崩れ落ちた塔の真ん中で
高く、高く、積み上げられた本の山。 まるでそれは遠い昔に見たバベルの塔のように高く、それでいて不確か。今にも崩れてしまいそうな程の危うさを秘めた、だがその割に地盤は堅固。それでいて、その実は虚ばかりで。 ミシェルは眉をひそめた。 「…何やってるの、オフィーリア?」 「ミシェル」 可愛らしい少女の声が、辺りに響いた。一対の紫水晶の瞳がこちらに向く。 ミシェルは何故だか本を積み木代わりにして、このバベルの塔を作り上げた張本人であるオフィーリアに思わず声をかけた。オフィーリアはいつも通りの表情の乏しい顔で、もっと本を積み上げようと宙を漂いながらミシェルに視線を向けた。 ここはミシェルの図書館。様々な知識が集まる場所。真っ当な物から真っ当ではない物までそれは様々。人から人ならざる者まで知識を求める者の集まる、ミシェルの作り出した神からの逃げ場所。 そんなわけか、ここには様々な者が集まった。真っ当な物から至極真っ当ではない物まで千差万別。本当に普通の絵本があれば、触れただけで魂まで封印されてしまう恐ろしい物まである。オフィーリアとてそれは知っている筈だ。では何故こんなことをやっているのだろう。 「ご本」 「いや、それは分かってるから。それで、その本で、君は何をしてるんだい?」 「…積み木?」 そこに疑問符が付くのは何故だろう。 おそらく彼女のことだから思いつくままに本を積み上げていったのだろう。子どものような行動だが彼女は精神が幼い。それを理解しているから、彼女のこんな奇行にも慣れたものだ。 しかし、とミシェルは本の塔を見上げた。凄まじい高さを誇る塔だ。決して低い、いやむしろ高いということができるこの図書館の天井近くまで積み上がっている。よくもまあ、ここまで積み上げたものだ。ミシェルは関心してしまう。 だが彼女は精神の幼さとは反比例して、頭は非常にいい。だからこそ、下に落とすことなくここまで高く積み上げられたのだろう。それに彼女は空を飛ぶ、宙に浮く、空間を渡る。それを考えれば、どうということはないのかもしれない。 ミシェルは関心しながらも金と青の瞳を上から下へと下ろしていく。危険がないか丹念にチェックを。それがこの図書館の創設者であり管理者であるミシェルの役目だ。オフィーリアをここに住まわすことを許したミシェルの義務だ。 …何も感じられない。どうやらこの本は高く積み上がっただけで危険な本は使われていないらしい。そろそろオフィーリアもここの本に対して耐性がついてきたか。以前酷い仕打ちを受けたことがあるから、それで懲りたようだ。 「今のところ、オフィーリアが使った本に危険な物はないみたいだけど、ここの本は危ない物もいっぱいあるから。本で遊ぶのはいいけど、危ないって思った物には絶対に触らないように。それだけは約束しよう?」 ミシェルはできる限り優しい口調で、未だ宙に浮いたままのオフィーリアに注意する。しかし、どうもオフィーリアは不満そうにミシェルを見た。オフィーリアは表情自体はそんなに動かないものの、その瞳は誰よりも何よりも雄弁だ。その瞳が不満そうにミシェルを責めている。 はて、自分は何をミスしたのだろうか。少なくとも、先ほどのやり取りにお姫様のへそを曲げるようなことはなかったはずなのだが。 「…ミシェル」 「何だい? オフィーリア」 オフィーリアの視線に不満が降り積もっていく。このままでは何れ表情に出るのも時間の問題ではないだろう。 だから、自分は何をすればいいのか。ミシェルは能力はあるが、その中に人の心を読むようなものはない。ミシェルにオフィーリアの考えていることは分からないのだ。 「僕は人間以外の生き物だけど僕にはオフィーリアの考えていることは分からない。オフィーリアも人間じゃないけど、僕の考えていることが分からないようにね。だから、言いたいことや伝えたいことがあるなら、直接僕に言って」 僕らはそこそこ万能の力は与えられたけど、相手と分かりあえる力は与えられなかったから。 