Noble Wish
1st


【 1 】

 重い瞼を上げて、見えたモノは闇だった。
 暗闇。それ以外は何一つない空間。それから感じたのは狭さだった。
 狭い。明らかに狭い。そして視界が狭い。体を動かすことが億劫になりながらも、両腕を伸ばして周囲を確認する。触れれば、指先に木の感触。叩けば腐蝕が進んだものの、確かに木の音だ。体を仰向けの状態のままで、指を木に沿って這わせた。
 そこから分かるのは、どうやら自分は木箱の中にいるらしいということだ。
 私は納得して、何故自分がこんな所にいるのかを思い出そうとする。いい加減、持ち上げるのが疲れてきた瞼を下ろして静かに思考を回す。
 しかし、思い出せない。私の脳は素晴らしいまでに白紙であった。ということは、これは俗に言う記憶喪失なのであろうか。今のところ、私は己をそのように納得させた。こんな所で混乱に陥っても仕方がないのだ。記憶がないというのに、非常に非情なまでに冷静な私に、別の私が首を傾げた。別の私を無視して、私は思考の回転数を上げる。
 さて、現状確認はすんだ。次はどうするかである。私は周囲を見回す。相変わらず暗闇しかない。
 私は今、木箱の中にいる。何故ここにいるのかは分からない。だが、あまり焦ってはいないということは私はここを馴染みの場所と思っているからだろうか。そんなわけがない、普通であればこのような不自由極まりない場所に馴染んでいるとは思えない。それは普通ではない。異常であるはずなのだ。
 私は疲れを感じてきた腕を、当然の処置として一端下ろそうとする。しかし、腕は私の命令を聞かずに、箱の蓋の部分をメキメキと音をたてさせて引き剥がそうとする。
 驚いた。何故この腕は私の命令を聞かないのだろうか? いや、それ以前の問題で私の力ではこの蓋を開けることが出来ない。動かすことも困難だ。私はそれを知っている。木箱を叩いたときに反響の具合で分かった、四方八方全てが何かに埋まっている。
 そして私は少女だ。私は記憶がないのでそれが正しいということは分からないが、私の認識では少女であるはずだ。その少女の力で、この状況を解決できるはずがない。
 だが、そんな私の予想は当然のように破られた。
 メキリという音。私の腕は私の意志とは反して、あっさりとその蓋は破られ、剥がされ、丁度私の胴体が通るくらいの穴を開けた。
 暗闇の先にあるのは、また同じように深い暗闇だ。空気としての暗闇ではなく、物質的な暗闇。視界は闇に潰されていて、暗闇の正体を捉えることは困難だ。私は勝手に動く腕の指先に感覚を集中させる。どうやら指の感覚に頼るならば、物質的な暗闇の正体は泥であるらしい。四方八方に敷き詰められた泥。さて、私の腕は何をしようとしているのだろうか。慌てることもなく、私は体をここで休ませていた。
 そのつもりだったのだが、ついには体も自由意志を手に入れたのか、それとも脳からの指令を受け付けなくなったのか、命令違反の常習犯となった体は、その指でその泥を指で掻き出して道を作り、その身を闇に沈めた。
 あまりのその手慣れた動作。もしかして私はここから何度も脱走を図っていたのではないだろうか。私は思わずそう思ってしまうほど、私の動作は手慣れていた。
 その証拠とばかりに、私の体は惑いなく暗闇の中を進む。指は絶えず泥を掻き出しており、少しずつ少しずつ進路が出来上がりその度にこの身は上へと進んでいく。泥が顔に当たる。汚いと思っているも、振り払うだけのスペースはここになどない。私の胴体がようやく通るだけの隙間だ。私の体は私の欲求を無視して先に進む。
 しかし、私は何故ここにいるのだろう。そして何故こんなことをしているのだろう。私は誰? ここはどこ? 何故私は泥の中に埋まっている? 私は私のことを何一つ知らない。何一つ憶えていない。
 ただ、ここからでなければならない。それだけはわかるのだ。
 それは、狭いとか、苦しいとか、そういうことではない。
 この身を突き動かしているのは、そんな本能ではない。
 両手を交互に動かして、前方への道を作る。指で一定の進路を作り、その分前に進んで、また泥を指で掻き出して進路を作る。それを何十往復と繰り返した時、右手が空を切った。
 不思議に思って、自由意志を失った右手を上下左右四方八方様々に動かすが、手に触れる感覚は何もない。あれだけ私の進路と視界を遮っていた泥がない。どうやら、ここが終着点らしい。今度は左手で進路を作らなければならないと、一通り動かした右手を泥の中へ引っ込めようとした。

 ―――――その手を、しっかりと誰かの手が掴んだ。

 何か布に包まれているが輪郭で分かる、大きくて骨張った男性らしい手。しっかりと、離すものかとばかりに私の手を握りしめている。どこかで感じたことのある感覚。懐かしいもの。酷く懐かしい人のぬくもりだ。
 しかし、何故私はそんなことを思ったのだろうか。己の記憶は飛んでいる。記憶も感覚も、信頼を得るには足らないのだ。
 そんな風に考えていると、土の上で私の腕を掴んでいた人が笑った、気がする。
 見なくとも分かる。気配だけで分かる。いつもの独特の笑い方ではなく、唇の端をゆるりと上げる静かな笑み。私が慣れ親しんだ、それ。

「    」

 そして、全てを取り戻した。

 世界に色が戻る。暗闇は闇ではなく、泥としてきちんとした暗い茶色を取り戻し、己自身が暗い色なので分かりにくかったが己の身に纏っている服や肌の色までもきちんと確認できた。
 私が誰か。私が何故ここにいるか。出身は何処で。どの様に生まれ、どの様に育ち、どの様に生きてきて、そしてどの様に死んだか、その細部一片残らず全てを思い出した。
 そう、私の腕を掴んでいるこの人との関係。どの様に出会い、どの様に関わり、どの様に日々を過ごし、どの様に別れたかも全て。それに関わる全ての過去をも思い出した。

 私の右腕に力が加えられ地上へと引っ張り上げられる。思わず目を閉じて泥から眼球を守って、腰の辺りまで引っ張り上げられたところでようやく瞼を上げた。
 月が輝いていた。頭上には雲一つない空に巨大な満月。大きさは私の生きた時代とそう変わらない。月光が照らす薄闇の中、並び立つ墓石がぼんやりと青く発光している。私は視線を移す。
 それは満月に輝く青い色の包帯男。肌は青、髪も青。片方だけ覗いている瞳はかろうじて赤。深紅の血の色だ。私のような闇に身を置く者は必ず赤で血を連想させる。見に纏う物は十字架をあしらった年代物とは聞こえはいいが、結局はボロボロのコートと、相反するかのように真新しい包帯。
 変わらない。この男は何一つ変わらない。変わったところといえば、あの頃よりも全体的に少し成長したことと、老成した雰囲気であろうか。
 包帯男はその長身と怪力で、軽々と私を片手で地上に引っ張り上げ、私と彼の身長差のせいで地に足がつかない私をそのまま地に下ろした。その様はワルツの一行程を連想させる程に優雅だ。
「やぁ、久しぶり」
 ヒッヒッヒッ…、彼は独特な笑い方をする。私はあえてそれを無視する。
 包帯男と視線が合う。彼も同じことを思ったのか、口元に刻まれた笑みはより一層深くなった。彼は道化師のようにおどけてみせて、一歩下がって礼を見せて左手を差し出した。男性がワルツを誘う時のポーズだ。
 私は泥にまみれたドレスの裾を掴む。ただそれだけだ。そうしただけで、私は彼の誘いにはまだ了承していない。それに、社交界に生きてきた身として、男性からの言葉がない限りその誘いを受けることはない。それは私の誇りが許さない。
 私は彼の言葉を待つ。
 包帯男は視線を合わせる。彼の視線は笑みに満ちており、答えを知っているのにも関わらず答えないというのが分かりきっていた。
 私は冷たい視線を返す。彼はいつものチェシャ猫じみた笑みを見せる。
「Shall we dance?」
「Yes,sure」
 私はドレスの裾を開いて礼をする。女性の了承の意。私は彼の手を取る。
 彼は右も左も分からぬ私を連れて、静かに歩き出す。彼は私を見ずに言った。

