Blue Bird Syndrome
子どもを拾った。 幼い少女だ。長い銀の髪と宇宙の青の瞳の、片手で足りてしまいそうなほどの年の幼子。美しい銀の髪も白い肌も薄汚れていて、一見すれば浮浪児のようだった。 だけどそれがつい最近死んでしまった子どもに似ていて、思わず拾ってしまった。手を差し伸べれば、子どもはこちらが拍子抜けするほど呆気なく己の手を取った。 子どもには名前がないらしい。スラム街の出身なのだろうか今まで名前など必要としない生活を送っていたようだが、一応拾った者の責任として名前をつけることにした。 子どもの名前なんて思いつかなかったので、しばらくは己の名前を告げるだけ告げて考え込んでいたら子どもは何故かとても嬉しそうに教えた名前を呼びながら己の後ろを着いてきた。まるで親鳥の後ろを歩く雛のようだった。 それで悩み続けていた子どもの名前が決まった。「コトリ」だ。子どもは幼かったから丁度良かった。 そして決まった名前を子どもに教えてやれば、子どもはまた嬉しそうに笑うのだ。与えられた名前を歌うように一生懸命口ずさみながら笑った。何が嬉しいのか分からなかったが、子どもが嬉しいなら別にいいと思った。 その日から、子どもは「コトリ」になった。 それからはほんの少し忙しい、だけどいつもの日常と変わらない退屈な日々。 いつもと同じようで違うのは、一人だった自分の生活にコトリが入り込んできたくらいなものだったか。だがコトリを拾う前までは別の子どもと暮らしていたのだ。あまり違和感はなかった。 面倒だからといって捨てることのなかった、自分の物とは違う食器や家具。ただただ捨てるのが面倒で取っておいた幼児服。自分の癖が役に立ったと思うのはこういう時だ。 ここから街への道は果てしなく遠い。昔は誰しもが持っていた車、という乗り物で30分といったところだろうか。歩いて数時間はかかるだろう。その車という乗り物を己は持っていたが使う気にはならなかった。街に行けば人と関わらなければならないし、それでは何のためにこんな辺境に家を建てたかが分からなくなってしまう。 それにコトリの体格は以前住んでいた子どもの体格と同じ物だということは分かり切っていたので何の心配もなかった。ついでにコトリにその服を着せてみたらぴったりだった。買う必要はなかった。 だがそれでも食料は買いに行かなければならない。大抵の物は森にある物で何とかなったが、それだけではまかなえない物も多い。その場合はコトリと一緒に車で街の外まで行って、そこからコトリを一人で買い出しに向かわせた。 徹底して人と関わらないようにしている己にコトリは問う。 「どうして由弥はこんなところに住んでいるの?」 それは、人と関わるのが煩わしいからだ。 「どうしてみんなと一緒にいるのが嫌なの?」 人と関わることは面倒だからだ。 「どうして面倒だって思うことになったの?」 …その問いには、答えられなかった。 コトリは人より成長が早かった。 普通の人間がゆっくりと時間を掛けて成長していくのに比べて、コトリはまるで蕾をつけた花がその身を開いていくかのようにゆっくりと、それでいてとても早く成長していった。 いつの間にか一緒に暮らして経過していた半年の間で、子どもは少女まで成長していた。 長い透けるような髪と宇宙の青を宿した瞳。半年間で少女は花開くように美しさを開花させていた。 その様を特別驚くでもなく隣で見続けた。半年でこんなにも成長するなんて有り得ない、なんて思うことはなかった。何故ならばそれが『コトリ』にとっては普通なのだと言うことを知っていた。 「由弥は全然変わらないね」 当たり前だろう。己は子どものように急いで成長したりはしない。 そう返してやれば、子どもは嬉しそうに笑った。 何が嬉しいのだ、と尋ねるとまた笑った。 「よく分かんない。でも、コトリはとても嬉しいの」 …きっとその理由を、己はとてもよく知っている。 それでもそっと、そうかと頷いてやればコトリは嬉しそうに頷いた。 「由弥は変わらないでいてね」 柔らかく純粋に告げられた願いに、己はどう答えればいいのかが分からなくなってしまった。 最近ではよく咳をするようになった。 風邪だろうか。最近は季節の変わり目で北風が吹くようになっていた。木造の古いこの家は隙間風も酷いので寒さに体が着いていかなかったのかもしれない。 そう考えれば頭痛も酷いことに気付いた。熱があるかどうかは分からないが、別にそれ以外の症状もなかったので放置しておくことにした。 そんなことよりもコトリのことだ。コトリは冬は初めてでいつも風邪を引く。その為にはこちらが気を回さなければならないのだ。 コトリは体が弱い。その身が持っている役目とは裏腹に、いやだからこそ今にも手折られてしまう花のような印象を抱く少女だった。 きっとこの冬も風邪を引くのだろう。春から夏にかけての変わり目も、夏から秋にかけての変わり目も同じように風邪を引いていた。