神はこういう時は不公平だ。ミシェルは素直にそう思う。高い知性や能力を与えたのならば、ついでに分かりあえる能力も与えてくれ。それがなかったからこそ言葉が生まれ、嘘や虚偽が生まれ、猜疑が胸を巣くうのだ。 …そんなものに意味はないものだということは、とうの昔から知っているが。他者と分かりあえることなど、百の時を十数えても、そのまた十数えても不可能だと、知っているが。 オフィーリアが無造作に手に持っていた本を積み上げた塔へと置いて一部にさせ、ふわふわと浮いてこちらにやってくる。長い黒髪が風に揺れる。ベージュ色のドレスが膨らんで舞う。緩やかな速度でこちらにやってくる彼女を、ミシェルは両手を広げてその腕に迎え入れた。 迎え入れて、閉じ込めて。地に足を着けることはない彼女の両手を掴んで離さない。そうでなければ彼女は風に揺られてこの手からすり抜けてしまうから。 「…ミシェル」 彼女は重要なことになればなるほど言葉を発しなくなる。それは記憶を失った彼女の中に、それでも残る育ち方によるものなのだ。彼女は少し困ったように顔を伏せた。綺麗な紫水晶が黒髪に隠れる。ミシェルはオフィーリアの言葉を待った。 すると、コト、と。穏やかな静寂の中、頭上から微かな音が漏れた。普段ならば気づかないかもしれないが、何者も音を発しない今はそれが妙に大きく聞こえた。 崩れる。 直感的にそれを判断したミシェルは掴んだままのオフィーリアの手を勢いよく引っ張って、自分の腕の中に閉じ込めた。彼女の驚いた気配。だが構わない。何があっても彼女だけは守れるよう、腕の中にある小さな頭を両腕で力強く抱きしめて。 「ミシェル…?」 オフィーリアの不思議そうな声。それに、大丈夫だと音もなく笑って。 ゴン、とまず落ちてきた赤い背表紙の本の直撃を喰らった。 目の前がクラクラする。白い星のようなものまで浮かんでいるのだから、相当危ないということは間違いない。おそらくは失神寸前だ。だが腕の拘束は解かない。彼女を守る自身の腕は、きっと死んでも解かない。 あれが口火を切ったのか、次々とミシェル達に降り懸かる本達。オフィーリアの成果が現れたのか、降り注ぐそれは止むことを知らない。しかもミシェルが作った図書館の本だ。分厚い書籍しか扱っていないせいか、当たればかなり痛い。というか事実痛かった。 だけど、死ぬことはない。冷静にそう判断する。そう、高々本程度で死ぬことはないのだ。高々本程度で、人間以外の生き物であるミシェルが死ぬことはない。だからオフィーリアを庇い続けることも可能だ。だが、 だが、この腕の中の少女を、このまま衝撃に晒し続けるのは忍びない。 いくらミシェルの腕があるとはいえ、衝撃は幾らか伝わっていることだろう。 これはミシェルが命を懸けて、神々と渡り合ってまで守った、己の命より大切なもの。傷付けるなんて以ての外だ。 ならば、 白く染まる脳内の中、ただ彼女を守るという意志の元。 術式を、構成する。 「Mur, cercle バラバラと音を立てて落ちてくる本の群が、何かに遮断されているかのようにミシェルとオフィーリアの二人がいる場所で受け止められて、ずるずると絨毯に落ちていく。 今も本の雨は続いている。やっぱりバベルの塔だと、目の端で本を見てその時ようやく思った。多少本の頁が折れたりしたが、別に構いはしないだろう。後で多少修復すればいいし、勝手に自己修復する物もある。 ミシェルは腕に込めた力を緩めた。腕の中から宙に浮かび上がるオフィーリア。何だか泣きそうな顔をしている。ミシェルはオフィーリアの顔を覗き込んだ。 「どうかした?」 「…どうして?」 「何が?」 「ミシェル、どうして怒らないの?」 「怒るって…僕がオフィーリアを? それこそどうして。僕がオフィーリアを怒る理由なんて何もない」 そう言えばオフィーリアはまた泣き出しそうに顔を歪めるのだ。