Noble Wish
【 序 】 −終わってしまったお話− 00. ――――ふと、目を覚ました。 瞼を開ければ、見えたのは深淵の闇。目を凝らせば、確かにそれは闇だった。どうやら未だ自分は失明することなく物を見ることが出来ているようだと、リデルはぼんやりとベッドに横たわったまま思った。 ひゅ、と喉が鳴る。酷い音をしている。口は体内の水分が全て枯渇してしまったかのように渇いていて、響く音は捉えようによっては酷く無様だ。 ひゅうひゅうと、まるで隙間風のような声。だが、それはそうだろう。夢現のこと故にぼんやりとしか憶えていないが、ベッドに横たわっていながらも感じられるあの奇妙な浮遊感と落下感。そして、灼熱と極寒と激痛が同時に襲ってきた、今にも事切れてしまいそうな、むしろ自ら命を絶ちたいと思ってしまうほどの地獄の責め苦。それをリデルは何度も味わってきた。 あれの後は大抵こんなものになってしまう。あの発作が一度起これば、体中の水分は全て汗となって排出され、身体の内に灼熱の太陽を飼うことになる。 それは、リデルの病だった。救われることはないリデルの病。誰一人として助けられる者などいない、ただ一人で立ち向かうべきリデルの病だ。 腕や顔にある黒い斑点。それがリデルの病。誰一人治せない、治すことの出来ないリデルの病。だが、リデルはそれを悲観しようとは思わなかった。悲観してしまえば、全てがお終いだ。リデルの誇りも何もかも、終わってしまう。 だが、そろそろ寿命だろうかとリデルは冷静に考えた。悲観的にでも何でもなく、客観的に事実を捉えたが故の観念だ。リデルの寿命もここまでだろう。最初は緩やかにやってきた発作も、最近では短くなってきた。最初は我慢していた痛みも、その痛みに耐えていたリデルの身体も、そろそろ限界を超えようとしている。 それが自分でも分かっていた。理解できていた。むしろ、よくもこの身体で今まで生きていられたものだと逆に感心してしまう。 だから、別に未練はない。何時死んだって、いい。そう考えることが出来た。 だが、今回はその機会ではなかったようだ。生き延びることができた。生き長らえることができた。それが幸福なことなのか、それとも残念なことなのかは分からないが。 だがしかし、何故だろう。普段の病では痛まぬところが今は痛かった。喉が、酷く痛む。灼熱のように熱く、だけどどこかしら冷たい。それだけならまだしも、錯覚かどうかは分からないがどこか外圧のように物理的に痛みを感じた。まるで首を絞められたかのような。 だがそれはないだろう。大体この誰もいない屋敷の中で誰がリデルの首を絞めるというのだ。それに少し考えればこのような痛みは以前からもあった。違うのは、ほんの少し痛みが強いことだけ。それだけでそんな錯覚をしてしまうなんて、ついに頭まで壊れかけているのか。リデルは皮肉げに笑った。 そんなことを考えながら、あまり動かすことの出来ない身体で、目だけで辺りを見回した。夜の闇の中、それはまるで光を求める行動にも似ていた。 この部屋に光などないことなど知っている。目覚めたとき、リデルはいつも一人だった。いや、この屋敷にはリデル以外誰も住んでいないのだから当然だ。それでもリデルは焦点の合っていない虚ろな視線を辺りに彷徨わせた。 「――――リデル」 ふと、目の端に光を感じた。 名を呼ばれる。そちらを向いた。蝋燭が暖かな灯りを灯していて、その傍に一人の男がいた。青い肌と青い髪の包帯男。スマイルだ。いつもの青いメイクに包帯を巻き付けていて、いつも通りの、だけどどこかほっとしたような姿でリデルの隣に座っていた。 光だ。リデルはそう感じた。 リデルがたった一つ求めていた光。冷たいリデルの肌を暖めてくれる光。そこでリデルははたと思い出した。そうだ、この家には、この屋敷にはリデル以外にこの男も住んでいたのだ。 だが、そのリデルの光であるスマイルは酷くほっとしたような表情のままリデルを見下ろしている。どうかしたのだろうか。リデルは喉を動かすのだが、唇が動いただけで声が音を通さない。発作の所為で声帯が多少壊れているようだ。治るかどうかも分からないだろう。 リデルのその様子に気付いたのか、スマイルは痛々しい表情に変わって、だけどそれでもその痛々しさを凌駕するほど酷く嬉しそうな表情を浮かべた。そしてその指がリデルの病に侵食された黒い頬に触れて、愛おしげに唇に触れた。 本当にどうしたのだ。リデルは久々に戸惑った。こんなスマイルは、短いながらも濃密な時間を過ごしてきたリデルとて初めて見た。別にリデルに発作があっただけではないか。特別スマイルが喜ぶようなことは何一つない。 しかしよくよく見ていれば、メイクの所為で青い、スマイルの指先が透明へと変化していた。そこに指先があると分かるのは、今リデルの頬に触れているという感覚と、体中に巻き付いている包帯が輪郭を現しているからだ。 何故こんなことになっているのだろうか。しかも、どうやらスマイルとリデルの近くにあるチェストには水桶が張っていた。どうやらあれがスマイルの指先のメイクを落とした張本人のようだ。 そうこう考えている内に、スマイルはリデルの頬から離れた。しかも手には何か持っている。闇とぼんやりと赤い炎しか光源がないせいであまりよく見えないが、どうやらあれは白い布のようだ。リデルも気付いていなかったが、額に置かれていた重みが消えていた。スマイルはそれを水桶に浸して絞る。 それを見てようやくリデルもスマイルの指先のメイクが取れていた理由に思い立った。スマイルはリデルを一晩中看病していたのだ。愚かな選択だ。リデルの病は決して治るものではない。それをスマイルも知っている。ならば放っておけばよいのだ。…だが、その愚かさが、今はありがたかった。 終始嬉しそうなスマイルを、いつまで経っても合わない焦点でぼんやりと眺めた。スマイルは先ほど絞った布で、汗まみれになったリデルの顔を丁寧に拭いていく。いつもながらに手慣れた行動だと思う。スマイルがこの屋敷にやってきてから、動けなくなったリデルの世話をしているのだから当然といえば当然なのだが。 顔の次は胸を。次いで右腕、それから左腕。リデルの身体を起こして、汗でびしょ濡れになったネグリジェを丁寧に脱がして、リデルの身体を丁寧に拭いていった。リデルはそのことに対して嫌悪感を抱いてはいない。別に一番最初にスマイルにそんな行動に出られた時も、リデルは何も変わらなかった。元々貴族はあまりそう言ったことに嫌悪感は抱かない。この時代の貴族は皆、そんな風に生きている人間だ。他人に触れられることなど慣れている。 リデルはスマイルのこの愚かさがありがたいと思った。だけど、何時までもこんな無駄なことをさせるわけにはいかないだろう。リデルはいつか、そう遠くない内に死ぬ。そう考えると、スマイルの行動は全て無駄だ。だからリデルは届かないと分かっていながらもゆっくりと唇を動かした。 『…私はもうすぐ死ぬのだから、こんなことをしなくてもいいのよ。スマイル』 自分でも思った以上に気怠げな口調だった。だが、これはリデルが素直に思ったことだ。スマイルも分かっているのだろう。合理的な考え方をするスマイルだ、すぐに止めるはずだ。リデルはそう考えていた。 だが、そのリデルの考えは見事に外れた。リデルがそう唇を動かし終えた瞬間、スマイルの瞳がすっと細められた。透明な瞳。先ほどの嬉しそうな表情のまま、だけど瞳に現れていた感情を全て消し去って、スマイルはリデルを覗き込んだ。透明で、見るだけで切り裂かれてしまいそうな瞳。 ぞくりと、リデルの背に震えが走った。 まるで刃を喉元に当てられたよう。いつ引き抜かれてもおかしくないほどの、だけど殺気とは呼べない、怒り。 怒っている。どうやらスマイルは怒っているようだ。だが何故だろう。リデルは事実を言ったまでだ。それで何故怒る必要があるのだろう。スマイルもリデルの世話など無駄なことだと分かっている筈だ。事実、リデルは死ぬ。スマイルが怒る理由など、リデルには思い当たらなかった。 「…ソレ、本気で言ってるの? リデル」 『…勿論本気よ。私は冗談ではこんなことを言わない。知っているでしょう、お前も』 怒気を含んだ、スマイルの声。こんな声は聞いたこともない。スマイルがリデルに対して怒りを見せることなど滅多にない。いや、今まで見たことがなかった。だが、リデルはそれに恐れを抱くことなく明確に答えた。 「じゃあ、僕のしてることは無駄?」 『ええ、無駄ね』 明確に突き放す意図を持って、リデルは頷いた。無駄と、これは無駄なことなのだと思わなければ困る。リデルはスマイルに臨終の時まで看取って欲しいわけではない。そんなのは幸福すぎる。幸福すぎて泣いてしまいそうで、ついでにどうでもいいことまで思い出してしまいそうだ。 遠い昔に捨て去ってしまった欲を、忘れてしまった孤独を、その、純粋なる願いを思い出してしまいそうで――――、それこそリデルは恐れていたのだ。 お願いだからそっとして置いてくれはしないものか。リデルは今更そんなものはいらない。例え必要だったとしても、今の状況で何が出来るというのか。リデルはもうすぐ死ぬ。リデルはもうすぐ死ぬのだ。呪文のように暗示のように己に言い聞かせてきた言葉は確かに真実。もう何も望んではならない。なのにスマイルはリデルに忘れていたものを思い出させようと必死なのだ。 スマイルと関わると、リデルの胸が必要以上にざわりと波立つ。こんなものは必要ない。スマイルは確かにリデルの光だったが、リデルはその光に救われたいとは思わなかった。 光は生きていく上で必要なもので、だけど、だからこそ今のリデルには必要のないものだった。 「…そう」 ふと、スマイルの視線が和らいだ。斬りつける視線は霞に消え、今はどこか優しげな目線。そしてスマイルの透明な指先が、水か汗か分からないが張り付いた前髪をくしゃりと掻き上げた。 「でも残念だねェ。僕はリデルから離れるつもりなんて毛頭ないよ?」 だからゴメンね、と全然詫びらしくない言葉がリデルの鼓膜に響いた。 『…スマイルッ!』 一瞬だけ思考が停止していたリデルがようやくスマイルの名を紡げば、スマイルは既にリデルの身体の汗を拭き終えて、いつもの普段着であるドレスへと着替えさせ、次いで何故かいつもスマイルが着ているコートを被せて、リデルを抱き上げた。 『私は――――』 「僕はねぇ、一つだけ疑問があるんだ」 リデルの文句を遮るように、スマイルはリデルを抱え上げたまま、リデルの顔に皮肉気な笑みを浮かべた口を寄せて問う。スマイルの言葉を遮る手段を持たないリデルの言葉は勿論消えた。 「どうしてこの口からは、今の今まで『死にたくない』って言葉が出てこなかったの?」 それは、諦めていたからだ。 「僕が人間以外のモノだっていうことは知ってたのに、リデルの寿命を引き延ばすことくらいは簡単に出来たのに。何で僕に乞わなかったの?」 生きることに疲れていたからだ。人間がどれだけかかっても背負うことの出来ない地獄の責め苦を絶えず味わわされ続けていたせいで、リデルは生きることに疲れ切っていた。それをスマイルが分からないとは思わなかった。何の意図があるのだろうか、この質問に。 スマイルは窓を開放して、窓枠に足を掛けた。窓の外は深く暗い闇。スマイルはこの闇に投じようとしている。別に不安は感じてはいないが、どこに行くのかと尋ねようと、リデルはスマイルの指を掴んだ。だがスマイルからの反応はない。 『下ろしなさい、スマイル…!』 光。 リデルの、光。 だから、スマイルにはリデルの死に水を取ってほしくはなかった。リデルのせいでその身体に死臭を纏ってほしくはなかった。スマイルにリデルのことを憶えていてほしくはなかった。 だが、幾ら抵抗してもスマイルはリデルを離そうとしない。スマイルの手が触れた場所はぎしぎしと音がしそうな程の痛みを訴えていた。元々リデルとスマイルでは力が違う。振り払うことなど出来はしないと分かっていながら、リデルはそれでも抵抗を続ける。 『スマイル…!』 「…黙って!」 声を荒げたスマイル。リデルの耳に届いた、確かな焦り。スマイルの、焦りだ。リデルはスマイルに視線を向けた。確かにその表情にも焦りが見えていた。 珍しい、と思う。スマイルはいつも飄々としていて、掴み所がない。こんな風に焦っている所など見せたところがない。 だから、もういいと思った。抵抗する身体を緩めた。不審に思ったスマイルがこちらに向いたが、リデルは視線をやることなく瞼を下ろす。 スマイルは幾ら言っても止まりはしないだろう。きっと、止まりはしない。だから、もういいのだ。リデルは止めない。恐らくスマイルの言うとおりにすれば最後に一つだけ、いい夢が見ることは出来るだろう。 「――――大丈夫」 スマイルの、声。 そう言いたいのはこちらだ。焦りを隠せないほど不安を胸に巣くわせている癖に、何を言っているのだろうか。そう言うのであれば、きちんとその不安を完璧に覆い隠して言え。 「――――大丈夫」 まるで、リデルにではなくスマイル自身に言い聞かせるような、その声音。だから、リデルは逆に絶対に届くことはない言葉を胸に残す。 ――――大丈夫。焦らなくても、いい。 リデルは先ほどの衰弱の後に瞼を下ろしたからか、眠くなっていく身体のそのままの欲求に従いながら最後に一つ呟いた。 大丈夫、焦らなくてもいい。私の時間は有限で、だけどそれ故に無限にあるのだから。 そして、リデルはスマイルに連れられて夜の闇へと飛び出した。
【 起 】
目覚め、再会、ところにより嘘‐ 01. 自分は一族の中で一番弱いと言われて育ってきた。 一族の中で一番弱くて、一番恥さらしなのだと。 でもそうして生まれてきても命は命。両親は生まれてきたばかりの自分が可愛かったようで、力が足りない子どもはすぐ殺さなければならないのに領主や族長に掛け合って命乞いをしたらしい。 そうすれば自分が生き残るのにたった一つの条件を与えられたのだ。 その条件が叶えられなければ、この身はいとも簡単に死んでしまうのだと。 ならば自分はそれを叶えなければならない。この身はまだ死にたくないのだから。 無駄に生きてきた生命だと思った。 昔から自分は弱くて命乞いまでして生まれたというエピソードのせいで一族の色んな人に苛められたり殺されかけたり色々とあった。 だけど、きっとこの命が生きるのは間違いではない。命が生きようと足掻くのは、きっと間違いではないのだ。 そうでなければ何も救われないだろう。 その為に、その為に――――この身は強くならねばならないのだ。 *** あぁそろそろか。ぼんやりとした頭でそう思ったリデルは瞼を上げた。 スマイルの目的地がどこかなど知りはしないが、リデルの考え通りならばもうそろそろ着いている頃だろう。スマイルはリデルに負担をかけない。あまり遠出はしないはずだ。何故だかは分からないが、スマイルはいつもリデルを気遣っていた。 辺りからは濃い闇の気配がする。光などどこにもない、闇の空間。リデルの部屋を出る前にスマイルに暖かな服装に着替えさせられたからか、寒さは感じなかったのが多少の幸いか。 辺りを確認すれば闇。深淵にも近い闇に満天の星がリデルを出迎えていた。リデルは息を飲む。スマイルはこれを見せたかったのか。だけどこの程度リデルの部屋からだって見ることができる。ならば何があるのだろうか。 巨大な大樹の幹を背もたれにして眠っていたリデルは辺りを見回した。忘れていた、そうだリデルをここまで連れてきたスマイルは一体どこにいるのか。 「……スマイル?」 寝起きだからか、それとも発作が起きた後だからか、発した声は酷く掠れていた。唇や咥内はパサパサに乾いていて、あまり口を動かすことができない程。辛うじて舌はそれなりに潤っているが、それもまた意味を成していない。 まるで、何年も声を出していないかのような錯覚。だが気にすることはない、発作の後はいつもこんなものだ。そんなどうでもいいことを気にすれば、きっとリデルは一日たりとも生きてはいけなかった。 「…スマイル」 先の掠れきった声では聞こえていないかもしれない。リデルはゆっくりと、一つ一つの音を丁寧に発音しながらもう一度名を呼んだ。スマイルはリデルを心配させない。だから名を呼んだら必ず声が返ってくる。 「…」 だが、リデルの予想を裏切って答えは返ってこなかった。静寂が空間を支配する。リデルは不可解げに眉根を寄せた。これは一体どういったことか。スマイルがリデルの傍を離れたことなど一度たりともないというのに。 「スマイル」 もう一度。 「スマイル」 もう一度。 だけど、声は返ってこない。リデルの光が見えない。 「……、スマイル」 最後に、掠れるような声で一言。だけど返事は返ってこない。静寂が辺りを包んで、漆黒の闇に音は溶けた。 リデルは立ち上がった。スマイルはここにはいない。ならばこんなところで座っていてもどうしようもならない。ならば動け。立ち上がれ。 微かに動かす度にギシギシと身体が軋みを上げる。冷や汗と同時に痛み。まるで何年も全ての筋肉を動かしていなかったかのような。 立ち上がるだけでも一苦労だ。悲鳴を上げる身体を精神力で押さえ込み、歯を食いしばって傾こうとする身体の体勢を保たせた。 視界に入った巨木の幹に、ふらつきながらも寄りかけてバランスをとる。うまくいかないが、この調子ならば立っているうちになんとかなるだろうと見当をつけたリデルはその背を幹に預けた。しっかりと大地に根を下ろす大樹の、ゴツゴツとした幹が多少痛い。だが、無様に倒れるよりか、いい。 喉を動かす。ひゅうひゅうと掠れた音が漏れた。確かに立っていればなんとかなるかもしれないが、これではあまり無茶は出来ないだろう。リデルは正確に判断した。これでも床に臥して数ヶ月も経つ。この程度は正確に把握できる。 だけど、動かなければ。リデルは無茶をしてでも動かなければ。スマイルがいない。リデルの光がない。暗闇の中、手探りで光を探すように、リデルはスマイルを探さなければならない。 リデルは、生きたくない。もう、生きていたくはない。生きることに疲れた。だからリデルを生かそうとするスマイルに関わるのは辛い。ならばスマイルに関わらなければいい。 そう思っていても、リデルはスマイルが何処かにいるということを把握していないと駄目なのだ。アレが何処かで生きていると言うことを確認しないと不安で仕方がない。だから、リデルはスマイルを探さなければ。 己の意志を明確に確認した。リデルは浅い息しか繰り返さない喉で、無理矢理大きく深呼吸を吸わせて前を見据える。幹に右手をやって、爪を立てながら身体を幹から離した。 身体の軋みなどもう知るものか。そんなものはどうでもいい。これが風前の灯火である己の命を消す行為だとしても、それがスマイルを探している最中ならばそれこそ幸せに死ねるだろう。 きっと、スマイルは悲しむだろうけど。 泣いてくれるかどうかは分からない。だけど、きっと悲しんでくれる。リデルが死んだら、スマイルはきっと悲しんでくれるだろう。それだけは確信を持って言える。だから、別にいい。リデルが死んでも、悲しんでくれれば別にいい。 ふと息をついたその時、ぐらりと大きく身体が傾いだ。先ほど同じく前屈みになる身体を精神力で押さえ込もうとしたが、流石に今回は無理だった。精神力ももう底をつきかけている。リデルはそのまま重力に従って前のめりに倒れようとした。 だが、いつまで経ってもあの鈍い衝撃がやってこない。体調が悪いときはろくに受け身も取れないのだから、あの鈍い衝撃は避けられないものなのに。 そう考えていれば、誰かがリデルの右腕を掴んでいることに気付いた。その腕のお陰で、リデルの身体は地面に着くことなく衝撃を感じることもなかったのだ。 もしかしてスマイルかも知れない。だけど、スマイルならば何故リデルに声を掛けないのか。もしかしたら別の人間かも知れない。様々な仮定がリデルの頭の中を駆けめぐるが、この腕の持ち主はリデルを助けてくれたのだ。礼を言わなければならない。それは人間としての最低限の礼儀だ。リデルは左腕を地面に付けて体制を整え、それからそのまま立ち上がって、リデルの腕を掴んでいる本人に礼を言う。 「助けてくださってありがとうございます。わたくしからは何のお礼もできませんが、せめて礼の言葉をお受け取り下さい」 その本人からするりと自らの腕を引き抜いて、そのままドレスの裾を摘んで一礼をする。 その時リデルは気付いた。この服は、あの時スマイルに着替えさせられたドレスではない。また別の、リデルの一番気に入っていたドレスではないか。しかも何故か泥だらけになって汚れている。これは一体どういうことだ。リデルは表情には出さないものも、内心では首を傾げていた。 いや、それよりも今は目の前の人間のことだ。リデルが礼を言ったのにも関わらず、相手は何一つ反応を返さない。リデルはその時初めて相手を見た。 漆黒に溶ける色をした、黒いフードとマントを被っているせいで相手が男か女かは分からない。だが、女性としては標準的な身長を持つリデルと同じような背の高さ。そしてマントから微かに覗く長い緩やかなウェーブのかかっている金の髪。その二つの点から、リデルは目の前の人間が女性ではないかと見当を付けていた。 ひゅ、と相手が息を呑む音がした。リデルは挨拶をしただけだというのに何か驚くようなことでもあったのか。 「…どうして、お前が、」 「え?」 驚愕に塗られた声にリデルは問い返す。それは一体どういうことかと。相手は己の反応を思い返したのか首を振った。気にするなということだろうか。 「…いいえ」 そして仕切り直しとばかりに一足遅れて、助けてくれた人間が声を放つ。 「同胞を助けるのは当然のことです。礼など要りません」 高い、ソプラノの声。これで目の前の人間が女性であることが確定した。しかし、女性の細腕で小柄とはいえ人間一人を支えられたものだと、リデルは感心する。だが、それ以上の強い疑問が蜘蛛のように脳裏に巣を作って離れない。 「…同胞?」 「はい、初めまして我らが新たなる同胞。我々は貴方がこちらの世界で新たに生を受けたことを歓迎します」 恭しく礼をする少女。リデルは眉をしかめた。女の言っていることが、リデルには砂粒ほども理解できない。我らが同胞? こちらの世界で新たに生を受けた? 何の話だ。リデルはまだ生きているというのに。女の言っていることは、リデルが既に死んでいると言うことを前提としている。リデルはまだ生きているのに。この身は未だ生命活動を続けているというのに。 「何のことをおっしゃっているのですか? まるでその言い様ではわたくしが既に死んでいるように聞こえるのですが」 「…もしや、ご存じないのですか?」 リデルの訝しげな言葉に女の方が疑問の声を上げる。 「ご存じない、とは何を?」 「貴方は既に死んでいます。それは確実に言えることです」 「――――!」 断言された言葉に驚愕を。だけどこの心は奇妙なまでに安堵していた。 リデルは死んだ。死んでいたのだ。 そういえば確かに違和感があった。眠りから目覚めたときにはまるで何年も動かしていなかったかのように軋む身体。何年も声を発していなかったかのように掠れる声。部屋から出たときとは違うドレス。泥だらけの服装。 そして、何よりも、スマイルがいない。リデルをここまで連れてきたスマイルが、何が何でもリデルから離れなかったスマイルが、いないのだ。それが何よりの証拠なのではないか。 そして、闇に紛れて分からないが、目を凝らせばよく見える。この木の周り、リデルを中央として、闇の中ぼんやりと浮かび上がる白い物――――墓石。 ここは、紛れもない墓地だ。墓地にリデルが泥だらけの格好でいる。それだけで、既に女の言っていることを証明しているのではないか。 「…成る程」 呟いた言葉が妙に空々しく聞こえた。どこか笑い声に近かったかもしれない。 死んだという事実を冷静に淡々と受け入れることの出来る自分が不思議だった。いや、不思議でもないのか。リデルは確かに死に執着していたのだから。 生に対して何の未練もなかった。未練がなかった筈だからこそ、スマイルが躍起になって呼び起こそうとするそれ。それを最後まで呼び起こす前にリデルは死に、そして今に至るというわけだ。 成る程、だからこそスマイルがいなかったのだ。可笑しいとは思っていた。スマイルは生きている間はリデルの傍を離れることはなかったから。 「…何故笑っているのですか? 貴方は」 「笑っている? 笑っているのですか? わたくしは」 確認するかのように問うと、小さく頷かれた。 「…笑うのは、嬉しいからです。多分わたくしは嬉しいのです」 それは恐らく、生から解放されたこと。病から解放されたこと。確かにこの身に未だ黒い斑点はあるが、それでも生から解放されたことはリデルにとっては喜ばしいことの一つだった。 スマイルと離れたことは確かに悲しむべきことだったのだがそれ以上に今の喜びの方が強かった。 リデルは笑顔のままで問う。