上の絵の具が固まってしまわないように後片付けをしながら、ため息を吐いた雲雀くんを覗き込む。雲雀くんは鬱陶しそうに私を見ていた。

「そこまでできてるんでしょ、だったら後はそれに合わせれば」

 そう言うと、雲雀くんは私から視線を逸らした。それから、「何で僕がこんな面倒なことしなきゃいけないわけ」と小さくぼやいている。これはもしかして。
 私は目をぱちくりと丸くして、それから嬉しそうに笑う。

「雲雀くん」
「何」

 雲雀くんの視線がもう一度私の方を向く。

「ありがとう」

 元気づけてくれてありがとう。気付かせてくれてありがとう。
 絵を描くことでしか生きられない私に、気付かせてくれてありがとう。

「別に。いつものことでしょ」

 付き合い長いから、と雲雀くんは呆れたように言った。
 確かに私と雲雀くんの付き合いは長い。この並盛中に入ったときからの付き合いなのだけれど、雲雀くんはやっぱり子どもの頃から雲雀くんだったみたいなのでここまで普通に付き合える人が私しかいないみたいだった。

「うん、でもありがとね、雲雀くん」

 そうしてもう一度笑いながら礼をすると、雲雀くんは私を一瞥してそっぽ向いてしまった。まだ眠るつもりなのだろうか。

「まだ寝るの? 雲雀くん」
「さぁ」
「もうそろそろ日が暮れるよ?」
「そうだね」
「黄昏時だよ?」
「うん」

 部屋全体を覆っていた西日の赤はいつの間にかどこかに消え去っており、いつの間にか部屋は重く鮮烈な印象を残す冬の夜になっていた。
 そして丁度鳴り響く下校の合図。これで生徒は全員下校しなければならない。

「ね、雲雀くん。帰ろう?」

 キャンパスもパレットも全て片付けた私は未だソファに寝転がっている雲雀くんに尋ねた。

「僕はいつまでだって学校に残ってもいいんだよ」
「私もだよ? だけど外暗いし、帰ろう?」

 私は雲雀くんを帰そうと躍起になる。それは別に夜が怖いとか、そういうではなかったりする。
 ここには私がコンクールに出していない未発表作品がたくさんある。雲雀くんは私の絵が結構好きみたいなのでよく見に来る。そして雲雀くんは私がそれをどこに仕舞っているのかを知っている。
 二人の息づかいしか響かない空間に、雲雀くんのため息が落ちた。

「…そんなに見られたくないわけ?」
「うん、失敗とか多いし」

 静かに頷く。それにここに仕舞っている未発表作品はあまり出来が良いとは思えない物ばかりだ。むしろそういうものを何故見たがるのかが分からない。
 私は相当困っていたような表情を浮かべていたのだろうか。雲雀くんが立ち上がった。

「いいよ、帰ろうか」
「あ、本当? ありがとう、雲雀くん」
「鞄取ってくるから応接室に寄るよ」
「あ、うん」

 雲雀くんはいつも通りのマイペースで私の先を歩いて応接室へと向かう。私はそれに着いていく。
 もう学校には生徒は殆ど残っていない。元々学校に最後まで残るなんて部活の人間しかいないだろう。そして部活の人間もあまり残ってはいない。冬の夜は深く暗い。吸い込まれてしまうからだ。
 雲雀くんが応接室から鞄を取ってきて、私は雲雀くんの隣を歩いて帰る。
 落ちてしまった夕焼け。黄昏すら終わってしまった。太陽の季節は過ぎ、これからは凍てつく月と氷の季節になる。

「雲雀くん」
「何」

 息を吐けば小さく白く息が出た。本当にもう冬だ。雪はまだもう少し先の話だろうか。

「また会いに来てくれる?」

 小さく尋ねてみる。きっと次に返ってくる言葉を、私は知っていたりする。

「…偶にはね」

 ほら、当たった。
 空には満天の星。夕闇を越えて黄昏が終わり、一番星と北斗七星を見上げる。

「雲雀くん、」

 今度は何だと面倒くさそうに私を見る雲雀くん。視線だけで尋ねてくる雲雀くんに私は今一番素直な気持ちで言った。


「大好きだよ」


 そうして今日も、また次の日も、隣に君があればいいと思う。



西日の暮れゆく夕焼け空に


***
凍結中連載小説「鋼とダイヤモンド」第一話