殺しても死ななさそうなあの中国系の老人が亡くなった。
 いつだってあの老人は自分たちの先達で、いつだって僕らにアドバイスをくれて。
 本当に、死ななさそうな根性を持った人間だった。
 そのブックマンが死んだ。
 静かな亡くなり方だった。
 みんなに看取られて、とても静かで、とても幸福だと思った。
 そのブックマンが亡くなって数ヶ月。

 ブックマンが亡くなってから数ヶ月。
 『ラビ』は『ブックマン』になった。

 僕は、ラビの名前を呼べないでいる。


 正確には、『ラビ』が『ブックマン』になったのはブックマンが亡くなってすぐだ。
 彼はブックマン(はっきり言って紛らわしいが、彼の本名は誰も知らないのでこう言っている。同じ理由でラビの本名も誰も知らない)が亡くなって、多少の悲しむ時間を置いた後に自分は『ブックマン』だと名乗り上げた。
 それから自分はブックマンを悼む暇もなく、今度は次の『ラビ』を探さなければとか言って全国の放浪を始めてしまったのだ。
 それは仕方がないのかもしれない。元々『ブックマン』は世界の物語を書き取る者で、『ラビ』は『ブックマンの後継者』に与えられる名前だ。『ブックマン』が亡くなったら『ラビ』から『ブックマン』に名前を変えるのは当然のことだし、先代の『ブックマン』は長生きだったから僕らは知らないだけなのかもしれないけど、『ブックマン』が短い時間で亡くなってしまうこともある。その為に『ラビ』は必要だ。
 だけど、僕は未だラビの名前を呼べないでいるのだ。
 呼ぶのなら、きっと『ブックマン』という名前だろう。『ラビ』は今彼が全国を放浪して探している後継者の名だ。普通の人間とは違う、複雑な脳の持ち主。特殊能力者。全国を放浪しなければ見つからない、『ブックマンの後継者』。
 けれど、僕はその名前を呼べないでいる。
 理由なんて分からない。僕はそれほど感傷的でもないし、どちらかといえば現実的だ。それはクロス師匠から叩き込まれた現実だし、そうでなければ今まで生きてくることは出来なかったというのが正しい。
 だけど、呼べないのだ。僕は、ラビを何と呼べばいいのか分からない。
 その事実が僕の中に深々と雪のように降り積もって、僕は身動きが取れなくなって何も出来なくなるのだ。
 ラビは僕のことなど知りはしないだろう。彼は次の『ラビ』を探しに行って、それからこの黒の教団には戻ってきていない。一応、途中に出会ったアクマを倒しているとかいう連絡はやって来ているようで、それでようやく彼が生きているということが分かる程度だ。
 そのことに、僕は正直ほっとしている。このままだと何だか慌てふためいて逃げだしてしまいそうだ。せめて、もう少し落ち着いてからじゃないと。
 そう決めたのが、数日前。
 だというのに。
「あ、アレンー。久しぶりさー」
 向こうからやってくる、あの赤い髪の眼帯男は一体何なのか。
「おー、久しぶりだなラ…じゃなくって、ブックマン」
 後ろからリーバーさんの声。ラビに向かって手を挙げて向かっていっている。ラビも気楽に久々の挨拶を返している。
「戻ってきたのか? 『ラビ』は見つかったのか?」
「それがまだ。今回は近くに寄ったから戻ってきただけさ。ま、そんな簡単に見つかるモンじゃないって分かってたし、気長に行くさー」
 交わされる世間話。ラビが戻ってきたのを風の噂で聞いて、徐々に人が集まっていく。あぁ、やっぱりラビは人気者だったのか。こんな所で彼の人気の高さを知る。僕はここで立ち止まったまま、あの人の輪の中には入れない。

 だって、誰も。

 誰も彼を『ラビ』と呼ばないのだ。どんなに人が集まろうとも、どれほど声を掛けられようとも、誰も彼を『ラビ』と呼ばないのだ。それはそうだ。今の彼は『ブックマン』で。彼自身が『ブックマン』を名乗って。
 だけども僕は、彼をどう読んでいいのか分からないのだ。

「アレーン、どうしたさー? 調子悪いかー? 調子悪いなら部屋戻ろうなー」

 いつの間にか人の潮が引いていて、回りにはラビ以外誰もいなくなっている。ぼんやりしていた自分に少し驚いて、目の前にラビの顔があったことに静かに驚いて。
 ラビは僕の額に手をやって、僕に熱があるかどうかを調べている。でも安心してください、ラビ。僕に熱はありません。口には出さないけど。

 僕は、彼をどう呼んでいいのか分からない。僕以外のみんなは、もう彼のことをブックマンと呼んでいる。
 僕はそれを嫌だと思った。僕は、まだブックマンと呼びたくない。

 …ラビ。
 心の中では、彼のことをずっとそう呼んでいる自分に気付いた。
 今まで彼をどう呼んでいいか分からないと思っていたのに、彼を目の前にすればもう名前なんて口について出ているのだ。

 そうだ。今更気付いた。
 誰も彼の名前を呼ばなくなって、僕は寂しい。
 僕は、意外にもラビが『ラビ』の名前を冠していることを気に入っていたのだ。

「熱はないみたいだけど、大事をとって休もうな。お前ちょっと働き過ぎだからなぁ、前見たときより痩せてるぞー?」
 ラビが僕の手を取る。僕はこれから自分の部屋に連れて行かれるのだろう。だけどその前に言いたいことがある。
「ラビ」
 昔の名前で。今はもう誰も呼ばない名前で。今は僕一人が、たった一人だけが呼ぶ名前で。
 彼の名前を呼ぶ。
 ラビはほんの少し困った顔で、聞き分けのない子どもを見るような目で僕を見た。
「こーら、アレン。俺はもうラビじゃなくって」
「分かってます、ブックマンなんでしょう。そんなこと分かってます。分かっていて、言ってるんです」
 ラビの声を無理矢理遮る。思わず口をついて出た何気ない言葉なのではない。昔の癖でもないのだ。僕は敢えてこの名前で呼ぶのだ。
「僕はしばらく貴方を『ラビ』と呼びます」
「…へ? 何で」
「何ででもです。とにかく、僕は貴方が新しい『ラビ』を見つけるまでのしばらくの間、貴方を『ラビ』と呼びます」
 それがいつまで続くか、など知らない。だけど、それは僕が納得した日なのだろう。
 今のラビが『ブックマン』であるということを納得した日。いつまで経っても納得しなくとも、彼が次の『ラビ』を見つけた時には彼を『ブックマン』と呼ぶ覚悟を決めなければならないけど。
 その為の準備期間なのだ。その為に必要な期間なのだ。他の誰も必要なかったけれど、僕には必要な期間。こればかりは、ラビに何と言われようとも止めることは出来ない。
 ラビは突然そんな要求を出した僕をじっと見て、だけど何も言わずに頷いた。
「うん、アレンがそうしたいんなら別に俺は何にも言わないさ。いいよ、ラビって呼んでも」
 みんなは驚くと思うけど。そう付け加えて、ラビは笑った。
 はい、僕も驚くと思います。僕はそう返した。

 きっと、僕のこの感情は若気の至りで。子ども特有の物で。
 いつか、僕もラビをブックマンと呼ぶ日が来るけれど。
 それでも、今はこの名前で呼びたい。
 ラビ。
 もうちょっと、あとしばらく。
 この名前で。


 君の名前を呼ぼう。


【 新たなキミへと捧ぐ 】
僕からの懐古と郷愁を。