特にこの冬は寒いらしい。風邪を引くことは確実だ。 もはやコトリが風邪を引くのも慣れていた。そしてその世話をすることも慣れきっていた。そもそもコトリは自分が拾ったのだ。自分が世話をせずに誰がするというのだ。 …しかしこの風邪についてはコトリにバレないようにしなければならない。コトリは自身がではなく何故か己が傷ついたり病を病むことを厭っている。風邪の素振りなど見せたら焼かなくてはならない世話がコトリに回ってしまう。それを厭う自分がいる。 それが幼い頃刷り込まれたせいなのかどうかは分からなかったが、それでも保護者が被保護者に世話を焼かれるわけにはいかないというプライドのせいなのかもしれない。 どちらにしてもこの身は風邪に近い症状を現しても風邪を引くことはない。こんな心配をしても何ら意味のないことだ。 …ではこの身に現れる風邪に似た症状は一体何なのか、という問いは黙殺した。 コトリが風邪を引いた。 そのことに気付いて第一に思ったことは、やはりだった。 「ごめんなさい、由弥」 コトリが横になっているベッドの隣に腰掛けて、コトリの世話をしている自分にコトリは申し訳なさそうに謝った。 何を謝ることがあるのだろうか。こちらとしてはコトリの世話など慣れていることに加え、風邪を引くこと自体は不可抗力に等しい。 その意味を表して静かに首を振れば、コトリはもっと申し訳なさそうに体を縮めた。 「でも由弥まで風邪引いちゃ駄目だから、外に出て休んでていいよ?」 不可解なことを言う、と林檎の皮を剥きながら思った。 この体は風邪など引かない。この体は容易なことでは傷つかない。この体はそう簡単には死なない。それを一番よく知っているのは『コトリ』だろうに。 …ああ、だが『この』子どもは知らないのか。以前の子どもは知っていたようだが、この子どもはどうやら知らないようだ。 「由弥?」 林檎の皮を剥く手が止まったのを不審に感じたのか、コトリが声を上げる。それに何でもないと言って黙らせた。 「ええっと…ごめんなさい、由弥」 それは何に対して謝っているのか。きっと風邪を引いたことに対して申し訳なく思っているのだろうが、それ以外の意味が込められているのではないかと己は期待している。 コトリが風邪を引く。季節の変わり目の証。 冬が近付いてきている。 コトリに咳を見つかってしまった。 それはコトリが風邪から治って数週間の後のことで、コトリは既に完治している。この病に似た症状を未だ持ち続けているのは己のみだ。 そしてそれを教えるといつも決まって怒られる。心配かけたからだろうが、この程度心配する程度の物でもないというのに。 基本的に咳と熱があるだけなのだが、それでも大事を取って熱が引くまでベッドで寝かされてコトリに介護されることになった。 「どうして由弥は何も言わなかったの?」 それはこの熱が風邪などではないと分かっていたからだ。 「でもどうして、コトリに何も言わなかったの?」 言っても仕方がないことだからだ。 「…本当に?」 確かめるように尋ねるコトリに頷いた。 「コトリ、由弥のお願いなら何でも聞くよ?」 …だから、それが嫌なのだ。 確かにコトリは己の願いならば何だって答えるだろう。何だって叶えてくれるだろう。だがそれに支払われる代償を知っているのだ。 「…コトリは、由弥のためなら何でもするよ?」 それを己が何よりも嫌だと思うことを、どうして子どもは分からないのか。それこそ分からなかった。 そしてコトリの献身的な介護が続いたある日、吐血した。 この調子から行けば今晩が山場だろうか。 こうなることは予想していた。コトリが己の元にやってきたときからこの病が発病することは分かっていたし、コトリが成長しきった今だからこそ死の予兆がやってくることが分かっていた。 元々、己は典型的な遺伝病保持者だ。 そしてその遺伝病はそう遠くはない未来に死をもたらす病でもある。 己の一族は全員この遺伝子を保持しており、見事なまでに全員が短命だ。この遺伝子は優性遺伝子らしく、どれだけ他の一族と交配しても消えることはなかった。 では既に成人である己も死するが道理。だからこそ、街に住まなかった要因の一つになり得た。 だがもう一つはもっと別のところにある。 「由弥? …ッ!」 そのもう一つが、この子どもだ。 「由弥、血、血…! どうしよう……!」 慌てるな、と手で制すればコトリはそれだけで意識を正常にまで回復させた。 「どうしたの、どうしたの由弥。病気じゃないって言ったよね…!?」 そう、これは病ではない病。 『コトリ』が今まで防いでいてくれていた病だ。 口の中に溜まっていた血を床に吐き出してコトリを見た。 この子どもと初めて会ったのはいつになるのだろう。それは由弥にとっては記憶の彼方にある。 子どもは以前、由弥のためならば何でもすると言った。ならば、と問う。 死ねと言われたら死ぬのか。 そう言えば、コトリは笑うのだ。 