アクアリウムのセイレーン
そして数十分後。オレはその時既に休憩を終えており、ぐるっぱ〜達のことも忘れて、指を機械油で真っ黒にしていた頃だった。 カツンとブーツの音が響く。 お客様だろうか、オレは車から顔を上げてそちらを見た。 「ヒューはいるだろうか」 玲瓏な声。銀の髪と赤い瞳が印象的な白皙の青年。 オレのお得意様。人気絶頂のヴィジュアルバンドDeuilのヴォーカル兼リーダー、ユーリさんだ。 本来なら、オレがユーリさんの城に行って修理するのだが、緊急の時などはユーリさんやアッシュ、スマイルさんがこちらに持ってくることもしばしばだ。 オレはスパナなどの工具を仕舞って、とりあえずは機械油でまみれた手のまま、お客様であるユーリさんに駆け寄った。 「今日はどうしたんですか?」 普段なら、ここで壊れたオルゴールなどが差し出されるのだが、今日は何も出されない。俺の手が機械油にまみれているからだろうか。 「今日は別件だ。時間は空いているか?」 「別件…ですか? はい、一応空いていますが」 親方に無言で視線を合わせれば、親方も頷いてくれた。つまりは了承ということだ。 とりあえずは落ち着いて話すことの出来る場所に移動しようと思って辺りを見回した。すると、ユーリさんの足下に駆けだしていったはずのぐるっぱ〜がいた。オレは油で汚れないように器用にぐるっぱ〜達を抱え上げる。 「あれ? お前ら…」 何時の間に戻ってきたんだ、そう声を掛ける前にユーリさんの言葉が響いた。 「コイツらにお前の相談に乗ってくれと頼まれてな。別件とはそのことだ」 オレは一瞬目を見開いて、それから笑った。ぐるっぱ〜達はそこか誇らしげな顔をしていた。 「ありがとな、後でみかんやるよ」 今は機械油で手が汚れているから出来ないが、手を洗ったら頭も撫でてやろうと思った。 「あ、きちんとお前らの分もあるから心配するなよ」 後ろでオレの整備していた車に悪戯しようとしていたトビーズに声を掛ける。そう言ってやると悪戯など忘れたかのような様子で喜んでいた。現金な奴らだ。 「それで、どこで話をするつもりだ?」 オレは整備場の二階の応接室に案内した。 階段を上り、部屋に入って油まみれの手を業務用の洗剤で洗う。こんなものでもないと、指先の油汚れが落ちないのだ、それから座っているユーリさんにお茶を出した。 「すいません、何だかあいつらの悪戯に巻き込んだような形になってしまって」 「悪戯か? そうではないだろう。私はお前が真剣に悩んでいるから来てくれと言われたから来ただけだ。お前はうちの優秀な整備士だからな、何か心配事があるのなら取り払ってやることも必要だろう」 素直に驚いた。いつの間にかオレはこの人にこんなにも受け入れられていたのだろうか。そういえば、アッシュから聞いたことがある。あの城にはユーリさんのお気に入りしか入ることができないのだとということを。 「ありがとうございます」 「気にするな。だが早めに言ってくれ、明日はテレビ出演や雑誌の撮影など予定が立て込んでいるのでな」 「…いいんですか?」 「だから気にするなと言っただろう。そう思うのなら、早く私に相談しろ」 少し苛立った声で言い、傲慢不遜を絵に描いたような態度でユーリさんはソファに座っている。この人の気遣いがとても嬉しかった。 オレは彼女のことを語りだした。初めて会った時のことから、つい先日のことまで全て。ユーリさんは時折何故か眉をひそめながら聞いてくれた。話し終えたとき、ユーリさんは少し考え込むような素振りを見せて、いつの間にか下りていた目蓋を上げた。 「お前の言う彼女だが、それは『水妖』だな」 「水妖?」 「ああ、ニンフの一種のネレイデスやセイレーンと言えば分かるか?」 