女はそんなリデルを訝しんだようだった。 「申し訳ありませんが、何分目覚めたばかりで今一つ知識が不足しています。幾つか尋ねさせていただきますが、よろしいでしょうか」 「構いません。目覚めたばかりの貴方に突然このようなことを言って申し訳ありません。どうぞ、幾らでも。気が済むまで」 女からの了承は取れた。リデルは瞬時に脳内での質問事項を重要な物の順に並べ直し、女に問う。 「それではまず、こちらの世界、とはどこでしょうか。貴方の言い方からすれば、まるでここが人間の住む世界ではないかのようですが」 「その通り、ここは人間の住む世界ではありません。ここはメルヘン王国。人間以外の魔物が住む世界。闇に属する者が生まれ、領主と呼ばれる存在が統治する世界」 「では次です。同胞とは、どの様な意味でしょうか」 「そのままの意味です。貴方は一度人として死に、我らと同じ種族に再び生を受けました。故に同胞。我らが迎え入れるのも道理でしょう」 「その種族とは?」 「不死者。ゾンビやグールとも呼ばれる存在ですが、総称としてアンデッドと呼びます。不死者の中には階級があり、下位の餓鬼 成る程。リデルはひっそりと息をついた。女が言っていることが正しいならば、リデルは既に死んで不死者として生き返り、今はこのメルヘン王国という場所にいることになる。それに女が迎えに来たと言っていたということは、リデルが不死者として目覚めたのも数秒前ということだ。しかしリデルはイギリスで生を受け、イギリスの土で死んだ筈なのだがそこは何らかのカラクリがあるのだと仮定する。 そして女は何かの組織に属しているようだ。種族全体がリデルを迎え入れるのならば、『不死者 しかし何かが引っかかる。女の言葉にリデルの脳が引っかかりを覚えた。 『僕の故郷はねェ、メルヘン王国って言って僕みたいな存在がうようよしてるトコなんだよ』 スマイルの声が、リデルの脳裏に蘇る。そうだ、スマイルはそう言っていた。ここはスマイルの故郷か。 動けないリデルとの話の種に、スマイルはよく故郷の話を選んだ。そのせいかリデルは妙にこのメルヘン王国について詳しくなってしまったのだ。その知識は未だリデルの頭の中に眠っている。役に立つ日が来るとは思いもしなかったが。 「故に我らは貴女を歓迎します、我が同胞。貴女のその様子からして、貴女ではない他者が貴女を不死者としたのは明確ですが、貴女がこちらの土地に埋められていたということは我らの中の誰かが貴女を不死者にしたということ。ならばその責任として、貴女を我らに迎え入れましょう。貴女に生きる術をお教えします」 女がリデルに手を差し伸べる。しなやかでたおやかな、きめの細かい白い女の指。リデルが考えている最中だというのに、女はリデルの質問が終わったものだと思いこんでしまったようだ。 女の白い指を冷めた眼差しで見ながら、リデルは最後の質問を口にする。 「最後に、一つ問います。何故あなた方は不死者 ――――何らかの理由があるのでしょう。その理由を、お教え下さい」 臆すことなく、怯えることなく、戸惑うことなくリデルは問う。だが女も怯まない。まるで答えを用意してきたかのように、女は淀みなく答えた。 「それは階級の高い者達のことです。不死者 「――――成る程。己の位が低いのだと、そう言うのですね。あなた方は」 その声をリデルが遮った。透徹で冷徹な、心の臓から魂の淵まで凍ってしまいそうな程の声音。女が訝しげに顔を上げた。リデルを侮っていたのか。ならば余計に不可能だ。リデルはこの女に着いていくことはできない。 「…?」 女の困惑した表情。リデルが何を言っているのか理解できていない顔。 卑屈な言葉は要らない。卑屈な根性は要らない。 リデルは生前のことを思い出す。弱者だろうがなんだ。たった一人で生き抜くことなんて簡単だろう。そうでなければリデルの生前の生活は一体何なのだ。リデルの傍には誰もいなかった。 …そして、そこに入り込んできたのがスマイルだった。彼は最初からそこにいるかのように、当たり前のようにリデルの傍に入り込んできたのだ。 それに加えて、何故女は組織に属している? 組織という物は何らかの理由があり、それに同意する人間が集まって初めて組織と言えるのだ。何故それを己が弱者と言うことで偽るのだ。何故加わってくれと頼んでいるにも関わらずに自ら偽るのだ。それでは信頼など得られるはずがないだろう。 リデルは目を細めた。睨みつける。静かに、視線だけで相手を射殺すように。 ――――挑発を。 侮ってもらっては困る。この程度の嘘など見抜けずに貴族などやっていられるか。これはリデルを侮ってもらった礼だ。 「ならば、わたくしはあなた方に迎え入れられることを拒否しましょう。位が低い? だから群れて生きる? その程度のことで群れて生きるなど愚の骨頂。自らが弱者であるとさらけ出しているようなものではないですか。位が低かろうと何だろうと、堂々と一人で生き抜けばいい。その程度のことで群れて生きることなど、わたくしの矜持が認めません。 故にわたくし、リデル・オルブライトはあなた方に迎え入れられることなく離反し弓を引きましょう」 そしてリデルはスマイルを探す。リデルの光を探すのだ。闇を生き抜く者は特殊な力を持つ。そう簡単に他者からの攻撃では死なないし、寿命で死ぬことは滅多にないとスマイル自身が言っていた。 ならば、リデルはスマイルを探す。リデルが死んでから何年経っているかは分からないが、スマイルが生きている可能性がある。だからリデルはスマイルを探すのだ。 「――――正気ですか、貴女は。貴女が我らに敵対しても、何一つ得るものなどないというのに」 「確かに得るものなどないでしょう。ですが、それでも構いません。わたくしは誰よりも何よりも、わたくしの誇りを選びます」 決して引くことはないのだとこちらの意志を明確にリデルは主張する。女は突如として手のひらを返したかのようなリデルの様子に戸惑っている。それも当然のことだろう、先ほどまでの笑顔は偽りだったのかと思ってしまうほどの手のひらの返しようだ。これで戸惑わない方が可笑しい。 そしてリデルは本題を切り出した。 「ですから、あなた方の本来のお教え下さい。上辺だけの建前は必要ありません。その程度見抜く術など理解しております。わたくしは真実を聞き、それによりわたくしの価値観であなた方に組するか判断しましょう」 リデルはドレスの裾を摘んで優雅に礼をしてかしずいた。これがリデルにできる最大限の譲歩だ。本来ならばもっと嘘をついて騙せばいい、偽りを口にすればいい。だが悲しいことにリデルは誠実な人間だった。嘘をつくことはできなかったのだ。 女は見透かすような視線をリデルに向けた。リデルはそれに真っ向から対する。リデルの目に偽りはないのだから幾らでも見ればいい。リデルからは何も出てこない。 女は視線を逸らしてこれ見よがしにため息をついた。 「…貴女に偽りを貫くことはできないようですね、ミスオルブライト。所詮新参者の小娘と侮って偽りを吐きましたが、どうやら貴女は違うようです。…貴女という人間を見くびっていたことを、ここに謝罪します。 いいでしょう、わたくしはわたくしの独断で貴女に我らの目的をお話しましょう」 女が頭を下げ、リデルは無言で続きを促した。女もそれを承知でリデルを見ることなく言葉を紡ぐ。 「我らの目的は端的に言うならば復讐です、ミスオルブライト。古くからの怨恨が降り積もり、我らは復讐をすることに決したのです。誰に、ということは今は言うことが叶いませんが、こちらの――――メルヘン王国の者には一切関係のないことなので、貴女が我らに関わらなかった場合も、貴女に被害は一つたりともございませんのでご安心下さい。 我らその為に我らは力を欲します。様々な種族の者が我らの元に集まってはおりますが、それでも戦力が足りないことは明白。未曾有の力を有しても尚、我らは力が欲しい。そこで我らが目をつけたのは貴女です、ミスオルブライト。我ら不死者 「…復讐、ですか」 「ええ、貴女にはありませんか? ミスオルブライト。誰かに復讐したいと、誰かが憎いと、本当に心からそう思うことが」 「ございません」 きっぱりとはっきりと明確に言い切る。女は驚きに目を見開いた。だが本当にリデルにはないのだ。憎悪も嫌悪も復讐心も、リデルの心には何もない。他者に復讐しようなど思ったことなどない。リデルの胸にはぽっかりと穴が開いていて、憎悪も復讐も胸を通り過ぎてしまうのだ。リデルは聖人ではない。ただ、リデルの胸には何も残らないだけ。遠い遠い昔から、リデルは全てを諦めていたから。 父母や兄弟との思い出。屋敷での日々。貴族の子たちとの優雅な晩餐会。かかった病。隔離され捨てられたということ。その全てがリデルにはどうでもいい。病にかかった者を隔離することは当然のことであるし、自分が病にかかりたくなければその者と関わらないことが無難だ。それも全てリデルには分かっている。 だからリデルにはどうでもいい。彼らは人間や生命にとって当然のことをしたというのに、何故恨まなければならないのか。 …それよりも今、風穴が開いたリデルの胸に残っているのは、他の何者でもなくスマイルのことだった。父母や兄弟、貴族の子と過ごした時間よりあまりにも少ない。時間に換算すれば半年程にしか満たないだろう。それでも、リデルの胸に残っているのはスマイルのことなのだ。 光。 リデルの、光。 その存在のことを考えれば、リデルの胸は暖かくなる。冷えた空気しか流し込まないリデルの胸がほんのりと暖かくなるのだ。 「わたくしは、復讐心など欠片もございません。ですがわたくしは聖人ではございません。ただ、わたくしの心を占めているのは諦観の念だけなのです。残念なことに、それより他はございません。わたくしにあなた方の話を理解しろというのも無理な話。 故に、お帰り下さい。わたくしは、あなた方に組すことはできない」 強い情熱は、確かにリデルにもあるのかもしれない。ただ他者を憎むという感情が欠如しているリデルには、彼らに組することはできない。リデルはきっと、己の意志がなければ誰一人として傷つけることはできないだろう。 そんなリデルが、自らの意志でもないのに復讐の手助けをする? …無理な話だ。 眉をひそめて口を開く女。彼女としてはイエスを期待していたのだろうが、リデルは彼女を拒否する。 「…ですが――――ッ!」 なおも言い募ろうとした女に向かって、リデルの頭上から銀の閃光を放ちながら闇を切ってナイフが落ちた。女の顔色が変わる。それと同時に、リデルの頭上――――ナイフが飛んできた方向から一つの声が降りてきた。 「しつこいよ、君」 それは、リデルにとって聞き覚えのある声だった。 ザン、と木の葉をまき散らす音をたてて己の存在を誇示しながら、リデルの頭上の木からまるでリデルを庇うかのように何者かが降りてくる。それはリデルの目の前に降り立って、その高い身長でリデルの視界を遮った。リデルは目をみはる。 青い髪、青い肌。身に纏うコートは茶色で、おそらく正面からきちんと見ればリデルの予想通りに十字架が刻まれているだろう。 そして、体中の至るところに巻かれている、包帯。 それさえあれば分かる。それだけで分かる。リデルの目の前のこの長身の包帯男。この男は――――、 「――――スマイル」 「やぁリデル、お久しぶり」 スマイルはいつもの軽口のような口調で、リデルに手を上げて笑った。 リデルは、リデルの光を見つけた。 02. 「スマイル、お前、何故ここに――――」 リデルは高い位置にあるスマイルの顔を見上げた。スマイルはいつもの皮肉げな笑顔を浮かべてリデルを見下ろしている。リデルよく見知った笑顔、何一つ変わっていない。あぁ、これはスマイルだ。 「それは後でね、今はコッチの方が先決でしょ? リデル」 スマイルはコートを翻した。リデルに背を向け、驚愕に固まっている女と対峙する。コートの中に滑り込ませた手は月光に反射されて煌めく銀の光を持っていた。あれはおそらく先ほど女を狙った投擲ナイフと同種類だ。 スマイルは指の間に挟ませた数本の投擲ナイフを女に向けながら口を開く。 「しつこいよ、君。君こそ不死者 女は反論しようとした言葉を喉の奥に飲み込んだ。スマイルの言うことは確かに事実のようだ。人間は正論で攻撃されるとどんなに強気な人間でも途端に弱くなる。己に非があるとなると尚更だ。 女は予想外の乱入者の登場に、今は機が悪いと踏んだのかジリと後ろに下がる。しかしそれも叶わない。女はスマイルを睨みつける。スマイルは笑顔を保ったまま女を見下ろした。 「あぁ、動けないよ? さっきのナイフで影縫いしといたからねェ。これは君の失策だよ、満月の夜なんかに契約を結ぼうなんて考えたんだから」 スマイルの嫌みったらしい声。だが女が動けないと分かっていても、スマイルはリデルから離れようとはしなかった。リデルは女とスマイルを見比べる。リデルにはこの流れの方向性が全く見えてこなかった。だがどうやらスマイルの方が優勢のようだ。おそらくリデルが口を開けば立ち位置が反転するかもしれないだろう。リデルを庇うスマイルも敵になるかもしれない。故にリデルは沈黙を選んだ。 「…どうやら貴方は我らという種族を侮っておいでのようですね。喩え我らが貴方に比べれば低位の種族であろうとも、影縫いなど幾らでもすり抜けることができるということ、お分かりでしょうか」 「いいや、侮ってなんかないよ? だから僕は君に近づかない。君こそ分かってないよねェ、そういうトコ」 音もなく、空気が凍結するのが分かった。殺気と殺気が満ち溢れていて、呼吸をする度に刃のように空気は喉を突き刺す。息をすることも困難だ。それすらもこの張り詰めた空気を壊すものとなる。 「…一つ問います。貴方は何故この場を知り得ているのですか? この場は我らしか知らぬ場所。何故貴方がここにやってきたのかが不思議で仕方がないのです。 いいえ、むしろ――――、ここは元々貴方の土地だったのですか?」 女の問いに、スマイルが笑った。嘲るような楽しんでいるかのような、不思議なチェシャ猫のような笑みを緩やかに浮かべた。 「そうだ、って言ったら?」 「その時は非礼を詫びましょう。数十年前にこちらにやってきた時はどうやら誰の残り香もしないようなので、今現在は我らが使わせていただいております、と。 それで、貴方はどちらなのでしょうか。青い肌の透明人間」 …女の殺気はこれ以上ないほど強くなっていく。女はきちんと、スマイルの言った場合にはという仮定としての話を聞き逃すことなく尋ね返した。 スマイルはそれに笑みを深くする。緩やかに、深くする。 「そうだねぇ…、どっちだと思う?」 「我らを愚弄しますか、貴方は」 「いいや、別に? ただちょっとからかっただけだってのに、大袈裟だねぇ。 …まあいいや、教えてあげるよ。僕がここを知っているのは僕が偶然ここを見つけた…からではなく、ユーリに教えてもらったんだよ。この区域の領主であるユーリから直々に、ね」 ――――罅が入る。 この張り詰めた空気、殺気に満ち溢れて今にも崩壊しそうな空気が、益々増大した女の殺気に耐えきれずについに罅が入った。 肌に突き刺さる殺気が次第に形を露わにする。女の瞳が金色に光る。それと同時に、女の周囲に金色の霧にも似た光が集まるのが見えた。 リデルは咄磋にスマイルを見た。スマイルは先ほどと変わらぬ様子で佇んだままだ。あの奇妙な笑みも変わってはいない。それはおかしい、限りなくおかしい。あれは途轍もなく途方もなく危険なものだ。不死者として目覚めたばかりのリデルの本能が警鐘を鳴らすほどの。だからスマイルが笑ったままでいるのはおかしい。もしかしてスマイルにはあの光が見えてはいないのだろうか。そう思えば俄然納得がいく。 そう考えている内にも、女の周囲に光は集まり続ける。ぞくぞくとリデルの肌が粟立つ。あの金色の瞳を見ていると心の臓が凍る。 あれは、あの光はあれ以上集めさせては駄目だ。 女が光を集めるのを止めてスマイルに視線を向けた。そして、問いかけをする。 「一つ、問います。 ――――貴方は、領主の犬ですか?」 スマイルの唇が、笑みを象る頬が、まるで心からの笑みを浮かべているかのように動いた。 「そうだよ」 スマイルの言葉が耳を打ったのと同時、リデルの肌が一際粟立った。 女の光が、ついにその鎌首をもたげる。あれは誰にも防げない圧倒的な破壊力を持った暴力だ。あれに触れたが最後、きっと紙屑の如くその体は消し飛んでしまうに違いない。そして、その指向性がスマイルに向いているのを確かに分かって、 いつの間にか、リデルはスマイルの後ろから駆けだしていた。 「ッ! リデル!」 「…え?」 スマイルの慌てた声。女の呆けた声。それら全てを無視して――――、 「お止めください」 女の首を掴んだ。リデルは瞬時に女の後ろ側に回ってすぐにでも女の首の骨を折ることができるように、静脈と動脈を的確に押さえて女の動きを封じる。 「貴女はわたくしをそちらに引き入れるためにやってこられたのでしょう。ならばここで戦闘に入るのは無意味です。ここで戦闘に入った場合、この場で一番死亡確率が高いのは目覚めたわたくしです。わたくしをむざむざとここで殺すことは貴女にとってあまりにも惜しいことではないのですか? …それに、わたくしはこれを傷つけられた場合、それが誰であろうと即座に敵に回ることにしておりますので、どうぞよしなに」 女は急所を押さえられているというのに抵抗することなくリデルを背後にいる見下ろしていた。ただ静かに、リデル・オルブライトという人間を見ていた。 「…それは、脅しと受け取っても?」 「それを決めるのは貴女です。貴女の行動の決定権は全て貴女にあるのですから。わたくしには何も申し上げることができません」 存外に、逃げたければ逃げればいいとリデルは言う。拘束しているリデルの手首を折ってでも、女の周りに集まるその光を使ってリデルを殺してでもいいから逃げたければ逃げればいいと、暗にそう言う。 「貴女の心に天秤をかけ、傾いた方に従えばいい。ただそれだけのことです。わたくしが言うべきことなど何一つとしてございません」 ふと、リデルは女の周りを漂っていた光が消えているのに気づいた。だが女の首にかけられた手を離すことはない。 「…根性は据わっているし、度胸は一級品。このような状況においてパニックを起こさず冷静、その冷静さを最後まで欠くことなく慎重。ここで外すことなく急所を狙うのも素晴らしい。そして、数百年ぶりの純粋な不死者 女の声が途切れた。リデルは女の言葉を見守る。 「…では、」 「ええ、貴女のその全てに敬意を示し、ここは引きましょう」 女は茶目っ気のある、だが先ほどとは違い穏やかな口調で返した。 「ありがとうございます、わたくしもそう言っていただけで嬉しく思います」 リデルは当たり前のように礼を言う。そこで、女の唇が動いたのが分かった。 「…この茶番劇の主役を張るのは十分のようね」 その言葉はあまりにも微かすぎてリデルの耳に届くことは叶わなかったが、一瞬だけ女はリデルに哀れみのような瞳を見せた。 「それで、貴女はこれよりそこの透明人間の下に身を寄せるのですか?」 「…そうですが、何か」 リデルが素直に答えれば、女はスマイルに挑むような視線を向けたがすぐさまリデルに微笑みかけた。視線を向けられたスマイルは何の行動もしていない。 「…いいえ、何も。それでは失礼します、リデル・オルブライト。次に会う時はいい返事を期待しています」 そう言うと、女は瞼を下ろして一言呟いた。 「ああ、その前に」 女は微笑んだままリデルに囁いた。月に濡れて光る女の金の髪が揺れた。フードを被った女の容姿をリデルは一瞬見た。 ――――それはリデルの見間違いかもしれない。だがその容姿は、まるで双子かと見違えてしまうほどリデルのそれと似通っていたのだ。 「…あの透明人間には気をつけなさい。あの犬は、何れ貴方をその魂まで食らうわ」 それは今までの中で最も親しみが籠もった声で、リデルは思わず女を見た。だが女は素知らぬ顔をしている。そして、女は最後の一言を呟いた。 「私は黒い水となる リデルが捕らえていた女は本当に黒い水と化してリデルの腕からすり抜けた。リデルは必死に掴もうとするが水では何も掴めない。腕にかかった水がリデルの服に吸い込まれることなくリデルの影に落ちていった。 *** それから戻ってくるのは静寂と平穏だ。張り詰めていた空気が消え、リデルは一つため息をついた。ようやくこれで楽に息が吐ける。 「リデル」 ああ、そうだスマイルがいる。リデルは俯けていた顔を上げた。するとそこにはスマイルの――――、 「なぁにやってんの! キミは!」 至近距離での怒鳴り声に耳がキンキンと鳴り響く。リデルは思わず肩を竦めた。突然何だというのだ。 「何かしら、スマイル」 「何じゃないでしょ! 何であそこで飛び出してああいうことをしてるのさキミは! 危険だってことは分かってたんでしょ?!」 「ええ、危険だということは分かっていたわ。あの女があの光を解放すれば、私なんてたちまち塵芥になるということも。 でも、あそこで私が飛び出すのは当然じゃない」 そう、それはリデルにとっては当然のことだ。どうしようもないほどに、己の危険など省みないほどに。 だって、スマイルが危険なのだ。スマイルが命を落とすかもしれないのだ。あの凄まじいまでの破壊力を持った光の方向性は確実にスマイルに向かっていて、スマイルが死ぬかもしれないというその事実を見た瞬間、リデルはいつの間にか飛び出していた。そんなのは駄目だ、そんなのは嫌だ。スマイルの危険とリデルの危険を秤にかければ、どちらに傾くかといえばそれは当然スマイルの方だ。 「私にとって、私が傷を負うこととお前が傷を負うことは、決して等価値ではないのよ」 だから私はお前を守っただけ。リデルは声無き声で呟いた。 すると、微かな嘆息が聞こえた。リデルのものではないから、必然的にスマイルのものとなる。 「相変わらずだねぇ、リデル。その僕至上主義なトコ、どうにかなんない?」 「お前至上主義というわけではないけれど。…そうね、きっと無理ね」 きっとリデルには無理だ。スマイルを自らの光としたリデルには、きっとどんなに拒んだところで最終的にはスマイルの意志を優先させてしまうに違いない。 「でも、あのままだったらお前が危険だったのは事実よ。私はあの女の周りに集まっていた光が何か分からないけれど、あれがお前に向けられて解放されていたらお前が塵芥になっていたでしょう。 それに、私はあの女に仲間にならないかと持ち掛けられた。そんな人間を殺すことなどあり得ない。これでも勝算はあったのよ」 だから心配するなと暗にリデルは言う。だがスマイルはもう一度溜め息をついて首を横に振った。 「いや、僕が言いたいのはもう危険なことはするなっていうことなんだけど。 それにリデルに守ってもらわなくても、きちんと不死者対策は練ってきてるから。今まで何回も彼らとは戦ってるし、術対策なんて今更だよ」 「…そう」 リデルは目を見開いた。不覚にも素直に驚いてしまった。ああ、そうか。意外にもこの慎重派であるスマイルがあそこまで無防備に敵の前に姿を現しているということはそういう挌繰があったのか。 驚いていればスマイルがくつりと笑って、途端に居住まいを正した。 「それよりもね、リデル。挨拶が遅れた。 ――――歓迎するよ、リデル・オルブライト。不死者として新たにこちらの世界に生まれたキミを、先達である僕とこの土地を治める領主が歓迎しよう」 スマイルが優雅に一礼する。まるで貴族のようなその動作に、リデルも生前と同じように一礼して呟いた。 そうだ、突然のスマイルの登場で全てを忘れていたがようやく思い出した。そうだ、リデルは問いつめたいことがあったのだ。 「…スマイル」 「何? リデル」 スマイルはにこやかに笑ってリデルをのぞき込んだ。リデルは確認する色を強く漂わせて問う。 「私は死んだの?」 一番重要なこと。本来なら一番最初に問わなくてはならないこと。 女の説明でリデルが一度死んで不死者として生き返ったことは分かる。だがそれはあくまでも間接的で直接的ではない。リデルははっきりとした言葉が聞きたいのだ。そう、そしてそれは他ならぬスマイルの口で。 スマイルもそれを感じ取ったのか、瞳を伏せて頷いた。そして言う。 「死んだよ。リデル・オルブライトは18で確かに死んだ。僕はその時のことを知らなくて、僕が行った時はもう既にここに埋められた後だった。 …死んだ時のこと、覚えてない?」 スマイルはこちらの様子を伺うかのようにおずおずと尋ねてくる。リデルは首を振った。死んだ時のことなど一切覚えていない。 「覚えてないわ。私の記憶は、深夜発作が終わった私をお前がどこかに連れて行こうとする場面で途切れてる。 今の私は、その時の記憶の延長線上でしかない。そのせいかこちらで目覚めた時は酷く驚いたわ。私はスマイルに連れて来られたはずなのにスマイルはいないし体中は泥だらけだし。