「賭は僕の勝ちみたいだねぇ…」
「…そうね」

 思い出した。目の前の男と私の関係。どの様に出会い、どの様に関わり、どの様に日々を過ごし、どの様に別れたかも全て。それに関わる全ての過去をも思い出した。

 そして、あの賭も。

 私はその重い事実を胸に秘め、彼に導かれるままに歩き出した。
 その前に、私は一瞬前にいた場所を振り返る。
 そこには墓地の中のたくさんの墓石の一つがある。

『Liddell』

 墓石には、そう刻まれていた。

【 2 】

 星々の間をすり抜けるように夜の中を歩く。
 遠い墓石は遙か彼方へと置き去りにし、スマイルとリデルは互いに言葉を交わすことなく、スマイルが先行する形で夜を歩いていた。
 交わす言葉も、口に出す想いも、何一つない。あったとしても、それはここで言うべき言葉ではない。それだけは互いに共通する想いであった。
 故に、二人の間に言葉はなかった音はなかった沈黙があった。だが、それだけで十分だろう。リデルはそう思う。それ以外に何を望めというのだ。
 スマイルの体が右に曲がった。リデルもそれに続く。
 スマイルは気まぐれという言葉のままに、リデルのことを気にする様子もなくさまよった。リデルはそれに無言で着いて行く。それはきちんと舗装されたレンガ道であったり、砂利道であったり、獣道であったり、様々だ。スマイルはリデルを気にする様子もなく歩いて行くが、繋いだ手が離されることもなく引っ張られることもなく自然だったので、やはりこれはこれで気を遣っているということなのだろう。彼は小柄なリデルとは違って長身だ、リデルとは歩幅が違う。さっさと先に行って見えなくなることなど造作もないだろう。
 それに、彼には正真正銘その姿を『見えなく』することもできるのだ。何故なら彼は透明人間。その包帯も奇妙な色の肌のメイクもその為だ。彼がそれら全てを取った場合、彼の姿が分かる者は片手の指で事足りる。そして、リデルはその片手の指で事足りる人間の一人であった。
 だから、どこに連れて行かれるのだろうとか、置いて行かれるのでは、などという不安はまるでない。例えスマイルの姿が見えなくなったとしても、リデルはスマイルの姿を見つけることができるし、スマイルがリデルを置いて行くなどということは考えられないことだからだ。
 それに、スマイルが歩く場所は何かしら一つは何か美しいもの、可愛らしいもの、感動できるものが転がっているのだ。それは久方ぶりに世界を見るリデルには、高名な芸術家が描いた至宝と呼ばれる名画よりも美しく感じられた。
 世界はこんなにも美しいものだと、リデルは知らなかった。
 前方を歩くスマイルを見る。スマイルの様子は生前にリデルが関わった時と何一つ変わらないような気がする。彼はいつも自分本意に行動し、後でそれが自分の為だったのかと気付くのだ。あの広い空虚な部屋でもそうだった。
 すると、思考は当然のように最後に行き着くのだ。もしかして、これは自分の為なのだろうか。スマイルはいつものように笑っている。その様子があまりにも彼らしくて、リデルも微かに微笑んで、心の中でだけ礼を言った。
 偶然か否か、それを察したようにスマイルが立ち止まった。ついで、リデルも立ち止まる。リデルは夜空を眺めているスマイルを見た。
「さぁて…そろそろ行こうかねぇ……」
「どこへ?」
「僕が今住んでいる場所さ。ここらで『成り立て』や『生まれたて』はそこに連れてかなきゃならないことになってるんでねぇ…」
 その名の通りに笑うスマイル。リデルは直感的に分かった。スマイルが言っているのは、どこの世界にでもいる元締めだ。リデルは表現を変えた。
「つまり、私の時代でいう領主ね」
「その通り。まぁ、どっちかと言えば君の時代なら公爵が近いんじゃないかい?」
「…そこまでは私には区別しかねるわ。私は彼の方にお会いしたことはないのだから」
「確かにねぇ、ヒッヒッヒッ…」
 領主。
 それはこのメルヘン王国には当たり前の存在の、闇に属すを統べる者の名である。
 人間を含む様々な者の中立に立ち様々な厄介事を受ける、その様に生きるようにして義務付けられた生まれながらにして高貴なる者。
 それが領主という存在だ。領主は地方ごとにその土地を治めており、その地帯の闇に属す者を管理している、まさしく『領主』なのだ。今まで眠りについていたリデルにだって分かる。眠りについていた場所である土地が教えてくれた。
 だが、それと公爵などの位は違う。爵位はゾンビや透明人間、狼男のような生まれながらの位ではなく、品位や言動、誇りなど本人の性格や質によって周りから決められるものだ。故に、領主などとは違い誰でも持つことができる位でもある。だが、周囲の評価は手厳しい。本来ならば爵位を貰うことも難しいのだ。
 スマイル曰く、これから会う人物は公爵並であるらしい。その人物に、自分はこれから会うのだという。リデルは体が重くなった。
 中立でありながらにして裁く立場でもある領主。そのようなならばさぞかし厳しい人なのだろう。そうでもなければ、そのような仕事をすることはできない。そして同時に、領主というからには真っ当ではない人格の者がゴロゴロしている可能性もあるのだ。この可能性は公爵ということで失われたが、侮れはしない。どこまで信用していいのかは分からないのだ。
 そして、この可能性が一番重要なのだが、その領主はスマイルと仲がよいということなのである。あのスマイルと仲がいい。それはどのような人格者か、それとも同類か。リデルは考えられる可能性を全て考えつくして覚悟を決めた。
「…分かったわ、行きましょう」
「ヒッヒッヒッ…そんじゃ、一名様ごあんなーい☆」
 決死の覚悟をしたリデルとは裏腹に、スマイルはいたく楽しそうである。そういえば、この男は昔から人の嫌がることや悪戯が好きだったなと思い出して、少し笑えた。