「ええ、アイルランドの生まれですからそういうことに関しては」 セイレーン。ネレイデス。 ギリシャ神話に登場する想像上の生き物だ。暇だからといって読んだ神話では、精霊だがどちらもいい印象はなかった。 「お前の言う彼女はセイレーンの一種だ」 セイレーン。 美しい歌声で船乗りを遭難、難破させる美しい人魚や翼の生えた姿をした女性たち。普段は岩礁にいると言われている。 そういえば、彼女も最初会った時は岩礁にいた。 「じゃあ、水の中でも歌えるのは」 「セイレーンの特殊能力だ。基本的にセイレーンは水中で声を出すことはないが、それを可能とする能力自体は生まれつき持っているのでな」 ユーリさんは訥々と語る。 「だが、今は海ではなくアクアリウムにいるのだろう? ならば放置されていても大丈夫だろう。本来ならば、人を惑わすセイレーンという生き物は人間に殺される運命なのだがな」 今ではセイレーンの数も限りなく減っていると、ユーリさんは呟いた。 その言葉を聞いて、オレはふと自分の考えていたことを思い出した。 女の子はオレの忠告を聞いて、海の底で仲間と一緒に平和に暮らしていく。その予定。 もしも、彼女が仲間を捜して岩礁にいたのだとしたら。 もしも、海の底に彼女の仲間は誰もいないのだとしたら。 そして、オレと最初に会った時の表情と、再会した時の表情。 あれは、もしかして二、三ヶ月ぶりに人に会ったからではなく、オレが初めて会った【知っている人】だったからか? 「どうした、心当たりでもあったのか」 「…はい、でもいいんです」 でも、だからどうしたのだというのだろう。彼女がセイレーン? そんなことは何一つ関係がない。彼女がオレと一緒にいて喜んでくれているという事実には何の関係もないことだ。 だが、 だが、それは、 たった一人、たった一人だけで海の中に暮らしている、孤独な女の子。 仲間を捜して、孤独が淋しいと泣き続けていた彼女。 きっと、望んでいたことは仲間と一緒にいることだけ。 それは、なんて悲しい、当たり前の夢。 幸いなことは、オレが彼女にそのことを言っていなかった、その一点のみ。 「それでユーリさん、ここからが本題なんですが」 オレは気持ちを切り替えてユーリさんに尋ねた。 「何だ」 「彼女の願いを聞き出すにはどうすればいいんでしょうか」 「そんなものは本人に直接聞け」 すっぱりと一刀両断される。オレは崩れそうな肩を持ち直して、ユーリさんに言った。 「彼女は喋れないんです。ですから、彼女と会話できる方法が知りたいんですが」 ユーリさんは少し驚いたようだった。 「喋れない? セイレーンがか? …あぁ、成る程。セイレーンの本能として歌うこと―――、声を出す方法は知っていても、人間と会話する方法を知らないのか」 ユーリさんは一人で納得してしまった。ユーリさんの言葉をヒントにオレが眉根を寄せて考え込んでいれば、ユーリさんは分かりやすく答えてくれた。 「ヒュー、人間と魚は会話が出来るか?」 「いいえ、出来ません」 「つまりはそういうことだ」 「え?」 俺は思わず聞き返していた。ユーリさんの言葉はあまりにも端的で少し分かりにくい。多分、ユーリさんの言っていること自体が正確な答えなのだろうけど。 「セイレーンは人の姿をしているが、実体は魚に近い。種族が違うのだから、会話の方法も違う。人間が他の動物の言葉を聞き取れるか? 聞き取れないだろう。魚の言葉が理解できるか? できないだろう。つまりはそういうことだ。 人間は声の様々な言葉で語ることが出来るように、魚は思念で会話する生き物だ。理解できるはずがない」 「…でも、ユーリさんはぐるっぱ〜達の声が聞き取れるようなことを言っていましたよね。それは何故ですか?」 