身に纏っていた服も違う。それに突然出てきた女には私は既に死んでいると言われ、これは一体どういうことかと思ったわ」 落ち着いた今ならば、女の言っていた意味も分かる。リデルの服が泥だらけだったのはリデルが不死者として目覚めて、棺桶から土を掘り進んで出てきたから。スマイルがいなかったのは、そもそもリデルが知る記憶の続きではないからだ。 身に纏っている服は葬式の時の死装束だろう。死装束は死んでから服を着替えさせ、化粧をさせられる。死んでいたリデルが覚えている道理もない。 「あれでも内心は混乱していたのよ。お前もあちらもそうは見えなかったでしょうけど」 「…あれで?」 「ええ、これでも上辺だけ取り繕うのは得意だもの」 貴族の女を嘗めないでほしいわね。得意げに笑ってリデルは後ろ髪を手で掬った。髪に指を通せば泥のせいで絡まって、途端眉をしかめる。髪に泥がこびり付いている。頬も服も同様だ。これ以上放置していれば大変なことになってしまうだろう。 スマイルはそんなリデルの様子に気づいて手を伸ばしてきた。 「言いたいことは山ほどあるけど、今ここにこれ以上いても埒があかない。それにリデルの髪がなくなるのも忍びないし、場所を変えよう。 領主 スマイルが手を差し伸べてくる。リデルは、それを何の躊躇いもなしに掴んだ。 「着いたら髪を洗うの、手伝ってくれるのでしょう?」 「了解しました。髪だけとは言わず体中綺麗にするから、安心して」 「そう、ありがとう」 そして二人は歩き出した。リデルはスマイルに手を引かれ、何処とも知れぬ闇の中、星の下を歩いていく。 その時には、女の謎の言葉などリデルの頭からはすっかり抜け落ちていた。 03. 初めてそれに出会ったとき、リデルは一人だった。広い屋敷にたった一人。リデルに罹った病に感染するのを恐れて、皆この屋敷から出て行ってしまった。 取り残されたのは己のみ。侍従も誰もいない、今まで貴族として生きてきた者が病に冒され捨てられたという最悪の状態で生き残ることなどできはしないのは自明の理だと誰もが考えていたのだが―――― 彼らの思惑とは異なり、残念なことに己は生きていたのだ。 貴族でありながらも庶民らしいことが誰よりも好きだった自分、貴族らしさよりも合理性を優先させ、それでいて高い矜持を持っていた己は、侍従などおらずとも苦もなく人間として生きていけるレベルまで達していたのだ。 広い屋敷にたった一人。そこは誰もいない孤高の牢獄を感じさせた。 だがそれでも孤独だったわけではない。孤独だったのだと勘違いしてはならない。そもそも己は人間が苦手だ。平民から税を搾り取るだけ搾り取って後は捨て置く貴族が嫌いだ。…己もその貴族の一員だと認識していながらも、リデルは貴族が嫌いだった。 両親も、兄妹も、一族も。皆が皆、そういう考えではないのだろうけど、リデルは彼らが苦手だったのだ。同時に彼らもリデルが苦手だったのではないかと思う。リデルはそのときの貴族が決して持ち得ない考えを持っていたのだから。 彼らにリデルは理解できず、リデルは彼らの考えを理解していながら全く別の生き方を選んだ。 言うならばそれは孤独だ。一族血縁者がそろう中、リデルはいつも独りで迫害に近い生き方をしていた。 若い者は価値観のまるで違うリデルを『自分たちとは違うモノ』と判断し嫌悪し隔離した。年老いた者はリデルの存在そのものを恐れているようだった。リデルの容姿は彼らにリデルとうり二つの容姿の古い者を呼び起こし、だからこそ恐れているのだと。 若い者が自分を隔離するのは分かる。確かに違うモノならば隔離するのが当然だろう。だが古い者が何故この容姿を恐れるのか、己と同じ容姿を持った者に何があったのか。昔、それを調べたことがあった。…その理由も、今では覚えていないが。 そうしてリデルは隔離されていった。様々な人間にリデルは隔離されて生きたが、リデルはそれを隔離とは思わなかった。別にそれでもよかったのだ。 それこそが孤独と言わずなんとする。孤独は世界にただ一人いるから孤独なのではない、大勢の中でたった一人だからこそその孤独は孤独と認識し、孤独であると光るのだ。 だからこそ、今の状況は孤独ではない。孤独を経験したリデルにとっては今の状況はぬるま湯のようなものだ。確かに誰一人としていないということは多少不便ではあったが、寂しさなど感じたことはなかったのだ。 いや、それは以前からだったかもしれない。大勢の中でこそ光る孤独。そうは言ったが、リデルはその中ですら寂しさを覚えることはついぞなかった。 感情が摩耗しているわけではない。嬉しいときは笑うし、苛ついたときは怒る。ただ、寂しいとは思えなかっただけなのだ。 そんな時、リデルはそれに出会った。青い肌、青い髪、巻き付けられた包帯、見えない片目、茶色のコート。青色の透明人間。 そう、現在ではリデルの光たる透明人間。――――スマイルに。 *** 「リデルー? 準備できた?」 「ええ、できたわ。すぐにそっちに行くから、そこで待っていなさい」 「りょーかい」 一通りの準備を済ませ、リデルは扉の向こう側に立っているであろうスマイルに声をかけた。 現在のリデルの格好は、先ほどの墓場での泥だらけではない。真新しい黒色のドレス、緩くウェーブのかかった長い水色の髪、赤い瞳、頬や髪にこびり付いていた泥はすべて丁寧に落とされ、そのせいか先ほどは目立たなかった黒い斑点がところどころ見えていた。 リデルの肌は白い。だがそれがその斑点の異常さを際だたせることになった。 クローゼットに取り付けられている巨大な鏡で己の姿を確認する。特別何かおかしなところはない。生前とまるで同じ姿だ。だからなのか、独白は思わず口をついて出ていた。 「…相変わらず醜いわね、私も」 「そうでもないけど?」 響いたのはスマイルの声。思わず振り返るも、そこには誰もいない。それはリデルも理解していた。だからこそもう一度鏡で己の姿を確認して、ため息をついて振り返るのだ。 「…いつから覗いていたの? スマイル」 今はリデルの目の前で、リデルの姿を覗き込んでいるだろうスマイルに問いかける。呆れたような眼差しを向ければ、スマイルはすぐに姿を現した。 「んー? ついさっきから。大丈夫だよー、着替えとかは覗いてないからさ。ヒッヒッヒッ…」 「…お前のその笑い方も相変わらずね」 その嘲笑にも似た独特の笑い方。聞いているこちらとしては本来ならばあまり良い気分にはならない筈なのだが、何故だか不思議と嫌な気分になったことはなかった。 「お姫様も相変わらずだよねー、姿を消しててもすぐに僕のこと見抜くんだもん。変わってなくて安心したよ、ホント」 「変わっていないのはお前でしょう、スマイル」 今まで死んでいたリデルの時間は停滞している。故にリデルが変わる道理はない。だがスマイルはリデルが死んでいた間も生きていた。これで変わらないというのは恐ろしいことだ。それだけ自己が確立されているとも言えることだが。 「それで、準備できてるよね? リデル」 「ええ、できているわ」 もう一度繰り返されたスマイルの問いに、リデルは同じ言葉を返す。そうすれば、リデルに差し出されたのは包帯だらけのスマイルの手。 「じゃ、行こうか。領主殿は首を長くしてお待ちだよ」 リデルはその言葉に返す答えを持ち得ない。差し出された手を掴んで部屋を出る。長い廊下に敷き詰められた赤い絨毯を二人して踏みながら歩いていく。 *** リデルが今歩いている場所、ここは領主の城だ。 領主。 それはこのメルヘン王国には当たり前の存在の、闇に属すを統べる者の名である。 新しく生まれた者には生誕の祝辞を述べ、問題が起これば時には人間や天使の間に立ってもめ事を解決する、闇に属する者でありながら中立者として生きることを義務付けられた、生まれながらにして高貴なる者。 それが領主という存在だ。領主は地方ごとにその土地を治めており、その地帯の闇に属す者を管理している、まさしく『領主』なのである…らしい。 らしいというのは、リデルにはあまりよく分からないからだ。この言葉も先ほどこの城に連れてこられる最中にスマイルに説明されたばかりの付け焼き刃な知識で、領主と呼ばれる者が本当はどのような者であるかよく分からないのであった。 「スマイル」 己の手を取って、目の前を歩く透明人間にリデルは声をかける。振り返ることはなく止まることはなく、進み続けたままスマイルは答える。 「んー? 何? リデル」 「ここの領主はどのような方なのかしら」 そう尋ねれば、先ほどまで迷いもなく進み続けていたスマイルの体がピタリと止まる。リデルは不審そうに眉をしかめた。スマイルはどのようなことでも基本的に迷うことはしないのに。 「どうかしたの?」 「いや、別にどうもしてないんだけど…」 だったら何故歩を止めるのだ。スマイルの青い気配が珍しく揺らいでいる。それからスマイルは数十秒考え込んで、それから振り返り、リデルを見て情けなさそうな表情を浮かべて口を開いた。 「うーん…リデルと、結構似た者同士かもね」 「…私、と?」 「うん、リデルと。 プライドが高くて、冷静で、情に厚くて、綺麗で。争いは好きじゃないし、自分からは絶対に手を出さないけど手を出されたら返り討ちにして、ついでに二倍三倍返しをしたり。 そういうとこ、似てるし。それに、――――なんていうか、貴族なんだよね、二人とも」 まあ、ユーリは貴族っていうか王なんだけどね、と茶化すようにスマイルは付け加える。 「…王?」 「そ、貴族って言うよか、王様。領主だから仕方がないんだけど、命令し慣れている王様みたいな感じかなー。ここらあたりじゃ、ユーリは吸血王って呼ばれてるよ」 「吸血王、それでは」 「うん、ユーリは吸血鬼だよ」 あっさりと頷いてしまうスマイル。それには流石にリデルは眉をひそめてしまう。 「…そんなにも簡単に言ってしまってもいいの? 本来ならば、本性など隠すためにあるのでしょう。 お前が透明人間であるという本性を隠すために、体中に包帯を巻き付けているように。吸血王も、何かに擬態しているのではないの?」 「あ、それはないよ」 間髪を入れずにスマイルが答えた。リデルは顔をしかめてしまうばかりだ。それではスマイルに教えられた知識に矛盾が生じてしまう。 元々、リデルはこちらに対してそこそこの知識は仕入れていた。それは生前、スマイルがリデルのために聞かせてくれた寝物語が大本で、そこでは魔物の本性は隠すべきだとスマイルは言っていたのに。 「ユーリが…っていうか、領主が特別なだけだよ。領主はすべてに対して中立で公平。自分の種族とか、そういう隠さなければならないことも全部公開しなきゃならないんだよ。そうじゃなきゃ、誰からも信頼されないしね」 「他者の信頼を得るために、誰よりも誠実でなければならないということかしら」 「そうだね、多分そういうことだよ」 「…成る程」 それはとても分かりやすい理屈だ。領主は公平であり、中立であり、誰からも信頼されなければならない。そうでなければ領主ではなくなってしまうから。 「でも、ここの領主が吸血鬼であるということは、人間には恐れられているのではないかしら。吸血鬼は人の血を吸わなければ生きられないのでしょう?」 リデルがふとした疑問を口に出す。スマイルは一瞬躊躇するかのような表情を見せた。 「…それはまた、後で。今はユーリが待ってるから、急ごう」 止めていた歩を進める。ここから吸血王の待つ部屋はそう遠くはなかった。 そういえば、とリデルはスマイルに手を引いて貰いながらふと疑問に駆られた。 スマイルは透明人間だ。しかし魔の者はその本性を本当に信頼できると自らが断じた者にしか教えない。故にスマイルも透明人間であるということを隠して、普段は包帯を巻いてミイラの真似事をしているのだと言っていた。…まあ、それが今ではただのファッションに成り下がってきていた、と笑ったのもスマイルであったが。 だが、何故。 先ほどの女がリデルの脳裏によぎる。先ほどの女は、スマイルとは初対面であろう。二人とも、以前に互いが互いを認識していたという素振りはなかった。 だというのに、何故。 『青い肌の透明人間』 あの女は、スマイルのことを透明人間だと断ずることができたのだろう? 「リデル?」 考え込んだリデルにスマイルが訝しげに問いかける。 「いいえ、何でもないわ。行きましょう、スマイル」 己の疑問を疑問のまま蓋をして、胸の奥底に仕舞い込んでおく。 …今は、まだ。 その問いが氷解し、答えが現れるのは今ではなく、恐らくずっと先のことだろうから――――。 04. 上質の、巨大な樫の扉が開く。 重々しく、荘厳に。重厚な音を響かせて徐々に開いていくその様は、どこか古く朽ちた教会を連想させた。 聖と魔。天使と悪魔。善性と悪性。相反するものであるが、どちらも総じてある種の神聖さを帯びているのは確かだ。 重厚、荘厳。どこからかパイプオルガンの音が聞こえてしまいそうなほどのそれ。この場所には、人を狂わせる何かがある。 「スマイル、ここに領主殿が?」 扉が完全に開ききる前に、リデルは背後にいるスマイルに問う。 「そうだよ。ここに領主はおわし、ここでこの地帯のすべてを見通している。…って言っても、見ることができるだけであんまり意味ないけどねー」 いつもの間延びした口調でスマイルは答える。そして「だからこそ僕らがいるんだ」と微かな呟きを漏らす。 それが、決定的な答えだ。何故スマイルがあの時、リデルが目覚めたときにやってきた理由。 「それで、ここに入ればいいのかしら?」 「そ、領主はお待ちだよ。でもリデルが美人でよかったー。ユーリさ、領主だから一応誰にでも優しいけど美人にはより一層優しいから」 「…そう、ありがとう」 とりあえず褒められているみたいなので礼を。今更スマイルに褒められてもあまり嬉しくは思わないが、それでも礼は言っておいた方がいいだろう。 そして扉が開ききる直前に、リデルは最後の問いをスマイルに渡す。 「スマイル、『ユーリ』とは、領主の」 「そ、領主の本名。ま、誰だって知ってることなんだけどね、こんなこと」 その瞬間、扉は完全に開ききった。 その部屋に入った瞬間。己の視界がぐにゃりと歪んだことをリデルは知覚した。 いや、視界など生易しいものではない。歪められたのは己の存在そのものだ。つい先ほどまで確かだった己の存在すべてが一挙に不確かな物へと塗り替えられた感覚。見れば肌はぞくりと泡だっている。 引くことはない鳥肌。知覚した殺気にも似た感覚。神経を鋭敏に尖らせてリデルは部屋を見渡した。 静かな部屋だった。 領主などという役職がついている程だ。どれほどの華美さを保っていると思いきや、そこはとても質素で静かな部屋だった。 確かに一つ一つの装飾は華美な物なのだろう。貴族として生まれ、そのような物に触れることが多かったリデルには分かる。だがそのすべてが統一性を持っており、互いが互いの華美さを相殺し、この部屋を質素で静かな部屋へと変貌させているのだ。 これほどまでに主の趣味嗜好が分かる部屋もないだろう。この部屋の主は必要以上に華美な物を求めない質素な性格だ。必要以上の派手さは求めずに、素材そのものの美しさを愛しているのだろう。 一足、二足。足を踏み入れる。背後からは続いてスマイルの気配。だからこそリデルは恐れることなく前へと進んでいく。 一足、二足。リデルが迷いなく進んでいけばいつの間にそこにいたのか。リデルと二、三間ほどの間を開けてそこに人影が立っていた。 立ち止まる。リデルが立ち止まれば背後のスマイルも立ち止まった。そしてその人影が何者か直感的に理解し、リデルは頭を垂れて口を開く。 「お初お目にかかります、吸血王。リデル・オルブライトと申します」 リデルは目の前の至上の美しさを持った、己よりも高位である者に恭しく礼をした。 月光に透ける白銀の髪、血よりも赤い真紅の瞳、日に透かせば本当に溶けてしまうのではないかと思うほどの白磁の肌。男性らしさも持ちながら同時に女性らしさを、だが不思議なほどに中性的さを感じさせない端正な容貌。身に纏っているのは最高級品と一目で分かる、見事なまでの天鵞絨で作られた黒衣。そして何よりも、その背に広がる赤い蝙蝠の翼。 絵画のようだ、リデルはそう思った。 しかしリデルの前にある絵画は圧倒的な存在感を持っている。その存在感が、目の前の絵画の美しさが絵画でないことを知らしめる。それが己よりも優位種であることを本能的に理解させるのだ。 目の前の絵画が動く。銀の、魔という属性がこれほどまでに似合わないと思える程の神々しさを持った吸血王が、片手に持っていた書を閉じて無造作にその本を机に置き、書類に囲まれた机から立ち上がりこちらに歩いてくる。 王者の歩き方だ。リデルはユーリと呼ばれたその人が自分の元にやってくるという事実を確認し、一歩前に進んでスマイルの隣に立った。彼は尊大な態度でリデルの前に立ち、貴公子然とした容貌でリデルの指先を手に取り口付ける。 「ようこそ、ミスオルブライト。闇が属する世界であるこの地――――メルヘン王国へ。新たに生まれた貴方を、この地に仕える領主として心より歓迎しよう」 そして唇がリデルの指から離れた。大仰な仕草のそれは、本心なのかそれとも振りか。本心であるのならばかなりのフェミニスト。振りならば優しさと悲しさを持っている。だが、恐らくはその両方なのだろう。 ならばリデルもそれに値する行動を取ろう。真でありながら偽。八の真実に二の大仰さを交えてリデルは吸血王に答える。 「王である貴方様からの言葉を頂くことが出来るというこの事実を光栄に思います、吸血王。 この身は生まれたての赤子に等しい。その時点で貴方様の言葉を与えられると言うことは、この身は天にも昇る至福の淵にたゆたうことと同義の幸福です」 道化のように大仰に。微笑みながら礼を一つ。 そうすれば、吸血王は先ほどまでの貴公子然から目を丸くして驚愕を表して破顔した。 「…成る程。流石はスマイルの、と言ったところか」 「光栄です」 「しかし珍しい。最近はそのような反応を返すことは少なくなったと思ったが…ミスオルブライト、その口調と態度からして、生まれは宮廷時代のフランスかイギリスだな?」 「そのご聡明さには頭が下がる思いです、吸血王。宮廷時代、というのがいつのことかわたくしには理解の範囲外ですが、生まれは間違っておりません。わたくしの育ちはフランス。名がイギリス流なのは、わたくしがそもイギリスで生まれたからです」 「あの時代は国境そのものが曖昧だからな、移民も可能だったか」 「はい、元々あの地域は顔の差など些細な物。昔から様々な国同士の血が混ざり合ってきたのです、イギリス系の顔が一つや二つあったとしてもあまり変わりはしません」 軽口には軽口を返して。 吸血王との会話にリデルは久々に面白さを感じていた。そもそもこの会話は久々のスマイル以外の人との会話なのだ。しかも相手は己より上位の人間。次々に返ってくる答えにただの世間話だというのに止まらなくなってしまう。 スマイルとの話も楽しい。スマイルに初めて出会ったときはリデルの傍には誰もいなかった。だからスマイルとの会話はリデルの唯一の娯楽だった。 だが吸血王との会話はスマイルとの会話とは別種の楽しさが含まれている。スマイルとの会話は穏やかさを有しており、吸血王との会話は面白可笑しさを有しているのだ。 リデルは止まらないとばかりに口を開く。続きを、とばかりに開いた口が音として声を発するその瞬間。 「リデル、ユーリ」 ため息を吐いて、普段とは違う色を含んだ声でスマイルが二人の会話に口を挟んだ。 「お楽しみのとこ悪いんだけど早く『認識』してちょーだい。生まれ落ちてから今までの間が空けば空くほど、リデルの世界からの干渉度が高くなる」 それは冷えた声だった。酷く冷静で、それ以上に聞いているこちらの胸の芯から凍えさせてしまうほどの冷たさ。 どちらかというと、これは冷たいというか苛立っている時の声だ。特にリデルが無茶をしたときによく聞いていた声音。何故今それをここで聞く羽目になるのだろうか。 「世界からの干渉度…?」 思わずスマイルの言葉を反芻する。やはりその言葉が重要なのだろうか。『認証』、そして『世界からの干渉度』。それを為さなければ何があるというのだ? 「ほう? 貴様がそこまで必死になるのも珍しいな、スマイル。やはりミスオルブライトだからか」 「誰が必死になっているってのさ、ユーリ。いい加減なこと言ってるとはっ倒すよ?」 「…素直ではないな、全く。その姿が必死以外の何だと言うのだ」 「そんなこと知らないよ。で、そんなことどうでもいいから早くリデルの認証。世界からの干渉も心配だし、それについさっきの戦闘がどんな影響をもたらしてるかわかんないんだから今日はさっさと寝かしときたいの」 スマイルが冷えた声色で噛みつくように吸血王に問いかける。普段とは違うスマイルを吸血王がからかって遊ぼうとするも、スマイルにそれだけの余裕がなく噛みつくばかりだ。先ほどのスマイルの答えを反芻させるかのようにこれ見よがしに吸血王はため息を吐いた。 「まあ確かに、久々の面白い会話だったからな。少しばかり時間を取りすぎたか。…存在そのものが揺らいできているな」 ついと無造作に吸血王の視線がリデルに向けられた。開いた瞳孔、本来ならば先ほど見たように赤いはずの瞳は今だけは金色に変化していた。 だが変化した瞳のことよりも、リデルは視線と同じように無造作に投げられた言葉に反応した。瞳の色のことなどどうでもいいと言わんばかりに眉をひそめて問いかける。 「それは、どのような意味とでしょうか。吸血王」 その言葉の意味を問う。それはリデルがこの部屋に入ったときからずっと感じている、己の存在そのものが不確かになった感覚に関係しているということなのか。 視界が歪められる。足下が覚束ない。外界の音を上手く判別できない。そんなものではない。これは己の輪郭そのものが不確かであり、その輪郭の外皮の一枚ずつが砂となって大気中に消えていってしまうような、そんな恐るべき感覚だ。 いや、そもそも。この感覚そのものが己の存在そのものが揺らいできているということなのか。 くらくらと視界が揺れる。背筋が震える。感覚がぶれる。その感覚は熱病に似ていた。だが輪郭が砂と化して消えていく感覚だけが確実に熱病とは一線を画していた。 「今はそれどころではないのだ、ミスオルブライト。先に貴方の認証を行わなければならない。そうでなければその輪郭は十分もしないうちに消えてしまうだろうな」 「ですから、どういうことなのだと問うているのです」 己が再び消えるかもしれない状態だというのに、リデルは普段と同じ口調で吸血王に問う。 特別熱くもならず、かといって冷めてもいない不思議な感覚だ。だがそれは道理だろう、リデルは元より生に対する執着は捨て去っていた。…いや、先ほどまで己が死んでいたということに喜びすら抱いていたのだ。その喜びをもう一度味わいたいと思っても不思議ではないだろう。 それに本来ならば不死者という種族は生前に未練を残していた者がなるという。だが先ほどの戦闘での会話を聞く限り、リデルはどうやら何かやり残したことがあるのではなく無理矢理不死者にならされたタイプのようだ。もしくはリデル自身が気付いていない未練があるのか、どちらなのかリデルには理解できなかった。 理解できなかったが――――それは一体何に反応したのか。一瞬だけ融けていく輪郭が、本当に一瞬だけ一つに収束し自分の手足を形作ったのだ。 「…?」 吸血王から視線を外し、リデルは手足を見た。それはあくまでも一瞬の出来事で再びあの融けゆく感覚に戻ったのだが、その一瞬がどうしても気になってリデルは両手を握ったり開いたりを繰り返している。それでも再びあの収束された感覚には戻れなかったのだが。 「リデル?」 リデルの様子に気付いたのか、スマイルが不思議そうに尋ねてくる。そこには先ほどの苛立った色はないとは言えなかったが、吸血王に対してのものよりかは幾分か抑えられているようだった。 「何でもないわ、ありがとうスマイル」 いつもの微笑みを見せてスマイルに礼を言う。そうすると、「そっか」と安心したようにスマイルもいつもの笑みを浮かべて頷く。 そこで気付いた。何故リデルが特別生にも死にも執着できないのか、本来ならば生物として当然のように備わっている生を謳歌し死を忌避する本能が欠如している理由がもう一つ分かってしまった。 勿論、一つは病の存在だろう。あの病は抱えた者に生きることを諦めさせる病だ。そうしてリデルも同じように生を諦めていった。 そしてもう一つ、リデルには一度目の死の体験を覚えていない。 最後の記憶はスマイルがリデルを外に連れ出したところで途切れている。そこからリデルの意識は先ほどの目覚めに繋がっており、その間にあるはずの死の記憶がまるでない。 だからこそ、これは生前の続きだと認識しているのだ。意識下ではリデルが死んだということをリデル自身がきちんと認識している。