おやすみおやすみだいすきなひと
ふと、瞼を上げる。真っ先に飛び込んできたのは薄闇の世界だった。 ――――ここは、どこだろう。 辺りには生活に必要な様々な家具。自分が寝ているのはベッド。チェストの上には花まで飾られていた。 ここはどこだろう。セーウは心からそう思った。二界か、四界か、それとも五界か。 ベッドから起き上がり、未だ霧が掛かった頭でセーウは思考する。二界ではない、己の生まれ故郷である二界のあの宮殿にはこんな当たり前の家具はない。人の気配はしない。花など飾られたこともない。それに何よりも、あの宮殿にいる自分の世話をしていた機械人形がいない。では四界か。四界でもないだろう。むしろ四界にはほとんど行ったことがない。 とすれば、最終的に残った選択肢は五界だ。確かにそうかもしれない。五界にはこんな家具もあるだろうし、花も当たり前のように咲いている。だが自分がこの全てを集めてきたかと言われれば、確実に否と言えるだろう。 そういえば、背中を流れるあの重い髪がない。普段から鬱陶しいと思っていたが、髪を切るのも面倒で放置していた。その髪がない。今は肩口までしかない。一体どうしたことだろうか。どこで切ったのか、多分自分で切ったのだろうがそれすらもセーウには思い出せない。 記憶の混濁が見られる。まるで昔の記憶を探しているようだ。まるで古い記憶を、あの二界での記憶を探しているかのような。恐らくこれは自分が寝惚けているからだ。そうでなければ考えつかないだろう。セーウは奇妙な思考を頭の中に走らせる。 セーウは無意識の内に月状水銀を探した。あれは武器の形をした生物だ。持ち主の呼びかけに反応して姿を現す。セーウの武器。だが幾ら呼びかけても反応がない。まるで既に月状水銀 「…あ」 それで全てが繋がった。月状水銀 ここは五界だ。あの滅びの時を回避した後、セーウはカグヤと共に五界で暮らしていた。だが賢者達が移動させたセーウの城ではなく、きちんとした一軒家にだ。あの城では普通に暮らすには多少不便であるし、それに普通の家で暮らしたいと言ったカグヤの要望を反映させた結果だ。 ふとセーウは視線を辺りに彷徨わせた。…カグヤがいない。これが昼であるのならばセーウも違和感を感じなかっただろう。だが今は薄闇の時間。光の加減からいって、夜明け前といったところだろう。それなのにセーウの隣にカグヤがいない。カグヤがいない。 攫われたか。真っ先に思い付いた可能性がそれだった。トイレに行っているとか、水を飲みに行っているなどの可能性などよりも、セーウの中で最も確率が高いのがそれだった。 カグヤは元々選びの姫だ。選びの姫として全界通信をしたせいか、あの顔を覚えている人間は多い。美しい、黒い髪と青い瞳をした、甘い顔立ちの少女。確かに滅びの時が終わった今ではカグヤには何の価値もない。だがそれでも今も続く滅びの時に関する宗教団体にカグヤを売ればいい金にはなるだろう。 きちんと髪の色を変えるという対策はしていた。だから今はカグヤの髪はセーウと同じ赤毛だ。だが売る方にとっては似ているという、それだけで別に構わないのだ。また髪を黒く染めれば選びの姫として高く買い取ってもらえる。 そうでなくとも現在のセーウの仕事はそれなりに恨みを買う代物だ。未だその手の輩にはお目に掛かったことはないが、いつかはやってくるだろうとは思っていた。 セーウはベッドから立ち上がる。身に纏っている服は黒衣。後はもう二度と着ることもないと思っていた、あの時のマントを身に纏うだけだ。既に月状水銀 ――――今宵、しばらくの間。セーウは狂皇子に戻ることにする。 マントを探す。それは確かクローゼットの中にあるはずだ。あの時に身に纏っていた服。平和になり、カグヤと共に暮らすことを決めた今では身に纏うこともないと思ってクローゼットの中に仕舞っていた。セーウがそちらに歩こうとしたところで、 「あれ? どうしたんですか? セーウさん」 そんな甘い声が聞こえた。 振り返る。扉の方には赤い髪の少女がいた。この家の、セーウが唯一触れることを許している人間。 「…お前はどうした」 逆に問い返す。寝間着のままのカグヤはセーウに近付いてきて、そのことに不満を抱くこともなく答えた。 「え、私ですか? 私はちょっと水を飲みに行ってたの。セーウさんはどうしたんですか?」 立ち尽くしているセーウの手にカグヤが触れる。暖かい手。セーウのそれとは違う、柔らかな手。 「ベッドに戻りましょう? 手、冷え切ってますよ」 頷いた。カグヤがセーウの手を引いてベッドの中に一緒に入る。 柔らかな体。青い瞳。甘い声。細いカグヤの身体を抱きしめた。 「せ、セーウさん? どうしたんですか?」 慌てた様子が分かった。だがそんなことは構いもしないとばかりにセーウはカグヤを抱きしめる力を強めた。 初めは慌てていたカグヤだが、途中からは慣れてきたように抵抗を止めた。それから一つ息を吐いたのがセーウにも分かった。 「――――おやすみなさい、セーウさん」 優しい甘い声。それが、セーウを眠りの淵に導いた。 |