「私は長く生きてきたのでな、その程度の方法はいくらでも知っている」 それを教えてもらえませんか、そう言おうとしたオレを遮って、ユーリさんは言った。 「しかし何故そこまでして会話をしたいと思うのだ? お前の話を聞くからして、確かに少し不便だが会話は出来ていたはずだ。だというのに、何故今更その水妖の声が聞きたいと思う?」 それは彼女の願いが聞きたいから。そう言おうとしても、声が出ない。言葉に詰まった。ユーリさんはオレの答えがないことを見越していたかのように続けて言う。 「分かっているのだろう、それはその程度の想いではない。相手のことを見たい、知りたい、助けてあげたい。もっと知りたい。その貪欲な感情を、お前は知っているのだろう?」 胸がざらりと泡だった。鳥肌が立ったような気分だ。ユーリさんの言っていることには、心当たりがある。それはこの胸にあるものと似て非なるもので、それはもしかして――― 「ようやく気付いたのか、愚か者」 …そうか、好きだったのか。 オレは彼女が好きで、それで何でだろうとグルグル悩んで答えが出なくて、ユーリさんに気付かされて、まるで馬鹿みたいだ。彼女のことが知りたい、とはとりあえず思ったことはないけれど、楽しそうに俺と話す彼女がとても好きだった。彼女が喜んでくれるとオレも嬉しかった。 あぁ、それが恋でなくてなんだというのか。 オレは笑った。 「それで、オレが彼女と話す方法はあるんですか?」 「あることにはある」 上機嫌のままオレは尋ねた。ユーリさんは呆れた眼差しでオレを見ていたがそう答えてくれた。 「一つは、水妖が声を出せるようになるのを待つことだ。歌が歌え、言葉も知っているのならば日常的に会話を交わすことなど容易いことだろう」 確かに、それは道理だ。セイレーン自体も話をすることが可能だと神話では書いてあった。ならば、オレと一緒にいることで会話の仕方も学んでいくことが出来ると思う。オレは頷いて先を促した。 「二つ目は、どちらかのチャンネルをこじ開けることだ」 「チャンネル?」 「生物にはチャンネルというものがある。この場合は脳をテレビと仮定して、己の持つ能力をチャンネルとする。そうだな、例えば人間が持つ能力や常識などを8チャンネルとし、魚が持つ能力や常識を3チャンネル。他にも鳥や虫、狼などの様々なチャンネルがある。そして、その中で普通の人間ならば8チャンネルしか見ることが出来ないようになっているのだ。それが人間にとって一番都合のいいものだからな。異端として扱われない、人間としての生存本能だ。 確かにそれは普通ならば見ることが出来ない。だが、それは実質上見えないだけで電波は流れているのだ。そのチャンネルを強引に見ることができるのならば、その水妖と話をすることも可能だろう」 オレは目を見開いた。光が差したような気がした。 「なら、それを…」 「止めておけ、人間として生きていたいのならばな。他のチャンネルをこじ開けるということは、確実にお前を不幸にする」 喋りすぎて喉が痛いのか、ユーリさんはオレが用意した、少し冷めた紅茶を飲んだ。オレはと言うと幸福から不幸へ真っ逆様へと落ちていく気分だ。多分、オレは今真っ青になっていると思う。 「…方法は、ないんですか」 「ああ、お前にできることは何もない」 オレは歯を食いしばる。長く生きてきた、吸血鬼のユーリさんですら出来ることはないと言い切った今、オレに出来ることは本当に何もないのだろう。それが歯がゆくてたまらないのだ。 「お前ではなく、その水妖のチャンネルを開けばいい」 カチャン、丁寧にカップをソーサーに置いてユーリさんは冷静に言った。オレは口をぽかんと開けたままユーリさんを見ている。その方法は、彼女を不幸にするのではないのか? 