だが死んだという割にはリデルにはその死の記憶がない。眠っていたらいつの間にか死んでいたという感覚なのだ。それに、 リデルはちらりとスマイルに視線を向けた。リデルが視線を向けたのは一瞬だけだったが、スマイルは目敏く気付いて笑いかけてきた。リデルはそれを気付いていながら無視する。 ここにはスマイルがいる。スマイルは恐らくリデルにとって生前との唯一の関わりだろう。そのスマイルが生前だろうが今だろうが変わりなくリデルに笑いかけてくるので、リデルはここを生前だと認識してしまうのだ。恐らくリデルはスマイルが傍にいる限りその意識が変わることはないだろう。 リデルにとって、生前の記憶の中で色褪せない物はスマイルとの記憶だけだった。後はすべての色が褪せてしまっている。もうその時自分が何を考えていたのかすら思い出せないのだ。 だからリデルはこんな風に生にも死にも執着しない。リデルの記憶はスマイルに出会った頃――――病に冒された頃の日々のみはっきりと思い出せる。病に冒された後の日々はそれこそ地獄だ。生に対する執着はいつやってくるか分からない死によって放棄せざるを得なかったことに加え、死に対する忌避はいつだって死を身近に感じていたせいでまるでなくなっていた。そうでなくとも人間ならばいずれ死ぬのだ。忌避する必要もなかった。それよりも、何よりも生きることに疲れていた。それは今も同じだった。 「ミスオルブライト」 吸血王の声が耳に届く。焦点の定まらなかった瞳はそれだけで金色の瞳へと変貌した吸血王を映した。 「思考中のところ申し訳ないと思うが、認証を行わせてもらおう。そのままでは本当に消えてしまうからな」 「ですから、吸血王」 それが何かわからないのであれば受けたくないのは道理だ。それが己にとってどのような作用をもたらすのかまるで分からないのだから。 説明を求めようとしたリデルの声を遮るように吸血王は言う。 「本来ならば本人が消えてもいいというのならば認証は行われない。だが今回はそこの馬鹿がいるのでな、強制的に行わせてもらおう」 ついと吸血王の視線が一度だけ動いて再びリデルに戻された。一瞬だったが動いた視線の先には確かにスマイルがいた。 もう一度瞳を捉えられる。吸血王の金色の瞳に視線を合わせていれば、いつの間にかその瞳から目が離せなくなるような錯覚を抱いてしまい―――― 「え?」 思わず声を上げたリデルだが、既に時は遅い。 瞳が反らせない。吸血王の金色の瞳から、視線を逸らすことができない。それと同時に体の動きも制限されていることに気づいた。 「これ、は…」 声すら出すのが制限される。喉が、舌が、声帯そのものが機能を損なわれてしまったかのようだ。それは確かに自分のものなのに、他者に支配権を移行されてしまったかのような感覚。 「吸血王…!」 辛うじて搾り出した声で、明らかな原因である吸血王の名を呼ぶ。原因はその中でも逸らすことのできないこの金色の瞳だろう。あれが、魔眼と呼ばれるものか。 「動くな、リデル・オルブライト」 静かな声だった。だがそれは王の命令だった。威圧をされているわけでもない、激昂されているわけでもない、ただたった一言を言われただけだ。だがそれは従わなければならないと本能が叫ぶほどの強制力を持っていた。 特にリデルは貴族として育ってきた。貴族にとっては王の命令は絶対だ。王の命令は誰よりも何よりも優先させなければならないもの。貴族にとって、絶対のもの。そして魔の者にとっては、彼の命は何よりも優先させねばならない絶対の命令。 「貴様が魔の者である限り、この声には絶対の服従を誓わねばならない。その意味を理解せよ」 体が拘束される。まるで細い糸を体中に巻き付けられたような錯覚。これが、吸血王の言葉の意味。彼が王と呼ばれる意味か。 「私は、『認証』とは何か、知りたいだけなのですが」 「その暇すら惜しい。…今度は声まで封じてほしいか?」 「…いいえ」 きっと彼の掛け値なしの本気だ。吸血王は恐らくこちらが口答えをしたら確実に今度は喉まで封じるだろう。終わったのならば説明はしてくれるはずだろうが。 リデルは沈黙する。彼女とて吸血王の本気を見通せないほど愚かではない。 …スマイルの声が聞こえない。 身体を束縛され己の自由を拘束されたこの状況で、何を考えるかと思いきやリデルが考えたのはスマイルのことだった。 スマイルの声は聞こえないが、スマイルは一体何をしているのだろうか。スマイルは、今ここにいるのだろうか。 恐らく、いることはいるのだろう。気配はリデルを除いてきちんと二人分。いるのならば恐らく背後。ただリデルの視界に入らないだけだ。リデルの視界は今吸血王の瞳から離せないのだから。 スマイルの声が聞きたい。 それは本当に自然に出てきた、純粋な思いだった。 「リデル」 スマイルの声。背後から頭の上に何かが置かれた。大きな手のひらが一つ、リデルの頭の上に乗っかっている。スマイルの手はいつも手袋を填めているからだろうか、ほんの少しその手が重く感じられた。 だけどその微かな重みが、何故これほどまでに心強く感じられるのだろうか。 「大丈夫。リデルに危害は加えない。ユーリが何かしてきたとしても絶対に危害は加えさせないから、安心して」 リデルを安心させるような声色。手のひらの感覚。きっとスマイルは微笑んでいることだろう。リデルを安心させようと笑っているだろう。 「…分かったわ、私はお前を信頼する。だから安心して盾になりなさい」 「うん、ありがとーリデル」 いつもの間延びした口調。そうだ、それでこそスマイルだ。 リデルは微笑みながら眼前の吸血王に意識を向けた。吸血王はリデルとスマイルのやりとりを見ていたのか、同じく微笑みを返した。危害は加えないと柔らかく微笑みながら。 この王はとてもいい人なのだろう。リデルに対するこの所業も、恐らくは本当にリデルのためを思ってのことなのだろう。スマイルがこの部屋にやってきた頃、吸血王にそう急かしていたことからして結果は明らかだ。ただリデルが信用できなかっただけなのだ。 そう、リデルが信用できなかっただけ。もとより初対面の人間は信用できない性質だから仕方がないというべきなのだろうが―――― そこで、ふと違和感に気付いた。今、何か。何かが、違った。 「リデル・オルブライト」 己の内に籠もりかけていたリデルを、吸血王の声が引きずり上げた。リデルはもう一度吸血王に意識を向ける。 眼前に広がる金色の瞳はいつの間にか赤色に染め直されており、そして吸血王の指先からは赤い血が流れ出していた。その血を見て、やはり人間だろうと妖怪だろうと血の色は変わらないのだなとリデルは奇妙に感動した。 「スマイル」 「りょーかい」 吸血王が命じ、スマイルが応じる。二人はリデルを挟むようにして立っている。 「鍵 スマイルの声。声が音となったと同時に、世界を響かせるように大気を震わせた。背後のスマイルから巨大な力の迸りを感じる。まるであの黒衣の女が放とうとしていた一撃のように強大な力。 そして同時に、周囲を漂っていたらしい何かが収束されている。背後のスマイルの元に自ら集まっており、それは数秒もしないうちに集め終えたのか大気が動くことはなくなった。 「こっちは大丈夫だよー? じゃ、あとまだリデルから零れ続けてるのはお願いするよ? ユーリ」 「了解した。…では、認証を始める」 だがその前に、と吸血王はリデルから視線を外すことなくたった一言呟く。 「Κiνηση その言葉が何を言っているのかは理解できなかったが、意味は理解できた。何故ならば視界の端で机の上から紙が一枚こちらに動いてきているのが見えたからだ。 紙はそのまま吸血王の手の中に収まる。それは上質な羊皮紙であった。上質かつ高級なそれに一片たりとも価値など見出せないとばかりに無造作に、先ほどから流れ続けている血を遠慮なく染み込ませる。 血液はじわじわと染み込んでいく。それは誰しも同じことなのだが、おかしいのはこれより先のこと。それはある一定の部分まで浸食したところで突如としてその活動を停止し、停止したかと思いきや浸食されていない残りの部分を一気に染め上げたのだ。 リデルが驚愕する間もなく、吸血王はリデルに命ずる。 「これで準備は整った。汝の名を告げよ、リデル・オルブライト。 汝の名を、汝が口で、汝が声で、汝が為に、汝の生命を、汝の存在を世界に認識させる為に。 汝の名を告げよ、リデル・オルブライト。さすれば、我は汝に新たな生を与えん」 赤く染まった羊皮紙を宙に浮かせた。羊皮紙はリデルの視線の高さと同等の位置に漂い、リデルの視界は今度は羊皮紙のせいで真っ赤になった。 名を告げよ、と吸血王は命じた。さすれば新たな生を授けるのだと。 それが認証ということか。世界にリデル・オルブライトという存在を認めさせるための行為。何故このようなことをなさねばならないかは理解できないが、それを為さねば確実に存在から消えてしまうだろう。 だが、リデルは別にどちらでも構わないのだ。元より生にも死にも執着はない。執着できない。そもそもリデルは生きることに疲れている。スマイルの存在も確認できたことなので、リデルとしてはこのまま消えても構わなかった。 だから名を紡ぐことに躊躇がある。このまま生きて、本当にいいのか。厄介ごとには既に巻き込まれている。消えた方が楽に事態を終結させることが出来るのではないか。 「…スマイル」 だが、吸血王は無理矢理にでも認証をさせると言っていた。その理由はスマイルの為だと。 「何? リデル」 融けてしまったリデルという存在をかき集めて、スマイルは答える。恐らくその顔に浮かんでいるのは笑顔。そうであればいいと思った。 「お前、私に消えてほしくない?」 リデルを心配し、リデルのために認証を早めようとしたスマイル。ここでリデルが否と言えば、スマイルの労力は無に帰すだろう。 それは、嫌だ。リデルのことなどどうでもいいが、リデルはスマイルの為したことが無に帰してしまうのは嫌だ。 だから間髪入れず返ってきた言葉に微笑んでいたのは仕方がないことだろう。 「何言ってるの、リデル。当たり前のことでしょ」 薄情なお姫様だとスマイルは茶化したように嘆く。ああ、だったらいい。 だったら、リデル・オルブライトは生前と同じようにスマイルのために生きよう。 「我が名はリデル・オルブライト。世界よ、汝に我が認識を求む。汝の世界において、我が存在することを許し給え」 その瞬間、己の魂の欠片が抜け出ていく感覚をリデルは捉えた。先ほどまでの砂となって大気中に融けていく感覚とはまるで違う、塵と化し世界へと還っていくのではなく、己の魂が己の魂の形を保ったままこの体から出て行った。 その形が、赤く染まった羊皮紙に緩やかに溶け込んでいく。魂は羊皮紙に溶け込んだのか、そこから新たに排出されることはなかった。 そしてそれと同時に赤い羊皮紙に、自動的に白い文字が浮かび上がる。記されたのは先ほど告げたリデルの名前だ。その下に、新たな文章が浮かび上がったと同時、吸血王がその紙を摘み上げた。 「リデル・オルブライト」 赤い羊皮紙から視線を上げ、吸血王がリデルの名を呼ぶ。 赤い羊皮紙と、吸血王の冷たい視線、背後からはスマイルの穏やかな眼差し。向けられた視線は冷徹そのもので、リデルはその視線を見る度に何故だか体が軋むのだ。 「認証は為された。だが…」 珍しく吸血王が言いよどむ。何かあったのだろうか。 「二重存在 「え?」 吸血王の口から零れた言葉はリデルにとっては理解が出来ない未知の言葉で、リデルは思わず目を見開いた。 「二重存在 「二重存在 吸血王の言葉をスマイルが引き継ぐ。眼前の説明を邪魔されて吸血王は明らかに不服そうであるし、背後のスマイルは上機嫌を隠しもしない。 「スマイル…貴様、後で覚えておけよ」 「ユーリにばっかり良いところは見せられませーん」 子どものようにはしゃぎ合う二人にリデルとしてはどうすればいいのか分からないが、とりあえずはコツリと静かにヒールの踵を鳴らしてみた。これで注意が向けばいいのだが。 幸いながら二人とも一応はリデルの方に意識が向いたらしい。話を進めるためにリデルは二人に問う。 「それで、その二重存在 「心当たりはあるか?」 リデルの問いをさっぱり無視して、吸血王は問いかけてくる。 「…ありませんが、何か」 「そうか、ならばいい」 いったい何なのだ。心当たりはあるかと言われても、リデルには心当たりなど微塵もない。自分に似た容姿を持った人間など見たこともないのだ。 …ああ、そういえば。たった一人だけそんな人間を知っている。先ほど出会った、何故かリデルに親愛の情を向けていた金の髪の彼女。 だがリデルはそれを告げない。リデルが彼女の容姿を見たのは一瞬であり、それがリデルの見間違いである可能性も高いのだ。 「吸血王、それは一体…」 「ユーリ、説明不足ー」 リデルが口を開いたところで、スマイルも口を挟んだ。 「きちんと説明はする。だからそう急くな」 吸血王はため息を漏らして鬱陶しそうにスマイルを見た。説明を乞うリデルに対してはそのような視線を投げかけられないのは、やはりフェミニストだからだろうか。 「二重存在 「それは可笑しいことなのでしょうか」 「今まで起こった例としてはな。だがそこに一つの前提条件を加えてみよう。もしその二重存在 「出入りすることの出来ない者…?」 その前提条件に当てはまる者など限られた数しかいない。 そう、それは例えば―――― 「妖怪の下級種。天使の下級階級。もしくは別世界に存在する者」 スマイルの声が響いた。 「人間界に出入りするには相当の力が必要だからねェ。僕らみたいな上級種か、それかそれ専用に力を持った輩じゃないと無理無理。ま、上級種が力添えしてるって言うのなら話は別だけどさ」 「その通り。だがそうすると少し面倒なことになってくる」 「何がです?」 問うリデルに、吸血王は皮肉気にため息を吐いた。 「その二重存在 リデル・オルブライト、貴女はこの世界で不死者 ここは妖怪の住まう国、メルヘン王国。いつ二重存在 突然の言葉に目を丸くしてしまう。確かに姫のように守って貰うつもりはなかったが、ここで再び新たな敵の発見となってしまうと唖然としてしまう。 これがメルヘン王国。スマイルの故郷なのだ。 「…一度退出しても宜しいでしょうか、吸血王。様々なことを詰め込まれすぎたせいか、上手く思考回路が働いておりません」 「ああ、正直私も詰め込みすぎたと思う。今は休め、リデル・オルブライト。詳しいことは明日の朝にでも再び話し合おう」 「…朝、ですか?」 リデルは吸血王の言葉に目を丸くする。 「何か可笑しいか」 「はい、吸血王は朝にも活動なさるのですね」 「元より睡眠を必要としない体だからな」 何故だか、そんな些細なことに少し笑えてしまった。 ほんの少しだけ、緊張がほぐれたような気がした。
【 承 】
‐虚実の真ん中で‐ 01. 昔からよく色々なものを食っていた。 植物だったり動物だったり人だったり妖怪だったり天使だったり精霊だったりもう本当に色んなもの。ありすぎてもう種類なんて覚えきれないくらい。食べた数なんて視認できる星よりも多いくらいに。 自分でも大した量と種類を食べているとは思う。だけどその中で一等面白い食べ物だったのは不死者 何だか見ていて面白くて何回も殺した。何回も食べた。丁度その不死者 元々生物を食べる度にこの身の力が強くなり、存在が強大になっていったこの体。だがその中でもその不死者 そうしていれば元は貧弱だったこの身はいつの間にか一族の誰よりも強大な存在になっており、今や神や領主を除いて考えれば今や殆どの者に打ち勝つことが出来るだろう。 だがそれでもまだ足りない。 強大な力を。強大な力を。領主にすら打ち勝つ強大な力を。 力が欲しい。 その為には、この二重存在 可愛らしい子兎。抵抗する術も知らず、何れはこの身に食われる存在。 ベッドの中で安らかなる夢を見ている己と同じ存在を食べることが出来るのだと考えればあまりの快楽に背筋が震える。 さてその血肉を啜るか、それとも魂を食らうか。どちらかを食らえば、もう片方は消滅してしまうという儚い存在である二重存在 ああ、彼女に安らかなる夢を。そしてこの身は力を手に入れる。 *** 閉じられたカーテンからうっすらと朝日が差し込んでくる。その光でリデルは目覚めた。そのまま上半身のみ体を起こし、瞼をこすりながら呟く。 「…朝」 朝にあまり良い印象はない。リデルにとって、朝は苦しみの始まりの一つでしかない。 それは朝だろうが昼だろうが夜だろうが、覚醒していようが眠っていようがまるで変わらないのだが、その中でも一等朝が苦手だった。 それは死という概念から逃れた今も変わらないらしい。汗のせいで体中にべっとりと張り付いたネグリジェが不快感をより一層煽ってくれる。 「そういえば、私は死んでいたわね」 今更ながらに呟いて、現在の状況を再確認する。 吸血王との邂逅を終え休息を求めたリデルに与えられた部屋は、リデルがこの城にやってきた当初に身支度を調える為に与えられた部屋だった。 調度がすべてリデルの生前の物であるこの部屋は、身支度を調えていたときから酷く安心できたのでこの部屋だったらいいという願望はあった。だが本当にこの部屋になるなんてリデルも思わなかったのだ。 今はそんな思考は後だ。張り付いたネグリジェが気持ち悪い。さっさとシャワーを浴びるが得策だろう。が、リデルがシャワーを浴びるために浴室に向かおうとしたその時、扉から数度軽いノックの音がした。 「――――はい」 「リデルー? 僕ー」 僕、なんて挨拶をする者はリデルの知人友人すべてを含めてあの男しかいない。 「入りなさい」 「うん、お邪魔しまーす」 リデルがそう言うや否や自動的に扉が開いて再び閉じた。中へ入ってきた者は何もないように見える、が。 「…さっさと実態を現しなさい、スマイル。私には見えていると言ったでしょう」 現にリデルにはスマイルがリデルの前にいるのがはっきり分かる。ついでに、スマイルがリデルに手を伸ばしているのも。 スマイルが渋々といった感じに姿を現して零した。 「なぁんでリデルには見えるかなぁ?」 「さあ、何故かしらね」 そんなことを言ってもリデルには分からないのだ。ただリデルには初めてであったときからスマイルがどこにいるかが感覚的に理解できた。知覚しているのではない、殆ど直感のようなソレで。 「だって何か特殊能力でもないのに僕の姿が見えたってリデルだけだよ? しかもリデルその頃人間だったし」 「私に言われても困るわ。それでどうしたの? スマイル。何か用があったからここまで来たのでしょう?」 リデルの言葉を聞いてようやく思い出したとばかりにスマイルは口を開いた。 「あー、うん。ソレなんだけどね、昨日ユーリと朝になったらまた話し合おうって言ったよね。それさ、ユーリに急な仕事が入ったみたいで無理になったみたい。で、代わりに僕が説明して来いってユーリが」 「成る程。領主というのは、忙しい仕事なのね」 領主、という仕事がどのようなものなのかは未だに見当が付かないが、リデルは昨日の吸血王の机の上の書類を思い出した。あれほどあるのだ、忙しくないわけがない。 「んー、確かに忙しいけど…ユーリ掛け持ちしてるしねぇ。自業自得だよねぇ」 「掛け持ち? 副業でもあるというの?」 リデルの問いにスマイルは躊躇いもなく頷いた。 「あるよー。ユーリが忙しいのに暇だって言い出して、今音楽バンドやってるんだ。バンドって分かる? リデル」 「…音楽、ということはオーケストラに似たようなものかしら」 良くも悪くも中世に生きたリデルの中では音楽に対してはその程度の知識しかなかった。 「かーなり違うけど…まいっか、いつか見せてあげるね」 「ええ、楽しみにしてるわ」 そのいつかが今の状態ではいつになるかは分からないが、いつか見ることが出来たのなら、とリデルは笑いながらそう思ったのだ。 「それにしてもさぁ、リデル」 「何かしら」 スマイルが己の体全体を舐めるように見てくる。スマイルのこのような眼差しは珍しいとリデルは訝しげにスマイルを見返した。それでもスマイルはリデルの体を舐めるように見て、そして何を思ったかリデルに近づいてきて耳元で囁いた。 「…そんな格好しないでよ、食べたくなる」 「…え?」 リデルが反応を見せるほんの少し後、スマイルはリデルの耳を柔らかく噛んだ。 「…スマイル」 そこでようやく己の姿に気付く。 リデルは生前から肩を出すタイプのネグリジェを愛用している。そしてそのネグリジェの下には何も着ない。着たとしてもショーツのみだ。殆ど下着と変わらない状態であろう。それが今、汗で張り付いて体のラインをぴっちりと浮かび上がらせ、形の良いバストや引き締まったウエスト、果ては白いショーツまで汗で濡らして隠そうとしている奥まで見えようとしていた。 スマイルの唇が徐々に耳から首筋へと下りてくる。片方の手は胸元から直接胸に進入しようとしているし、もう片方の手はネグリジェの裾を持ち上げて所々斑点がある太ももを軽く撫で上げた。 頬が羞恥で赤く染まり、確かな快楽が駆け巡る。ぞくりと背筋が震えた。それと同時に背筋から何かが抜け出ていく感覚がして、それが快楽を倍増させる。 唇から舌が出され、首筋を軟体生物のように縦横無尽に這う。その舌が、そしてスマイルの頭が胸に到達したところでリデルはようやく口を開いた。 「ッ…やめなさい、スマイル」 あくまでも平常を装ってはいるが、その声には明らかに今はまだ薄いが甘い――――確かな快楽が混ざっていた。 その声にスマイルの頭が上がる。顔にはうっすらと笑みが浮かべられていた。 「ねぇ、リデル」 顔は上げたが、それ以外の行為は止めようとしない。未だ太ももを撫で続ける手は止まることなく、胸に進入してきた手も表面を柔らかく撫で続けている。 「…何」 快楽に流されまいと目に力を入れる。そうでなければ、明らかなる快楽を見抜かれて続きをやられてしまう。リデルとしてはそれは避けたいところだった――――その理由が思いつかないとしても。 そんなリデルの視線をスマイルがどう受け止めたかは知らないが、スマイルはリデルをじっと見続けてリデルの耳元に顔を近づけた。 その時、 「ひぁ…!」 柔らかく胸を撫で続けていた手が快楽によって勃ち上がっていた胸の突起に触れたのだ。不意打ちのせいかあまりにも鋭敏に感じてしまった甘い痺れに上擦った声を上げる。 スマイルはと言うと、リデルの痴態を見せられて酷くご満悦とばかりに笑っていた。耳元に顔があるせいで、リデルにその顔は見ることは出来なかったが気配で分かる。 スマイルは上機嫌のまま問いかけてくる。 「僕の物に、ならない?」 それは甘美な誘惑。甘く蕩けかけている頭に思考能力は本来なら残されていない。 だがその言葉に、まるで冷水を掛けられたかのように今までの快楽がすっと消えた。 リデルは答えを返す。今までと同じ答えを。 「ならないわ。私は私の物よ、お前にはやらない」 それは何回も何十回も繰り返された言葉だ。何故ここまでスマイルを拒否するのかは分からなかったが、それでも拒否しなければならないとどこかが告げている。 「…そ、残念」 スマイルは心底残念そうな声を上げた。だがどこか安堵していると感じるのはリデルの気のせいだろうか。 リデルはスマイルがそう言った隙にスマイルの体を押し返し、スマイルの手の届かない場所まで飛び退く。スマイルに手を出されては困るのだ、この体は。 スマイルは自分の手の内から逃げ出してしまったリデルを不思議そうに見ている。 「続き、しないの?」 「お前は私の言葉を聞いていたのかしら? やめなさいと言ったでしょう、私は」 「僕にはもっとしてって聞こえたけど」 「その耳は飾り? いえ、そもそも脳がおかしいのね、一度死んで魂から変革してきなさいスマイル」 そのリデルの何気ない悪口雑言に、スマイルはリデルに近づこうとする足を止めて伏し目がちに微かに声を漏らした。 「…それが出来ればどんなに良かったんだろーね」 「――――え?」 呟かれた言葉は今は離れてしまったリデルの耳には届かず、スマイルは何でもないと首を振った。 「だってさぁ、リデルがあんなに可愛い声を出すからセーブが効かなくて」 「人のせいにするのは止めなさい」 「誘われて煽られたのならやらなきゃ男じゃないなって」 「誘ってもいないし煽ってもいないわ。正気に返りなさい、スマイル」 リデルがそう怒鳴ると、スマイルは頬に張り付いた笑みの種類を変えた。 「リデルのこと食べるつもりはないけど…不意打ちで甘く香ってきたら食べたくなっちゃうから、これからは僕の前でそーゆーことは控えてね」 変わった声色と雰囲気にリデルは訝しげにスマイルを見るも理解は出来なかった。 「…今更、それをお前が言うの?」 生前から何故かしらリデルの世話を続け、リデルの体など見飽きている筈のスマイルが。 「今更、だけどね」 呟くように囁くように、苦笑を口元に浮かべながらスマイルは笑った。 *** 「それで、どこまで話したっけ?」 リデルがシャワーを浴びてネグリジェから適当なドレスに着替えてからスマイルはようやく話を始めた。 「…どこまで?」 「僕ねぇ昨日話した場所忘れちゃったんだよねぇ。まージャンジャン聞いてよ答えるからさ」 この場に他の人間がいたのならば、その言葉に嘘くささを感じたのはきっとリデルだけではないだろう。 「…基本的には二重存在 「まあリデル混乱してたしねぇ。いきなり変なところに連れてかれていきなり認証をするぞーって言われていきなり二重存在 「その前の目覚めたばかりに頃は変な女に誘われたことだし」 リデルの昨日一日は多忙を極めすぎていた。これでは疲労もピークに達し混乱するのも致し方ないだろう。 そこでふと思い出す。二重存在 「スマイル、私の認証はどうだったの?」 「リデルの認証? 出来てるよ。問題だったのは成り立てのリデルに二重存在 「…そう、なの?」 では何故その場で吸血王は伝えてくれなかったのだろうか。 「うん、あーこれただの伝え忘れみたいだよォ? 心配させたならすまないってユーリからの伝言」 「…そう、分かったわ」 リデルは一応納得をした。スマイルの言葉ならば半信半疑で捉えなければならないが、吸血王の言葉なら全幅の信頼を寄せるだろう。彼はスマイルとは違って誠実だ。 「そういえば…あの女は何者か、お前は把握しているの?」 勿論、あの女というのは目覚めたリデルが最初に見た不死者 「んー僕はどっかの組織の人間で、その組織が世界に復讐しようって考えてるぐらいしか。多分ユーリもそうじゃないかな。僕はユーリの命令で満月の夜に色んな墓地を飛んで組織の輩を見つけたら即拿捕だし」 「…そう、吸血王もあまりよくは知らないのね」 「リデルが知りたいようなことは殆ど。あの女だって昨日初めて会ったしねぇ」 ではあの女については一端保留しておこう。次の質問を考えねばならないとリデルが思ったところでスマイルが口を開いた。 「あーそうだ、ユーリからもう一個伝言。吸血王って呼ぶの禁止だってー。ユーリって呼んでくれって言ってたけど」 「…ユーリ? 吸血王がそう呼べと?」 「そ、その吸血王が。尊称で呼ばれるのあんまり好きじゃないみたいだからねぇ、ユーリ」 「そう…なの?」 「そうなの。だからリデルも遠慮なく名前で呼んでやってよ」 珍しいタイプの人間だ。リデルはそう思う。だが領主というものは生まれながらに高貴であり王であることを定められた者たちだ。名などそう呼ばれたことがないからこそ、名を呼んでくれと求めるのではないのだろうか。 だがリデルにとってそれは酷く難しいことだった。 「…でも、下々の者が王の名を軽々しく口にしていいものではないわ」 リデルは貴族として生きてきた身だ。王の命令は絶対服従であるが王に対する礼儀もわきまえている。王の命令に絶対服従と言いたいが、礼儀も重んじるリデルにとっては二律背反の状況だ。 「別にユーリがいいって言ってるんだからいいんだって。リデルも次に会ったときくらいにでもユーリって呼んでよ」 「…善処するわ」 リデルにとっては厳しいことだが王の命令なのだから仕方がない。リデルは苦々しげな表情でぽつりと漏らした。 *** 燦々と朝日が差し込む中、陰鬱になる話ばかりを繰り返した後に、リデルは自分が朝食を取っていないことに気付いた。 「スマイル、お前朝食は取った?」 「ごはん? 食べてないけど、何で?」 スマイルはリデルの発言に首を傾げている。何でではないだろう。 「朝食を取るのは生物の摂理だと思うのだけれど、それは間違っているのかしら」 どんな生き物であれ生命活動を維持するために食事をするのは真理だ。だからこそリデルはそう言っているのだが、スマイルはまたもや首を傾げるのだ。 「って言っても、リデルもう死んでるし」 「それは人間としてでしょう。不死者 妖怪であろうが何であろうが生物であることには変わりない。ならば食事を取るべきだ。だがスマイルの返事は渋い。 「んー…でもリデルは食べない方がいいと思うんだけどなぁ」 「それは何故?」 今のところ体には何の不調も出ていないが、一体どういうことだろうか。 「リデルはまだ成り立てだから人間の部分が残ってるんだ、だからこっちの物を口に含んだら体がどんな拒絶反応示すか分かんないし」 「…へぇ、興味深いわね」 そんなことになっているとは驚きだ。一度自分の中身がどう変わっているのか見てみたいほどだ。 スマイルはそんなリデルの不穏な気配を悟ったのか抑えてとばかりに口を開く。 「リデル、止めてね」 「私はやらないわ。吸血王に教えてもらう程度でしょう。…そういえば吸血王は? 食事をお取りになられたの?」 「んー、多分食べてないよ。まーユーリにとってはご飯なんて無意味だし。僕にとってもだけどね」 「…吸血王は分かるけれど、お前が? 初耳ね」 吸血王…ユーリは分かる。彼は吸血鬼であり、吸血――――血こそが最も効率的な栄養摂取の方法であり食事方法なのだろう。だがスマイルはリデルの生前、リデルと共に食事を取ることも多々あった。それでも食事が必要ないと言えるのだろうか。 「それはリデルが一緒にいたから。ご飯は好きだし食べれるけど、生きていく上で必要かそうでないかで分けるなら必要ないに分類されるんだよねぇ。元々上位種は下位種と違って食事とか必要ないし」 「知らなかったわ」 初めて聞く事実にリデルはまじまじとスマイルを見る。スマイルはリデルを見下ろしてため息を吐いた。 「当たり前でしょ。そんなこと言ったらリデルは僕に食事を取る必要はないって言ってついでに自分もご飯食べないつもりだって言うのが目に見えてたから」 「…」 鋭い。 リデルは押し黙った。それが全くの真実だったからだ。 「僕はリデルが干からびて死ぬのなんて絶対に嫌だったからねぇ。知ってたでしょ、リデル」 「ええ…だからお前はよく食事を作っていたわね、私の分を」 「リデルだってまだ健康だったときは僕の分も一緒に作ってくれたよね」 ふと軽い懐古と郷愁の念が思い出された。スマイルと一緒にいた日々。過去の話。何故か今も続いている、未来へと続く話。 「スマイル、料理を作ってもいいかしら」 「リデルが食べなければいーよ」 その言葉にリデルは肯定の代わりに笑った。久々に、本当に久々に、自分から何かをしようと思った。 *** コンコンと二、三度軽いノックの音がした。 ユーリは延々と連なっている文字の羅列から顔を上げ、ちらりと視線を扉の方に向ける。そうすれば扉は主の意志を感じ取ったのか自動的に開いた。 そこに立っていたのは両手で何かが乗っているトレイを持ったスマイルだった。スマイルは扉が開ききると同時に中に滑り込み、ユーリの元に近づいてくる。 「やっほーユーリ。仕事はかどってるー?」 「…スマイルか。嫌味か、それは」 「んー、別に。全然?」 全然と言いながらも、あからさまに感じ取れる嫌味にユーリはため息を吐いた。口ではどうこう言っていながら、その感情を隠そうともしないのだ、この男は。 「それで、何の用だ。見ての通り私は仕事がまだ処理し切れていないのだが? お前のせいでな」 「あーそれはごめんねー。許さなくていいから頑張ってよ」 怒りを滲ませるユーリをスマイルは軽く受け流す。ユーリもそれを知っているからこそ口喧嘩はそこで終わる。 「仕事は増える一方だ。日々増え続けていく問題のせいで領主 「…分かってるよ、そんな簡単にできたらどれだけいいことか……」 「お前が何に対してその言葉を吐くのかは分かっている。だからこそ私は領主としてお前に言おう。『あの件』についてさっさと終わらせろ。組織は発見したと同時に壊滅させろ。この二つについての優先順位は同率だ」 「りょーかい…」 そこでユーリはようやくスマイルが手に持っている物に気付いた。 「スマイル、それは何だ?」 「料理。リデルが作ったからさ、ユーリにもお裾分けだって」 はい、とトレイを机に無造作に置くスマイル。いくつか書類を下敷きにしたが別に構いはしないだろう。そう重要な物でもあるまい。 ユーリは外見だけなら天下一品の品々を見てぽつりと漏らす。 「…食えるのか?」 今まで見た目だけなら美しい物を何度も見てきているユーリは今度もそうではないかと恐れていた。 「リデルの料理の腕はアッス君並だけど」 「…成る程。後で頂こう」 スマイルの返事に安心したように笑うユーリ。スマイルはそんなユーリを横目で見ながらトレイの上にあった、まだ湯気が立つ紅茶をカップに注いでユーリに渡した。 「そういえば、リデル・オルブライトは?」 「今は城中の掃除中。あんまりの汚さに俄然やる気が出たみたいだねぇ」 あの時のリデルの様子ったらなかったよとスマイルはけたけたと笑った。 「まぁ、今はスマイルが帰省中だから仕方がないだろう。あれが一人で家事をこなしていたからな」 「僕もそう言ったら『それは怠惰よ』って一蹴されたけど」 「…素晴らしいな」 「でしょ?」 ユーリは紅茶を口に含む。これはローズティーだろうか。確かこの城で自生してある薔薇でアッシュが紅茶を作っていたのを思い出した。作った人間でもないというのに高い香りと口当たりの良さを感じて、これを入れた人物の紅茶の技量を思い知った。 「良い娘だな」 「リデルだからね」 「…だが、だからこそ心苦しい、か」 ユーリがそう呟けば、スマイルは曖昧そうに笑った。 02. 「リデルー、掃除終わったー?」 長い石造りの階段の上からスマイルの声が反響してリデルの耳まで届いた。その声の後からいくつも反響する靴音が聞こえる。どうやらリデルの元まで下りてきているようだ。 「ええ、大抵のところは。後はこの扉の向こう側だけよ」 長い長い石造りの階段を下りきった先にある、石造りの扉の先。どうやら鍵がかかっているらしく、リデルはそこには入れなかった。そこに何があるのか知らないが、別に恐れるようなものではないのだろうと思っている。 ここは酷く落ち着き、同時に何故かこの身はこの場所を酷く恐れていた。何があるのかは分からないが、ここには何かがあるのだということを理解していた。 靴音が止んでいたと思ったら、スマイルはいつの間にか階段の一番下まで下りきっていた。そして扉の前に立つリデルを見て悪戯めいた顔になる。 「あ、リデルそこにいたんだ。じゃあちょーどいいや。今からその中はいるよ」 「え?」 「じゃ、リデル下がって」 スマイルはこちらに近づいてきて扉の目の前にいたリデルを下がらせ、リデルのいた位置にスマイルが立つ。 「スマイル、何を…」 するつもり、とリデルが最後まで言葉を紡ぐ前にスマイルを中心としてその周囲の中空に青白い陣が出現する。円形に複雑な、無機的でありながら有機的、幾何学的でありながら非幾何学的であるという同一でありながら相反する、それでいて同一な奇妙な円を描いている陣。 ぞくりと肌が泡だった。ずきずきと頭が痛む。あれは何だ。スマイルから強大な力を感じる。昨日の女の時と、そして認証の時の同じほど強大な力。あれは何だ。何のためにある。昨日の認証の時には存在しなかった。 スマイルはリデルが訝しげにそれを見ているのに気付いたのか、振り返って苦笑を浮かべた。 「ここの鍵はさぁ、ちょっと面倒でねェ。いるんだよ、これ。脳内で組み立てる術式だけじゃ足りないから」 これ、というのはこの陣のことか。言葉だけで発する術だけでは足りないから、これが、この魔法陣が必要ということか。 スマイルはそれだけを言うともう一度扉に向かい合う。呼吸の音すら聞こえてきそうな静寂の中、スマイルがその言葉を紡いだ。 「鍵 言葉が音となって世界に流れた頃、スマイルの周りを囲っている陣から圧倒的なほどの力が流出された。 力は扉を浸食していき、扉を覆っていた力をすべて霧散させた。それを見届けて、スマイルは振り返ってリデルに手袋をつけた手を差し伸べてくる。 「…スマイル」 「じゃあ行こっか、リデル」 それはあまりにも無邪気な表情だったので、問うべきことも問おうとせずにリデルはスマイルの手を取って扉の中へと入った。 扉の中はやはり先ほどの階段や扉と同じように石造りの広間だった。広大な空間を、一定間隔に置かれている巨大な石造りの柱が支えている。 酷く、落ち着く。だけどそれ故に、酷く怖い。それがリデルがこの部屋に入って第一に感じたことだった。 「この部屋がなんだというの、スマイル」 リデルは己の手を引っ張ってこの部屋に入っていたスマイルに対して問いかける。スマイルは特に感慨もなさげに辺りを見回して、それからリデルを覗き込んだ。 「ねぇリデル、この部屋どう思う?」 「どう…って?」 「別に? 怖いとか、落ち着くとか、嫌いだとか。そんな感じのこと。で、どう思った?」 それは先ほど感じた通りだ。酷く落ち着く気分になり、同時に酷く恐ろしく思う。だが、 「…別に」 リデルは己を偽る。それがどのような理由かなど知らずに。 「ふぅん。まあいいや。で、リデル。この部屋が何の部屋か分かる?」 「…私には分からないわ。一体何の部屋?」 ただただ広い柱だけがある広間。地下にあるこの部屋には窓もなければ光もない。今ここにある光源は、いつの間にかスマイルが出していた光球一つであった。 「ここは何の部屋でもないよ。でもこの城のどんな部屋より重要で、特殊だ」 「…それは、吸血王の執務室よりも?」 「ユーリの執務室なんて比べものにならないくらいだよ」 何の部屋でもない、だけど重要な部屋。それは一体使い道があるのか、リデルにはさっぱり分からない。だがあそこまでの鍵を掛けられている部屋だ。何かあるはず。 答えを模索していれば、スマイルが先に答えを出した。 「この城の地下にはね、ちょうど地脈が流れてるんだ」 「地脈?」 また新たなる単語だ。リデルは首を傾げた。 「地脈っていうのは、その一帯の力の源が流れてる川みたいな物かな。魔力っていうのはまず原初の力があって、それを加工して術として世界に干渉する仕組みになっているんだから。その原初の力が流れているのがこの地脈。 地脈は色んなところに流れてて、その一帯の領主はその一帯の一番大きなその地脈の上に城を建てなきゃいけないことになってる。地脈を悪用されたらマズいしね」 「それで、その地脈がどうかしたの?」 今の話を聞いていても、別にリデルには何ら関係のないことに思えるのだが。違うのだろうか。 スマイルはリデルを見下ろして、まるで出来の悪い生徒を見るかのような眼差しで言った。 「地脈っていうのは魔力の前の姿の力が集まった場所だって言うのは分かったよね」 「ええ、それは分かっているわ」 「だから、ここでリデルに戦う術を教えようかなって。昨日ユーリとそういう話したでしょ?」 確かにした。したのだが、何故ここでなのだ? 「ここはこの城で最も重要な場所なのでしょう? そこで戦闘訓練をしても…」 「いーの、確かに他の連中とならやらないけど、リデルはここが一番適してるんだから」 「…どういうこと?」 訝しげにリデルが見れば、スマイルは口元だけを歪めて笑んだ。 「それはリデルの種族が関係してるよ。リデルは自分が不死者 「ええ、勿論」 昨日さんざん言われたことだ。忘れるわけにはいかない。 「不死者 「…何故体術では駄目なのかしら」 「別に体術でもいいけど。不死者 スマイルの説明を聞きながら適当な相槌を打つ。その裏で、リデルは一つの記憶を思い出していた。 昨夜スマイルと戦ったあの女。あの女が最後に放とうとしていた一撃。あれに当たれば確実に死ぬであろうと本能が警告を出した、あの光。 「もしかして、あれが…?」 「…リデルが何を思い返しているのかは分からないけど、多分ソレが正解。あれが不死者 それは一度死んだというレイズの特性故か。 「ま、僕も死ぬまではしないけど大怪我しそうだねぇ」 飄々としているスマイルに、リデルは多少心配そうに声を掛けた。 「…お前、大怪我を負うのなら止めたらどうなの? それの使い方も学ぶのでしょう?」 「いーよ、だってリデルのためだから」 そう言ってスマイルは笑うのだ。リデルは何故か苛々している。 「言ったでしょう。私のお前の価値は決して等価値ではないと」 昨夜再会したときの言葉を繰り返す。語調は何故だか怒りに満ちている。 「そりゃそうだよ。僕らの命の価値は決して等価値なんかじゃない。互いが互いを優位だと思い合ってる輩が等価値なわけないじゃない」 そしてまた、スマイルも何故か苛立っていた。表情は強ばり、多少ながらも気配に怒りが混じっている。 「…何を苛立っているの?」 「多分、リデルと一緒の理由」 それは、リデルはスマイルが傷つくのを厭っているように。スマイルもリデルが傷つくのを厭っているということか。 いや、どちらかというよりも―――― 「何故怒るのかしらね、お前が」 「リデルが死ぬのは御免だからだよ。あの時のように策も持たずに敵の懐に飛び込むような自殺行為はもう二度とやって欲しくないしね」 「…あれは自殺行為かしら」 「僕からしてみればよっぽど」 リデルからしてみれば勝算はあったのだが、あの程度の勝算ではスマイルの持つ合格ラインには届かないということか。 「私が死ぬのは嫌なの?」 「何回言わせれば済む気?」 成る程。リデルはスマイルを見上げて頷いた。 「分かったわ、受けましょう。お前が私を死なせたくないというのならば、私はその為に術の扱い方を学びましょう」 もう一度力強く頷いてやれば、スマイルが安心したように笑った。 *** スマイルからの説明を要点ずつ纏めていけば、術の構成とはたった一つの法則から成り立っているらしい。 難しいことも何一つ要らない。ただ本人の『世界に対して何をして欲しいのか』という強い意志があれば、後は世界が勝手にやってくれる…らしい。 ただしそれも限度があり、世界に対する欲求が大きければ大きいほど失敗する可能性は高くなり、位に応じて高度な物になるにつれて先ほどのスマイルのように陣が必要になってくる。 では何故スマイルやユーリのような呪文が必要なのか。その答えは「面倒だから」らしい。リデルもこれを聞いたときには目を細めたが、それもまた事実であることは確かなようだ。脳内に強いイメージを持って術を行使する。それはいいがそれだと間に合わないときもある。その為に簡易的に呪文を作り出して、そこに己のイメージと世界の手順を書き写しておく。それを呟くことで世界に干渉させるのだと。 とはいえ、それも眉唾物だ。スマイルが嘘を吐いている可能性だって捨てきれない。 それに簡単だとスマイルは言うが、リデルにはそれが簡単だとは思えない。世界に対する強い意志、なんてまずリデルは持っていないことに加え、スマイルが説明したのは実践のやり方のみだ。まず理論を説明して貰わないと話にはならない。 「じゃ、聞くよりもやってみた方が早いからやってみよーか」 いつものどことなく間延びした口調でスマイルはとんでもないことを言い出した。 「…スマイル、正気?」 「正気も正気。いつだって大マジだよー? 僕」 そうは見えないから困るのだが。リデルは心の底からそう思った。 「じゃあまず…何からすればいいかなぁ。初心者用って何かあったっけ」 悩んでいるスマイルにリデルは思わず問いかける。 「お前は昔は何をやっていたの?」 「んー、僕は生まれながらの妖怪だからねぇ。術の構成なんて息をするくらいに自然すぎて覚えてないよ」 その言葉でほんの少し、リデルは凍った。 「…生まれながらの妖怪は殆どがそうなの?」 「まあ大抵は。しかも術って言うのは自然の力を借りてやってるからねぇ。子どもの頃は他愛のない欲求が多いから、それが殆ど訓練代わりになってたんだよ。例えば空を飛びたいって思ったら風の力を利用して飛んでたし。どっちかってゆーと自然の方が勝手に力を貸してくれてたようなもんだからねぇ」 「…自然が勝手に……?」 そこに、何とはなしに引っかかりを感じた。 「そう、少なくともメルヘン王国にいる間は確実に。メルヘン王国の住人であるという認証を行われた子どもは、自然の方から勝手に寄ってくるよ。何か色々と誓約があるみたいだしねぇ」 スマイルは興味なさげに呟いた。 「…だからあんなに躍起になって私に認証を受けさせようとしたの?」 この身を狙う輩から身を守る術を与えるために。 だがスマイルは首を振ったのだ。 「違うよ。それは違う。リデルはこの世界の摂理って物を理解してないからそんなことを言えるんだろうけど、認証っていうのは物凄く大事なことなんだよ」 「例えば?」 「…例えば、魔として生まれたというのに認証を受けなかった場合。その者は魂から分解され、死すらも感じぬ内に消去される」 それはもしかすると、体が内側から砂と化してしまうようなあの感覚のことだろうか。そうだとすると―――― 「…意外と危なかったのね、私は」 感慨深げにリデルは呟いた。何故だか分からないが、心底感動している。 「そんなことで感動しないでよ…相変わらずだねェ、リデル」 何が相変わらずだというのか。感動するときは己の生死に関わるときだということがだろうか。確かにそれだったならば真実だ。 昔から関心があることはそれしかなかった。それ以外はどうでもよかったのかもしれない。病に罹ってから、それは拍車を掛けた。 知識を集めることは好きだ。食事を作ることや掃除をすること、家事の全般も好きだと言える。美しい物を見るのだって好きだ。だが何故だか興味関心を引くのは己の生死のみなのだ。 「…ま、僕はリデルが今もこれからも何があっても生きてくれるならそれでいいけど。 じゃ、始めようかリデル。リデルは今何が欲しい?」 「私の欲しい物…?」 「そう、リデルは何をしたい?」 「私のしたいこと…」 何かあっただろうか。 欲しい物。したいこと。それはリデルにはとんと縁のなかった物だ。今更そんなことを言われてしまっても、戸惑うだけになってしまう。 いつまで経っても答えを見出さないリデルにスマイルは呆れたように呟いた。 「相変わらず欲がないねぇ、リデル」 「…思いつかないのよ」 あの屋敷ですべてを諦め、ただこの身に死が訪れるのを静かに待っていた日々。それを受け入れていたリデルにとっては既に欲など殆ど残っていない。 けれど何が欲しいと言われれば、たった一つだけ―――― 「書を読みたいわ」 昔からこれだけは変わることはなかった。知識を集めるのが好きで、あの屋敷で様々な本を読んだ物だ。 スマイルはリデルの返事を反芻し、多少考え込むように言った。 「本が読みたい? んー、じゃあ風属性でいいかな…。この城色々あるし」 「何のことかしら」 恐らくは術の構成のことを言っているのだろうが、素人であるリデルにはさっぱりだ。 「無から有は作り出せないってこと。いくら本を読みたいって言っても、本を自分で作り出すわけにはいかない。だから元々ある本をそこらから持ってくるっていう構造かな、これは」 「…構造」 「うん、こんな風に考えるのが術式の構造。こういう風に考えて、ちょっとどっかから力を吸い上げて息を吹き込んでやればすぐに術として世界に干渉できるようになる」 息を吹き込んでやれば、とスマイルは言った。だがリデルはその方法も知らないのだ。 「…スマイル、私は力の引き上げ方も知らないのだけど?」 「だいじょーぶ。リデルなら簡単にできるようになる」 その無意味な信頼は一体何なのか。こちらとしては素人なのだから信頼されても困る。 「ま、その為にここに連れてきたんだけどね。言ったでしょ、ここはリデルにとって一番適してる。地脈のすぐ上で不死者 「…どういうこと、かしら」 スマイルだけ納得されてもこちらとしては困るのだが。何が何だか理解できない。 「だから、すぐ分かるって。じゃあリデル、始めるよ。まずは瞼を下ろして自分の中を空っぽにして」 「空っぽにする…」 スマイルの言うとおりに瞼を下ろした。精神集中をさせやすくするためのものだろう。 精神を透明にさせる。自分の純度を上げる。 …どこからか耳鳴りがする。それはとても五月蠅くて、だけどいつまでも聞いていたい音色だった。 幸いなことに精神を透明にさせるのは慣れている。昔あの屋敷で生活したことがこれほどまでに役に立つとは自分でも思っていなかった。 死を思い、生を思う。これだけで、自分の中はとても空っぽになる。 「それから、周囲の気配を感じ取って。視覚を放棄し、聴覚を放棄し、ただ感覚だけに頼って。僕を初めて捕まえたときのように」 スマイルの声。 耳鳴りと、どこか風の声。 何だかよく分からないが言うとおりにするのが一番良いと思って初めから放棄していた視覚に加え聴覚も放棄した。 それでも耳鳴りは止まない。聴覚を放棄している筈だというのに、放棄し切れていないのだろうかと考えたがこれは違う。恐らくこれは聴覚で感じ取っている物ではなく、脳が直接感じ取っている物だ。 『感じ取って』 スマイルがそう言うのが聞こえた気がした。 スマイルの言葉の通り、リデルは周囲の気配を感じ取る。自分。自分は感じ取れない。今は空っぽなただの器だからだ。