Artemis Love


 パタンと扉の開く音がした。
 本日最後のお客様だろうか、一通りの後片付けを終わらせたところで響いた音に慌ててそちらに向かった。
「すいません、今日はもう閉店なんですが…」
 明らかな時間外の客だろうとあくまでも対応は丁寧に行う。それがプロの鉄則だ。
 そう笑顔で告げたところ、やってきた客は艶やかに笑った。
「あら、私の髪は切ってもらえないのかしら」
 そうテレビの中とは違う穏やかな微笑みを浮かべたその人は、確かにこんな時間でなければやってこれない人だった。
 この人ならば仕方がない、とマコトは苦微笑を浮かべて首を振る。
 美しい黒髪と黒曜石の瞳。黒衣のドレス。美しい人。
「いいえ、貴女なら大歓迎ですよ。――――メイファさん」
「そう、ありがとう」
「ではこちらにどうぞ」
 ええ、と相槌を打って彼女は己の案内した席へと着く。
 彼女は今や世界で有名なアジアの歌姫だ。本来ならば一介の美容師の手も届かないような存在。だというのに彼女はいつもここまでやってくる。
 彼女と出会ったのは数年前のことだ。まだ彼女がそう売れてはいなかった頃、そして自分もカリスマなどと呼ばれていなかった駆け出しの頃に二人は出会った。
 彼女は今のように真夜中に店に残っているマコトに向かって、髪を切って欲しいと言ってきた。
 見習いである自分は切れないと断った。自分のせいで店の品位を損ないたくはなかったし、それに彼女は綺麗な髪をしていた。そういう髪を持った人はもっと素晴らしい腕を持った人間に切って貰いたかったのだ。その髪を自分以外の誰かが切るということに苛立ちは感じていても。
 だが彼女は自分は金がないから見習いである貴方に切って欲しいと言ったのだ。しかも自分は明日には身支度を調えなければならない。だからどうしてもお願いだと。
 そこまで頼まれては仕方がない。そしてそこで彼女の髪を切ってやった。それが自分たちの始まりだ。
 彼女はそれから髪を整えるときはいつもこの店にやってくることになった。
「それで、今日はどうするんですか? いつもみたいに毛先を切りそろえる程度で?」
 多少伸びた彼女の美しい黒髪を手で掬った。真っ直ぐすぎるストレートの髪は指の間から簡単にすり抜けてしまう。
 この黒髪はとてもお気に入りで、彼女がやってきたときは一度は梳いているような気がする。彼女が何も言わないから、こちらもしたいようにさせてもらっているが。
 だが彼女の要望に己は凍り付くことになる。
「今日は髪を染めて欲しいの」
「この…髪をですか?」
 丁寧に手入れされた黒髪だ。自分が自ら丁寧に手入れした黒髪だ。彼女の黒髪は彼女の売りだったはずだ。
「ええ、でも次の曲のイメージが月の女神だから金に染めなくてはならないの。だからお願いできるかしら」
「…本気ですか?」
「ええ、本気よ」
 渋る自分に、彼女は悠然と言い放った。
 美しい黒髪だ。彼女の黒髪がとても好きで、この髪の手入れは欠かしたことがなかった。
「本気だからこそ――――貴方のところにやってきたんじゃない」
 確かにそうだ。そして彼女は客だ。美容師である自分は彼女の望みに答えなければならない。
 もう一度、名残惜しげに髪を梳いた。そしてその髪を手放して彼女に囁きかける。
「…宣伝が終わったらまた黒髪に戻してくださいよ? 貴方の黒髪、俺は大好きなんですから」
 本当は黒髪だけではないけれど。
 だけどこの言葉を彼女に告げるつもりもなく。また彼女から答えを貰うつもりもなく。
「勿論よ。私もこの黒髪は好きだもの」
 そう言ってくれるのならこちらとしても嬉しい。
 ならばこちらも頑張って、彼女に映えるような金髪を作り上げることにしようかとマコトはハサミを取り出した。