「うん、由弥のためなら死ねるよ」 明るく、穏やかに。 まるで心からそれを望んでいるかのように。 だから子どもは嫌いなのだ。いつもいつもそう言って、勝手にいなくなってしまうのだから。 「由弥はコトリが死ぬのは嫌なの?」 コトリは何が嬉しいのか微笑みながら問う。 当たり前のことを聞くのだ。そんなこと聞かなくても分かっているだろうに。だがそれでも頷いた。この子どもが思いとどまるかもしれないからだ。 「そっか…ありがとう、由弥」 子どもはもう一度笑った。 これほど嬉しいことはないと、もう一度笑った。 「でもね、由弥。コトリは行くよ」 そして今回もまた止めることは出来ないのだ。 「だってコトリはね、由弥のことが大好きだから」 そして己の言葉が再び引き金を引いてしまったのだ。 もう死んで欲しくはないのに、と呟いた。コトリはまた嬉しそうに笑った。 由弥は知っていた。コトリがこれから何をするのか。 コトリも知っているだろう。コトリがこれから何をすればいいのか。 だからこそ、コトリは静かに笑んで戸口に立った。 「それじゃあ、おやすみ由弥。『またね』」 「…ああ、『また』」 お互いに、これが最後だと言うことは分かっていた。 これが『この』コトリを見た最後の時だった。 次の日、目が覚めたらコトリはいなくなり、この体は嘘のように回復していた。 それが『コトリ』の仕業であると言うことは分かり切っていた。 「あの子はまた僕のところに来なかったみたいだね」 「…そうだな」 ベッドから上半身だけを起き上がらせた状態で扉の方向を見れば、そこに金の髪の男が立っていた。 古い、知り合いだ。特別警戒するような人間でもない。そもそもそれ以前の問題で、この体では警戒する物もない。 「あの子は貴方を生かした」 「残念なことにな」 それは男にとってなのだろうか、それとも自分にとってなのだろうか。 勿論両方だろう。 男は自分の答えを聞いて皮肉そうに笑う。 「…殺したいよ、貴方を」 「奇遇だな、俺もだ」 早くこの生を終わらせたくて仕方がないのだ。閉じ続けた円環から抜け出たくて仕方がないというのに、円環を抜け出すたった一つの方法を持った人間はそこから抜け出すなと言っているのだ。 「…今度会ったらそちらに任せる。次に期待しろ」 「その時まで僕が生きているとでも思っているの?」 「安心しろ、老いは確実に進行している。コトリと出会う周期は確実に短くなっていっているから、それまでの期間はそう長くないだろう。それまでどうにかして生きながらえろ。それがお前の役目だ」 男がひゅと息を呑んだ。 己の外見年齢は20代前半。だが己が生きた時間は外見とは比例しない。それは男も知っていることだろう。 「今更驚くな」 「驚いてなんかない。いや、驚いたか。再確認されると流石に驚く。 …了解したよ、そっちこそその時まで生きながらえてよね。僕のために」 「……あの子どもが再び生まれない限り、俺は死ぬことはできない」 どれだけ望もうとも己は死ぬことすらできないのだ。あの子どもが生まれない限りは。 殺してくれ、と何度頼もうかと思ったことか。だが己は子どもにその願いを託すことはできないのだ。 「…名前は? 今度のあの子の名前」 「任せる。拾ったらすぐにそちらに預けるから、名前もそちらでつけろ。その方が懐く」 初めて会ったときがそうだったから。 名前を与えて、世話をしてやって、一緒に過ごして。 …そして、このザマだ。 「灯夜」 男の名を呼ぶ。男は眉を顰めてこちらを見た。 「永遠を生きようなど思うな。…二の舞には、なるなよ」 それがこの身から未来を生きる者に言えるたった一つの言葉。 「…りょーかい、お祖父様。 頑張ってみるよ、僕はね。貴方のようにはならないように」 「…ああ、そうしろ」 きっと今度こそそれを為すことができるだろう。今度こそ子どもはこの男のために力を使い、今度こそ自分は死ぬことができる。 ようやくこの願いが届く日が来る。 今度こそ――――今度こそ。 だがその日まで生き延びねばならないのだ。 「由弥」 男が名前を呼んだ。改めて視界に男を入れる。 男は苦々しげな表情で己を見ていた。 「…何でもない」 「そうか」 首を振った男を確認して、己は視界から男を外した。 次に子どもに会うのは果たしていつのことなのやら、それを予想することはできないだろうがきっとそう長い間ではないだろう。 ならばその間ならきっとこの精神も耐えることが出来るだろう。 いつ発狂しても可笑しくない精神、老いの進行を無理矢理止めてガタがきている体。 口元に緩やかに笑みを浮かべた。 「…次こそは、」 次こそは必ず成功すると、祈るように呟いていた。 静かに瞼を下ろした。 そしてまた、次の子どもに出会うことを夢見る。
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廃棄長編「アオイトリ」ダイジェスト版。 世界を回せ。 |