林檎メランコリック
雪が降っていた。 それはとても白くて冷たくて、これのせいで今朝は寒かったのだとようやく気付いた。 「冷えると思ったら…」 そう呟いた己の口から漏れだした吐息すらも白い。素肌の上に赤の襦袢しか羽織っていない今の状況では少し寒いようだ。そしてそんな状況で窓の外を眺めていれば風邪を引いてしまうだろう。 「…仕方がないねえ」 自分一人だったならばそんな頓着はしないだろうが、今回ばかりはそうもいくまい。そう思って、ムラサキは障子を閉めて窓から離れた。 ――――布団からはみ出ているのは青い癖毛の髪。昨夜戻ってきて、突然この体を抱いた男。この証に、そこらに着物が散らばっていて、確かな昨夜の情事の跡が残されていた。 六はふらりにムラサキの元にやってきて、またふらりといなくなる。六は数年前からそういう行動を繰り返してきた。そしてその度にムラサキを抱いて、数日経ったらいつの間にかいなくなっている。 火鉢に添えておいたキセルに刻み煙草を入れて口に含んだ。 この子どもと初めて出会ったのは一体いつのことだったかと古い記憶に思いを馳せるも、そんなこと覚えていないのだから仕方がない。思い出そうとするのを諦めた。 部屋の中が火鉢のお陰でようやく暖まっていく。先ほどまでは空気の入れ換えのために障子を開けていたのだが、いつの間にか雪を観賞してしまった。 先ほど目覚めたばかりだからか、まだ上手く頭が動いていないらしい。霞がかかったようにぼんやりとしている頭で煙草を吸っていれば、唐突に口に挟んでいたキセルが何者かに奪われた。 勿論、こんなことをする輩などこの部屋にはたった一人しかいない。 「…俺にもくれ」 ようやく目覚めたのか裸に浴衣を軽く羽織った状態で六はムラサキのキセルを口に含み、寝起きの掠れた声でムラサキに刻み煙草を要求してくる。 ムラサキは寝起きでクシャクシャになった顔に向けて煙草の煙を吐き出してやる。突然の煙に六は眉を潜め、しかしキセルを突き出してそこに刻み煙草を要求してくる。ムラサキはため息を吐いた。 「手癖が悪いねえ」 「人のこと言えた義理か」 「言えた義理さ。何せソイツはアタシのだからね」 カラカラと笑いながらようやく刻み煙草を入れてやる。恐らく火はまだついているのだから大丈夫だろう。 「俺が持ってきた煙草はすぐに取るのに、か?」 「宿代だと思ってくんなよ、六。そう考えたら安い宿代だろ?」 「…ま、そう考えりゃな」 そう言って納得したものの思うところがあるのか、六はそれきり黙り込んだ。そちらが黙り込むのならこちらも言うことがなくなって同じく黙り込む。 本当なら、聞きたいことはたくさんある。 今晩もここに泊まっていくのか、とか。 いつまでここに滞在するつもりなのか、とか。 次はいつやってくるのか、とか。 本来ならば聞かなければならないようなことばかりで、だからこそ聞けないようなことばかりだ。 元々六とムラサキの関係は酷く曖昧だ。恋人ではない、ならば遊び女かと思いきやそうでもない。かといって友人でもなければ、ただの知り合いに成り下がるわけがない。 この関係を一番的確に表すとするのならば、遊び女以上恋人未満と言ったところだろうか。だが六が一体どう思っているのかが分からない限り、それにも確証がないわけだが。 お互いに火鉢を囲んで座り込む。この沈黙の心地よいの何の。 六が無言で咥えていたキセルを返してくる。ムラサキはそれを受け取って、だがもう煙草を吸う気にもなれずに先ほどと同じように火鉢に添えておいた。 「それで? 今までどこに行ってたんだい?」 問うのは過去のことばかりで未来については聞かない。 「今回は南極とかその辺りだな」 「へぇ…、南極っていえば氷ばっかりじゃないか。そんなところに行って楽しかったのかい?」 「楽しいとかそんなことは関係ねぇよ。行きたいから行く。それが旅の醍醐味よ」 ふぅんと会話に本腰を入れる気にもなれずに気の乗らない返事を返した。 …この男は相変わらず旅を続けるのだろう。そして相変わらず、偶にムラサキの元にやってきてこうやって抱いて、そしてまた旅立つのだ。 「ムラサキ?」 いつかそれが終わるときも来るのだろうか。旅が終わることはないだろう、それはこの男の必然だ。…だから、終わるのはこうしてムラサキの元にやってくることだろう。 だけどこの子どものような男に己が惚れているのも事実で。 「いいや? 何でもないよ。気にしなさんな」 手を振って否定をする。すると六は訝しみながらも納得したのかムラサキに手を伸ばしてきた。 ムラサキの、昨夜の情事の跡の残った白い肌に六の骨張った手が触れてくる。昨夜の続きをするのか、その手は確かな目的を持って触れてきた。 さてこの男が自分に飽きるのはいつのことか。 内心でため息を吐いて、ムラサキはその日のことを考える。 いつしかその考えも快楽に流されて何も考えられなくなってしまうけれど、その時までは静かにその日のことを考えた。 ――――林檎が蜂蜜に捨てられるその日のことを。 |