【 3 】

 そして、この地の領主がおわすこの城へと、スマイルに連れられてやってきたリデルがまず通されたのは昔のリデルの部屋ほどの大きさの客室だった。どことなく昔のリデルの部屋を彷彿とさせる。
 スマイルはこの部屋にリデルを通してからリデルを上から下まで眺め、このままの状態で領主の元に通すわけにはいかないので、とりあえず体の汚れを落としてくれと言うだけ言って消えた。その点はリデルとしても願ったり叶ったりだ。今の自分の状況といえば、泥だらけの顔に泥だらけの髪、泥だらけの服と体だ。こんな体で領主に会うことなど、誰が許しても自分が許せない。
 未だスマイルの気配が部屋の中を留まっていたが、気にすることはなくリデルは部屋から繋がっていた風呂に入り体を洗った。そして裸のままで部屋から出ると己が着れる服を探す。服はあまりにも簡単に見つかった。クローゼットの中に下着からコルセットまですべて揃っていたのだ。
 クローゼットの中にはリデルの好きな系統のドレスが綺麗に整列されている。リデルは遠慮なくそれを着ることにした。ドレスに手を延ばす。延ばした腕に黒い斑点が幾つも点在していた。
 クローゼットの中には大きな鏡が一つ。鏡の中に黒い斑点だらけで真っ黒な体。白い肌に黒い斑点のそれは穴ぼこの虫食いだ。腰を越す薄青いウェーブの髪もそれを増長させている。その姿があまりにも醜くて、胸に詰まった。
 延ばした腕、体のみならず、この体に黒い斑点がない場所はない。だからこそ、なるべくなら肌を出さない服を選んだ。服を首までのものにし、指はレースの手袋。靴下は膝までのものにする。本来ならば、このようなことを気にしなくともいいのだろう。だが、それはリデル自身が嫌だった。
 己は誇り高い貴族である。貴族の娘として生きたときから、それはリデルの中でいつまでも根付いている矜持だ。それを捨て去ることはできない。故に己よりも上位の者に会うときは必ず盛装をするように己に義務付けている。それは己の中の醜い部分を隠すことだと、己でも気づいていながら止めることはない。何故ならば、この身は貴族だからだ。誇り高い矜持を持っているからだ。
 醜い己を晒す。それはリデルにとって死にも近い拷問だった。
 息が詰まる生き方だ。それはリデルも自覚している。だが、自分がこうにしか生きることができないとわかっている。だから貴族は友人や愛人を求めるのだろうか。己の中の醜い部分を見せてもいいと思える相手が。
 だが、それは違うのだろう。貴族の中でもリデルのように誇り高い人物はあまりいない。確かに市民に比べては多いほうだが、リデルのように誇り高い人物は滅多にいない。
 それを理解しているからこそ、リデルはそれ以上思考を回らせることはしない。
 リデルは手に持っていた服を、下着から順につける。身につけ終えたところで鏡で己の姿を見直す。おかしいところはない。リデルは鏡の前でくるりと回る。どうやら大丈夫なようだ。リデルは辺りを見回した。スマイルの気配はある。
「スマイル」
「用意はできたかい? お姫様」
「ええ、案内よろしく頼むわね」
「りょーかいしました。んじゃ、レッツゴー…!」
 スマイルはリデルを連れて部屋を出る。リデルはその前に己の服と部屋を見直した。己の着ているこのドレスや内装はすべてリデルの好みなのだ。これは一体どういったことなのだろう、これは偶然かそれとも何か作為があるのか。リデルには分からなかった。後で領主と呼ばれる存在に尋ねてみようと思い、リデルは部屋を後にした。
 紆余曲折を経て、スマイルとリデルは領主がいる部屋へとたどり着く。城に来た当初は分からなかったが、どうやらこの城の構造は複雑極まりないらしい。この城に慣れたスマイルに着いてこなければ、リデルは今頃迷っていただろう。スマイルが案内してくれてよかったと、この時ばかりはリデルは心からそう思った。
 リデルの身長の3倍の高さの重厚な扉を開き、スマイルに連れられて遠慮なしに部屋の中に入った。但し、部屋に入る前には礼儀としてきちんと礼をすることを忘れずに、だ。
 スマイルは遠慮というものをお首にも出さず、目に見えて高価だと分かる赤い絨毯をずかずかと踏みつける。リデルはその後にしずしずと着いて歩く。イギリス生まれのリデルには分からないが、おそらくこの絨毯はメルヘン王国のこの地方における稀少な動物の皮に違いない。領主の私室などそのようなものだ。
 スマイルが立ち止まる。その背後にいたリデルも立ち止まる。スマイルの長身のせいでこちらからはどのような人物かは判明しないが、スマイルはその人物に手を振っていた。あれが領主なのであろう。
「やっほーユーリ。連れて来たよー」
「ああ、ご苦労だったなスマイル」
 壁一面に張り巡らされた書架を背に、その男性は机に腰掛けて読んでいた本を閉じてこちらを見た。
 絵画のようだ。リデルはそう思った。
 銀の髪と深紅の瞳。肌の色は踏みしめられていない新雪の白。背から生えているのはこれまた深紅の蝙蝠翼。着ている服は、素材に関しては詳しく分からないが上質な物であることは見て取れる。職人と呼ばれる人間が一本一本丁寧に針を通した作品だ。
 そして、その圧倒的なまでの存在感。そこにあるだけで感じられる威圧感。強大すぎる存在感が殺気とまでなってリデルの肌を突き刺した。
 規模が違いすぎる。これは自分のようなアンデッドが対面していい相手ではない。リデルは最初から全面降伏をしていた。だが、その中でも彼女の観察眼と冷静な視点は生かされていた。先ほど領主の口から見えた牙。背にある赤い蝙蝠羽。それから察するに、彼の正体は――――
 その人物は長い足を優雅に組んで腰掛けた机に本を置き、これまた優雅にリデルに近寄った。
 王者の歩き方だ。リデルはユーリと呼ばれたその人が自分の元にやってくるという事実を確認し、一歩前に進んでスマイルの隣に立った。彼は尊大な態度でリデルの前に立ち、貴公子然とした容貌でリデルの指先を手に取り口付ける。
「初めまして、ミスリデル。この土地の領主であるユーリだ」
 ユーリはよろしく、などとは言わなかった。当然のことだ、彼にとってはリデルなど数あるうちの新参者でしかない。ここで出会い、そして別れて永遠に会わない筈の存在だ。そのような人間に社交辞令といえどもよろしくなどと言ってどうするのか。
 どうやら、この人物はスマイルとは違って誠実な人柄であるらしい。だが、あくまでも彼はスマイルの友人である最後まで気は抜けない。
 リデルは細心の注意を払い、相手が気を悪くしないようユーリの手の中にある己の手を取り返す。そして半歩下がって相手と一定の距離を作り、ドレスの裾を摘んだ。
「お初お目にかかります、吸血王ロードヴァンパイア。わたくしはリデルと申します、以後お見知りおきを」
 相手の威圧感に負けることはなく、リデルは堂々といつものように言い切った。例え最初から相手に全面降伏していたとしても、リデルが怯むことなどないのだ。この身は貴族である。己よりも上級の貴族にはあまり会ったことはないが、それでもこのようなことには手慣れている。
「…ほう?」
 感心したとばかりのユーリの声。礼をしているのでどのような表情をしているのかは分からないが、それでもユーリの興味を引いたのは間違いない。
「…成る程。女の趣味はいいようだな、スマイル」
「でしょ〜? ヒッヒッヒッ…」
 スマイルもユーリも同等の立場で言い合っている。吸血鬼も透明人間も大した格差はなく位は高い。だからこそできることであろう、ただの成り立てアンデッドの自分のできることではない。
「でもいきなり君主ロードとはねー。僕は公爵デューク公爵(デューク)かと思ったんだけどねぇ…。まぁ、お姫様の目利きは信用できるからいいけど」
「ああ、なかなかの目利きだ」
「お褒めに預かり光栄です、吸血王。この身は貴族として生きた身、目利きには多少心得があります。しかしわたくしがスマイルの女というのは訂正して頂きたい、わたくしはスマイルの愛人でもなければ恋人でもないのですから」
 リデルの毅然とした言葉にユーリとスマイルは二人して虚を突かれたような顔をして、スマイルはチェシャ猫笑いを、ユーリは感嘆とした表情を浮かべた。
「へえ…、そんじゃ君と僕の関係は一体何だい?」
「せいぜい友人がいいところでしょう、本来ならばそれすらも当てはまらないのだけど」
 絶句して声も出ないスマイルに比べ、リデルはいささか面白そうだ。昔の会話のテンポが戻ってきたようだ。今ならリデルは幾らでも毒舌を吐くことができる。
 ユーリは二人の会話を聞いて、目を細めてクツクツと笑っていた。
「成る程、本当に見る目はあるなミスリデル」
「光栄です。それから、わたくしのことはリデルとお呼び下さい吸血王」
「ならば君も私のことをユーリと呼べばいい。私は君に名を呼ぶことを許そう」
 笑いが止まらないと言わんばかりにクツクツと笑ったまま、ユーリは言った。リデルは目を見開く。スマイルは笑っていた。
「…よろしいのですか? 吸血王ロードヴァンパイア
 貴族やそれに準ずる者は、己よりも格下の者に名を呼ばせることを決して許しはしない。呼ばせるとしたら、それは余程気さくな人物か余程気に入られたかだ。もしくは何かの策略という可能性もあるが、この場合ではそれは考えられないだろう。そして、目の前の人物の場合は気さくということは考えられない。
「ユーリだ、次からはそう呼べ」
「…了解いたしました、ユーリ」
 ユーリはその返事に気をよくしたのか一度朗らかな笑みを見せ、次いで真剣な表情へと変化させた。リデルも気持ちを改めてユーリの言葉を待つ。
「さてミスリデル。次からの私の言葉は領主としての言葉だ。よく聞いて己で行動するように頼む」
 ユーリはリデルに確認の意の視線を向けた。リデルは頷いて話を促す。
「まず、今の自分の状況は把握できているか?」
「ええ、わたくしが死したのは18世紀。現在はおそらく21世紀ですね。その間、今までは大地の中で眠っていた状況でしょう。現在のわたくしはアンデッド、つまりゾンビと呼ばれる存在ですね」
「その通りだ。今日目覚めたばかりとは思えない洞察力だな。
 そこまで分かっているのならば話は早い。領主は生まれたてや成り立てに一から事情を説明せねばならないという義務があるのでな、面倒なことは手早くすませたいものだ」
「ユーリユーリ、論点ずれてるよ〜?」
 ユーリは面倒くさそうにため息を吐いた。論点がずれてきたと分かったスマイルが方向を修正させる。
「ああ、すまない。それで、まず我ら闇に属す者が行ってはならないことが一つだけある」
「それは?」
「他者の権利を侵してはならない…つまり、人間のみならずあらゆる他人に迷惑を掛けないことだ。だが、これは貴方にならば説明する意味もないだろう、ミスリデル。貴方は貴族の誇りを己の誇りとしている、ならば他者に迷惑をかけるなどという行為は出来ない」
 ユーリは断言する。さすがは長く生きているということだろうか、それとも位の高さからか、彼の他人を解す能力は一流だ。この短い間にリデルという人物をよく理解している。こういう言い方をされれば、己が必ずこのようなことを為さないだろうという事実に基づいた言葉。
「…了解しました、吸血王ロードヴァンパイア。肝に銘じましょう」
「そうしてくれれば嬉しいものだがな。それと、私たち闇に生きる者は人間界への出入りが自由だ。つまりは人間に関わることも自由。私達のように人間界で職を持つことも可能だ」
「…職?」
 リデルは首を傾げる。生まれながらの貴族であった彼女にとって、職を手に働くというそのことが実感として掴めない。
「ああ、今私はこの城に住んでいる者で『Deuil』という名のバンドを組んでいる。一度見てみるか?」
「あ、はい。それはありがたく…ではなく、わたくしたちは職を持たなければならないのですか?」
「勿論だ、それはこの世界の摂理だろう」
「…かしこまりました、吸血王。わたくしも職探しに奔走いたしましょう」
 そう考えれば、少し面倒なことが出来てくる。どうやって自分に適正のある職業を探すべきかと悩んでいた最中、ユーリが口を挟んだ。
「それに関してだが、成り立ての者には執行猶予が加算される。人間は生きているときには滅多にこちらにやってくることはない。故に、人間界出身の者はまずはこちらの世界であるメルヘン王国について慣れて貰わなければならないのだ。その間、成り立ては位の高い者に保護されることになる」
「つまり、その間は職探しをしなくともよいと?」
「その通りだ」
 リデルは頬の筋肉一つ動かさずに、内心では高速に思考を回転させながら瞼を下ろした。微かに眉根が動く。
「わたくしを保護する方はどちらの方で?」
「私だ」
「…え?」
 即答された答えに不意を突かれて、リデルは呆けた声を出す。
「それは、いつ、どなたがお決めになったことで?」
「今、私が決めた」
 何か文句があるのかとばかりの態度。リデルは絶句しながらも首を横に振った。そうであるならば願ったり適ったりの状況だ。メルヘン王国にやってきたばかりで慣れない自分が他者と生活できるわけがないと、リデルは冷静に判断していた。
「ユーリ、ほんっとーにお姫様のこと気に入ったんだね」
「なに、目の前で女性が困っていれば誰であろうとそうもなるだろう。それに、彼女と話すのは楽しいのでな。お前たちといると忘れる貴族らしさを取り戻す」
「ユーリは僕らと一緒にいるときは全然貴族っぽくないもんねー。僕久々に貴族っぽいユーリを見たよ?」
「それはそうだろう、お前たちと一緒にいるのに何故貴族らしさが必要なのだ」
「確かに必要ないかもねぇ。僕は今更ユーリが貴族らしさを見せたら大笑いするよ、ヒッヒッヒッ…」
 目の前で繰り返される会話の応酬に着いていけず、リデルは目を白黒とさせながらその会話が途切れるのを待った。
「すると吸血王ロードヴァンパイア。わたくしはこの城で住むということになるのでしょうか」
「ああ、そういうことになるな」
 返された返答。リデルは頷いて礼をする。
「ここまでの重ね重ねのこのご恩、わたくしは忘れることはないでしょう。何れきちんとお返しします」
「何、部屋数は余っていたのでな。気にすることはない。それに、言っただろう? 己の気に入った者が困っているときに手を差し伸べるのは当然だと」
 ユーリはシニカルな笑みを浮かべた。リデルはそれに淡い微笑みで返す。
「領主からの言葉は以上だ。執行猶予はあまり長い時間ではない。その時間を有効に使うことだな、リデル」
「ご忠告、しかとこの胸に焼き付けました吸血王。それでは失礼します、ユーリ」
 リデルはドレスの裾を摘んで頭を下げ、退室の礼を取る。ユーリは微笑んだまま頷く。それを退室の意ととったリデルは、そのまま扉に向かって踵を返す。スマイルはそのリデルについて歩く。
「僕も行くよー?」
「ええ、お願いするわ」
 私一人ならば迷ってしまうから、続けてそう口に出してリデルは扉の外に出る。そこで振り返ってもう一度ドレスの裾を摘んで礼をして、そしてその場から離れた。
 そういえば、あの部屋について尋ねることを忘れてしまったのだということに気付くのはしばらく経ってからだった。思い出したついでに、隣を歩くスマイルに尋ねる。スマイルもユーリには勝てないが長くこの城に住む者だ、その程度は知っているかもしれない。
「私のいたあの部屋は、内装から置いてある服まですべてが私好みだったのだけど、それは何故?」
「あぁ、ユーリ曰くこの城そういう風に出来てるんだってさ。この部屋を使う相手の居心地のいい空間を勝手に作り出すんだって。僕なんてびっくりしたよー? 今の部屋さー、ギャンブラーZがたーくさん…」
「…そうなの」
 ギャンブラーZが何かは分からないが、世の中には不思議なことがいっぱいだ。リデルは素直にそう思う。だが、ここは人間世界ではなく人間以外の者が住むメルヘン王国。その中でも闇に属す者が住む地。そして、ここはその土地を統べる領主の城。早く慣れてしまおう、リデルは思った。
「そういえばさぁ…」
 頭上から降るスマイルの声。二人しかいない廊下に、スマイルの声が反響する。リデルはスマイルを見上げた。スマイルはいつものような笑みを浮かべながらも、瞳の奥は真剣そのものだった。
「ユーリ、気に入った?」
「ええ、勿論」
 リデルは即答する。つい先ほどの数分しか会っていないのに、リデルはユーリが好きだと自覚している。恋愛感情には発展しないタイプの好きだが、気に入ったことには間違いない。
「…そう、よかった」
 スマイルはそう言って、滅多に見せない芯からの微笑みを見せた。