精神という物を失っている。目の前にはスマイルの気配。スマイルは空っぽにしていないのか、その気配がよく分かった。 この場にいるのはこの二人のみだ。生物として存在しているのは、己とスマイルのみ。いや、生物として存在しているのはスマイルのみと言った方が正しいだろう。今のリデルは生物として存在はしていないのだから。 そして今度は生物ではなく空間を見る。目を閉じたまま、視覚と聴覚を放棄し感覚だけで物を見る。 …なにか……いる。 何かがいる、とリデルは感じ取った。 いる、というのも少しおかしな表現かもしれない。それは生物として生きてはいない。そもそも生物ではない。生物ではないが、そこに何かがいるということだけは感じ取れた。 だがそこまでだ。今のリデルでは『何かがいる』ということは感じ取れても、それが何か、ということまでは感じ取れない。 ならば、もっと感覚を鋭敏にすればいい。 それが一体何なのか、そうして見極めればいいのだ。 ざらりと何かが頬を撫でた。石造りの床の、石と石の間から湧き出てくる何か。それを確かめようと、リデルは五感のすべてを放棄して―――― 何かを掴んだ/掴まれた/様な気がした。 ガチリと脳のどこかで何かのピースが填め込まれたような感覚がして、リデルはようやく瞼を上げて五感を取り戻した。 何か、重要な部品が脳に填め込まれたような感覚と、同時に何かが形になったような感覚。一体あれは何だったのだろうか。それにスマイルにはまだ目を開けてもいいとは言われなかった。それなのに目を開けても大丈夫だっただろうかとリデルはスマイルを視界に入れた。 「…スマイル?」 譫言のようにリデルは呟いた。スマイルがリデルを――――正確にはリデルの目の前にある物を見詰めて驚愕の表情を浮かべている。 一体どうしたことか、これは。スマイルは元々大きく表情を変えたりはしない。特に驚愕などリデルは今まで見たこともない。 スマイルはリデルが呼びかけたにもかかわらず、リデルの目前にある何かを凝視し続けたままだ。そしてくシャリエと顔を歪め、その顔を隠すかのように右手で顔を覆った。 「…やっぱ、リデルって不死者 「何の話?」 「本当に分かってないの? それ。それとも見る気がない?」 スマイルが、リデルの目前で中空に浮かんでいるそれを顔を覆っている片手とは逆の手で指さした。 ――――それは光で構成された球体だった。 見かけだけならばスマイルが作り出した光球に似ているだろう。だが似ているのは見かけだけで、その質はまるで違っていた。 スマイルの作り出した光球は、この暗闇しかない空間に灯りをもたらすためのそれでありそれ以外の機能はない。だがリデルの作り出した光球は、ただ灯りをもたらすための物ではない。それは明らかに光球として活用するには分不相応な程の膨大なる質量を持っていた。 「これ…は……」 まるでそれは、あの女が使っていたあの膨大なる質量を持った光のようだった。 「それでせーかい。これ、あの女が使っていたのと同じだよ。規模は大分違うけど」 質や構成方法だけで言うなら全く同じだとスマイルは笑いながら言う。何が楽しいのかリデルには分からないが、とても楽しそうに嬉しそうに笑いながら言う。 リデルは不審そうにスマイルを見た。何が楽しいのか、何が悲しいのか、リデルにはスマイルのことが何一つ読めない。先ほどのあの悲しげな顔はいったい何だったのか。 「…何故私がそれを扱えるの? 答えなさい、スマイル」 「それが不死者 リデルの質問が終わるとまるで間髪を入れずにスマイルは答えた。 「不死者 「だからそれで合ってるんだってば。そんな小さい光の玉でも、誰かに当たれば確実に死ぬよ。――――僕とかユーリは死なないけど」 それは恐らく自分たちが上位種だからだと言うことだろう。 「でも、怪我は負うのでしょう?」 「そりゃ勿論。それで傷つかないのは創造主くらいしかいないよ」 それがたった一つの答えだ。 それはリデルがスマイルを傷つけることが出来るということ。 「…それで、これは一体何なの? 私は何かを掴んだとしか感覚的にはないのだけれど」 「地脈」 「え?」 「だから地脈。原初の力の固まり。普通はその地脈の力を加工して術を行うんだけど、不死者 「…基本的には攻撃用。時としては巨大な力の貯蔵庫、と言ったところかしら」 「せいかーい」 相変わらずの皮肉気な口調にリデルは頭を抱えそうになる。 「…それで、何故それが不死者 「正確な理由は知らないけど、推論なら出来るよ。不死者 「成る程…だからこそ、不死者 「そ、まあこれでリデルが地脈を引き上げる能力があるっていうことは分かったし、あとはこれを加工して術式を編むだけ。行くよリデル、これが本当の本番」 「え、ええ」 スマイルの言葉に真剣みが帯びていく。リデルもそれに応じて真剣みが増していく。 「その球に触れて」 スマイルの言うとおり、リデルはそっとその光球に触れる。触れただけで膨大な質量と熱量が光球の中で暴れているのが分かる。 「リデルはさっき書を読みたいって言ったよね。じゃあそれをイメージして。自分の手元に書がやってくる感覚を思い描いて」 それはリデルの得意分野だ。あの部屋では適当に何かを思い描くことしかできなかったのだから。 「書を、この手元に」 「そう、本をリデルの元に」 書が、この手元にあるという錯覚を起こさせる。 「復唱して。鍵 「鍵 光球が、光が、熱が、この手の中で暴れている。暴れて暴れて収束して、それでも術を形作ろうと頑張っている。 スマイルが最後の言葉を言う。リデルもそれを反芻した。 「「収集 そして、光が弾けた。 目の前が真っ白に染まる。光が光球からあふれ出る。これが、これが――――地脈の力? それとも術の効果? 一体どちら? 数秒経って、ようやく光は収まった。変化したところは何もない。石造りの柱も石畳も見事なまでにその形状を保っている。 そして己の手には――――何もない。書が欲しいと確かに思い、そしてそういう風に力は収束していったはずにも関わらず何もない。 「…失敗?」 「みたいだねぇ」 背後からスマイルの声がした。そういえばリデルの前にいた筈のスマイルがいない。何故後ろにいるのだろうと振り返って――――その動きを止めた。 「す、スマイ、ル…?」 声が震える。知らず勝手に震えて、今では指先すらも震えている。 「どうして…」 「んー? 別にリデルのせいじゃないよ」 飄々としたスマイルの声。 では何故、この男は血まみれで立っているのだ――――? 「じゃあ誰のせいだっていうの…!」 「…それは、まあこの場にいない誰かのせい、だけどね」 それが誰かは言うつもりはないけどとスマイルは小さく漏らした。 「……全く、そんなに僕を殺したいのかなぁあの女。まあ、殺したいからこんなことやってるんだろーけど」 幸いながら呟いた言葉はあまりにも小さすぎてリデルがその言葉を聞くことはなかったけれど。 血が、赤い血が、ポタポタと。石畳の上を浸食していって。石畳が赤く染まって。 頭が、頭がとても痛くて。痛くて痛くて仕方がなくて。とても泣きそうになって。 ――――ああ、スマイルを傷つけてしまった。 リデルは一番最初から、これを恐れていたというのに。 「…止めましょう、スマイル。言ったでしょう、私はお前を傷つけたくないのだと」 泣きそうな気分になりながら、リデルは懇願する。傷つけたくないのだと、傷つけることが何よりも怖いのだと。だがスマイルはリデルに近づいてその腕を取って恫喝する。 「それに対して僕は別にいいって言ったのも覚えてるよね? やってもらうよ、リデルはまだ術の使い方を学んでない」 強い力で握られた腕が酷く痛んだ。リデルはスマイルを見る。血だらけで、傷だらけ。四肢、頭部、腹部、背中、傷がない場所などそれこそないほど、スマイルは傷ついていた。 「死ななかっただけマシだよ。言ったでしょ、本来ならこの光球に触れればそれだけで死ぬんだって」 「…それでも嫌なのよ、私は」 そう思うことくらいは許して欲しい。本当に、本当にリデルはスマイルを傷つけたくない。だが傷つけてしまった今ではそれは仕方がないことだと諦めるしかない。そしてスマイルがリデルに術式を学ばせたいとするのならば、やらなければならないのだろう。 「…傷を、」 「え? 何?」 リデルはスマイルの傷を見る。リデルの術の暴走によって付いた傷。ならばこれからも失敗する可能性が高いリデルは再びスマイルを傷つける可能性がある。 「傷を早く治しなさい。お前が私を再び術式を学ばせようというのなら、失敗する可能性だって高いわ。だから早く傷を治して、万全の体勢で挑みなさい。…それから、多分これが最善の予防策だと思うのだけれど、私は多分地脈から力を引き上げることは出来るわ。だからお前がその能力を再加工して盾を敷きなさい、私の暴走でお前が傷つかないほどの盾を」 リデルがそう提案すれば、スマイルは意外そうな目でリデルをまじまじと見た。リデルはその視線を不快そうに受け止める。 「…何、かしら?」 「いーや流石リデルだなって。じゃ、早速も一回やろうかリデル」 「…お前、私の言うこと聞いてないでしょう」 結局、スマイルとリデルの努力もむなしく、その日も次の日もその次の日も――――リデルの術が術として成功することはなかった。 03. リデルは幼い頃、一つのお話を聞いたことがある。 リデルが最後を過ごした別荘に、何故こんなにも書があるのか。様々な土地から集められた書ばかりが屋敷を埋め尽くしているのか。それを、リデルの幼い頃、大人達が教えてくれた。 この屋敷の元々の主は酷く本が好きで、本を愛していた。そしてその主は病気がちで外に出られない身だった為に、その人の気を紛らわせるために一族の様々な人間が本を持ってきたのだ。 元々、この屋敷は病気がちなその人の為に造られた物らしい。だからこそこんなにも自然が溢れた場所に作られたのだと。 でも今はその主はもういない。彼女は病弱で長くは生きられず、眠るように死んでいったのだ。 そして今はこの屋敷は自分たちの一族全員の別荘になった。それがこの屋敷が手に入った経緯だ。 何故だか話が途中からすり替わっていたような気がしないでもないが、リデルにはどうでもよかった。リデルには最初の部分だけで十分だった。 どうしてこの屋敷には本が大量にあるのか謎で仕方がなかったがそれならば納得だ。病弱な主が書を好み、そして周りが主の望むとおりに書を集めてやる。そしてこの屋敷は出来ていったのだ。 そしてその主の顔を、リデルはよく知っている。 リデルがこの別荘で子ども達と隠れん坊をしていた頃、偶然見つけた部屋に飾られていた巨大な一枚の肖像画。 慈愛と儚さを併せ持った、透けるような金の髪と月のような金の瞳。白磁の肌。穏やかな微笑み。 そしてその容姿は、うり二つの双子ではないかと錯覚してしまう程リデルに似ていた。 その肖像画の巨大さから、リデルは彼女がこの屋敷の主だと判断した。そして彼女こそが、古い者達が己を恐れる理由だと理解した。 ――――そして同時に、彼女がこの屋敷でどのような扱いを受けていたのかを理解した。 *** もはやスマイルとリデルの術の訓練が日課になってきたある日、リデルは廊下でばったりと吸血王…ユーリに出会した。珍しいことだ、いつでも執務室に籠もっている彼が外を出歩いているなんて。 「お久しゅうございます、吸血王。食事と紅茶は如何だったでしょうか。初めて使う食材ばかりでしたので、粗相がなければよかったのですが」 「粗相などない。多少変わった味付けだったが美味かった。それから、私のことはユーリと呼べと言っただろう、ミスオルブライト」 「それを言うならば貴方もです、ユーリ。そちらがわたくしにユーリと呼べと強制するのならば、こちらも貴方にリデルと呼べと強制しても宜しいのではないでしょうか。それに、敬語など使わなくともよいではないかと思いますが。わたくしは貴方の臣下だと思っております。上の者が下の者に敬語を使うなどあってはならぬことですから」 早口で捲し立てる。そうだ、リデルはそれが気に入らなかった。一方的に相手に対して要求を突きつけてどうするのだ。確かに相手は王だということは分かっている。だがそれだけでは納得できない。 リデルの気迫に気圧されたかのようにユーリが鼻白んだ。実際にはそんなことはないのだろうが、これこそ女性は強しということなのだろうか。 「…流石だな、リデル」 「光栄です、ユーリ」 リデルはまるで意趣返しのようににっこりと花のような笑みを浮かべ、ドレスの端を掴んで礼をした。 「それで、何をしている? リデル。スマイルでも探しているのか?」 普段はリデルの傍を片時も離れようとしない透明人間がいないことに気付いてユーリは尋ねた。 「いいえ、わたくしが探していたのは貴方ですユーリ。貴方に少しお尋ねしたいことがありまして今から執務室に向かおうと思っていたところです」 「私に? 何の用だ?」 ユーリが驚きの表情を浮かべる。それはそうだろう、リデルは今まで傍にいるスマイルで満足して、ユーリに話しかけることは殆どなかったのだから。 だがこれは恐らくスマイルは持っていない情報だ。ユーリに尋ねるのが一番手っ取り早いだろう。 「ええ、わたくしがこの城にやってきて数日が経ちましたが組織の動向はお掴みになられたのでしょうか」 ぴたりとユーリが動きを止めた。その反応にリデルは不審そうに尋ねる。 「吸血王…? どうかなさいましたか?」 「いや、何でもない。組織についての動向はこちらも未だ把握し切れていない状況だ。私の子飼いを集めて探させてみても余程巧妙に隠れているのか姿すら現れない。だが安心しろ、リデル・オルブライト。ここは領主の城、ここにいる限り外敵からの危害は加えられない」 ただし風邪などは防ぎようがないがなと吸血王は笑う。確かにそれは仕方がないとリデルも笑った。 「了解しました、ありがとうございます吸血王。その情報がいただけただけで十分にございます」 一歩下がって礼をする。それから立ち去ろうかと思っていたところにユーリからの声がかかった。 「ああ、ならばいい。…だがリデル」 「はい?」 「貴様、私のことを名で呼ぶはずではなかったのか?」 「はい、そう申し上げた記憶はございます。ですがわたくしは基本的に尊称で呼ぶ人間、滅多なことでは他者を名で呼ぼうとは思いません」 笑顔でまるで切り捨てるかのように言い張った。己の特別にならないと名で呼ぶことはないと、リデルはそう笑顔で言う。 「…ならば、スマイルは特別か」 「はい、あれは特別です。 ――――あれは、私の光ですから」 リデルが生きるために必要な希望。指標。それがなければ生きていけないと感じてしまうほどの絶望を抱いてしまうほどの。 「依存しているな、どうしようもないほど」 「ええ、自覚しております。ですが宜しいでしょう、スマイルに迷惑をかけるつもりではありません」 「そうではない。――――互いに、だ」 互いに、どちらがどちらともどうしようもないほどに依存している。 そうなのだろうか。リデルがスマイルに依存しているのは分かる。いつだったかは忘れてしまったが、リデルがスマイルを自分の光だと定めたあの時から確かにリデルはスマイルに依存していた。それは確かだ。だがスマイルはそうなのだろうか。そうとは思えないのだが。 疑問を正直に顔に出しているリデルにユーリは尋ねた。 「ならば一つ尋ねよう、リデル・オルブライト。 もしもスマイルが何者からの攻撃によって瀕死の状態だったとする。もはや虫の息で息が絶えるのももうすぐといったところで、お前がそこに通りかかる。その場にいた私が、お前の命を差し出せばスマイルを助けることが出来ると言ったならば…どうする?」 「喜んでこの身を差し出しましょう」 即答だった。何の躊躇も要らなかった。考える時間すら必要なかった。 「わたくしにとって、わたくしの命とスマイルの命は決して等価値ではありません。ですからこの命でスマイルが救われるのならば喜んで。わたくしはあれがいないと生きていけませんから」 そのリデルの答えに、ユーリは眉根を寄せた後にため息を吐いた。 「だから、互いが互いに依存していると言っただろう。…スマイルも、貴様と同じように同じことを言っていた」 リデルは目を丸くする。そんな会話が繰り広げられていたとは、知りもしなかった。 「知らないのは無理もないだろう。…これは、お前が目覚める以前に交わされた会話だ」 その言葉に、リデルは思わずユーリに掴みかかろうとして止めた。相手は王だ。己の敵うはずのない、上位種だ。 「お待ち下さい。それでは、スマイルも貴方も、わたくしが不死者 「さてな」 「お答え下さい、吸血王!」 焦るリデルとは裏腹に、ユーリは口元に緩やかな笑みを浮かべた。 「多少表現に語弊があったな。今のはお前が目覚める前だと言ったが、実質上はリデル・オルブライトが人間として生きている時期にこの城で交わされた内容だ。誤解を招く表現があってすまない」 ユーリはそう言って優しく柔らかく笑んだが、リデルはそれが嘘だと思った。先ほどユーリが言ったことこそ真実なのだと直感的に悟った。 「それで、こちらも一つ尋ねることがあった。構わないか?」 ユーリは話題を逸らすかのように疑問を提出してくる。 「ええ、構いません。どうぞわたくしに答えられることならば如何ほどのものでも」 「スマイルはどこにいるか知っているか?」 スマイルに何か用なのだろうか。用なのだろう。用でなければ呼びなどしない。それにスマイルはこの城の中で意外と重要な位置を担っているようだ。 「はい、恐らく今はこの城の一番の地下の部屋にいるのではないかと思われます」 その言葉を聞いた途端、ユーリの瞳の色が変わったように見えた。 「――――地下?」 「はい、あの術によって鍵がかかっていた、地脈の真上と言われるあの地下です。スマイルが陣を使ってまでして解いたのですが…何か?」 「そこで何をしている?」 詰め寄ってくるユーリに、リデルは事細かに説明した。 「スマイルがわたくしに術を教え込もうと躍起になっております。わたくしとしては一番最初の術でスマイルを傷つけたので、止めようと申したのですがスマイルが止まらずに…」 「術を教えている、だと…」 まるで信じられないものを見るような眼差しで虚空を見るユーリ。体はどこかふらついており、どこかしら憔悴している。あの部屋を使用することはそれだけおかしなことだったのか。 「…申し訳ないがリデル、スマイルに用があるので少しの時間呼び出させて貰う。構わないか?」 リデルは小さく頷いた。 「ええ、勿論ですユーリ。ですがスマイルに対する仕置きは程々に。一応、アレはわたくしのことを思ってやった行動なのですから」 「考えておこう。それでは、失礼する」 ユーリは最後はリデルとも目を合わせずに足早に立ち去った。恐らく向かう場所は地下だろう。そこで話をつけるのか、それともまた階段を上って執務室で話をするのかは分からないが、だとすればリデルはどうするべきか。流石に今から地下に下りるわけにはいかない。 ふむ、とリデルは頭を抱えるのであった。 *** 「スマイル! 貴様何を考えている!」 「何って、何が?」 地下へと駆け下りてきて真っ先に憤りを見せたユーリをするりとはぐらかし、スマイルは笑った。 「リデル・オルブライトに術を教えていることだ!」 「ああ、そのことかぁ。ふぅん…リデル喋ったんだ。まあいいや、口止めもしなかったしねぇ」 したらその方が怪しまれるし、とスマイルは嘲笑にも似たいつもの笑い声を上げた。 「何のつもりだ…。リデル・オルブライトに術を教えるなど、自殺行為にしかならないぞ」 ユーリの苦々しげな苦言が聞こえる。ああそうだろう、その通りだろう。領主 「いいんだよ、これで」 「スマイル…?」 不審そうなユーリの表情。先日のリデルの表情に重なる。――――ああ、やっぱりこの二人は似ている。何が似ているって、魂のあり方が似ているんだ。自分よりも余程、ユーリとリデルは似ている。 そして彼女も、あの時はほんの少ししか会話はしなかったけれど――――リデルに似ている。 リデルはそれに気付かなかったかもしれないけれど。 「確かに自殺行為だろーねぇ。でも別に、自殺行為でいい。僕はさぁ、リデルに身を守る力をあげたい」 あの時、あの女と己の間に割って入ったリデル。何の策もなく、まだ目覚めたばかりで体は人間に近かったというのに、何の躊躇もなく見に降り掛かる危険も顧みずスマイルを庇ったリデル。 あの時、再びあの恐怖を味わうのかと、胸が冷えたのを彼女は知らない。 だったら、あんな思いをするくらいなら。自殺行為だろうが何だろうが構わない。 「…彼女はお前が瀕死の時、喜んでその身を差し出すと言っていたが?」 「僕はリデルに生きていてほしいんだよ、ユーリ」 それがスマイルの中の唯一の真実だ。 この身を取り巻くすべての糸は様々に絡まって、もう解くことすら叶わないけれど。スマイルにとってはこれだけは唯一の真実。 …そう、リデルがスマイルを光だと認識しているように。 スマイルも、リデルを光だと認識しているのだから。 「それは不可能だと認識していてもか?」 「不可能なんて言葉はないんだよ?」 茶目っ気たっぷりにスマイルは言い、ついでにウインクまでしてやる。 「…信じているのか? あの娘を」 「信じてるわけじゃないよ、ただ…」 生きていて欲しい、と祈りのように願いのようにスマイルは吐息のような微かな声で呟いた。 「それに、張った伏線がそろそろ効果を発揮する頃なんじゃないかなぁ?」 「…伏線?」 「そ、伏線。多分彼女が生き残る確率を格段に上げるための伏線だよ」 そしてスマイルは虚空を見上げた。その視線の先には、恐らくリデルの部屋があることだろう。 04. 結局あの後悩みに悩み続けてリデルが為したことといえば、己に与えられた部屋に帰ってくることだった。 与えられた部屋、といえどもこの部屋はリデルの生前の部屋をそっくりそのまま移してきたかのようにリデルの部屋に似ていた。クローゼットの中にある衣装も、ベッドの形も、壁に掛けられている絵画も。唯一違うのは壁一面を覆うようにある本棚がすべてなく、クリーム色の壁がその姿を現していることだけだろうか。 その為か、リデルはこの城にやってきてからも酷く落ち着けていた。スマイルがいるということに加えて、この部屋は生前のリデルの部屋を連想させたからだ。 今ではそれが酷く恐い。 先ほどのユーリとの会話。そこでユーリがほのめかした言葉。スマイルはリデルが不死者 無駄なことばかりが頭の中で考えられていく。頭が痛い。ユーリの言葉のせいで妄想だと言い切れない。 「…これは多分、考えてはいけないことね」 ベッドに腰掛け、リデルは静寂の空間の中一つ呟いた。 そう、考えてしまったら。そして答えを見つけてしまったら。 リデルはきっと、この城にいられなくなる。 だけど同時に、それでいいのかと問う声がするのだ。 本当にそれで良いのか、リデル・オルブライト。貴族の誇りはどうした。貴様も貴族であるのならば安穏と暮らすのではなく真実の一つくらい見つけてしまえと。 だけど、あの時ユーリに言った言葉も嘘ではないのだ。 スマイルのためならば命すら捧げようというあの言葉も、リデルの中では決して嘘ではない。 そうしてしまえば、雁字搦めになってしまって身動きがとれなくなってしまう。スマイルの元を離れたくない。だけどリデルに対して秘密を持っているスマイルが恐ろしい。 本当に――――どうすればいいのか、分からなくなっていた。 「…術の練習を、しましょう。ここでも、出来る筈だから」 そしてリデルは――――逃げた。 ユーリやスマイルの抱いている秘密を暴くことよりも、秘密を抱えていてもいいから傍にいることを選んだのだ。 それは貴族として生きてきたリデルが初めて見せた逃げだった。この心地よい空間が失われることを恐れたのだった。 「…どうしようもない」 だけど、それでも。自分のことをどうしようもないと自覚していながらも。 リデルはそれでも、スマイルの傍にいたいと思っているのだ。 「まずは、精神を空にして…」 いつものように精神を透明にさせて自分の純度を上げる。どこからか響く耳鳴り。ここまではいつも同じだ。何も変わりはしない。 そして、ここから――――… 次の手順は頭の中で構成されている。だけどリデルは次の手順を行うことが出来なかった。 怖い。リデルは怖い。そして恐れている。――――自分の存在が変質してしまうことを。 今までの自分ならば、リデルは簡単にスマイルやユーリに詰め寄っていただろう。満足する答えが得られなかったとしても、リデルは自分の足で真実を見つける。 だがそれを今回はしなかった。できなかった。疑惑の念よりもスマイルを失う恐怖心の方が勝ってしまったのだ。リデルはそれが、怖い。変わってしまうのが、怖い。 『続けないの?』 ――――その時、どこからか声がした。 リデルは咄嗟に背後を振り返って現状を確認する。