Cantabile
この城は、領主の城である。 しかもこの世界で一番古く建てられた物であり、このメルヘンランドで一番高貴なる者が住んでいる場所である。 しかしだからからか、この城には領主でさえ分からないことが沢山あるのだ。 それは夜な夜なこの城に響き渡るピアノの音色も同じことで…。 ある日ユーリはリデルに問われた。 「時々夜に聞こえるピアノの音色…あれは吸血王が弾いておられるのですか」 ユーリはさあと答えた。 そしてその後付け加える。だが私ではない。 確かにこの城でピアノを弾けるのはユーリとリデルだけだ。スマイルも弾けるのだろうが、あれは元々弾く気がないので論外とする。 そしてピアノの奏者の片割れであるリデルが疑問に思っているのならば、後は思い当たるのはたった一人しかいないというそこまでの思考回路は見事だ。 だがそれで済まないのがこの領主の城なのだ。 「…成る程。分かりました、吸血王」 ユーリの態度で何かを察したのかリデルは退室する。 聡い者は嫌いではない。むしろ好きだ。 これでリデルはこの話をユーリにすることはないだろう。 今度はピアノの代わりに何かを叩きつける音がする夜、アッシュが駆け込んできた。 「ユーリ! 一体何の音っスか、これ! 誰かが城のどっか壊そうとしてるんじゃないんスか!?」 慌てているアッシュにそれは有り得ないとユーリは答えた。 叩いているのは恐らくハンマー。叩かれているのはピアノの鍵盤だ。膨大なる破壊音の中に微かにピアノの音が混じっている。 大丈夫だとユーリは続ける。 恐らくこの城を壊そうとしているわけではなく、自分の不甲斐なさに呆れていただけだろう。自分の思い通りの音色を奏でることが出来なくて苛立っているだけだ。 アレはそういうところに対して人一倍厳しいからな。 「…ユーリはその人のこと知ってるんスね」 さあなとユーリは答える。だがその態度から窺い知れることはその言葉を発したユーリですらも明白だ。 「それならいいっス。失礼しました」 そう言ってアッシュは退室した。 これでアッシュも夜響く音に驚かなくなるだろう。 ユーリは静かに部屋を後にし、問題の場所へと向かった。 カツン、カツンと静寂の中をユーリの足音だけが響く。 廊下には魔力で編まれた蝋燭が火を灯しているためか、視界に困りはしない。そうでなくとも天空を統べるのは満月だ。火などなくとも窓からの月明かりで十分視界は保たれた筈だ。 だがそれもここで終わりだ。 ユーリは地下への扉を開く。中には深淵の闇が広がっていた。 ここは月光も届かない地中、指先から感覚が解けていくと錯覚させてしまいそうなほどの暗闇だ。 カツン、カツンとユーリの足音が響く。 ユーリが足音を響かせる度に破壊音は大きくなっていく。明らかに発生源へと近付いていっている。 ガンガンと鈍く叩きつけられるソレは、まるでピアノの鍵盤を叩き壊しそうな勢いだ。別に本人だってそれを望んでいるわけではないだろう。そんなことをしたら本人が困るだけだ。 ユーリがある扉の前に立つ。 スマイルとリデルが昔入った扉とはまた違う、普通の部屋の扉。 ピタリと止んだ破壊音。代わりに紡がれる穏やかなピアノの音色。 ベートーヴェン、ピアノソナタ『悲愴』。 「…気を遣っているつもりか?」 あまりの変貌ぶりに苦微笑を一つ浮かべて、ユーリは扉に手を掛けた。 鳴り響くピアノの音は、どこか悲壮さを含んでいた。 石造りの壁とたった一つの窓から射し込む月光。部屋の中にはたった一つの巨大なグランドピアノが設置してあった。 ピアノの音色はそのグランドピアノから発せられている。だがそのそこに奏者の姿はない。 「…相変わらずだな、グランドハンマー」 ピアノは勝手に自動演奏を続ける。