猫と野獣の生贄


 夏だ。
 じわじわと茹るような暑さと湿気を含んだ空気が全身に纏わりついている。梅雨時期でもないのにじとりと重苦しく湿った空気はまるで首でも絞められているような錯覚してしまう。熱の籠った重苦しい空気が喉に詰まって呼吸をするのも困難だ。
 暑さも寒さも苦手だけど、どうも湿気はいけない。あまり強くない体だけど、湿気と気圧だけは格段に弱かった。しかし湿気と気圧という物がなんというか微妙だ。あまり体感することがないというそれは、まるで見えない何かが私を殺しに来ているようだ。
 じわじわじわじわ。きっとこのままだったら蒸焼きにされるだろうなあとぼんやりと思いながら蜃気楼の浮かび上がる炎天下の中いつも通りの空地に向かっていると、ふと脳裏を過ぎるのは何故かあの人のことだった。
 あの人。それは今、きっといつも通りに都古ちゃんと組み手をしている筈の人。みんなには人に見えないけれど、私には人に見える人。
 青い瞳が綺麗な黒髪のその人は、何故か普段人に見える姿としてはパンダの着ぐるみ姿だ。だけど妙に俊敏な動きをするパンダで格闘能力の高さが凄まじい。そんなその人は都古ちゃんのお師匠さんで、そして何故だか私のことを殺そうとしている人だ。
 あの人が何故私を殺そうとしているのかはわからない。恨みを買った覚えはない。そもそもあの人は大概のことは恨みとして受け取らないだろうし、恨みを持たれたとしたら私は今生きていないと思う。
 かと言って、全く心当たりがないとは言えない。だけどそれは恐らくあの人は覚えていないだろうし、そもそもそれは理由になり得ない出来事だった。
 だけどそれを抜きにしても、人間は恨み辛みを買う生き物だ。知らない内に恨みを買っていたのかもしれない。だけどあの人は私を殺そうとする時とても楽しそうで、私に接する時はとても普通で、その一貫性のない態度に戸惑ってしまう。だから理由を知りたいのだけどあの人が答えてくれないのは分かっている。そしてその答えを知っているのはあの人だけで、そうである限りこの問いに答えはないのだ。
 …これ以上考えるのは不毛だ。出口のない答えは精神を摩耗させるだけだ。ただでさえ弱い体に引きずられて、精神も脆くなっている気がする。答えが出ないと分かっていて考え続けるのは無駄なことでしかない。普段は考えないようにしているつもりなのに、どうやらこの暑さで頭が朦朧としているみたいだ。これは早く空地に行って、あの木陰で休まないと。
 けほ、と喉が鳴った。浅くもなく深くもないその呼吸は、妙に空気の含んだ渇いた音を出してより一層不快感を煽る。咳き込みそうになったところを持っていた清涼飲料水で喉を潤した。これは大分まずいのかもしれない。少し休憩した方がいいのだろうか。だけど傍に休憩できる場所もなく、とりあえず遊歩道の傍にあった街路樹へと退避した。暑さや湿気は変わらないけれど、直射日光からは守ってくれるはずだ。
 街路樹の木陰を歩いて、私は誰もいない街を歩く。そういえば今日外出してから人を見ていない。
 変な感じだ。街には人の気配で溢れ返っているというのに、こうして外に出ている人は誰もいない。それはこの暑さからクーラーのきいた室内にいるというのは分かっているのだけれど、ここまで人っ子ひとりいないとまるで自分だけが外界に切り離されたような感じがする。
 だけどこの感覚は、どこかで知っているような気がする。誰もいない街。傍にあるたくさんの人の気配。蜃気楼でも起こりそうな目眩のような暑さ。そうだ、あの時も夏だった。こんな妙な夏で、変なものがいっぱいいて、いろんなものがいろんなものを殺していて、私は。
 薄暗い路地裏。壁にもたれて蹲る人。昼間よりも熱の籠った空気。空気に混じるのは血の匂い。息をするのがとても難しい。血の匂いが喉にこびり付く。ああ、蹲っていた、のは。
「―――あれ」
 蹲っていたのは、誰だったのか。覚えているのだけど思い出せない。遠い昔のことだから仕方ないの―――だろうか?
 なんだろう、とても大切なことだったのに。大切なことだったから今まで絶対に忘れなかったのに。
「おかしいなあ…」
 頭の中に霞がかかったかのように曖昧だ。他の部分はクリアなのに、その一番大事な部分が全く思い出せない。そして自分がどうしたのかも思い出せないなんて、どうして景色や空気や雰囲気なんかは思い出せるのにその部分だけ思い出せないのか。
 だけど記憶なんて曖昧なものだ。幼い頃の記憶は時が経つにつれて破損して虫食い状態になり、それを自分の想像なんかで継ぎ接ぎにした物を記憶だと勘違いしているようなものなのだから今の状態も仕方がないのかもしれない。
 それよりも今は師匠さんと都古ちゃんの元に行かなければ。少し汗も引いてきて心拍数も下がってきたし、もう少しは進めるはずだ。