【 4 】

 その日から、リデルはユーリ城に滞在することとなった。一日目は、ここに来た当日はどうやら徹夜でソロレコーディングをしていたらしいアッシュに出会い(勿論リデルは彼と仲良くできた)、ユーリにここの地理や常識を教えてもらい、それに関してスマイルと共に城の中を探索して遊ばれた。
 リデルがこの城の構造を把握したところで、スマイルが昼夜問わずリデルを連れ出して散歩をする毎日だ。スマイルは見せたいモノがたくさんあるのだと言って笑った。リデルも口には出さないモノの、そんなスマイルを見るのが好きだったから、嫌がる素振りを見せずに素直に誘いに乗った。それに、スマイルが見せたいモノはすべてがリデルが好きなモノだったのだ。そんなことが何度も続いていれば、必ず行くに決まっている。スマイルもそれを見越しての言葉だったのかもしれないが。
 しかし、何故スマイルはそんなにもリデルに構うのだろうか。それが不思議でならなかった。確かに、リデルとスマイルは古くからの中だ。とある賭もやり、スマイルはそれに勝った。だが、だが人間だったときに側にいたのはこの数百年の間に比べればあまりにも短い。そんなに仲がよかったとも思わない。何故あんなにも自分に執着するのだろう。リデルはあまり、何かに執着したことがない。故に、スマイルがリデルに執着する気持ちも分からないのだ。
 だが、スマイルの行動は自分が人間だった頃、既に病に蝕まれていたリデルとやりたかったことを今になって行っているかのような感じがする。
 そう考えれば何とはなしに納得できた。執着も何もかもよく分からないが、そう考えれば、リデルの心は少し軽くなった。
「ヒッヒッッヒッ…遊びましょ? お姫様」
 本日もいつものように、リデルを誘いに部屋にやってきたスマイルが笑う。リデルはいつものように無言でクローゼットの中から外出用の服をとりだした。それをスマイルがいる目の前でリデルが当然のように着替えだす。スマイルは外に出ることもなく、瞼を下ろすこともなく、また当然のように着替えを見ていた。
「…出来たわ、行きましょう」
「りょうか〜い☆ 今日はちょっと遠出してみよっかー?」
「それはお前が決めなさい、私はここらの地理に詳しくはないのだから」
「それもそーだね」
 軽口を叩きながら、スマイルとリデルは部屋から出る。丁度そこに廊下を走って誰かを捜している素振りのアッシュに出会った。
「あっれー? アッス君どーしたの?」
「どーしたのじゃねーッスよ、探したッスよスマ!」
「まったくだな、手間を掛けさせるなスマイル」
「へ? 僕?」
 軽く汗を掻いているアッシュと、本気で分からないとばかりに首を傾げているスマイルの間に、アッシュの後ろから緩やかに歩いてくるユーリ。リデルは切羽詰まっているアッシュや首を傾げているスマイルを無視して、ユーリに尋ねた。
「本日『Deuil』は何かご予定がおありなのですか?」
「ああ、『Deuil』全員でレコーディングの後インタビュー。それから写真集の撮影となっている」
「あー、そういえばそーだったっけ」
 スマイルにすっとぼけた様子はない。どうやら本気で忘れていたようだ。リデルはスマイルとユーリとアッシュを見比べて、考え込む。
「…それでは、本日はわたくしは留守の番をするということでよろしいでしょうか」
「ああ、そうしてくれれば頼む」
「了解しました、ユーリ。貴公のために私はこの城の留守を守りましょう」
「って、ダメー!!」
 横から突然茶々を入れてきたスマイルに憮然とした表情を作り、リデルは口を開く。
「何がいけないというの?」
「お姫様をこんなとこに一人で置いていくなんてダメ! 絶対にダメ!!」
「といっても、この城メルヘン王国で一番安全スよ?」
「ダメ! 何が何でもダメ! 絶対ダメ!!」
 何がそんなにいけないのか分からないリデルは首を傾げるばかりだ。アッシュもまた同様である。しかし心当たりに気付いたのか、ユーリは口の端を歪めて笑っていた。
「ユーリ?」
「成る程な…。分かった、お前の精神安定のために彼女も連れて行こう。よろしいか? リデル」
「わたくしは構いませんが、この城の留守はどうするのです? やはりわたくしが残った方が…」
「いや、この城の留守程度ならば大丈夫だ。それにスマイルが望んでいることだからな、その方が仕事も早く終わりそうだ」
「…ならば、わたくしもお供しましょう。よろしくお願いします、皆様」
 リデルはスカートの端を掴んで礼をする。いつもの了承の合図だ、リデルは3人と共に仕事場に行くことにした。
 そこから先はユーリの言った通りでトントン拍子で仕事が進んだ。レコーディングもスマイルは快調に終わらせ、インタビューも当たり障りのないもので終わらせた。そして現在は写真集の撮影だ、少し時間に空きがあったのかその度に全員が全員こちらに構ってくるが、リデルはスマイルの分だけ丁重に無視させていただいた。
 リデルは座っていた椅子に深く腰掛けた。隣の椅子に誰かが座る気配がした。多分、この気配からしてスマイルだろう。
「さてお姫様、久々の人間世界はどう?」
「…私の生きた時代とはあまりにも違いすぎて、どう言っていいのか分からないわ」
「ま、そりゃ確かにねぇ。18世紀とは何もかも違いすぎるでしょ、人間は数百年の中で進化しすぎた生き物だし」
「…数百年。そうね、もうそんなにも経ったのね」
「気付いてない、とは言わせないよ?」
「勿論よ、その程度気付かなければ私は私ではないわ」
 天井を見れば、シャンデリアの代わりにゴチャゴチャとした黒いライト。様々な細工を仕込まれた天井の代わりに黒い機械がひしめいている。先ほど移動の際に見た空は黒く汚れていて、空気は濁って澱んでいた。
 慣れるのは酷く大変だ。リデルはそう思う。だが、これもやらなければならないことの一つだ。スマイルの賭に負けて、己の欲望に負けてしまった己の責任なのだ。
 胸が痛い。スマイルとの賭のことに関して考えようとすると、いつもこうだ。こんな風に考えるということは、己がこの姿になったことを後悔しているのだろうか。それは当然だ、己は天寿を全うするはずだ。しかし何故かアンデッドへと変貌してしまった。後悔していないというのは嘘だろう。
「…後悔、してるかい?」
「ええ、でも私が選んだことよ。後始末は自分でするわ」
 天井へと彷徨わせていた視線を前へと移す。どうやら今はアッシュの番のようだ、次は少し離れた場所で待機しているユーリである。
「…お前の出番は?」
「とーぶん先だよ」
 会話が途切れる。続く言葉が見つからない。沈黙が二人の間に下りた。周りの音が五月蠅いだけに、沈黙が余計に静かに聞こえる。だが、不思議と嫌悪感はなかった。
「お前は何故私に構うの?」
 リデルは前を見据えたまま問う。スマイルは頬に笑みを刻んだ。
「お姫様には、分からなくてもいいよ」
「…どういうこと?」
「お姫様は、分からない方がいいよ」
 リデルはスマイルの片方だけしか見えない瞳を覗き込んだ。瞳の中には暗い闇しか見えない、リデルには暗い闇にしか見えない。それが何らかの色を持っていたとしてもリデルにはその闇に抱えられた色が分からないのだ。だが、引き込まれる。覗き込んだだけで引きずり込まれる、そんな瞳をしている。
「お姫様は分からないでいてちょうだいよ、お願いだからさ」
「だから…どういう……」
 リデルはスマイルを見る。スマイルは皮肉気な笑みを浮かべて立ち上がった。
「それじゃ、僕はこれからメイクに行くよ。またね、お姫様」
 リデルに、スマイルを止める術はなかった。スマイルが立ち去っていくのを静かに見送って、リデルはその場に座り込んだまま。
 ただ、脳裏でスマイルの言葉だけが響いていた。
 そうやって意気消沈している中、誰かがリデルに近付いていた。リデルは気付かない様子で近付いた相手を無視し続ける。アッシュは今撮影が終わったところだし、ユーリは今照明の前に上がったところだ。スマイルは立ち去ったばかりだし、リデルに声を掛けるような人物はいない。
「ねぇちょっと、貴方…」
「わたくしに何かご用がおありでしょうか」
 相手が先に何かを言う前に先手を打つ。振り返った相手はあくまでも普通だ、おそらくはこの写真集の裏方の人間なのだろう。何か言いたそうに俯いている。リデルはとりあえず彼女の言葉を聞くことにした。