「ユーリさん、その方法は…」 「安心しろ、お前が思っているようなことは決してない。元々水妖というものは人間と魚の二つのチャンネルを同時に持っているモノだ。おそらく、お前の言う彼女は人間のチャンネルへのアクセスの方法を知らないだけだろう。それを教えてやればどうにかなる。本来ならば、これは周りにいる仲間が教えることなのだが、今はセイレーンなどないに等しいからな。仕方がない。 あとは、これは水妖の思念を受け取る側の資質が問題となるのだが、お前はあの黄色とオレンジ色の二人の思念を受け取っていたことからその点は大丈夫だろう」 思考が停止する。 今、この人は、何と言った? 「えーと、つまり…」 目の前の人が言ったことを脳内で反芻し、自分なりに分かりやすいように噛み砕いてみる。脳は当たり前のように納得した。 「つまり、騙したっていうことですか…?!」 「ああ」 オレがユーリさんに掴みかかろうとする体を必死に押さえているというのに、当の本人はあっさりと肯定して呑気に紅茶をすすっている。オレは脱力した。やはり長く生きてきた人は違うのだなと、その当たり前のような態度に呆れるばかりだ。 「悪く思うな、必死な人間はついからかってやりたくなる性分でな」 ユーリさんはケタケタと老獪そうに笑った。オレはため息を吐く。この人がこんな人だとは思いもしなかった。 そういえば、アッシュやスマイルさんに、ユーリさんは物静かな印象があると言ったら、アッシュからは苦笑を、スマイルさんからは大爆笑を貰った。なるほど、今ならば納得だ。この性格ならば物静かとは言えない。 「それで、お前は今日その彼女の元へ行かないのか?」 「え? 行きますけど。どうかしたんですか?」 ユーリさんは強引に物事を進めていく。オレは一応普通に答えた。 「何、善は急げということだ。連れて行け」 この場合、ユーリさんが天使に見えたのか悪魔に見えたのかは定かではない。まぁ、本人が知れば「吸血鬼に決まっている」ということは間違いはないのだろうけど。 「ここです」 オレはユーリさんを連れて、彼女のいる場所、人気のないアクアリウムへとやって来た。 辺りは既に深夜だ。春になりかけているとはいえ、夜になると少し寒さが厳しい。 「…こんな場所があったのか」 「元々人には知られていない場所ですから」 オレはそんな軽口を言って、ガラスの前に立ってその分厚い壁を軽くノックした。 コンコン、無音の中に軽い音だけが響く。彼女はすぐにやってきた。彼女もオレがやってくる時間というものがわかっているのだろう。 彼女は嬉しそうな表情でやってきた。だが、心なしか表情がいつもと違って曇りがちだ。いつもならば今日は何の話をするの、とわくわくしているのに、今日は不安そうな眼差しを向けている。 眼差しの方向を見れば、オレの斜め後ろ。そう、ユーリさんの方を向いていた。彼女は怯えたようにオレの後ろへと隠れる。 「ええと、ユーリさん…」 「わかっている。この身は生粋の吸血鬼だからな、下級の者からの畏怖の視線も慣れている。気にするな」 「すいません」 何故かオレは謝って、視線をユーリさんから彼女へと戻す。 「あの人はオレの仕事のお得意様で、吸血鬼のユーリさん。前に話したことがあるだろ?」 彼女はゆっくりと頷いた。オレとユーリさんを何度も見比べて、それからおずおずとオレの後ろから出てきた。 「で、ユーリさん。彼女が言わずもがなの、」 「分かっている。水妖」 ユーリさんの視線が彼女に向かう。彼女は何が何だか分かっていなかったようだったが、私ですかとゆっくりと自分に向けて指を指した。 「そうだ、私の声は聞こえるか?」 彼女は頷いた。 「言葉の意味は?」 それも同じくと、彼女は頷く。 「この男はお前の願いをお前から直接聞きたいそうだ。