Never...


 ぽたりと、どこからか赤い色が流れていた。鉄錆の匂い。スマイルはそれに対して首を傾げた。一体どこから血が流れているのだろうか。

 自身を確認しても、痛むところや赤く染まったようなところはない。ではこれはスマイルのものではないのだろうか。それは有り得ない。ここにはスマイルしかいないのだから、この血がスマイルのものでなければ誰のものだというのか。
 だが、痛みがないのだ。痛くない。スマイルは痛くない。赤くない。だけど絶えず床を濡らす赤い色。一体どこから流れているのだろう。

 高価なベージュ色の絨毯を侵食する赤い色。徐々に徐々に血の量は増えていって、少しずつ少しずつ赤い色は増えていく。だけどスマイル自身が動いてこれ以上汚すわけにはいかないので、スマイルは立ち止まったままだった。本当にどこから流れているのだろう。

「スマイル?」

 リデルの声だ。視界の端で揺れるゆるやかな青い髪。硬質な表情。育ちの良さを窺わせる、流れるように美しい動き。甘い声。
 スマイルに対した時だけ、リデルの声はどこか甘くて、どこか硬質だ。だけどそれが心地よい。
 その声にうっとりと耳を傾けていると、リデルの穏やかな気配が一気に怒気を含んだものに変わった。恐らくはスマイルの足下に出来た赤い模様のせいだろう。リデルは身内が傷つくのを嫌う少女だった。

「この、愚か者!」

 リデルがスマイルに近付く。こうやって近付いてみれば、スマイルとリデルの身長差が浮き彫りにされた。スマイルの身長が190近く。リデルの身長は目測で160前後といったところだろうか。
 リデルは怒りを露わにしているというのに、自分は何を考えているのだろうとスマイルは苦笑を浮かべた。

 リデルはそんなスマイルを無視して鋭い目でスマイルを観察する。
 多分スマイルが何を考えているかなどお見通しなのだろう。リデルとも長年の付き合いだ。分からないはずがない。それにしても、リデルの鋭い観察眼は、スマイルの外傷を見つけることが出来るのだろうか。
 見つけることが出来るのだろうなとスマイルは直感的に分かった。だってリデルなのだ。

「スマイル、屈みなさい」
「何で?」
「いいから屈みなさい」

 思っても見なかったことにスマイルが疑問を口にする。しかし、リデルはスマイルの言うことなど取り合おうとしない。言うことを聞いておこうと、スマイルはとりあえずリデルの言うとおりにした。
 スマイルの視線とリデルの視線が合う。これでいいかと視線で問えば、これまた視線で否の答えが返ってきた。ならばとスマイルは片膝をついてもっと視点を下げてみた。上を向いてリデルに視線を向ける。今度はリデルは視線を返さなかった。

「リデル?」
「ここ、よ。愚か者」

 リデルはスマイルを覆うようにスマイルの後頭部に口付けた。後頭部と側頭部の区切りが曖昧な辺り。リデルの冷たい唇がそこに触れていた。触れられたそこが微かに痛む。どうやら血が流れていたのはそこだったらしい。

私が貴方の傷を癒すI heal your wound.

 傷口に口付けたままのリデルの声。術を使うということは、それだけ酷い傷だったようだ。どこか暖かい感覚。何かが塞がっていくようだ。
 リデルが唇を離す。スマイルは膝を付けたままリデルを見上げた。リデルの唇はスマイルの血で赤くて、それはまるで人々が語る吸血鬼のようだった。

吸血鬼ユーリみたいだね、リデル」
吸血王ロードヴァンパイアに? それは光栄ね」

 軽口のような皮肉を叩き合って、リデルが絨毯に視線を向けた。スマイルも同じくそちらに目を向ける。
 これはもうダメになってしまっただろう。血は洗濯しても落ちないものだ。むしろこの馬鹿でかい部屋の絨毯だ。クリーニングにだすよりも、新しいものを買った方が安くつく。これはもしかしてスマイルの財布から金を出さねばならないのだろうかなど適当に考えていれば、リデルが口を開いた。

「お前の血は赤いのね」
「そうだよ、まだ死んでないからね」
 リデルはさも不思議そうに言った。それからスマイルの答えに視線を上げる。スマイルをしっかりと見据えた。

「お前はいつか死ぬのね」
「そうだよ、生きてるから。死んだらゴメンね、リデル」

 勝手なことを言うものだと、スマイルは表には出さないものの自嘲した。置いていかれる者のことを考えていない発言。しかも既に死んだ後のリデルにとっては後追いも出来ないと分かっているからこその言葉。

 リデルの視線が冷えた。だけど表情は逆に柔らかで、それは視線の冷たさを除けば春のうららかな花のようだ。
 リデルがスマイルの顎に触れる。指先はスマイルの血で真っ赤だ。スマイルはそれを酷く美しいと思った。だが、その血がスマイルのものだからなのかは分からなかった。その指がスマイルの唇に触れる。冷たい指先。生ける死体、アンデッド特有の。

「その時は、私がお前をアンデッドにしてやるから、覚悟しなさい」

 リデルの瞳が強い意志を宿す。爛々と輝く赤い瞳。どんな手を使ってでも、己の傍にいさせると言わんばかりの。
 スマイルは笑った。静かに笑った。今、少しだけ幸せだと思った。


「それにしても、何でお前はあんなところを怪我していたの?」
「あぁ、多分ついさっきユーリのコレクションの彫像にぶつかったからじゃないかなぁ…。あれ、確か槍があったことだし、ねぇ」
「…今すぐ吸血王の元に向かうわよ、スマイル」
「へ? 何で?」
「いいから!」


 それからすぐにユーリの元に向かったリデルの直訴によって、その彫像が撤去されたのはお約束な話。
 これもまた、愛と呼ぶのだろう。