鬼のひと。



 鬼は外。福は内。
 そして今夜も鬼が来る。



 カランとベルの鳴る音がする。昼間はカフェ、夜はバーに二つの姿を持っているその店は、夜のバーには似合わないベルなどが扉に取り付けられている。
 店主である小柄な少年が入り口を見た。そこには背広を着た青年がやってきている。
 暗い顔をしている。随分と落ち込んでいるようだ、店主はこの店の常連である青年に笑いかけた。

「いらっしゃいませ。どうしたんですか? そんなに暗い顔をして」

 言いつつ、こちらに招き寄せる。青年はいつもの場所であるカウンター席に座り、そのまま顔を突っ伏せた。どうやら本当に参っているようだ。だがこの時期はこの店に来る者は大抵そうなる。

「だってさー…。家に帰ったら「鬼は外、福は内」って言われるんだぜー…? そんなのキツイって、いい加減さー…」

 そう、季節はもうじき2月。もうすぐ豆まきが行われる時期だ。そういえばスーパーに行ったら、そんなBGMが流れていたのを思い出した。

「ったく、俺ら鬼も肩身が狭いよなー…」

 ぐちぐちと言いながら、青年は店主が差し出したウォッカの水割りを飲んだ。これは店主からの気持ちだ。当然金には入らない。

「俺らがどんだけ人間の肉を我慢してると思ってるんだよ。目の前に美味そうな肉が転がってるっていうのに、食えないなんて…。あー、チクショウ」

 普段は誰の前でも言い出せないような愚痴を全て吐き出すかのように青年は酒を飲みながら呟く。店主は苦笑を浮かべてそれを聞いていた。

「それはしょうがないですよ。たった一日なんですから、我慢してくださいね。そうでなければ狩られてしまうのは貴方なんですから」
「分かってるよ、マスター。ホントにやりゃしないって」
「ええ、僕も分かってますが一応。こうやって注意してないと偶に本当にやらかしちゃう人がいますんで」
「ったく、ソイツらも馬鹿だよなー…。人間の肉は食えないからこそ美味そうに見えるんだろうが」

 そして青年はまた水割りを飲み進めていく。

 こうやって酒を飲む姿はただの疲れ切った人間にしか見えない。だが彼は鬼だ。人間とは生態系の違う生物でしかない。人間を食らう、捕食者でしかない。
 だが彼には妻がいて子がいる。その二人も同じ鬼なのかと尋ねれば、答えは否だ。彼の妻と子どもはただの人間だ。そして彼も、元は人間だった。

 いや、元は人間だったのではない。彼は生物学的に分類するならば今も人間だ。
 鬼というものは世間では認知されていない。当然のことだ、誰も見たことのない怪物なんて誰も信じるはずもない。信心深い年寄りならば信じているかも知れないが、昨今の若人は誰一人として心から信じてはいないのではないのだろうか。
 そんな鬼と呼ばれる存在だが、確かに現代に実在する。誰にも知られない隠れ里でひっそりと暮らしているわけではなく、人間の中に混じって生活しているのだ。

 鬼と呼ばれる存在は途中までは人間として生まれ、人間として生きてきた。
 人間として生きてきた彼らは、何の前触れもなく突然鬼と化す。角が生え、爪が伸び、人を食う鬼となるのだ。
 それは「鬼」という存在が血脈で子孫を残すからではなく、精神で子孫を残すからだ。鬼はその精神の有り様で子孫を選び、合格と見なされた人間の精神を侵食し、完全な鬼と化す。

 だが鬼という種族と化したからといってどうなるのだ。この世界は今でも変わらずに回っているし、人一人が人間外になったところで何の問題もないのだ。
 それよりもどうやって食っていくかが問題なのだ。鬼になったからとはいえ、生きるためには金が必要だ。ならば就職しなければならない。そうしたら生きていける。
 ということで、大抵の「鬼」と呼ばれる存在はそんな風にして生きている。店主の目の前の青年もその中の一人だ。

 だが時には鬼の本能に従って、人を食う者もいる。殺人事件を起こし、人を食い、死体や骨は跡形も残さない。
 犠牲者となった人間は遺体も何も残らないので失踪者となるしかないのだが、それを裁く人間もいる。
 人を食った鬼を処分する人間。執行者達はその鬼をどこまでも徹底的に探し出し、最終的に殺す。いや死んだ方がマシと言われるような拷問を受け、実験体として扱われ、最終的に死んでしまうのだ。

 そんな人達もいるので、今のところ鬼になって人を食った者達はごく少数だ。今まで人間として生きてきたのだから、前まで同族だった人達を殺すなんて冗談ではないと考える人もかなりいるし、最終的に死んでしまうのであればそんなリスクの高いことはしないと考える者もいる。

 彼らにとって人肉はただの「好物」でしかないのだ。だから食べなくとも平気だし、食べなかったら死ぬということもない。人間として生きるということも結構簡単なのだ。

「うー…、家帰るの面倒くさいー、肉食いたいー。ねー、俺にマスターの肉食わせてよー。マスターの肉美味そうなんだよー」

 再び机に突っ伏して愚痴を呟く青年の肩を叩いて、店主はもう一杯酒を注いだ。

「ハイハイ、それやったら殺されちゃいますからやめといてくださいね。
 その代わり今日は半額にでもしときますから、遠慮なしにがんがん飲んじゃってくださいよ。豆まきなんて忘れちゃって、奥さんを困らせるくらいに」
「あー、本当か! ありがとうマスター!」

 青年は店主の手を取って、差し出されたグラスを手に取った。そして一気に呷る。

「マスター! おかわり!」
「はいはい、ちょっと待っててくださいね」

 店主がウォッカを用意する。それを差し出されたグラスに注ごうとしたとき、カランとベルが鳴った。

「マスター…ちょっと慰めてよー」

 新しいお客さんの到着だ。勿論彼女も鬼である。店主は暖かく迎えた。



「いらっしゃいませ、どうしましたか?」