私もそれを叶えてやるつもりだ。だから、お前に人間への会話の仕方を教えてやる」 ユーリさんは瞼を降ろした。一応そう言っただけで、ユーリさんは彼女の了承も取らずに事を始めてしまったようだ。目の前の彼女も同じように瞳を閉じた。だが、それは明らかに苦しげだ。オレは出会った時の彼女を思いだして振り返る。 「ユーリさんッ!」 「黙っていろ、人間のチャンネルを教えているだけだ」 「ですがっ!」 「何かを手に入れるときに痛みは付き物だということを知らんのか愚か者め」 オレの抵抗は一蹴され、ユーリさんは瞼を降ろしたまま一言も発しなくなる。彼女は時折苦しそうな表情を見せたが、オレには何も出来ないのだ。オレは舌打ちした。 きっと、いやユーリさんの言っていることは正しい。だが、正しいと分かっていながらそれでも、彼女が苦しいと思うことは嫌なのだ。オレは止めさせようとする体を押さえつけて、ユーリさんを待つ。 そして、それは数秒だったのかそれとも数分だったのか。ユーリさんは瞼を上げ、同時に彼女も瞳を開ける。 「ふむ、これで大丈夫だ。そちらは大丈夫か? 水妖」 後ろのユーリさんの声。彼女はオレに視線を合わせて、うんと頷いた。 「…私から言えることではないが、お前はもう少し我が儘になった方がいいようだ。 普段から我が儘になれ、とは言わないが、我が儘を言う場面とそうでない場面を見極めることだな」 それは今だ、そうユーリさんの瞳は告げていた。 彼女は先ほどのように瞼を降ろして、何か考え込んでいるようだった。オレは声を掛けることをしない。 瞳を開けたとき、彼女は出会った時の透明な瞳でオレを見ていた。 『…本当にいいんですか?』 「勿論」 頭に響く透き通った、柔らかな美しい声。それが彼女の声だった。オレは驚くこともなく言い返した。多分、こんな声だと想像はついていたのだ。 彼女は口を開き、そしてまた閉じた。それを何度も何度も繰り返し、躊躇いながら戸惑いながら怯えながら、そうやっておそるおそると言ったように言葉を発す。 『海に還りたい』 彼女はそう語った。 『ここは嫌い。誰も私に気付いてくれない、見てもくれない。海の中はずっと独りだったから大丈夫でしたけど、ここは大勢の人がいるから。だから、』 最後までは語らなかった。でも、言いたいことはよく分かった。 アクアリウムの中の彼女。セイレーンとして生まれた彼女は周りには誰もいない中で生まれて、孤独として育ってきて、そして人の世という大勢の中でまた孤独を味わっているのだ。 『でも、』 彼女はオレを見る。オレが何かあるのだろうか。 『でも、貴方のところなら大丈夫でした。貴方は私に気付いてくれた、見てくれた、一生懸命話しかけてくれた。海の中でも、ここでも、私はずっとひとりぼっちだったけど。私は、貴方が一緒にいてくれるだけで嬉しかったんです』 彼女は笑った。初めて見る笑顔だった。 『貴方と一緒にいたい』 花が綻ぶような、月が顔を覗かせるかのような、綺麗な笑顔だった。 「オレと一緒に暮らしたいっていうこと?」 『…はい』 彼女は顔を赤らめて頷いた。 オレは笑った。答えは決まっているからだ。 「水妖」 だが、今まで沈黙していたユーリさんの声。視線が一挙にそちらに向いた。 「選択肢としては、私の元にやってくるということもあるのだが?」 「え…?」 『え?』 ユーリさんの提案に、彼女もオレも呆けた声を上げた。勿論、彼女も信じられないように目を丸くしている。一体何を言っているのだろうか、この人は。 「ヒュー、お前はこの水妖と暮らすことに問題があることに気付いているのか?」 「……問題?」 「そう、問題だ」 そういえばと、オレは問題を思い出す。彼女は水がないと生きていくことが出来ないのだ。