ニューイヤーパーティー
ギシギシと体が軋む。 筋肉を限界まで振り絞る。体中の力をすべて一点に集中させる。ギシギシとギシギシと。ギリギリとギリギリと。体中が軋んだ音をさせる。体中の筋肉が悲鳴を上げる。 一点に集中させる。腕の力と足の力。すべてを垂直に突き立てることにのみ、今はそれだけにのみ力を注ぐ。それにどれだけの労力を費やしているのかなど考えはしない。額を伝い頬を伝い顎を伝い、床に冷たい汗が散った。 左腕に過負荷がかかる。中途半端に傾いた椅子を倒れさせないように、左腕に全体重を掛けて逆立ちをする。普通の人間にはあまりの過負荷に倒れてしまうようなこの作業は、幼い頃から修行として行っているアレンには慣れたものだ。無論今もそうだ。これは日々の日課の一つで、アレンはこれを当たり前のようにこなしている。 ギリギリ、ギリギリ。ギシギシ、ギシギシ。 だが普段からやっているとはいえ、筋肉の軋む音は昔から変わらない。本来ならば人間では不可能なほどの過負荷がかかるような運動だ。この運動をする時はこれが嫌だなと微かに気を散らせてアレンはぼんやりと思う。 するとバタバタと廊下を走る音が聞こえた。誰かが走っている。誰が走っているのだろうか。それでも修行を止めることをしないアレンは逆立ちの状態のまま周囲の状況を把握する。バタバタと走る、一人分の足音だ。大きさや歩幅からいって、どうやら男性。しかも聞き慣れた音。 足音はアレンの部屋の前で止まった。それからばたーんとアレンの部屋の扉が大きく開いた。 「ようアレーン! 今ちょっと暇かー?」 「え…ああ、ラビ。はい、暇っていえば暇ですけど、どうかしたんですか?」 部屋の中に入ってきたのはラビだった。それならば聞き慣れているのも当たり前だろう、何故かアレンはラビと一緒に任務を請け負うことが多い。いつの間にかその足音にも慣れていた。 アレンは椅子の上での逆立ちを止めて、「よっ」というかけ声と共に床に降り立った。ラビはそんなアレンを驚きもせずに明るく言い放った。 「よし、暇ならちょっと付き合え。ちょっと今死屍累々になっててなあ。オレとリナリーだけじゃ手が足りないんだよなあ」 ラビは笑顔でアレンの返事も聞かずに、アレンが上着を着たと同時にその腕を掴んでどこかに引っ張って行こうとする。何も聞かされていないアレンとしては困惑するばかりだ。ラビに引きずられながらもアレンは尋ねた。 「ちょっ、ちょっと待ってくださいよラビ! 一体なんのことですか?!」 「だいじょーぶ。行きゃ分かるって」 言いつつもアレンは変な体勢でずるずると廊下を引きずられていく。それが安心できないからこうやって聞いているんだ。アレンは心の中で叫んだ。しかもちょっと待て、ついさっきまで自分は部屋の中にいたはずだ。いつの間にかこんなところに来たんだ! そんなことを考えている間に、ラビはどんどんアレンを引きずっていく。廊下を引きずり、階段を引きずり、そして辿り着いた場所は何故か食堂だった。 「…食堂?」 「そ、食堂」 アレンにとっては馴染みのある場所だ。ラビはアレンの腕を掴んだままその中に入っていく。どうやら問題の場所はここらしい。アレンはもうこの体勢にも何も言わずに、ラビの言うとおりに中に入っていく。 ――――食堂の中は、地獄だった。 この締め切られた空間の中、様々な匂いで交響曲が奏でられている。食べ物の匂い、飲み物の匂い、飲み物の中でも特に顕著な酒の匂い。この空間の中の人数分の体臭と香水と汗と、最悪なことに酸っぱい匂いまで混じっていることから誰かが吐いたことは明白だ。 しかも何故か人が倒れて積み重なった塔もある。