 そんな訳で今、空地に辿り着いた私は空を見上げていた。
 額に何かひんやりとした物が乗せられた。冷たく湿っているそれは水に浸したハンカチだろうか。冷たくて気持ちいい。
 私はそのハンカチに手を載せて手でも冷たさを味わっていると、そのハンカチを載せた人―――師匠さんを見た。
「すみません、ご迷惑おかけして…」
「喋るな。しかし自己管理もろくに出来ないのか、アンタ。今までよく生きてこれたな」
「うあ、はい。自分でも奇跡だと思ってます」
 頭がぐらぐらしてボーっとして、なんだかうまく考えることも出来ない。
「ハ、じゃあその奇跡を今この場で刈り取るのも一興だな」
「それは勘弁してください。師匠さんがパンダである間は師匠さんでいてくださいよ」
「なに、こんな世界だから人一人生き返らせることくらい簡単だろう。だから安心して殺されてくれ、
「それは否定しません、でも殺されませんよ私」
 なんたって魔法少女が何人もいる世界なのだ。都古ちゃんもスーパーチャイナガールと言うならば魔法少女のカテゴリに当てはまってるし、何だってありな世界は人の生き死にさえ自由な気がする。
「でも死ぬのは嫌です、死ぬのは怖いじゃないですか。私、人よりちょっと死にやすいので、そういうのがとても怖いっていうのが分かるんです」
 例えばそれは体の病弱さもそうだし。
 例えばこの目で見える全ての者の叫びだったり。
 例えば簡単に止まってしまうこの鼓動だったり。
 師匠さんは感心したように目を眇めた。
「へえ、そりゃいいことだ。危機管理が出来ることは生の第一条件だ、アイツに見習わせてやりたいよ全く。しかし、正しく俺に殺される為に生きてきたようなものだな、アンタ」
「どうしてそうなるんですか」
 私は師匠さんに殺される為に生きてきた訳ではないけれど。
 確かに師匠さんとは昔から縁はあるけれど、だけどそれは師匠さんが言っていることとは少し違う。
「だったら聞くが、今アンタの周りで誰が危険だ?」
「…そうですね、でも師匠さんにも殺されませんよ」
 私の周りで一番危険な人なんて、そんなのは決まってる。
 私を殺すと公言するこの人よりも危険な人など、そういはしないだろう。しかもこの人は恐ろしいほど強いのに。
「へえ、その術もない、兎よりも非力なアンタがどうやってだ? その術を教えてもらいたいもんだな」
「実は術は一つだけあるんですよ。といっても内緒ですけど」
 そう言って小さく笑うと、師匠さんが面白そうに笑った。
「アンタを殺したらそれは見えるのか?」
「私が死んだら見えませんけど、死にそうになったら見えますよ。でも今殺すのは勘弁してくださいね」
 遠くから都古ちゃんの声が聞こえる。だからこの会話もここまでだろう。彼女が戻ってくれば師匠さんもこんな不穏な形は形を潜める。
 だからその前に一つだけ問う。
「…私は死ぬのも殺し合うのも嫌です。身を守る術ならたった一つだけありますけど、殺し合う術はありません。
 なのに師匠さんはどうして私を殺そうとするんですか?」
 それは心からの真意だった。よく分からないけど殺そうとする人、私がこの人を都古ちゃんを介して知り合ったその時からこの人はずっとこうで、それがずっと不思議で仕方がなかった。
「その理由はアンタの方がよく知ってるだろう」
「え」
 都古ちゃんの声が聞こえる。意味が分からないその言葉は不思議と私の中にすとんと落ちていき、そのまま私の意識は混濁した。