【 5 】

 その後、写真集の撮影も一端終了し、リデルは三人と共にユーリ城へと戻って全員で夕食を取っていた。
 この城は食事の時間は全員で食べることを義務づけているらしい。食事係であるアッシュは「作るのも片づけるのも一辺に済ませた方が楽だから」と言っていたが、それは正論だろう。確かに作ることも面倒であるし、片づけることも面倒である。しかもそれを一々一人ずつ作るとなれば拷問に等しいだろう。
 ということで、本来ならユーリたちの三人しかいない夕食にリデルも混ざっているということである。そのようなことがなくとも、三人の中の誰かがリデルを呼びに来るのは間違いなかったのだが、リデルはその事実を知らない。
「…あの」
 いつもの自信のある冷静な声とは違う、か細く弱々しい声がリデルから発せられた。スマイルはリデルが何かを悩んでいたことを知っていたが、他の二人はそのような事は気付いていないので驚きを隠せなかった。普段から物静かなリデルは、悩んだら表面上はそんなに変わらないものの更に寡黙になるだけだ。それでは気付かなくとも仕方がないだろう。
「何? どうしたの?」
 スマイルは全く驚いていない様子で、いつもと同じようにリデルに尋ねた。リデルは一番最初からスマイルに尋ねられたということに対して不服だったのか、多少頬を膨らませたが気にせずに話し出す。
「あの、本日写真集の撮影がございましたよね」
「ああ、ありましたね。それがどうかしたんスか、リデルさん」
 アッシュは己の作った夕食の味に満足しながらリデルに尋ねる。そんなアッシュが一歩踏み出す決心をさせたのか、おずおずと胸を落ち着かせながらリデルは少しずつ語り出した。
「…そこで、スカウトされてしまいました」
 リデルは美しい柳眉を歪めて続きを口にする。しかし、そこにいるリデル以外の思考は完全に停止していたので続きの内容が聞かれることはない。
「わたくしが人間外のゾンビであるということはご存知ですかと尋ねれば知っていると答え、まだ仕事をする時期ではないと言えばいつでも構わないから待っているとお答えになられました。…わたくしは、どうすればいいのでしょうか」
 リデルの言葉に、ユーリとアッシュは一瞬だけ何か信じられないモノを見るような目で見て、それから先ほどの驚愕の表情とはまた別種類の、驚愕と喜び、歓喜が混ざった表情でリデルを見ていた。
「うわ、スカウトッスか! 凄いッスねリデルさん! この世界じゃスカウトって滅多にないんスよ?!」
「確かに名誉なことだな。それで、何という名の監督にスカウトされたんだ?」
「確か…ティシー・クレイモアだったかと」
「ティシー・クレイモアって、ホラー界じゃ凄い有名な人ッスよ! 初めてこの業界見てスカウトされるなんて、ホンット凄いッスねぇ…」
「ティシー・クレイモアか、あの監督ならば信頼できる。大丈夫だな」
 基本的に嘘をつくことはないアッシュや基本的に人を誉めることがないユーリが、あまりにもそのように褒めちぎるので、リデルは途轍もなく不安に駆られた。
「あの、それでお受けした方がよろしいのでしょうか?」
 普段は即断即決のリデルには珍しく、どうやら迷っているらしい。それは己でも分かるほどの動揺だ。リデルには映画というものがどういうものか分からないし、俳優という仕事もどのようなものか分からない。それ以前の問題で働くということがどういうことかがわからないのだ。これでは返答のしようがない。
「返答はどうしたのだ?」
「現在は保留しております」
「んーと…それはリデルさん本人の問題ッスねぇ…。どんなに高名な人であろうとも、リデルさんが嫌だと思ったら断りゃいいし、やってもいいなと思えばやりゃあいいんじゃないんスか?」
「少なくとも、私たちはそのような風に仕事を受けているな。私たちにやってくる仕事は星の数ほどあるが、我々が少しでも嫌だと思えばその仕事は受けないことにしている。我々の仕事、芸能界に属す者の仕事などは楽しんでやるものだからな」
「…楽しんでやるもの」
「そう、楽しんでやるものだ」
 リデルはナイフとフォークを置いて、マナーに反すと思っていながらも視線を下げて両手を口元に当てて考え出した。くるくると思考が回る。仕事とは楽しんでやるものである、それは分かった。だが、己にとって未だこの世界での楽しいことが分からないのだ。分からないから、しばらくは忌避していたい出来事だ。だが、やってみるのも一興かもしれない。
「成る程、楽しんでやるものですね。ありがとうございます、吸血王ロードヴァンパイア狼男殿ミスターワーウルフ。そのことを胸に、これより返答を考えてみようと思います」
 リデルが視線を上げたとき、このようなことに迷うような弱い視線はなかった。あるのは、常のように強い、即断即決華麗に優雅に遠慮なしに言葉で一刀両断する誇り高き貴族の少女だ。
 そこでリデルは気付く。スマイルの声がない。先の会話の中にスマイルの言葉が何一つない。これはおかしいことだ、リデルのことならば何でも口を挟むスマイルが、リデルが本当に悩んでいるときに何の口出しも助言もしてこない。こんなことはおかしいのだ。
「…スマイル? どうかしたの?」
 リデルはスマイルに視線を向けて、スマイルになど滅多に向けない心配そうな眼差しを向けた。スマイルは大きく肩を揺らして、明らかに動揺した様子でリデルに目線を合わせた。何か考え事をしていたようだ。
「え? あ、何? どしたのお姫様」
「どうかしたのはお前でしょう、スマイル。何があったの?」
「…あー、うん。ちょっと調子悪いみたいだから部屋に戻るね、ご飯残しちゃってゴメンよ」
 言って、スマイルは食器を置いて椅子から立ち上がる。アッシュはそれを心配そうな表情で見送った。
「いや、オレの作った飯のことはどうでもいいんスけど…お大事に、スマ」
「うん、ありがとねアッス君」
 そのまま立ち去ろうとするスマイルに、リデルは訝しげな視線を向けながら思わず声を掛けた。
「スマイル」
 立ち止まる。だが、振り返ることはなかった。
「…後で僕の部屋に来てよ、お姫様。お姫様になら、僕も話してもいいかなって思うから」
 今度こそスマイルは立ち去った。リデルは彼の背を見送って、食事に戻った。
 しかし、スマイルは何故あんなにも意気消沈していたのだろうか。普段は殺しても死ななそうな図太い神経を持ったスマイルが、今日に限ってこんなにも精神的に不安定になっている。これはリデルにとって見逃せることではない。スマイルはリデルが精神的に弱っているときは必ず現れて助けてくれた、ならば今度はこちらが助ける番である。
「あの、リデルさん…」
 アッシュの心配そうな声。リデルは粗方食べ終えてナイフとフォークを二本とも揃えて皿の片方に置く。
「分かっております、これよりスマイルの部屋に行く予定です。スマイルのことはわたくしにお任せ下さい」
「そう言ってくれるなら、オレも安心できるッスよ。スマのこと、よろしくお願いするッス」
「はい、本日も美味しい食事をいただきありがとうございました。それでは、失礼します」
 迷いや澱みのない瞳でリデルはアッシュを捕らえ、真っ直ぐな視線でそう言い切った。そしてスマイルを追って立ち去ろうとするリデルをユーリが引き留める。
「リデル、これからの出来事が想像はついているか?」
「想像? 何故そのようなことをしなければならないのです、ユーリ。わたくしはスマイルによって為されたことならば大抵のことは受け入れる自信はあります。故に、わたくしがスマイルによって為されたことで心を壊すということは有り得ぬので、貴公の質問は無意味です」
「…そうか」
「はい、そうです」
 リデルは笑った。それは、スマイルにだけは決して明かされない、リデルの本心だった。
「それではわたくしは参ります。失礼します、吸血王ロードヴァンパイア狼男殿ミスターワーウルフ
 リデルは踵を返し、スマイルを追うようにいつもよりも歩調を早めてスマイルの部屋へと向かう。食堂から廊下へ出る。部屋はすぐそこだ。リデルの歩調は次第に小走りになっていった。
 スマイルとリデルが初めて出会ったのは、リデルがまだ人間だった頃の話だ。リデルは廊下を走りながら思い出していた。
 その時、リデルは既に病を患っていた。病の名をペスト、またの名を黒死病と呼ばれる代物だ。当時、治療法などなかった不治の病。リデルはそれを患っていたのだ。それがリデルを死に至らしめ、今のような肌にした原因。
 ただ、リデルのペストは明らかに他者のものとは違った。確かに己がペストを患っているのは分かっていた。日に日に体中に増えていく斑点でそれが己も自覚していたし、誰もが分かっていたことだ。だが、ペストを患った人間が大抵一週間程度で死んでいくのに比べ、リデルは斑点が出来るだけで高熱や体中の痛みが発することはなかったのだ。
 そして、リデルは静養という名の元に地方の別荘へと移された。確かにそれは本人にとっては静養であったし、それを決定した彼女の親と呼ばれる人物も建前的にはそのつもりであったのだろう。だが、それは他者の目から見たら厄介払いにしか見えず、聡明なリデル本人からしてもその建前を建前としか受け取れなかった。
 スマイルと出会ったのは、そんな中である。
 スマイルは周りの人間がペストという病にかかっているリデルと、唯一恐れることはなく接する人間の一人だった。正確には人間ではなかったが、それでもリデルにとってそんなことは関係なかった。
 リデルはスマイルが近付くたびにペストが移ると言ったのだが、スマイルは自分は妖怪なのだから大丈夫だと本当に信じてもいいものかと悩んでしまうことを言って煙に巻いてしまう。リデルが何度同じことを言ってもスマイルはリデルを訪ねることを止めようとはしなかったし、ペストに感染した様子もなかったので、リデルはその内注意することを忘れてしまった。そして、今の関係に到るのである。
 スマイルとリデルは、同じ部屋の中でずっと側にいた。それこそ、出会ってから死ぬまで片時たりともスマイルはリデルの側を離れることはなかったのだ。ユーリに言ったこともこの時に実証されている。事実、リデルはスマイルによって為されたことならば大抵のことは受け入れることが出来たし、スマイルもリデルによって為されたことならば大抵のことは受け入れることが出来た。
 何が悪かったのか、リデルには分からない。スマイルが何に苦しんでいるのかが、リデルには分からないのだ。貴族として生まれ、青年期にも達せぬまま死に至ったリデルには他者の感情にはある一定方向に置いてのみ敏感で、ある一定方向に置いては鈍感であった。
「スマイル」
 リデルは無造作に部屋の扉を開ける。鍵は掛かっていなかった。むしろ、鍵の存在など誰も知らないのだ、掛ける必要もないから誰も鍵を掛けない。
「あぁ、来たね、お姫様」
 中ではスマイルがリデルを出迎えていた。リデルは相手の了承もなしに部屋の中に入る。咎める声はない。次いで、スマイルの部屋をぐるりと一周覗いた。リデルの部屋と比べて、随分簡素で物のない部屋だ。スマイルの部屋ならば、スマイルの話を聞く限りギャンブラーZという物が好きらしいのでそれで溢れているかと思いきや、そうでもないようだ。部屋はトーンはシックに纏められていた。
 リデルはそこで違和感に襲われた。リデルが初めて来た日、スマイルは何と言っていた? 確か、この部屋を使う相手の居心地のいい空間を勝手に作り出すのだと。そしてギャンブラーZがたくさんあったと。
 だが、この部屋にはそのような物は何一つない。己の居心地のいい空間という物が変化した場合、確かに最初とは違う部屋が生まれるだろうが、早々それを変えることは不可能だ。しかも、己が模様替えをしようにも城が部屋の内装を司っているのならば余計に不可能だ。リデルは違和感の正体を掴んだ。
 その時、リデルは大きな腕に正面から抱きしめられた。顔を上げることはしない。腕の持ち主は決まっている。スマイルだ。スマイルは再会した時と同じようにボロボロのコートを身に纏っていた。
 そのコートに、リデルは見覚えがあった。それはとても古い代物で、リデルが生きている頃からの年代物だった。
「…それで、どうしたの?」
 リデルは出来るだけ優しく尋ねた。スマイルはリデルの長い髪に顔を埋めて、微かな声で囁いた。
「あの頃とは違うんだなぁ、って思って」
「何を当たり前なことを言っているの。時は移り変わる物よ、分かっているでしょうそれくらい」
「…分かってる。分かってるけど」
 女性ならではの手厳しい一言にスマイルが苦笑する。リデルの耳に声が届く。聞こえてきたのは、潰れた喉の奥から絞り出すかのような声だった。
「ずっと側にいられるって思ってたんだ」
 リデルは顔を上げる。スマイルがこちらの髪の毛に埋めているので表情は分からないが、リデルにはスマイルが泣いているように思えた。
 スマイルが顔を上げる。同じく顔を上げていたリデルと口付けを交わす。スマイルはリデルをベッドに横たえて、慣れた手付きでリデルの服を順々に脱がしてその裸身を晒させる。そして体中至る所に撫で回し舐め回し、噛み跡や赤い鬱血を付けた。黒い斑点のある場所は重点的に徹底的に鬱血を付けられた。
 リデルは抵抗しなかった。生前の間、スマイルとリデルの間に性的な関係はなかった。だが、嫌ではないのにどうやって抵抗しろというのか。それにこうなることは予想が付いていた。あの時、スマイルがこの部屋に来てくれと頼んだときから予感はあったのだ。いつもはスマイルがリデルの部屋にやってくるばかりであったのに、今日に限ってスマイルは己の部屋に招いた。相談だけならば、リデルの部屋で待っていればいい。だが、それをしなかったということは、こういうことになるということでもあったのだ。リデルにはそれが分かっていた。ユーリにも分かっていた。だからあんな言葉を尋ねたのだ。それに、リデル自身に貞操観念は薄い。リデルは18世紀のロココの時代の生まれだ。その時はまだ結婚はしていなかったものの、嫌いである貴族の子ども連中における破廉恥なパーティーに付き合わされたこともある。そこで殆ど強姦も同然に性交をしたこともあるのだ。リデルとしては何一つ恐れることはない。
 それよりも気になっていたのは、何故スマイルがこんなにも落ち込んでいた理由だ。ずっと一緒にいられると思っていた。その言葉に込められた尊い想いと尊い幻想。スマイルとリデルは初めて会うときから死ぬまで一緒にいた。死が二人を分かってもスマイルは共にいたことだろう。何故ならば、それが賭をする為の約束事だったのだから。だが、スマイルははき違えていたのだ。ここは初めて会った18世紀のリデルの別荘地ではない。初めて会ったときのようにずっと永遠に二人きりでもない。そして、あの時とは違って、リデルの身を蝕んでいた病がないということだ。
 病がない。それは自由だということだ。あの時、ほぼ強制的にベッドにくくりつけられていた少女はここにはいない。きちんと己の意志で動き、己の意志で考え、己の意志で決定するリデルという名の少女しかいないのだ。スマイルは先の事実でそれを実感したのだ、だからこそリデルを求めようとする。
 リデルは抵抗しない。そんなことはせず、腕を広げて微笑んで抱きしめた。スマイルが驚いたことが空気を伝わって分かった。
 だが、そこからは何も考えられなかった。
 体は素直に反応を返し、喉は悲鳴のような嬌声を上げ続け、花芯は赤く濡れそぼっていた。指先はシーツの海を彷徨って握りしめ、羞恥と快楽によって涙を零す瞳を枕に押しつけてうつぶせの状態になる。スマイルはそのリデルの体を無理矢理引き起こして、舌で涙を拭い、溢れてこぼれ落ちた唾液を飲み干す。そして、顎を噛み、胸を噛み、指先を噛み、脇腹を噛みと、舌はどんどん下腹部へと下がっていく。リデルの思考は既にショートしていた。快楽という麻薬が脳内に回ってきて、何一つ考えることが出来ない。上手く思考を束ねることが出来ない。
 花芯に熱い塊が押し当てられる。リデルは息を吐いて力を抜いた。その一瞬の間を縫うように、ソレはリデルの中に押し入ってきた。
 脳内がスパークする。何も考えられない。脳は本能に従って快楽を追うことしかしてくれない。がくがくと上下に揺さぶられ嬌声をあげる中、リデルに出来るのは今にも泣きそうな子どもに見えたスマイルを抱きしめることだけだった。