そしてそれに気付いているのかいないのか、大半の人間が未だ酒を飲み続けていた。 「…ラビ」 「ん? 何さ」 ラビに手を離してもらい、自由になった体をようやく正面に向かせてアレンはぽつりと呟いた。 「ていうか何ですか、これ」 アレンがこの状況を指さす。それは正しく地獄だった。多数の人間がそれと知らずに作り上げた概念的な地獄。此の世の果て。最終的に人が行き着く場所。 「あー、これな。その前にアレン、今日は何月何日がご存知?」 「今日? 12月31日ですけど…って、あ」 「はいご名答。今日は12月31日。この時期はほとんど黒の教団全員で、新年へと移行するためのニューイヤーパーティーが開かれてるんだよ。お前は新人だから知らないだろうけどさ」 「…はい、知りませんでした」 唖然としたようにアレンは眼前の乱痴気騒ぎを眺めながら言った。というか普段から多い多いとは思っていたが、こんなにも人が多いのか黒の教団。いやまあこの中でもエクソシストっていったら数人しかいないんだろうけど。 「で、助けてほしいってどういうことなんですか? ラビ」 アレンは眼前の光景から隣のラビへと視線を向けた。ラビは面白可笑しそうに乱痴気騒ぎを眺めている。それから自棄になったかのような表情をした。 「いやなあ、オレもリナリーもな。このパーティーに参加したのって大分後半の方だったんさ。オレもリナリーもついさっきようやく任務が終わって帰ってきたばっかりでなあ。で、そんな状況だとなー、やっぱり多いんだって。そこの人の山みたいな奴ら。酔い潰れてるの。そういうの見たら、まあ助けたくなるだろー? そんなこんなで看病し始めたオレとリナリーなんだけど、最初は俺らも頑張ってたんだよ。でも幾ら看病しても酔い潰れる人間なんて後から後から湧いて出てくるんだよ。この教団も人数多いし。 で、回りを見たら看病に忙しそうにしてるのはオレ達だけだし。何かいつの間にか馬鹿馬鹿しくなってきてなー。ちょっと逃げちまおうかって算段してたんだよ」 「それで、どこで僕が出てくるんです?」 今の会話の中にはアレンの名前は全く出てこなかった。なのに何故アレンが呼ばれることになったのだろうか。アレンはそれをラビに問う。ラビは悪戯げに笑った。 「ん? そういう算段を話してたときにな、リナリーが『ちょっと面子が足りないわね』って言ったんさ。それでこの場にアレンがいなかったし、ついでにアレンも拉致してきちまえーって。 で、オレが案内してきたの。分かった?」 確かに分かった。とても分かりやすかった。だがリナリー、面子が足りないとは一体なんだ。 「…ラビ、面子って?」 アレンがおそるおそる尋ねる。ラビはあっけらかんと言い放った。 「んー、これからオレとリナリーとアレンとユウの4人で酒盛りしようかと思ってさー。だから、お誘い。ユウもそろそろ帰ってくる頃だし、アイツもこの日はとりあえずこっちに寄るからさ。ちょっと待ち伏せ」 そう言っている真っ最中にも、ラビは近くにあったテーブルから酒類を物色していく。あ、あれは確かウォッカだ。向こうはテキーラ。酒に弱いアレンでも分かる。どうやらラビは視界に納めた酒類は手当たり次第物色している様だ。 「その酒盛りの中に僕は面子として入ってるんですよね?」 「あー、モチ。つか行かないとリナリーに殺されるんじゃないのか?」 確かに、その可能性はないとは言い切れなかった。 だとすればこのままだとラビは酒しか持っていかないことになる。それは困る。非常に困る。酒に弱いアレンが酒しかないとなると他の飲み物がないではないか。それにここにある食べ物もまだ何も食べていない。 アレンはラビが物色している隣で、テーブルに置かれている食事の物色を始めた。