失敗した、ミシェルが見たいのは彼女の笑顔であって泣き顔ではないのに。 「ミシェル、痛かったのに?」 「痛かったよ。だけど、僕はそれで君を怒る気にはならない。確かにこの本の塔を作ったのはオフィーリアだけど、崩れたのはオフィーリアのせいじゃないから」 そう、オフィーリアのせいではない。作り上げたのはオフィーリア、きっかけを与えたのもオフィーリア。だけど、崩れたのは塔の自由意志によるもので、オフィーリアのせいではない。 オフィーリアはもっと居たたまれなさそうな顔をして、目を伏せた。あぁ、泣いてしまう。綺麗な紫水晶が泣いてしまう。 「…怒られるのも愛情だって、ベルが言ってた」 突然話の方向性が変わって、これにはミシェルも面食らう。だが、どうやらオフィーリアの言葉によれば。 「怒られたいから、このバベルの塔を作り上げたの?」 頷くオフィーリア。未だ本の雨は続いている。この術の外に出ればどうなるかは分からないだろう。 ミシェルの脳裏にベルという名の金の髪の少女の姿が思い出される。この人外魔境の図書館にやってくる、数少ない『普通』の人間のお客さんだ。いつの間にか常連になっていて、その『普通』さ故がオフィーリアに様々なことを教えて下さるわけだが。 ついこの間、あれほどオフィーリアに変なことを教えるなと言ったばかりだと言うのに。ミシェルは内心で嘆息する。 「…どうしてミシェルはわたしを怒らないの?」 「オフィーリアは何か僕を怒らせるようなことをした?」 「した。ミシェルを傷つけた」 ミシェルは無意識の内に本のぶつかった頭に手をやった。確かに痛みはある。落ちている本は明らかに異常な分厚さで、これで殴られたら殴殺できそうな程だ。事実出来るだろう。今回はミシェルが人間以外の生命だったからそれが結果として為されなかっただけで、人間ならば確実に死ぬ。 だけど、やっぱり怒る気にはなれないのだ。 ミシェルは床に膝を着いて俯いているオフィーリアを覗き込んだ。それでようやく紫水晶と金と青のオッドアイがかち合った。ミシェルは優しげに微笑んでオフィーリアに問う。 「オフィーリア。オフィーリアはこうなるって分かっていて、この本の塔を作り上げた?」 「…ううん」 「これはオフィーリアにとって予想外の出来事で、僕を傷付けるつもりなんかなかった?」 「うん」 「反省してる?」 「うん」 ミシェルはオフィーリアの頬に触れた。聡明な紫水晶の輝き。ミシェルが美しいと思う、その。 「なら、僕からは言うことはない。オフィーリアが反省しているのなら、怒る必要なんてないんだよ。本当に怒らなきゃいけないときはね、悪いことをした本人が悪いことをしたって分かっていないときだから。オフィーリアは頭が良くて、優しいから。僕が怒るより前に、きちんと自分のやったことを理解して、反省できるから。僕が怒る必要なんてないんだよ」 「…でも、」 「大丈夫。オフィーリアが本当に怒ってほしいときは、遠慮なしに怒るから。安心して」 ミシェルは立ち上がる。オフィーリアの瞳が信じられないようにミシェルを見た。人の心は読めないが、これでも長く生きてきた身だ。その人が何を望んでいるかなど、手に取るように分かる。 それでもオフィーリアに直接言わせた自分は、性格が悪いというのかもしれないけれど。 「あぁ、ようやく止んだ。それじゃ、片づけようかオフィーリア」 術式を解除して、落ちている本を一つ一つ拾っていく。ふわふわと浮かぶオフィーリア。驚愕とも衝撃とも何とも言えない表情をした彼女は、ミシェルが動き始めたのに気付いて自らも動き出した。 「僕も手伝うから、早く終わらせてお茶にしよう」 一生懸命本を拾うオフィーリアと一緒に本を拾いながら、ミシェルの視線は中途半端に積み上がった本の塔に向いていた。 昔見たバベルの塔に似ている。崩れる前も、崩れた後も。無様で不格好で、でもどこか美しかった。 まるで、それが。 今の自分たちのようだ、と。そう錯覚してしまったのは、きっと気のせいではない。 |