***

 昔は私の体はそう病弱ではなかった。だけどいつの頃からか私の体は唐突に死にやすくなった。
 病弱ではない。唐突に死にやすくなったのだ。確かに体が弱いというのはあったが、ふとした瞬間に呼吸や心臓が止まるなんて、それは病弱の域を越えているだろう。しかも体の臓器には何一つとして問題はないなんて異常としか言い様がない。
 その唐突に死にやすくなった日々の中、毎日を病院の冷たいリノリウムの中で過ごしていた日のこと。
 ―――私は魔術師に出会う。
 私が時折彼女を魔術師と呼んだのは、彼女が自ら魔術師と名乗ったからだ。この世には不思議なことで溢れているし、もしかしたら本当にそうなのかもしれないという希望の二つが理由だと言うと蒼崎先生は笑った。
「これはまた珍しい体質をしてるのね、貴方。…いえ、体質自体はそう珍しい物ではないわね。この場合珍しいのは貴方のキャパシティと精神のあり方なのかしら。ねえ、献身と自己犠牲は好き?」
 蒼崎先生はそう言ったけれど、私は今でもその問いの意味を計りかねている。だって本当に意味が分からないのだ。献身と自己犠牲が私の体にどういう意味があるのだろうか。
 それとはまた別に、蒼崎先生は私の体は治らないと言った。
「貴方の体の弱さはフィジカルやメンタルとはまた別のところに原因があるわ。だけどそれを今は治すことは出来ない。私は原因をどうにかすることは出来るけれど、今やったら貴方が死ぬでしょう。だから貴方にくっついてるそれがもう少し減った時にでも呼んでくれるかしら」
 そう言った彼女は私に一枚の名刺を差し出した。書かれてあるのは彼女の名前と肩書き、それから連絡先だった。
 だけど気になるのは、彼女の肩書きは病院関係者ではなく人形士だったことだ。首を傾げると、彼女が笑いながら答えた。
「ああ、こっちは副業なのよ。本当は私、人形を作ることが仕事なんだけどあんまり儲からないから偶にこっちもやってるの。大丈夫よ、ちゃんと資格は取ってるから」
 不思議な人だった。今までのどんな人の言葉も残らなかったけれど、彼女の言葉は不思議と胸に残った。
「本来なら私の仕事じゃないんだけど、一度患者になったからには引き受けてあげるわ。気が向いたら連絡してね」
 眼鏡をかけた彼女は美しく笑った。私は彼女の言うことの一部も理解することは出来なかったけれど、その時がくればいいと小さく頷くのだった。