だがそこには誰もいない。この広い部屋の中、人間の気配はリデル以外に誰もいないのだ。 「…どなたかしら」 問いかける必要などないことをリデルは知っている。リデルはその声を、よく知っているのだから。 ――――そう、それは確かに。少し違うが確かに、 『私? 私は――――』 ――――リデル・オルブライトの声だったのだから。 『シャリエ、シャリエ・オルブライト。貴方をこちらに引き込もうとした存在であり、貴方の二重存在 彼女は酷くあっさりと言ってのけた。 「オルブライト? では貴方は…」 『さぁ、それはどうかしらね、リデル。私と貴方の姓が同じでも、私たちが同じ血族であるとは限らないわ』 確かにそうだ。だがリデルは既に確証を抱いていた。 一瞬だけ見ることの出来た彼女の緩やかな金の髪。恐ろしいまでにリデルに似ている容姿。オルブライトの名。そのすべてが、あの肖像画に繋がっていく。 そして脳裏によみがえる、その肖像画の周りにあった絵画達。その絵はすべて、同じ人物をモチーフに描かれていた。 「…どこから話しかけているのですか? 貴方は」 『貴方の影。私があの透明人間から逃げたとき、私は貴方の影を利用して影渡りをしたの。その時、貴方の影に私の影を一つだけ潜らせておいたのよ。貴方にいつだって声をかけれるように、ね』 茶目っ気たっぷりに、まるでウインクでもついていそうな口調にリデルは眉を潜めた。自分たちは一応敵同士ではなかったか? 「…貴方は私を、自身の組織に引き入れようとしていたのではなかったの?」 『色々と事情があるのよ、こちらにも。貴方を引き入れようとすることはなくなったから安心して』 そういって、彼女――――シャリエは笑ったようだった。 「…ならば、いいのだけれど。それでは貴方は一体何故私に接触しようとしたの?」 『貴方が術を使おうとしていたから。教えてあげようと思ったのよ』 「…それは、何故?」 『あら? 親切はいらない?』 猜疑心を現したリデルを、シャリエはそんなことはないと彼女の猜疑心を笑った。 「…確かに必要だとは思いますが、一度敵だと認識した者から施しを受けるのはどうかと思います」 『そうかしら。昨日の敵は今日の友、と言うわよ?』 「…? どういう意味ですか? それは」 どこかの言葉だろうが、大量の書を読んでいるリデルもそんな言葉は知らない。 『そのままの意味よ。東洋の言葉で、今まで仲が悪かった人もきっかけ一つで仲良くなるっていうこと。でもこの言葉を知らないとは思わなかったわ。貴方、あの屋敷にある本を読み切ったのでしょう?』 その言葉で確信を強める。やはり彼女はあの屋敷の主か。 「…その言葉に偽りはないのでしょう?」 『ないわ。もしも私が貴方を利用しようとしている場合は、貴方が私を食らっても構わない。二重存在 それは確かに知っている。先刻ユーリに教えられたばかりだ。 「貴方は私を食らうつもりはない、と?」 『ええ、私には食らうつもりはないわ。だって私にはもう力なんて必要がないから』 そうしてもう一度、シャリエは鈴のように笑った。…少なくとも、彼女の嘘をリデルは見抜けない。これが本当に嘘ならば、それを見抜けなかったリデルが悪いのだ。 「…私も、貴方を食らうつもりなんてない。だから貴方が二重存在 私は貴方を、信じるわ」 『ありがとう、リデル』 彼女は柔らかく微笑んだようだった。その表情は見えなかったが、気配で理解できた。 「それで、術を教えてくれるのかしら?」 『ええ。貴方が頑張っているのは分かっているのだけど、何が駄目なのかさっぱり分からないの。それが分かればどうにかなると思って』 「…私は、スマイルに教えられた通りにやっているのだけど」 そう告げれば、彼女はため息を吐いたようだった。 『あの男…、教えているのならきちんと最後まで責任を持ちなさいよ。こんな状態なら私が手を出したくなるって分かっているでしょう』 シャリエはもう一度ため息を吐いて、ついでに舌打ちまでしたようだった。声を聞く限りでは理知的で穏やかに感じる彼女には珍しい。 「…スマイルと知り合いなのですか?」 スマイルを知っているような口振りに、リデルは思わず尋ねた。シャリエは多少口を渋ったようだが、諦めたように話す。 『…ええ、古い知り合いよ。ついでに吸血王とも、ね』 シャリエは苦笑を滲ませながらそう言うが、明らかに声は不満がありありと覗いていた。そんなに嫌なのだろうか。 『まあ、そんなことはどうでもいいわ。それで、地脈を引き上げるところまでは出来ているのでしょう? どこでおかしくなったと感じるの?』 「おかしくなった、とは感じないのですが…地脈から力を引き上げた後に術式を解放した場合は、その光球は暴発するかのように暴れたり…するのですか?」 リデルがそう呟けば、空間にピシリと罅が入ったような音がした。 『それは術式の構成方法が間違っているか…それとも術の構成言語が違う可能性が高いわ。使用している言語は何?』 「『鍵 空気に暗黒が混じってくる。脳に直接響いてくる声がどんどん沈んでいく。 『…あの男の構成言語ね。ならば失敗するのも当然でしょう、基本的に術の構成言語も術式の構成方法も一人一人違う。あの男に習わなかった?』 「…聞いていませんね」 『あんの男…! ああもう、後で殴っておきましょう? リデル。あんな男見捨てて私と術練習に励んだ方が貴方の身の為よ?』 「…確実に、その方が身のためのようですね」 少なくとも、リデルは彼女の言う知識をスマイルから聞いたことはない。 『それじゃあ、まず自分に合った構成言語を見つけましょう。それを見つけないと術式を構成しても世界に叩きつける術がないから。 じゃあ早速――――始めましょう?』 「ええ、よろしくお願いします。シャリエ」 リデルは礼をした。シャリエは静かに笑ったようだった。 『ええ、こちらこそよろしくお願いします。リデル』 *** そして、リデルは昼はスマイルに術を教えてもらい、夜はシャリエに再び術を教えて貰うという二重生活を送るようになっていた。 彼女の存在を、ユーリやスマイルが気付いているのかいないのかは分からない。ただ何も言ってこないということは、気付いていないのか黙認しているのか。リデルにはその点は理解できなかった。 それからシャリエに基礎から丁寧に教えられて初めて分かったことなのだが、スマイルのそれも決して間違ってはいないのだ。ただ少し難解で、感覚的かつ実践的であった為に初心者であるリデルには理解できなかっただけで。 そういった点を補修してくれるシャリエの教えは初心者向けで非常に分かりやすかった。彼女の言葉ははっきりと明確で分かりやすく、かつ丁寧に基礎理論から教えてくれるために構造の把握が掴みやすかったのだ。 そしてリデルがリデル自身の構成言語まで発見した後、それでも術を失敗し続けるリデルに彼女はぽつりと漏らした。 『構成も、構成言語も、術式も間違っていない。…ならば、後は考えられることは一つね。 ――――リデル、貴方には強い願いというものが存在しないのね』 強い願い。確かに術式を構成するときは何らかの願っているが、それは強いとは言い難いものだった。 『強い願いが存在しない貴方は、未だ生きたいという欲求すら薄い。…それは、あの男といても変わらない?』 そう、なのだろうか。この城にやってきて、少しの時間が経った。確かにリデルには相変わらず三大欲求というものが薄いことに加え、…生きたいという欲求も少しあやふやだ。 三大欲求は生物が持っている『生きよう』とする欲求の総称のことを言う。食う、寝る、子孫を残す。この三つが欠如している人間というのは、それはもう生きる意志すらない。 「…よく、分からないわ」 生存欲求。本能からの叫び声。リデルの内には、人間である限り誰にだって一人はいる獣の声が聞こえないのだ。 苦々しげに呟かれたリデルの言葉に、シャリエは苦笑したようだった。 『…今日は、いえ、お前がその欲求を取り戻すまではしばらく術の練習はお休みね。せっかく来たのだから――――お話でもしない? リデル』 「…気晴らしにはなるでしょう。ええ、お受けしますシャリエ」 リデルは頭の中で響く声に恭しくかしずき、そこらにあった木製のチェアに腰掛ける。 『何故、スマイルがお前に術を教えているか分かる?』 「…生きていて欲しいから、と言われたわ」 生きていて欲しい。生き延びて欲しい。それが術を教える前にスマイルが言った掛け値なしの本音。 『そう、そしてそれは私もよ。私も、お前に生きていて欲しいの』 「…それは、何故?」 恐らく彼女の中にあるのは、この血統に対する古くからの怨恨だろう。なのにそれを抑え込めてどうしてそんなことが言えるのだろうか。 『…分からない?』 「ええ」 『どうしてかしらね? 聡明なお前が、どうしてこんな簡単なことに気付かないのかしら。ひょっとして、気付いているの?』 シャリエはからかうように笑い声を上げる。 リデルもその理由には気付いている。恐らくこうではないかという仮定ならば、ある。だがその理由に行き着く経緯に思い当たらないだけだ。 ――――何故ならば、彼女は、 リデルの脳裏に古い記憶が甦る。それは彼女の肖像画の周囲に取り囲むようにしてあった絵画。そこに並べられていた絵画に描かれていたのは―――― 「…シャリエ、貴方は何故」 『だって恨んでも仕方がないことなのよ、リデル。私を辱めた人たちは既に、この世の者ではないのだから』 ――――それは、裸婦画だった。精密に緻密に、毛の先一本まで丁寧に描かれた絵画。それだけならば良かった。だが周囲にある絵画はそんな生易しい物だけではなかった。 絵画の中の大半の物は性交の最中を描かれた物だった。女性はたった一人、シャリエ・オルブライト一人だけ。そして男性はいつだって大抵複数人で、絵画によって描かれた男性はいつだって違っていた。 真っ当な性交をしていたわけでもなかった。描かれてある絵画はすべて体位が違っていたり、描かれる部分が違っていたり、時には自慰をしている場面も描かれていた。 そしていつだって描かれている彼女の苦悶の表情から、それが自ら望んだ物ではないというのが一目瞭然だった。 ――――そして、彼女がこの行為によって死亡したということですら、子どもの目から見ても明らかだったのだ。 「…私には、お前の方こそよく分からないわ」 『そうかしら。…ああ、そうかもしれないわね。だってお前は恐怖や嫌悪感ですら、強く抱いたことはないものね』 リデルのそれは、すぐに消えてしまうものだから。だから感情が風化していく感覚も分からないだろうとシャリエは笑う。 『でもね? リデル。私がお前を大切に思っていることは本当なのよ? 私はあの男とはあまり気があったことはないけれど、お前に関することだけは別だから』 お前が大切で、生きて欲しいから。シャリエは慈愛を含ませた声でそう言って、たおやかに笑った。 *** リデルは考える。相変わらず発動しない術式を構成しながら、リデルは思考する。 シャリエは自分に生きて欲しいと言っていた。スマイルも自分に生きて欲しいと言っていた。 リデルを生かすためにこの術を習わせているのだと言った。そしてスマイルがリデルに術を教えているという事実を知ったとき、驚愕の表情を現したユーリ。 そしてユーリとスマイルは古い友人であると言いながら、リデルが目覚めたとき初対面の振りをした二人。 …きっと、これを繋ぎ合わせれば真実という物が見えてくるのだろう。だがそれでもリデルは―――― 「…スマイル」 リデルは背後で己を見守っているスマイルに声を掛ける。スマイルはん? と反応を見せた。 「お前、私に生きていて欲しいんでしょう?」 確認の色合いが強いのは、スマイルを怒らせたくないからだ。以前あれほど「生きていて欲しい」と言われたのにも関わらず、再度聞くのは気が引けるからだ。 「…何回言わせれば気が済むの?」 「きっとこれが最後よ」 確認できればそれでいい。リデルは発動させようとしていた術を拡散する。シャリエの話が正しいのならば、リデルは今術など発動できないらしいのだから。 「…あのさ、リデルは生きたくないの?」 スマイルもシャリエと同じことを考えたのかそうリデルに問いかける。リデルの答えもシャリエに返したものと同じだった。 「…分からないわ」 スマイルと一緒にいられることは、嬉しい。それを望んでいると言っても過言ではない。その為にリデルは真実から目をそらし続けているのだから。 だけどそれが生きたいという願いに繋がるのかは分からないのだ。 「…でも、きっと。私が生きたいと思っていても、きっとお前の命を優先させるという事実は変わらないわ」 「そーだろうねぇ、僕もそう思ってた」 スマイルは酷く悲しそうな表情と声色でそう言った。 「…ねえ、リデル。リデルは色々と、知ってる事実があるよね? なのにどうして、この茶番劇に付き合うの?」 スマイルは静かに言った。リデルが目をそらしていた事実を、あえてスマイルから問題を提示してきた。 「それは、」 「まだ事実が足りない? 足りなくてもそこは想像力でカバーしてるでしょ、リデル。…どーして気付いてるのに律儀に付き合うのかなぁ、ほんとーに」 まるでそれは、リデルがその茶番劇から逃げることを望んでいるかのような。 「逃げればいい。その為に伏線を張ったんだから。そしてその伏線と君は関わった。だから、君なら逃げられるはずなのに。逃げてくれると…」 「思っていたと、本当にそう言うの?」 リデルにはスマイルの言葉の意味をすべて把握しきれない。いや殆ど把握していないだろう。だが、リデルがこの城から――――スマイルの側から離れるということはそれこそ有り得ないことだろう。 スマイルもその点について思い当たったのか、苦笑を浮かべて首を振った。 「…ううん、思ってなかった。リデルが逃げるなんて、そんなの有り得なかった」 「分かったならいいのよ、愚か者」 そう言って、愚か者は本当はどちらなのか、それはリデルにも分からなかった。
【 転 】
‐you know.‐ 01. 恐れることなど何もないと思っていた。 本当に何もないと思っていたのだ――――昔から。 死が怖いと人は言う。その為に力を欲した。そうすれば他者に殺されることはなくなった。死ぬとすれば寿命か、それとも自殺のどちらかしか選択肢にはない。 裏切られるのが怖いを人は言う。なら他者に期待をするな。期待をさせるな。 大切な者を失うのが怖いと人は言う。ならば大切な者など作らなければいい。元より他者に対する執着は酷く薄い。家族というものは一番最初からいなかったから温もりなんて元より知らない。 酷く消極的だと自分でも思う。だがそれは事実だろう。恐れてしまうくらいならば何もしなければいい。恐れてしまう要因を作らなければいい。そうして今まで生きてきた。 だから恐れるものも、怖いと思うことも何もなかった。 それがどうして――――君と出会ってからすべてが一転するのだろうか。 君と出会って、君に触れ、君が今にも死んでしまいそうな身だと分かって、この身は初めて恐怖する。そうだと理解して近付いたにも関わらず、それでも恐怖するのだ。 ああ、大切な者を失うのはこれほどまでに恐ろしい。 他者に触れ合い、温もりを実感した今、ようやく人が言う大切な者を失うのが怖いという感覚を理解する自分がいる。 ならばどうすればいいか――――。考えた末に、己は一つの賭に出る。 それは誰も知ることのない賭。この胸の内に秘めておくだけの賭だ。 こちらが賭に勝つならば良し、負けるならばそれも一興。その為に、己はこのか細く儚い、今にも消えてしまいそうな命を―――― *** 『…そう、あの男が』 スマイルのことを決して名前で呼ばないシャリエが深刻そうに言う。 リデルは先日スマイルがリデルと交わした会話を、リデルの部屋でシャリエに尋ねてみた。当事者であるスマイルにその意味を聞くわけにはいかず、ユーリには尋ねてはならないと本能が告げている。ならば最後の選択肢はシャリエしかいない。 『もう限界ということね、つまり。それがあの男の呪いなのだから仕方がないのだけど』 「…呪い?」 そんなものがスマイルにかかっているというのか。 『聞いては…いないでしょうね。あの男も意外とプライドが高いし、それに忘れていたというのもあるのでしょうけど』 「忘れていた?」 『ええ、お前と関わるのが面白くて忘れていた可能性もあるのよ。あの愚か者は』 シャリエは情けないような口振りでため息を吐いた。まるでその口振りは身内に対するそれのようだ。 「…シャリエは、スマイルとユーリと親しいのね」 『…ええ』 騙していてごめんなさい、とシャリエは謝罪する。その言葉もまた、事実の一つだ。 『だけど、私やスマイルがお前に生きていて欲しいと思っているのは事実よ』 「…知ってるわ」 それは信じるに値する言葉だ。彼女の言葉もスマイルの言葉も、ただただ真摯にリデルに生きていて欲しいと思っていたのだから。 『だけど、それを願っていてもどうしようもないこともあるから。だからこそ――――』 今まで脳に直接響いてきたシャリエの声が消えた。驚愕に目を見開くリデルだが、その時リデルの口が独りでに動いた。 脳内で勝手に術式が組み上げられる。リデルが決して成功しない術式。リデルの魂と、誰かの魂を繋ごうとしている。だが同一の、左右対称 そしてあまりにも自然に組み上げられた術式に感嘆の声を上げながら、それでも自分の体を勝手に使われているという不快感に鳥肌が立ちそうになる。 これは、そう。まるで認証の時にユーリに拘束されたあの時と同じ感覚。 リデルの喉が声を発した。 「私は貴方と繋がる 組み上げた術式を地脈に叩きつける。リデルの編んだ術式は地脈という巨大な大河に飲み込まれるかのようにその存在を掻き消された。そして―――― 脳の中で何か、カチリと音がした。それと同時に脳に激痛が走る。あまりの痛みにリデルは上半身からベッドに倒れ込み、荒い息を吐く。 まるで/脳を/ザクザクと/何千本もの/剣で/串刺しに/されているような/錯覚。 痛みに近い、死に似た。ああでも、己はこの痛みをよく知っていた。 リデルの記憶の中ではそう遠くない昔。だが恐らく現在では、かなりの昔になる出来事。 これは/この痛みは/あの病に/似ている。 「…大丈夫?」 ほんの少し、リデルの体温よりも少し冷たい、だがしなやかで柔らかい手がリデルの額にかかる髪を掻き上げて額に触れる。 「無理をさせてしまったわね。私と貴方の魂だから大丈夫だと思ったのだけど…軽率だったわ。ごめんなさい」 柔らかな、女の声。初めてあったときとは声色が違う気がした。リデルの心に余裕が出来たからだろうか。今はリデルを心から心配している。 リデルは痛みをこらえてシーツに押しつけるようになっていた顔を上げる。先ほどと何ら変わらない部屋。だが一点においてのみ、それは変わっていた。 リデルの顔を覗き込むように、心配そうにこちらを見ているリデルによく似た女がいた。違うのは髪の色と瞳の色と、肌の斑点の有無。リデルの髪と瞳が水色と紅玉であるのに比べ、女のそれはすべて金で出来ている。 それを見て、女の言葉の意味を理解する。『私と貴方の魂だから大丈夫だと思った』。ああ、やはり。あれはリデルの見間違いなどではなかったのだ。 激痛に擬似的な死を体感する。だがそれを押しのけて、リデルは女を真っ正面に見詰めた。 「…やっぱり、」 リデルが最後まで言い終わる前に、女は花のように笑ってリデル隣に腰掛けてリデルの頭を撫でた。 「ええ、貴方の想像通りの顔でしょう?」 シャリエはリデルと同じ顔で、華やかに穏やかに笑った。 「…痛むのならお休みなさい、リデル」 「それを、したならば…お前は、ここで何をやるのか、分からないから」 途切れ途切れになりながらリデルはシャリエの穏やかな労りの言葉を拒絶する。 痛みに苦しむリデルをシャリエは見下ろして、ふと全く関係ない言葉を発した。 「…ねえリデル、貴方はあの男とどう出会った?」 あまりに他愛のないことだったからか、リデルはあっさりと答えた。 「…雨の日に。スマイルが私の屋敷に偶然雨宿りにやってきたの」 「それは本当に偶然?」 ――――ああ、やはり。そういうだろうと思っていた。 「…作為的なものがあったとでも言うの?」 「確率的にはかなり高い部類に入るわね」 「だとしたら――――何のために?」 その言葉に、シャリエは笑った。 「その真実を――――、いえこの茶番劇の真実を教えてあげる為に来たのよ、私は」 未だ体の疲れがとれないせいで仰向けに寝転んでいるリデルにシャリエは静かに口付けた。 「…ッ!」 舌も入れられない。唾液が混じり合ったりもしない。愛欲など欠片もない、ただ子どものように触れ合うだけの口付け。だが確実にそこから何かが吹き込まれている。シャリエの唇からリデルの中に、何かが吹き込まれ浸食されていっている。 そして同時に、リデルの背筋から確実に何かが抜け出ていっている。 「シャリエ…!」 口付けを無理矢理離し、リデルは叫んだ。 「あの男ももう限界なのよ。そしてそれを私に伝えるようにしてきた。なら、やらなければならないことは決まっているの。 でも流石に、私がここまでやるとは思ってはいないだろうけど」 シャリエは苦笑した。頭がクラクラしている。意識が、失われようとしている。 「だからその為に、まずは貴方の体を私に明け渡してちょうだい」 食われる。 これが二重存在 それはどこでのことだっただろうか。 これは/確か/スマイルの――――? その記憶を確かめる前に、リデルは暗闇に呑まれた。 *** 雨が降っていた。 暗闇の中、リデルは古い記憶を回想する。 リデルの周りを取り囲む世界は静寂に包まれていた。巨大な屋敷の中にはリデル一人しかおらず、何かの喧噪を生み出すわけでもない。そこに朝から降り続く霧雨が世界と自分の間に薄いヴェールを作り出していて余計にリデルの周りは静寂に包まれていた。 リデルはその静寂をものともせずに、ネグリジェのままベッドで上半身を起こし書を読んでいた。この書に目を通すのはもう三度目だったが、別に構いはしなかった。面白い物はいつ読んでも面白い物だ。それにこの屋敷にある書物はすべて読み切っている。あまり意味がないだろう。 この屋敷にやってきてもうどれほどの時が経とうか。少なくともこの屋敷にある膨大な書架をすべて読み切り、ついでにもう一巡してしまう程だろうか。しかもその一巡も終わりを告げ、現在では三巡目に突入している。 だが、ただ無為に時間を潰すという役割だけならば本を読むということは最も適しているだろう。新しい本など要らない、既に読んだ本を循環して読めばそれだけで時間は過ぎていく。古い本を循環して読んでも新しい本に比べて費やす時間が少し短いだけのことだ。あまり苦にはならなかった。 朝は定時に起き、定時になれば三食分の食事を作り定時に食べ、定時になれば風呂の用意をして入り、そして定時になれば掃除や洗濯を為し、定時に寝る。それ以外の時間はすべて書を読むことにのみ時間を費やしてきた。 そうすれば一日などすぐに終わる。こんな風に決められたように過ごしていれば、簡単に終わってしまうものなのだ。 何の楽しみもない、つまらない日々だとは自分でも自覚している。だが仕方がないではないか。リデルが歩んでいるのは死出の道だ。ただそう遠くない死に向かって歩んでいく生など、楽しみがあるはずがない。だが自分はそれで満足していたのだ。 ――――この身は病に冒されている。 それはリデルを知る誰もが知っている事実であり、リデルの肌を見た時点で誰もが分かってしまう事実である。 黒い斑点。この時、既に黒死病と呼ばれたこの時代では不治の病に冒されていた。この時代では決して治らない病。貴族であろうが平民であろうが神官であろうが王族であろうが、罹れば誰一人として生き残ることは出来なかった病。 故に、世間では暗黙の了解ができあがっていた。 『体に一つでも黒い斑点の出た者は既に黒死病である。その者はどのようなことをしてでも隔離するべし』 どちらかというとそれは早計ではないかとリデルは思うのだが、それも仕方がないことだろう。黒死病は誰にでもかかる病であり空気感染するとも言われている。それが真実かどうかなどわかりはしないが、そう恐れられているのならば隔離されるが道理だ。 そうしてリデルも郊外にあるこの屋敷に隔離された。一応建前としては静養という名の元にだが、明らかに隔離としか言い様がない。 だがリデルはまだいい方だと思う。リデルは貴族だからこそ屋敷が与えられたが、これが平民ならばどこかの山に捨てられていることだ。山にはそうやって出来た死体が溢れかえっているという。 それにリデルにはこの屋敷にやってきた当初は数人の使用人がいた。その使用人は元の屋敷にいた頃、比較的リデルと仲が良かった者を選んでいたがそれでも黒死病に罹っているリデルに対する脅えは隠しきれなかったのでさっさと元の屋敷に戻ってもらった。