【 6 】

 スマイルとリデルが初めて出会ったのは、リデルがまだ人間だった頃の話だ。18世紀のロココ時代。確かヴェルサイユ宮殿が完成した当初だっただろうか。そこまで確かなことをリデルは憶えていなかった。
 その時、リデルは既に病を患っていた。病の名をペスト、またの名を黒死病と呼ばれる代物だ。当時、治療法などなかった不治の病。リデルはそれを患っていたのだ。それがリデルを死に至らしめ、今のような肌にした原因。
 ある日、リデルは別荘に静養に来ていた。静養といっても、どこかへ歩きに行けるわけではない。あくまでもリデルの体はベッドに括り付けられているのだ。だが、リデルはその生活を苦だとは思わなかった。元々外に出るのはあまり好きではなかったので、部屋の中にいる方が好みだ。それに、面倒でかつ破廉恥なパーティーに誘われることもない。そして、この菌で汚染された体が外に出れば誰かが感染し、被害が拡大することが目に見えている。リデルは聡明な子どもだった。分かり切ったことに労力を費やそうとは思わなかった。その時、リデルは全ての洗濯物を己の手で洗い部屋の掃除をするという、下働きとそう変わらない生活を送っていた。
 リデルはその日も本を読んでいた。とりあえず最近の目標は近くにある本棚の本を全部読むことである。リデルは天蓋付きのフリルが満載されたベッドで、上半身だけを起こして集中して本を読んでいた。
 かたん。リデルは書から目を離した。しかし誰もいない。おそらくは屋敷で働く侍女の者だろうと、リデルはまた書に視線を移す。
 かたん。今度もまた音がする。やはり視線を巡らすも誰もいない。だが、今度の音は前回の音よりも大きい。しかもこの部屋でした音だと断言できる大きさだ。リデルは近くの机に分厚い書架を置いて、ベッドで居住まいを正した。
「誰?」
 リデルは問いかける。返答は聞こえない。いや、むしろネズミなどの可能性が高いというのに、何故問いかけるのだろう。リデルは不思議で不思議で仕方がなかった。ただ、何とはなしにそこにいるのは人間であると確信していたのだ。
「ヒッヒッヒッ…見つかっちゃった」
 そして、どこからか声が聞こえた。耳を澄ましても何の声も聞こえない。聞こえた声も小さなものだった為か、空耳かと勘違いしそうになる。だが、この紙をめくる音しか聞こえない部屋の中で声など聞き違えるはずもない。リデルは辺りを見回した。
「ここだよ。ここ」
 その声はリデルのすぐ隣から聞こえた。
 前方を向いていたリデルが振り向くと、そこには青い髪と青い肌、そして赤い瞳の包帯男、スマイルがいた。この時はまだコートを羽織っていなかった。
「…何の用かしら? ここは貴族の館よ、勝手に入るのは御法度ね」
 どこからどうやって入ってきた、ということは敢えてリデルは聞かなかった。聞いたら最後、何か恐ろしい答えが返ってきそうだからである。
「いや、何。僕はいつもそこから君を見てたんだけどねぇ…。どうにも暇そうだったから、遊んでやろうと思って」
 その言葉に胸が冷えた。リデルは己の隣にある、初対面の相手に向かって問答無用の容赦なしで平手打ちを食らわせる。そして強い視線でギンと睨みつけた。
「『遊んでやろうと思って』? ほざくな下郎。そのような同情は私には必要ないわ、同情する相手が欲しいなら他を当たりなさい」
 リデルの平手打ちの直撃を食らった相手は、ぽかんと目を丸くしてリデルを見た後、そのリデルの口上を聞いて何をするかと思いきや――――突然笑い出した。
「…え?」
 リデルは訝しげにスマイルを見る。スマイルはしばらく笑い転げたままだったが、呼吸を整えて次に体の包帯についた埃を払った。
「ヒッヒッヒッ…。いや、ごめんねぇ。今回は僕が負けたよ。ちょっとからかってやろうと思ったんだけど…根っからの貴族なんだねぇ」
「当然よ、私は貴族以外の何者でもないわ」
「うん…、それじゃ言い直すよ。そこのお姫様、僕と一緒に遊んでくれませんか?」
「…え?」