 それは私の心臓や呼吸がそう簡単に止まらなくなった頃、最近会うことのなかった蒼崎先生が久々にやってきた。
 どうしたんですか、問うと彼女は私の顎を掴んで上げ、私をまじまじと見た。
「最近少し元気になったって聞いてね、様子を見に来てあげたのよ。本当に元気そうで安心したわ」
 ありがとうございます、そうお礼を言うと彼女は気にしないでと答えた。
 ふと彼女が眼鏡を外す。今まで彼女が眼鏡を外したのを見たことがないのだが、彼女の持つ雰囲気ががらりと変わったのは、私の気のせいだろうか。
「さて、元気になったということは準備が整ったということだ。この間私が言ったことは覚えているな?」
 口調までまるきり変わった彼女に頷く。だけど私は彼女の言葉の意味がさっぱり分からないままだったので素直にそれを告げると、笑い方さえ変わった彼女はシニカルに笑った。
「意味など分からないままでいいさ。ここで分かっておけばいいことは一つだ。
 私がお前を助けてやる。これだけだ」
 その力強さは不思議と頭に残った。その点は、前の彼女と変わりなかったので不思議と安心して頷いた。
 頷いた私に満足したのか、彼女はふと窓を開けて軽く換気をする。何をするのだろうと思っていれば、彼女は胸ポケットから煙草を取り出して火を付けた。
 けほ、とあまり煙草に慣れていない喉が鳴った。成る程、先ほどの換気はこの意味だったのか。
 煙草の火種が私に向けられる。私の手前で止められたそれは、空中で不思議な動きを描いてその動きを止めた。
 その瞬間、煙草の先の炎が一際勢いよく火の手をあげると同時に私の背後で確かに何かが燃える音がした。めらめらと燃える音は複数にも重なっていて、奇妙な不協和音を奏でた。この音は一体何だというのだろう。煙草の音ではないことは確かだ。
「アンザスだけでどうにかなったか。もう少し多かったら厄介なことになっただろうな」
 彼女は携帯灰皿に煙草を押しつけると私の背後を見た。そこには何もない、ただ壁があるだけなのに彼女は何かを確認するかのように注視する。
「幾つかイドが残っているだろうが、放っておけば元の主に返るだろうから気にするほどのことでもないな」
 彼女の言っていることは私にはさっぱり分からなかった。それに気づいているのかいないのか、彼女は続けた。
「根本的な解決にはなっていないが、これで当分はお前が死に至る要因は生まれないだろう。他の人間に比べて病弱だろうが、暫くは大丈夫だろう」
 ついさっきの不思議な事態に脳が付いていけずに、ぱちぱちと私は瞬きを繰り返した。それから呟いたことと言えば、本当に魔術師だったんですね、の一言だ。
「そうだよ、最初に言っただろう。
 運が良かったな。魔術師は基本的に自分の益となることしかしない。私がここにやってきたのは別件からだったが、その別件の間は私も医療従事者だ。こちらの領分で人が死んでいくのはあまりいいものではないから、ボランティアをしてみたわけだ」
 シニカルに笑う彼女はやはり私が知っている彼女とは全くの別人に見える。
 彼女は部屋から煙草の匂いが消えたのを確認すると、開けていた窓を閉めた。そろそろ風が冷たくなってきたので有り難かった。
「お前は自分の意志とは関係なく色々な物を拾ってくる性質だ。お前が引き寄せ拾った物は現世に留められ、お前の生命力を少しずつ食っていく。言うならば自分の体で巨大な地縛霊や使い魔を何十体も飼い殺しにしているような状態だ。それが今回の原因だろう。最初はお前が自分で拾ってきているのかと思ったが、どうやらそうでもなかったらしい。
 だがそれに気づいたところで私にそれをどうすることもできない。してやれることと言えば、こうやって死ぬ前にお前の後ろに溜まったそれを殺してやるくらいしかないな」
 言いながら、彼女は眼鏡をかけた。雰囲気が和らいだ彼女は、私が知っているいつもの彼女だ。
 彼女は懐から何かを取り出した。どうやら石のようだった。石には何か不思議な文様が掘られていて、まるで先ほどの煙草が描いた形に似ていた。蒼崎先生はそれを私に差し出す。
「これを持っていれば魔除けになるわ。暫くお守りとして持っててね」
 私がそれを受け取って頷くと、彼女はよしと言って扉に向かっていく。
「暫くしたら退院許可も下りるでしょう。だから後は安心して静養しておきなさい。
 これで会うこともなくなるでしょう。また会うことがないように祈っておくわ、ちゃん」
 彼女は手を振って出ていった。私はそれにさようならと返して目を閉じた。
 手のひらの中の石が冷たく、それだけが今のことを現実だと認識させる出来事で、この感触が奇妙に脳裏から離れなかった。


***


 ちりん、鈴の音がした。
 そして猫の鳴き声が一つ。
 視界の端に、小さな白い猫の姿がよぎった気がした。