どこからともなく現れた二本の人間の手によって奏でられ続けている美しき調べ。 その調べはユーリが声を掛けると同時にピタリと止まる。 「演奏を続けろ、グランドハンマー。私はお前の演奏は好きだ」 『…そのお言葉、ありがたく承ります。領主』 再び奏でられるピアノの演奏と同時に、ピアノ本体から男の声が聞こえる。 「だが、今日のように鍵盤をハンマーで叩くのは止めておけ。私は慣れているが、他の者に迷惑がかかる」 『…申し訳ありません』 「…ここも人が増えてきたからな。肩身の狭い思いをさせると思うが、すまない」 この城も人が増えてきた。最初はユーリ一人であり、次にスマイルがやってきた。そのスマイルと出会った頃にこのピアノ――――グランドハンマーに出会ったのだ。 それから様々な者がここに住むようになった。アッシュ、リデル、かごめ、皆ユーリの大切な者と言える。 鳴り響くピアノの前に置かれている椅子に背を向けてユーリは座る。 『いえ、呪われたピアノと呼ばれた私を保護してここに置いてくださっていること自体がそも私にとっては奇跡なのです。それだけで満足なのですから、他に何を望みましょうか』 「…すまないな、グランドハンマー。だがこの城の者にはお前のことを触れさせないようにさせた。だから安心して弾き続けろ」 おや、とグランドハンマーは多少残念そうな声色を出す。 「何だ?」 『私は他者に触れないことを望んでいるわけではないのです、吸血王。ですからこの部屋を尋ねてこようが構いません』 「だがお前は望まぬ者に触れられればそれだけでハンマーを振りかざすだろう。ピアノとしては傲慢だな」 その意味も込めて、このピアノの件については触れるなと忠告したのだがとユーリはため息を吐く。 『ですが、恐らく私は貴方が受け入れた者ならば大丈夫なのではないかと思うのです』 それは何の保証もない言葉。だけど長年の付き合いだ。信頼するに値すると分かっている。 「…なら、最後の子どもに賭けるとしよう。スマイルは既にお前の存在を知っているから意味はないが、後たった一人だけお前を知らない者がいるからな」 そう、この城でたった一人。 ユーリと同じ色を持つ、この城でたった一人の人間の少女。 『ありがとうございます、領主』 「これであれが興味を持たなければ終わりだがな。明後日今日と同じようにハンマーを叩き鳴らせ、そうすればあれに教えることが出来る」 ユーリは振り向き鍵盤に向かって腕を組んで笑った。 鍵盤が高音での和音を紡ぎ出す。耳障りの良いそれは、喜びの声を上げていた。 そして明後日。 ユーリの言うとおり、真夜中に叩き鳴らされたハンマーの音にユーリの部屋を訪れたのはかごめだった。 「…ユーリ、この音は……?」 睡眠を妨害されたのだろうか、寝ぼけ眼に舌っ足らずな声でかごめは尋ねてくる。 ユーリはいつものように答える。 この城に古くから棲むピアノだ。地下室にいるから、気になったのなら行ってみるといい。 その言葉にかごめは目を丸くする。 「行っても、いいの?」 ユーリは頷く。 ああ、だが行くときはリデルかスマイルかアッシュを連れて行くようにすること。それが第一条件だ。 「…ユーリは?」 私は仕事が忙しい。それにあれとは昨日会ってきたばかりだ。 「…そう。ユーリ、」 書類に目をやろうとしたユーリに、かごめは声を掛ける。 「…ありがとう」 滅多に見せない微笑みを浮かべて、彼女は部屋を出て行った。恐らく行き先はリデルの元だろう。それかアッシュのところか。 ユーリは穏やかな微笑みを浮かべて彼女を見送る。 さて、彼女は今日中にピアノの元に辿り着けるのだろうか。だがそれも心配は要らないだろう。 奏でられるはピアノの音色。 普段とは違う、歌うように奏でるピアノの音が城に響き渡るのはもう少し後のこと。 |