 それが、スマイルとリデルの出会いであった。

 スマイルは次の日もそのまた次の日もやってきた。初めて会った日に己はペストにかかっているのだからもう来るなとリデルが言っても、スマイルは根気強くリデルに会いに来た。
 それを毎日繰り返していても、全く堪えていないスマイルに対してリデルが疲れてきたのだ。現在の時点で、既にスマイルを諦めさせることは不可能だと分かったリデルはもう忠告はしていない。スマイルを素直に出迎えるだけだ。
「これは、何?」
 その日、スマイルはリデルに様々な絵画や写真を見せていた。リデルは貴族であり、館の外に出ることはあまりない。基本的に広い庭の中か、パーティーの中。市制の様子など知りもしないのだ。だから、特に市制の中の様子に関してはリデルの興味は高かった。
「あぁ、それは道化だよ。わざと巫山戯た格好して、わざと巫山戯たことやってみんなを笑わす役だよ。まるで僕みたいにねヒッヒッヒッ…」
「…そう、これは?」
「それはこの街の一番高い家の屋根から撮った夕日の風景だよ」
「これは?」
「南極のオーロラ。そーゆーのもあるもんだよ」
「じゃあ、これは?」
「砂漠のオアシスと蜃気楼。世界は不思議なことがいっぱいだからねぇ…」
「…そう、不思議なことがいっぱいね」
 リデルは写真や絵画をじっと見たままだった。
「世界はこんなにも、美しいもので溢れていたのね」
 その事実が、やけにリデルの胸に響いた。
 窓から冷たい風が吹き抜けてきた。ここは暖炉があるから暖かいものの、外は相当な厳しさだろう。そう考えると、リデルはスマイルのことが気になった。
「…そういえば、お前、コートはどうするの?」
「コート? ああ、流石に寒くなってきたからいるねぇ。でも、僕は透明人間だから必要ないよ、お姫様」
「そういう問題ではないわ、コートがなければ風邪を引くでしょう」
 リデルはため息を吐いて、己のクローゼットの中に一つだけ紛れ込んでいた茶色で十字架をあしらった真新しいコートを取り出した。リデルはそれを無造作にスマイルに放って、そしてまたベッドの中に戻る。
「あげるわ、写真のお礼よ」
「…うん、ありがとう」

 そしてある日のこと、スマイルはリデルのやった十字架をあしらったコートを身に纏って口を開いた。
「そういえばさぁ…未練とか、やり残した事ってないの?」
「ないわ」
 リデルはスマイルの言葉を意図的に一刀両断する。これ以上話を続かせないためであろう。だが、一刀両断されたスマイルも、リデルの考えに気付いていながらへこたれない。スマイルはリデルを覗き込んだ。
「本当の本当に?」
「本当の本当に、よ。私にやり残した事なんてないわ。今まで幸福だった、やりたいこともやった。…これだけで充分でしょう」
「本当に?」
「本当に」
 彼女の目が鋭い眼光でスマイルを捉えた。その目は堂には入ったもので、それが彼女の掛け値なしの本気であるということが手に取るように理解できた。スマイルは口の端を歪める。静かに頬を上げて、皮肉げであるような挑発しているかのような小馬鹿にしているような、見る人によって種類を変える笑みを浮かべた。
「…じゃあ、賭けてみるかい?」
 リデルは眉をひそめた。普段のスマイルがこんなことを言うような人物ではないことを分かっているからだ。少なくとも、人の生き死にに関してはいつも真面目な人物だ。
「何を?」
 そんなスマイルを不可思議に思いながら、リデルは話を先に進めた。
「君がアンデッドになるか否か、だよ。お姫様」
 アンデッド。
 それは強い未練を持った死人が、何十何百年と眠り続けて不死者へと変貌した者の総称。俗称はゾンビである。
 それに自分がなるというのである、スマイルは。リデルは今すぐスマイルを殺したい気分でいっぱいだ。だが、それを抑えてリデルはスマイルに殺気を飛ばすだけで済ませた。
「…いいわ、賭けましょう。お前は私が生き返ることに一票、私は私が生き返らないことに一票。但し、約束があるわ」
「約束?」
 スマイルは訝しげに尋ねた。
「そう、アンデッドは大抵は意志がない者が多いと聞くわ。意志がある者は何百年と眠り続けなければならないことも。そして、もしも私が生き返って、その時に私の意志がない場合は、今すぐそれを土に返しなさい。
 私は、私でなければ意味がないわ」
「…成る程ねぇ。じゃ、僕からも約束」
 交換条件ね、スマイルは明るく笑って言った。
「何?」
「僕がお姫様の名前を呼んだとき、すぐに僕の側に来てよ」
 リデルは目を丸くした。それは約束した賭とは全く違う話である。
「…それは、この賭とは関係のない話でしょう?」
「いいや、この賭と関係はあるよ。これは君が甦った後で果たされるものだからねぇ」
「まるで、私が負けることが確定しているようね」
「いやいや、そうでもないよ。確率は半々…、どっちがどうなるか、見物だよ」
 そして話は別のことへと移行する。後は明るい子ども達の声が響くだけだ。


 そして、その数日後、リデルは確かに死んだ。
 高熱で朦朧とした中で、憶えているのはスマイルの笑顔だった。


【 7 】

 意識が浮上する。だるい体を起こし、辺りを見回した。満遍なくフリルと建築美術で溢れたこの空間、どうやらここはリデルの部屋らしい。
 あの後、リデルとスマイルはすぐに果てて、続いて連続で2回程度はしたことを憶えている。それからの記憶がない。そして自分の記憶がないということは、どうやらそこで気を失ってしまったということだろう。そして体がすっきりしているので、スマイルが後始末を全てしてくれたに違いない、相変わらずこういうところは気配り上手であるとリデルは思った。
 リデルは立ち上がって新しい服に着替えた。こちらにスマイルの気配はないことから、どうやら己の部屋か食堂かに行っているのだろう。リデルはさっさと着替え終えて、颯爽と闊歩して食堂へと向かった。
 食堂には既にアッシュとユーリが席に着いていた。だが、スマイルはまだである。リデルは首を傾げた。いつもならばこの時間には席に着いているというのに、スマイルに何があったのだろうか。昨夜は己と性交しただけなのだが、それが耐えられないというわけでもあるまい。
 アッシュとユーリがこちらに気付く。リデルはそちらに近付いて、先にスカートの裾を掴んで礼をして見せた。
「おはようございます、ユーリ、アッシュ」
「ああ、おはようリデル」
「おはようございます、リデルさん」
 ユーリはおそらくは自分で入れた朝の紅茶を一杯飲みながら、アッシュはフライパンを片手に持ってリデルに声を掛ける。リデルは決して席に着かない。その様子に、口を開いたのはアッシュだった。
「リデルさん、スマは…」
「どうやら部屋に籠もっているようです。連れ出すのに長くなりそうなので、申し訳ありませんが朝食は要りません」
 思わずリデルはため息を吐いてしまう。確かに昨日はスマイルに抱かれただけで、こちらからの言葉は何一つ伝えられていない。身勝手だと思うが、何か伝わってもいいではないかと思ってしまうのだ。人間とはすれ違いの生き物だが、やはり言葉にしないと伝わらないのがもどかしくて面倒で堪らない。
 早速、スマイルを連れ出しにリデルは踵を返す。だが、その前に聞かなければならないことが数点あるのだった。リデルは食堂の方向を向いて口を開いた。
「申し訳ありませんが、少々お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか」
「ああ、構わないが」
「あ、いいッスよ」
 アッシュはフライパンを置いて態度を改めて、ユーリはやはり紅茶を飲みながら肯定の意を示した。リデルはまずユーリに尋ねた。
「それではユーリ。この城の客室に、使う相手の居心地のいい空間を勝手に作り出すのだという能力はございますか?」
「いや、そのような能力はない。そんな能力があったならばこちらが欲しいものだ」
「では、わたくしのあの部屋は何故わたくしが気に入るような物ばかりなのでしょうか。偶然ですか、それとも何か策略がおありなのでしょうか」
 ユーリはティーソーサーにカップを置いて、ポットで紅茶を継ぎ足した。そしてその香りを楽しんでから答えた。
「あれはスマイルがやったことだ。数百年程度前からか、突然明らかに少女趣味の物を買ってきたのでな、理由を問えば『目覚めたときに少しでも過ごしやすい空間を作っておきたい』とあまりにも嬉しそうに言ったからな。放置しておいた」
「…つまり、やったのは全部スマイルですね?」
「ああ、その通りだ」
 リデルは現在このユーリ城で使用している客室と、己が生前使用していたスマイルと共にいた寝室の両方を思い出す。恐ろしいまでに共通点ばかりでどうしようかと思ったのだが、成る程スマイルが作ったのならば納得だ。リデル以外であの別荘の寝室にスマイルほど長く居座った者はいないのだから。
「もう一つ。アッシュ、スマイルは夜ごとどこかへ出かける習慣がありませんでしたか?」
「え? そーッスねー…あったッスね、何かあったとしても毎日夜だけはどこか散歩に出かけてたッス」
 アッシュはアッシュらしく、両腕を組んで長考しながら少しずつ言った。リデルはその答えに眉根を寄せる。
「…それは何時からで?」
「えーっと…オレが来たときにはもうやってたんで…」
「数百年前だ、大体スマイルが様々な物を収集し始めた頃と同じ時期だな」
 リデルは考える。数百年前と言われてもあまりにも大雑把すぎて分からない。リデルはもう少し細かく尋ねることにした。
「その数百年前とは、もしかしてスマイルが十字架をあしらったコートを着始めた頃ですか?」
「……ああ、そういえばその時期からあのコートを着始めたな。確かその時期の筈だ」
 眼球が飛び出すかと思うほど驚いたのは、多分この時が初めてだろう。リデルはそう思った。リデルは生まれて初めてこんなにも驚いた。
 そして、こんなにも激しく相手を怒鳴りつけたいと思ったのも同時に初めてだった。