それは最初の出会いで確認済みだ。それには大量の水がいる。だが、生憎うちは借家であり、肩身の狭いアパート暮らしだ。とりあえず風呂はあるが、そこにずっと入れておくわけにもいかない。 それに、オレはしがない整備工だ。人間であるならば整備場に連れてくることも可能であったかもしれないが、彼女がセイレーンである限り、いつも彼女と一緒にいることは出来ない。いや、今よりももっと淋しい思いをさせることになるかもしれないのだ。それはオレが最も恐れることだ。 「私の城ならば、この男の家とは違ってお前を何一つ不自由することなく住まわせることが可能だ。部屋は余っているし、私の城にはお人好しが多いからな。お前を独りにさせることもないだろう」 私はそれでも構わない、とユーリさんは言った。 さて、どうすればいいだろう。オレは解決策を探していた。オレと彼女が一緒に暮らせる方法の中で一番有効なものはどれだろう? そう考えると、ユーリさんの言っていることは酷く真っ当で正しい。そう、それが彼女のためではないか。少なくともユーリさんのところに行けば、オレの所と違って不自由はしない。それに、アッシュやスマイルさんは、確かに彼女を独りにすることはない。オレもあの城の修理屋である限り、彼女に会うことは出来るし、 『いいえ』 オレの思考を遮るかのように、真っ直ぐな彼女の声。 彼女は首を振った。 そこに、欠片も迷いはなかった。 迷いもてらいも躊躇いも怯えも、何一つなかった。 『私はこの人がいい。この人以外なら、私は海に還ります』 真っ直ぐな眼差し。 オレが何を言っても変わらない。彼女はその意志を変えようとしないだろう。 ユーリさんの視線がオレに向いた。オレを試すような視線、いやオレの行動を促す視線。 オレは口を開いた。 「ユーリさん。その子、ウチで引き取ります」 驚いた彼女の様子。当然だといった様子のユーリさん。オレはといえば、やってしまったといった感じで一杯だ。 だが、これでいいのだと思う。胸は充足感でいっぱいで、例えようもないなにかで満たされていた。 解決策探しはまた後だ。多少彼女に不自由を強いることになるが、少しくらいは許してもらおう。 「…全く、答えは出ているのだろう。ならば、さっさと口に出せ」 何故私がこんな要らぬ世話を焼かねばならない、ユーリさんは不満そうに眉を寄せてそんなことを言っていた。 …あぁ、オレはユーリさんに気を使わせてしまったのか。オレは今そのことに気付いた。 「それで、その水妖を連れて帰るのだろう。今のお前では無理だし、乗りかかった船だ。ここで下りるのも気分が悪い。ついでに手伝ってやる」 「すいません、ありがとうございます」 「気にするな、その代わり対価は労働力で支払って貰う。落ち着いたらその水妖を連れて仕事に来い、時計が止まった」 「…わかりました」 オレは苦笑を浮かべた。この不器用な人の優しさが胸に沁みる。 ふと視線を逸らせば、彼女と視線が合った。二人して驚いた顔をしていたが、同時にガラス越しに微笑んだ。 「そういえば、名前を聞いてなかった。オレはヒュー、これからよろしく」 『…テトラ。テトラって言います。 ……よろしくお願いしますね、ヒューさん』 空を見上げた。 いつものように美しい、だけどあまり星が見えないネオンばかりの夜空。 猫の目のような、細い三日月がぽっかりと浮かんでいる。 彼女と初めて会ったときのように、空気は少し肌寒かった。 オレは笑った。 空に向かって、笑った。 神様。 どうやら、家族が一人増えたようです。 これからのことを思うと可笑しくて可笑しくて、 きっととても大変なこともあるけど、とても楽しいものになるのであろうと思って、 オレは微笑んだ。 |