とりあえず料理を盛ってあった大皿をそのまま物色する。全員乱痴気騒ぎをしているので誰も気にも留めないようだ。 「あの、ラビはお酒ばっかり持ってるようですけど、お酒以外の飲み物ってあるんですか? 僕はお酒は苦手なんですけど」 「あー、そういや前にそんなこと言ってたなあ。確かリナリーが持ってたから、心配しなくても大丈夫だと思うさ」 「そうですか、なら僕は安心して料理を取ることに専念します」 言いつつ、今度は小皿に大量の料理をよそっているアレン。ラビはアレンの方を見ない。酒瓶の種類に気を取られているようだ。 ふとアレンは小皿を器用に腕に乗せながらラビに尋ねた。 「そういえばラビ、神田は今日は任務ですか?」 「そ、確か今日中に帰ってくるって言ってたからちょっと張り込み。かなり近い場所にいるからすぐ戻ってくると思うんだけどな…――――」 「…相変わらずスゲェな、ここは」 噂をすれば何とやら、アレンとラビの二人の後ろの方にある入り口から神田のお出ましだ。 「あ、神田」 「あー、ユウ! 待ってたさー!」 二者二様の反応を見せる中、ラビはぶんぶんと酒瓶を持っていない方の手を大きく振った。神田はそれに気付いてこちらに向かってくる。 が、その前にアレンに気付いて眉をひそめた。 「どうも、お疲れ様です神田」 「…何でテメェがいるんだよ、モヤシ」 「ハイハイ、そんなことはどうでもいいからコレ持って上行くさ上ー!」 一触即発の険悪な雰囲気になりそうな中、ラビが神田に大量の酒瓶を渡した。神田は突然渡されたそれに驚きながらもきちんと受け取る。 「……全部酒じゃねえか、これ」 「はい、どうも酒盛りするみたいですよ、これから。リナリーの提案です」 ラビに後押しされながらアレンは器用に皿を全部持って移動する。神田もラビも同様だ。 「…あー、リナリーか」 「はい、だから分かってますよね? 神田」 「…分かってる」 リナリーに逆らったら後がない。それを分かっているからこそ、二人の間には言葉はない。リナリーに怒られて殺されるよりかはマシだと思うのだ。 「ハイとうちゃーく!」 後ろから響いたラビの声。外への扉を開けた。 「もう、遅いわよ! 三人とも!」 リナリーはベランダの見晴らしのいい場所に足を投げ出して座っていた。その様子は少し怒っているようだった。 「ゴメンな、リナリー!」 「すいません、リナリー!」 「…悪かった」 三者三様で謝っていく。それから持っていた酒瓶と料理を床に置く。 「もうちょっとで0時じゃない! 新年になるまでには頑張って戻ってきてって神田には先に言ってたのに!」 「ちゃんと戻ってきただろうが!」 神田とリナリーはそんな風に言い合っている。ラビはアレンの隣で酒瓶の蓋を開けて一つずつグラスに注いでいる。勿論アレンの分も含めて4つだ。 「あの、ラビ。僕、酒は…」 「分かってるさ。でもこういうのは酒じゃないと格好つかないだろー?」 「え?」 そろそろ0時だ。アレン以外の全員が示し合わせたかのように、ラビが注いだグラスを手に取った。アレンはラビにグラスを握られて、一応持っているという感じだ。 もうすぐ新年になる。 静寂が辺りを包み込む。 3、 2、 1、 …0。 「ハッピーニューイヤー!」 全員が全員。誰が言うともなく、全員が示し合わせたかのようにそう言った。 グラスが天高く舞う。雫が弾ける。ああ、ラビが言っていたのはこのことか。 「な? 酒じゃないと格好つかないだろ?」 天高く掲げたグラスを見上げて、ラビが言う。 「…はい、そうですね」 アレンは小さく頷いた。 そうして思うのだ。 来年も再来年も。 こうして一緒にいられればいいと思った。 |