『リデル』

 聞こえてきた声。確かにそれはスマイルの声だ。リデルは情報をくれた礼も言わず、スマイルの部屋へと駆けだした。
 駆けている間、様々なスマイルの言葉が脳内で響いていた。ぐるぐると回る声の中、たった一つの言葉だけが強く自己主張をしていた。
『未練とか、やり残した事ってないの?』
 あるとも、己にだってやり残した事程度あるとも! 死にたくないと、このままでは死にたくないとどれほど思ったことか! まだスマイルと一緒にいたい、スマイルの言う様々な世界の美しい場所に行きたいと、本当にどれだけ思ったことかどれほど祈ったことか!
 だがそんなことはできないと分かっていた! そんなことは不可能だと分かっていた! 病魔に蝕まれた体にそんなことはできない! 病魔を撒き散らすわけにはいかないから己からベッドに縛り付けた! でも本当ならば子どものように遊びたい! スマイルと一緒に遊んでみたい! 普通の子どものように! 年頃の子どものように! スマイルと一緒に!
 歯を食いしばる。零れそうになる涙を己の誇りを掛けて押し止める。走りながら、リデルは全身で、今まで貴族の誇りに邪魔されて言えなかった鬱憤を訴えていた。
 そんなことは出来ないのだ! そんなことは不可能なのだ! もしも私がアンデッドになったとしても、その頃にはスマイルは私を忘れている! そして私は街を徘徊するグールにしかなれない! それは嫌だそんなのは嫌だ。己の誇りに掛けてそんな自分は阻止してみせる! ならばこうするしか方法はない! 自分では諦めるしかないのに!
 なのにスマイルは諦めない! 私が諦めてスマイルが諦めないのならば、それに私も賭けたくなってしまった!
 部屋の前に辿り着く。ドアノブを回して駆け込んだ。
「スマイル!」
 あぁ、私はスマイルがいなければこんなにも孤独で。そして私はこんなにも希望を捨てていなかった。
 部屋の中にスマイルはいない。だが、気配はあるから今は姿を消しているのだろう。リデルはスマイルのいる方向に真っ直ぐ向かっていく。
『…リデル?』
 部屋の中から声が聞こえる。声は部屋の中で拡散していてどこから聞こえているのが分からない。だが、それでもリデルは真っ直ぐにスマイルのいる方向に向かう。リデルはベッドの上に座る。きちんと別の物に変えたらしいシーツは清潔だった。リデルはベッドの端に上半身だけ起こして座っているスマイルの前に座った。
『リデ…』
 スマイルの声を遮る乾いた音。透明で目には見えないながらも、リデルの平手は間違いなくスマイルの頬に直撃した。
「この愚か者!」
 頬を張ってそう叫べば、リデルは堰を切ったかのようにその瞳から涙を零した。誰もいなかった目の前にスマイルが現れる。だが、そんなことは知ったことではない。
「…リデル? 見えるの?」
 スマイルが驚愕の表情でリデルを見た。だがそれも今のリデルには知ったことではない。
「お前のことなんて見えない! 何一つ見えない! でもお前なんて気配だけでどこにいるかくらいは分かるわよ!」
 スマイルが目を丸くした。滅多にない驚愕の表情を、今のリデルは見ることはできない。俯いたまま、今スマイルに伝えなければならないことを全て伝えるのだ。
「ずっと一緒にいられると思っていた?! そんなの不可能に決まってるでしょう私だって以前とは違うお前だって違うでしょうスマイル! 以前の私は自らをベッドに縛り付けておくしか出来なかった! でも今の私は違う! 自由があるやりたいことがある自分の欲望がある!」
 そう、欲望がある。以前は全てを諦めるだけで、それだけで終わってしまったリデルという名の少女の短い一生だ。
 そして、諦めるだけしか能がなかった少女に希望を、絶望を、そして孤独を与えたのは自らを道化師と笑ったスマイルなのだ。
「私は孤独で! たった独りで! 私の側には誰もいなくて! そしてお前もそうでしょう!」
 リデルは叫ぶ。己でひた隠しにしてきた事実を赤裸々に叫ぶ。そして、これは自身だけの事実ではなくスマイルの事実でもある筈だ。
 スマイルは何も言わない。何も言わないまま数秒間止まったままだ。それは肯定を表していた。だが、同時に捨てられた子犬を連想させた。
 リデルは待った。スマイルに肯定して貰うための時間を待った。だが、それでも何も言わないスマイルに焦れたリデルは、古びたコートの胸ぐらを掴み上げ、至近距離でスマイルの目を見て言った。
「だから、お前は私を求めたのでしょう!」
 スマイルはまた何も言わない。常とは違うリデルの様子に圧倒されている。だが、今のリデルにはそれに気付く余裕すらない。
「私はお前を求め、お前は私を求め! 私たちは互いに孤独で、その質量も質もすべて同一でありながら解け合うことはなくて! だけどだからこそ! 互いにたった一人と呼べる相手を捜して!」
 必死に叫んだ。何も言わないスマイルに届くようにと、必死で叫んだのだ。その叫びがまるで悲鳴のようだと、いつもの冷静な部分の己がそう思った。リデルは呼吸を整える。呼吸を整えて、いつもの冷静な己に戻る。
「…私は、あのスカウトの話を受けようと思うわ。お前は、どうするの?」
 リデルはスマイルを見た。そして左手を差し出す。スマイルはその手を見て一つため息を吐いて、「…うん」と呟いて頷いた。そして、穏やかな、本当に穏やかな笑みを浮かべて、スマイルはその手を掴んだ。
 しかし、
「――――え?」
 スマイルが掴んだリデルの左手の中指三本の指先が崩れた。肉がぼとりとスマイルの手のひらの中に落ちて、白い骨が己でもよく見えるとリデルは思った。

【 8 】

「激しい運動はするなと言わなかったか?」
 アッシュがリデルに一本ずつ丁寧に包帯を巻いている姿を見ながら、ユーリは冷ややかな視線をリデルに向けた。
「わたくしは言われていませんが」
「リデルではない。そこの阿呆だ」
 どうやら、見ただけで体内気温が絶対零度まで下がるその視線は、リデル本人ではなくリデルの後ろで立っているスマイルに向けられたものらしい。リデルは胸を下ろした。
 その冷たい視線と、リデルにまかれ続けている白い包帯を見るのに耐えきれなくなったのか、スマイルは瞼を下ろして謝った。
「うー、ごめんねリデル」
「別に構わないわ、抵抗しなかったのは私なのだから」
 さらりとそう言い切って、リデルは己の指に巻かれ続けている包帯をぼんやりと眺めていた。
 つまり、リデルの体は数日前に出来上がったばかりであり、未だ激しい運動はできないようになっているらしいのだ。やった場合は言わずもがな、今回のリデルのように肉が一気に剥がれ落ちるという可能性もある。
 それに対する対処法は一つしかない。つまり、また棺の中で眠ればいいのだ。但し、今回は肉体のとある一部分を複製させればいいのでそんなに時間はかからないらしい。
 リデルはユーリに絶対零度の視線を受け続けているスマイルを見た。
「スマイル、今日の夜にでも戻ろうと思うわ」
「…早いねぇ」
「善は急げと言う言葉もあるわ」
「…そっか」
 会話が続かない。どちらも振り返らずに話し合い、そして沈黙が落ちた。左手は相変わらず包帯が巻かれ続けており、ユーリの絶対零度の視線も変わらない。
「だから、寝ずの番と私の部屋の整理、頼んだわね。…それと、私が仕事を始めたら、そのボロボロのコートではなくて新しいコートを新調するから」
「…うん、ありがとう」
 奇しくも、その時のスマイルの言葉は最初のコートをプレゼントされたときの台詞と全くの同一だった。

【 0 】

 そして月夜に月を見る。星を見る。
 墓と亡霊の群の中で、たった一人だけ長身隻眼の青い男。
 罰当たりなことにその墓に腰掛けて、優雅に夜空を見ていた。
 土の下からは何とも言えない奇妙な音。
 そして、その男の足下から一本の白い腕が――――

「やぁ、久しぶり」

 約束は、続いている。

End