その使用人が現在どのような扱いを受けているのかはリデルには知ったことではない。 それに使用人が居なくても、リデルの生活はあまり困らなかった。元々食は細いので調子の悪いときは何も食べなくてもいいし、炊事洗濯掃除などは自力でやればいい。使用人とはいえ、あまり他者に何かをやってもらうことが好きではないリデルはすぐにそれらをこなすことが出来た。結局使用人などいてもいなくてもあまり変わらないのだった。 そうしてリデルのこの屋敷での日々は構成された。元々この屋敷は殆ど書庫のような扱いを受けていた別荘だ。リデルは一等この屋敷が好きで、だからこそここはリデルの隔離場所になったのだろう。 さらさらと絹のような滑らかな音を立てて雨が降る。 霧雨だから気付きにくいが、恐らく相当の量の雨が降っていることだろう。リデルはベッドのすぐ横にあるガラス窓を見て思う。 雨が気になるのかどうかは分からないが、どうも今日は本の集中できない。今までこんなことはなかったというのに珍しいことだ。リデルは諦めて本を閉じてベッド脇のチェストの上に無造作に置いた。 しとしとという霧雨の中に、ぱたぱたという音が混じってきている。雨脚が強まってきているのだろうか。だがそれにしては… 「嫌に物理的ね…」 雨音も確かに物理的だが、彼らのそれは何かにぶつかって水が弾ける軽い音だ。だがこのぱたぱたという音は、どことなく足音に似ている。 いや、似ているというよりかは… 「足音そのもの…?」 そうとしか考えられない音だ。雨音はこんなにもしっかりと地面を反射するような叩く音はしない。 だがこの足音も妙に軽い音がしている。軽い…まるで存在そのものを感じさせないほどの軽い音。ふとそこでリデルは違和感に気付いた。存在そのものを感じさせないほどの軽い音ならば、何故リデルは気付いたのだ? だがそんなことを考えても仕方がないだろう。気付いたものは気付いたのだから仕方がない。それよりもこの不法侵入者をどうするかが問題だ。恐らくこの不法侵入者は雨宿りをしに来たのだろうが、この屋敷はリデル以外誰もいない。それに加えてリデルは黒死病に罹っている。黒死病は現在最も恐るべき病、この屋敷にやってきた者に移したくはない。 この屋敷を立ち去るかどうか決めるのはやってきた本人だが、とりあえずリデルはその事実を告げに立ち上がった。 …正直に言えばこの時、関わりたくないというのが紛う事なき本音であった。この肌を見たときの反応は大抵予想がついているし、そのように反応されるのも飽きているのだ。もう人と関わりたくないと思っていたのかもしれない。 だけどそれでもリデルは立ち上がるのだ。それこそが彼女の本質であるが故に。彼女が彼女であるが故に。 *** 屋敷の中を歩き回る。この屋敷はリデルが幼い頃から避暑としてよくやってきていた場所だった。幼い頃はこの巨大すぎる屋敷で兄妹達と共に鬼ごっこや隠れん坊をしたものだ。 故にこの屋敷にリデルの知らぬ場所はない。リデルはこの屋敷の構造をすべて把握しており、隠れん坊の鬼をさせたら全員を確実に見つけてしまうので一時はリデルの鬼は禁止になったほどだ。 だというのに、それほどまでの実力を持ったリデルだというのに。 「…追いつけない、ですって?」 どうやら足音はリデルと違ってこの屋敷を散策しているらしい。絶えず移動を続けている足音はそこらに立ち止まったり歩調を早めてみたり遅めてみたりと興味津々とばかりに歩き続けている。 足音がリデルに気付いた様子はない。それはそうだろう。リデルは現在裸足でこの屋敷を歩き回っている。床はすべて絨毯が敷かれており、足音をすべて絨毯が吸収する。足音を立てる要因がまるでないのだ。 だというのに、リデルは追いつけない。それはリデルとの歩幅が違いすぎるからか、それともただの偶然か。どちらかは分からないが、リデルは相手を捕まえなければ。 ひたひたという水が滴る足音と、殆ど無音、だが確かにとたとたという軽い足音が屋敷の中で交差する。雨の音ではなく互いの足音だけが聞こえる。 繰り返し続く足音。リデルはそれを追いかける。そしてリデルの足音も繰り返される。 まるでこれでは兎を追いかけるアリスのようだ。行けども行けども追いつけない、盛大な鬼ごっこか隠れん坊。 そこでリデルはふと気付いた。自分が追いかけている足音がいつの間にか一定間隔を保っている。あまりにも一定間隔を保ちすぎている。この歩調は人間では不可能のそれだ。元々そのような歩調ならばリデルも納得するが、先ほどの足音は様々な物に目移りしていた主の気まぐれさが現れている。 リデルは立ち止まる。これでは疑ってくれと言わんばかりの足音。ならば疑ってみようではないか。正攻法で相手の気配を辿るのをやめる。それだといつまで経っても追いつけない。目で見ようとはしない。感覚のみを訴える。 視覚など不要と瞼を下ろす。ひたひたとどこからか足音。それは一定のペースを保っている。保ちすぎているのだ。動物の足はそんなにも一定のリズムをとりながら歩けるものではない、本人が一定と思っていてもどこか不規則であるのが道理。リデルはそれを知っていた。だから聴覚を放棄した。 視覚を放棄し、聴覚を放棄し、リデルは相手の気配のみを辿る。 「……」 『……』 遠くから聞こえている足音と、何故かリデルの物とは違う気配がこの場にある。おかしなことだ。ならば遠くからのあの足音は何だというのか。 だがリデルは自分の直感を信じている。己の感覚と知識を信じているからこそ、このような行動に移すことが出来る。 リデルの手が動く。中空を掴んで空回りする。そこで誰かの笑う気配。 ――――ほら、やっぱり誰かいた。 先手を打っていて正解だったようだ。リデルは確信の笑みを浮かべてもう片方の手をその声が聞こえてきた方に動かした。 「…捕まえた」 今度こそリデルの腕に確かな感触。だけどそれは何故かぐっしょりと湿っていた。だがそんなことは構うものかとリデルはその腕をしっかり掴んで、下ろしていた瞼をあげ冷ややかな眼光で言った。 「姿を現しなさい。お前は何者? 何用でこの屋敷に? 危害を加えるためだというのならば、私はお前を殺すことも辞さないわ」 恫喝するように声を低くして睨み付ける。この目にはただ廊下の風景しか映さないが、この手には誰かの腕を掴んでいる感覚があるのだから。そこにいるのだという確証はある。 …すると相手はリデルが拍子抜けする程あっさりと姿を現した。いや現していた。 リデルの掴んだ腕の先にまるで初めからそこにいたかのように、青い肌と赤い瞳、青い髪の毛の、全身ずぶ濡れな包帯男。あっさりと捕まえられたのが不服なのか、不満そうに頬を膨らませていた。成る程、掴んだ腕が奇妙に濡れていたのはこれだったか。 「…お前、雨宿りに来たの?」 ぐっしょりと濡れている包帯男にリデルは問う。包帯男はそうと頷いた。 「朝から雨降ってたデショ? 雨宿りできる場所探してたんだけどいい場所なくて…歩いてたらいつの間にかここまでびしょ濡れになっててさァ。そこでこの屋敷を見つけて、中入ってみたんだけど誰もいないみたいだけど妙に綺麗だし。だからちょっと探検させて貰いました」 ごめんなさいと男は言う。素直に反省しているようだから別に己としては構わないが―――― 「…お前、私に対して何か言うべきことはないの?」 「へ? だからごめんなさいって」 謝ったよ? と子供じみた仕草で首を傾げる男にリデルの思考は止まりそうになった。 「…それだけ?」 「思いつく限りはそれだけだよ」 それは、何の化粧もしていないこの肌を見ていてなお言っているのか。 「この肌を見ても、何も言わないの?」 「肌? あー、斑点かァ。黒死病の証だねェ」 男はリデルがそう言ってから初めてリデルの肌にある斑点に気付いたかのようにまじまじと見て、別に何の感慨もなさそうにそう言いきった。 別に同情するでもなく、かといって恐れるわけでもなく。ただその事実を受け入れる、ただそれだけの視線だ。 頭上には星屑。堕ちるは奈落の底。くるくると堕ちていく星。 その何気ない、たった一つの言葉で、リデル・オルブライトはその男を受け入れることを決めたのだ。 「…同情して欲しいの?」 何も言わないリデルに男は問いかける。口元にある笑みはどこか嘲笑に歪んでいた。 「――――まさか。侮らないで欲しいわね」 嘲笑に歪む唇には嘲笑で返してやる。同情など欲しくない。そんな無意味な物は必要ないだろう。 その意図を込めて視線を投げかける。そうすると同じような視線が返ってきて、何故だか分からないが笑ってしまった。 「…それで、お前が私を恐れないのならば付いてきなさい。雨が止むまでの宿くらいは貸してあげるわ」 リデルは男の手を離して、男から若干距離を取って問う。だが男の答えを待つ前にリデルは歩き出していた。 この屋敷を一晩の宿にするのならば付いてくるだろうし、リデル――――黒死病を恐れているのならば今すぐ立ち去るだろう。…あの男の態度を見る限り恐れてなどいないだろうが。 背後から続く足音。明らかにこちらに向かって歩いてきている。リデルは振り向いて男を見た。最後の忠告をするのを忘れていた。 「…黒死病が移っても知らないわよ」 「移らないよ、人間じゃないし」 男は当たり前のように言った。 「それで? 君は僕のこと怖くないの? 一応これでも人間じゃないんだけど」 何を当たり前のことを言っているのだ。 「怖くないに決まっているでしょう。――――行きましょう、この屋敷にいるのは私一人だけれど、お前一人分くらいならば私一人でも訳はないでしょう」 そしてリデルは前を向いて歩き出す。男もリデルの後ろについて歩く。 そこでリデルはふと気付いた。そういえば―――― リデルは振り返ることなく男に問いかける。 「そういえば、お前の名は何というの?」 「僕? 僕はスマイル。そっちは?」 「――――リデル。リデル・オルブライトよ。よろしく、スマイル」 リデルは花のように笑った。 それから本来は旅人である筈のスマイルという名の透明人間は、何故か一晩の宿である筈のこの屋敷に長く滞在することとなった。 スマイルとリデルは互いの性質がとてもよく似ていたせいか、当然のように仲良くなっていった。それは生前、死ぬまで思っていた事実だ。 それはとても他愛のない出会い方。偶然としか言い様がないそれ。 だけどそれが偶然ではなく何らかの策略があるとすべてを知っているらしいシャリエから言われてしまえば――――リデルはどうすればいいのだろうか。 02. 「――――リデル?」 地下室に到達すれば、この体の持ち主の名前を呼ばれた。シャリエは一応とばかりにそちらを向いて微笑んでやる。 そこに立っているのは青色で構成された透明人間。この一帯の代理領主。領主が何らかの状態で不在、もしくは眠りについた場合など領主に代わって指揮を執る希有な存在。 そして、この茶番劇の立役者だ。 「どーかしたの? こんなところで」 「あら、いつもの通り訓練をするのではないの? スマイル。…吸血王もいらっしゃったのですか?」 シャリエは精一杯『リデル・オルブライト』の振りをしてスマイルとの会話を続ける。本来ならば吐き気がしそうなものだが、今回は孫のために一肌脱いでやると決めているのだ。ならばこんなところでへばっているわけにもいかないだろう。 だがこれは本当に驚いた。本来なら彼はこの時間帯は執務室で仕事をしているはずだ。こんなところにいるとは思わなかった。だがこれも手間が省ける。 「それは良かった。『私』が二人に用があったの。聞いてくれるかしら」 微かに変わった口調。変化した雰囲気。さて、この場の二人はこの変化に気付くのだろうか。 「リデルじゃない…。シャリエ?」 「シャリエ・オルブライトか?」 二人とも簡単に見破ってくれてあまり面白くない。舌打ちをしそうになったところを無理矢理押しとどめた。これは一応リデルの体なのだ。 「あら? 気付いていたの? …まあいいわ、私はシャリエ、シャリエ・オルブライト。リデル・オルブライトの二重存在 ドレスの端を小さく摘んで優雅に礼を。この礼はリデルの時代のそれと共通しているようであり、その様は端から見ればその人物がリデル・オルブライトだと錯覚してしまいそうなほどシャリエはリデルのようだった。 当然だ。シャリエはリデルの、そしてリデルはシャリエの二重存在 だが今のシャリエの体は、間違いなくリデルのそれであった。 「…貴様がここに来たことなど気付かなかった」 ユーリが不覚を取ったとばかりにぼやいて舌打ちした。己の不出来を責めているのだろうか、だがそれは違うだろう。 「この場合はご自分をお責めになっても仕方がないことです、領主。私をこの場に招いたのはリデルの体を乗っ取った私自身。ですが体はリデルであるが故に、吸血王にはリデルが術式を構成したのだとお思いになったのでしょう。彼女は毎日術式の練習をしていましたから。 恐らくお気づきにならなかったのは、リデルが貴方とそこの男に気付かれないようにと術式を直接地脈に叩き込んだが故。大河に紛れれば一滴の魔力など些細なものでしょうとも。不死者 張り付いた仮面のような笑顔で、そして何故か聞いているこちらの方が空恐ろしくなる冷えた口調でシャリエは説明していく。 領主、この男がこの茶番劇を作り上げた張本人。シャリエを巻き込み、リデルを巻き込み、ただスマイルのためだけに―――― スマイルともユーリとも、シャリエは古い知り合いだ。だが情などないに等しい。ここで二人とも殺しておいた方がいいのではないだろうか。 「…でも、それではあの子が泣いてしまう」 リデルはこの男がどのような存在だろうが、リデルを傷つけようが、それでもスマイルを傷つけることはしたくないのだと言うのだから。 「それで? 何のようでここまで来た。リデル・オルブライトの体まで使って」 領主が問う。シャリエに問う。 ああ、そんなことは決まっているのだ。 「そうですね…真実を確かめに、でしょうか」 そしてそれは、この体の持ち主に真実という名の事実を教えるための。 「…ねぇ、君はリデルの二重存在 スマイルがようやく口を挟む。…何か痛みをこらえるようなその表情を、シャリエは冷えた眼差しで見ていた。 「さぁ? それはお前の方がよく分かっているでしょう? ――――ねぇ、私たちのもう一人の二重存在 *** 「ねぇ、私たちのもう一人の二重存在 その言葉を、リデルは暗闇の中で奇妙な感覚で聞いていた。 ああ、何だ。そういうことだったのか。今まで何故自分とスマイルが意図的に出会わなければならないのかと不思議に思っていたのだが、そういうことならば納得が出来る。 二重存在 惹かれ合う二重存在 だが二重存在 いや、確かにスマイルは誤解するような表現をしていたが二重存在 そう考えれば、彼らの言葉には誤解を招く表現があるだけで嘘は言っていないことに気付く。それは二人ともだ。だが、それはどんな嘘よりも見抜きにくい嘘であり、どんな嘘よりも悪質な嘘だ。それは確かに真実のであるのだから。 「そんな御託は聞きたくない。君は、リデルを食ったの。食ってないの。それだけを答えて」 ――――スマイルの底冷えするような眼差しがリデル…いや、シャリエに向けられる。リデルはあのような視線は向けられたことがない。 「…貴方には分からないのですか? あの子が食われたかどうか、なんて。本当に」 「分からないよ。だからさっさと言えって言ってる!」 今にもシャリエに掴みかかりそうになっているスマイルに、シャリエが嘲笑を浮かべた。所詮その程度かと明らかな侮蔑を称えて。 大仰な仕草でシャリエは両腕を広げた。そして自分を抱き締めるかのように両肩を抱く。 「…あの子は、ここに。この、中に――――」 陶酔しきった表情で、甘い声で愉悦の笑みを浮かべる。 オマエニデキナイコトヲヤッテヤッタゾ。シャリエは笑った。 それは聞きようによってはリデルがシャリエに食われたかのような言葉。事実を知らぬ者にとっては誤解しか生み出さないことを知っていて、シャリエはこんな発言をする。 「食わない、つもりなんじゃなかったの? シャリエ」 「ご馳走を目の前にして食べない馬鹿はいるの?」 そうしてシャリエは嘲笑のように笑った。確かにそれは真実だ。 「…私を信じすぎるなと、言ったでしょう? スマイル。こんなことだからこそ私につけ込まれるのよ」 シャリエの言葉は、確かに嘘ではない。ただ前提条件を間違えさせるような言葉を吐いただけで、嘘は言っていない。…リデルに対する彼らと同じように。 「私とあの子が血族であることを、貴方は知っていた。知っていて、血族同士は血によって言葉を交わせることを知っていて、貴方はそれを無視した。私がこの子を食らうはずがないと私のことを信じすぎた」 現にリデルは今も食らわれていないが、恐らく食らおうと思えばいくらでも食らうことが出来たのだろう。ただあまりにも何も知らないリデルを思って、シャリエは行動に出たのだ。 スマイルは、何も言わない。シャリエは畳みかけるように次なる言葉を吐く。 「そして、あまりにも隠しすぎたのがすべての敗因でしょう。この子に最初から事情を話して、要請を求めていればこんなことにはならなかった。貴方の願いならばこの子は間違いなく叶えるでしょう、それがどのような願いであろうとも。 ――――何かを隠されていると知っていながら何も行動を起こさない程、この子は甘くはない。あまりにすべてを隠しすぎた反動が、ここに来て一気にやってきたようね」 冷静に事実を告げる。確かにそれはリデルの思考をそのまま現していた。――――それはリデルのことを理解しているのか、それともリデルの器に入っているからなのかは理解に苦しむが。 「今やこの子は私の中にいる。それを貴方にどうこうする術はない。 ――――残念ね、スマイル。あの子を食らえなくて。貴方はあの子を食らうその為だけに、あの子を不死者 それは初めて聞く言葉だった。 スマイルがリデルを不死者 答えはない。だがその沈黙が答えというものを如実に浮かび上がらせていた。 「…確かに、僕にはない。 でも、だったら、」 スマイルが俯く。俯いて、小さな羽音のような呟きを漏らす。 「だったら君を食らえばいい。リデルを食らった君を食らえば…何もかも、予想の範囲内だ。 僕は力を手に入れる。失ってしまった恐怖を否定するために」 スマイルが俯いていた顔を上げる。そこには暗く澱んだ暗澹とした瞳と、表情がごっそりと抜け落ちた人形のような顔があった。 失ってしまった恐怖を否定するために。失うことは怖いから。 まるで迷子の子どものようなその瞳に、その表情に。リデルは確かに覚えがあった。 「…私はあの子と違って、そう簡単には食われないわ」 「知ってる。じゃなきゃ面白くも何ともないじゃないか」 スマイルは狂笑を口元に浮かべた。ただその瞳は笑っておらず、まるで泣いているように見える。 ――――その表情を、その瞳を、リデルは知っている。確かに見覚えがある。 それは、それは。 …喉が焼けるように熱かった、あの時。 *** 喉が熱かった。口からはひゅーひゅーと木枯らしのように掠れた音が漏れている。 喉も、体も熱かった。ネグリジェが汗でべったりと体中に張り付いていて不快感を煽っている。 奇妙な浮遊感と落下感。そして、灼熱と極寒と激痛が同時に襲ってきた、今にも事切れてしまいそうな、むしろ自ら命を絶ちたいと思ってしまうほどの地獄の責め苦。 今日も発作があったのか。リデルは特に感慨もなく思った。最近では発作の間隔が短く、しかも回数も多くなってきていてリデルも少し慣れてきたのかもしれない。…それでも発作が起きたという事実を受け入れることには慣れても、その痛みに慣れることは出来なかったが。 動くことも出来ずにベッドに横たわっていれば、リデルはベッドの隣に何者かの気配を感じた。この屋敷にはリデルとスマイルしかいないのだからそこにいるのはスマイルだろう。リデルは唇を動かしてスマイルの名を呼ぶ。だが声は音として発音されることはなかった。 スマイルが痛ましげな表情でリデルを見ている。リデルはそれを見て不思議に思う。こんなのはいつものことだろう。何をそんなに苦しむことがあるのか。 ひゅーひゅーと漏れる呼吸音。スマイルの指先が迫ってくる。手袋を外し、包帯も取り、そして青いメイクも落としたそれはリデルに視認することは出来なかったが確かにこちらにやってきているのだと分かった。 手はまずリデルの頬に触れた。…冷たい、冷たくて気持ちがいい。まるで一度水に浸したかのよう。 「気持ちいい?」 問う声に返事を返すことは出来ない。だから小さく頷いてやれば、そっかと嬉しげに笑った。 「…リデル」 名を呼ばれた。虚ろになりかけていた焦点を無理矢理合わせて、リデルはスマイルを映す。 瞳だけで何、と問いかけた。 「……ごめん、ね」 呟かれた言葉は本当に微かで――――次の瞬間、リデルの頬にあった筈のスマイルの手はリデルの首に掛かっていた。 スマイルの手は標準より少し大きい。そのせいか細いリデルの首はすっぽりとスマイルの両手に収まってしまい、ギリギリと容赦なく締め上げられてしまう。 痛い、苦しい、熱い。でも、冷たい。 色んな感覚がごった煮でリデルは感覚を制御しきれない。優先すべきものなどないのだけれど、何かを優先させなければと感覚が暴走している。 ギリギリと、喉が熱くて、苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。…だけどこの苦しみは、普段の発作で慣れていた。 あの発作は、普通の黒死病とは少し違う。リデルの罹っている病は黒死病であり黒死病ではない何か。どちらかといえば遺伝病に近いのだろう。祖父母の代にも一人、同じ病に罹った人がいたと聞いた。 スマイル、と呼びかけようにも唇を動かすことすら困難だった。首を締め付けるスマイルの手は時間が経っていく事にどんどん力を増していく。せめて逝くのなら一気にという心積もりなのか。 意識が徐々に遠のいていく。意識を暗闇に手放せば、恐らく二度と帰ってこれないだろう暗闇に足を踏み入れることとなる。 ふと、そんな時。 何故だか少し前に交わした会話が思い出された。 『お前、どうして私と一緒にいるの? お前は旅人で、ここには雨が止むまでという約束だったでしょう』 『約束なんてした覚えないけど…まぁいいや。あのさぁリデル、僕がリデルの傍を離れないのはリデルと一緒にいたら楽しいから。それだけでいいと思うんだけど?』 『よくないわ。私はもうすぐ死ぬのよ』 『だったら死に水くらい取らせてよ』 『嫌よ。…死ぬときくらい一人で逝かせなさいよ、お願いだから』 その会話を反故にしようとするかのように、スマイルは今リデルの首を絞めている。ギリギリと絞めている。 スマイル、ともう一度だけ呼んでみた。だが反応はない。 顔と喉が熱い。血管を締め上げているせいか血液が循環せずに顔と首で留まっている。熱くて痛い。脳の血管が堰き止められているかのように痛い。 遠のいていく意識の中、リデルは最後にスマイルを見た。 表情がごっそりと抜け落ちた、人形のような面。かといって本当に人形であるわけがなく、瞳だけは泣いてしまうかのように不安定で。まるで迷子の子どものよう。 リデルはスマイルを安心させるために、精一杯の力を使って笑みを浮かべさせた。それで寿命が幾ばくか縮んだのだろうが、別にどうでもいい。 そうすれば、スマイルは狂笑を口元に浮かべた。でも相変わらずその瞳は笑っておらず、泣いているようにしか見えない。 それが、リデルが生きている間に 03. 「鍵 「私は無敵の盾を持つ スマイルの術式によって虚空より空間に無数もの光の槍が生み出される。光の槍は術者の思考を読んだのか直線的にシャリエに向かってくる。シャリエもドレスとは思えないほどの万全たる体裁きで光の槍を回避する が、それでも回避しきれないものはあらかじめ編んでおいた術式を活用してリデルの体に当たるのを防ぐ。 シャリエの術式はどうやら透明な膜を生み出すことらしい。それがリデルの体を守り、スマイルの術を消し去っていた。 スマイルもシャリエもまるで息をするかのように容易く術式を編んでいく。あまりの自然さ、そして滑らかさにリデルは思わず言葉を失った。 そこで再びシャリエの詰問が始まった。 「リデル・オルブライトは幼い頃から孤独だった。それは物理的な孤独ではなく精神的な孤独であり、彼女心はいつだって乾ききっていた。 それを貴方は知っていた。知らなかったとは言えないでしょう、貴方はリデル・オルブライトが貴方の二重存在 「鍵 スマイルは答えず、シャリエが生み出した絶対の盾を消去する。絶対の盾は主を何者からの攻撃からも防ぐが、自身に対する術には紙のように脆い。 「だからこそ貴方はそれを利用して、リデルのその孤独につけ込んだのでしょう? リデル・オルブライトは己を理解してくれる人間に飢えていた。彼女の価値観は当時の貴族からは決して理解されるものではなかったから。 貴方はそれを利用した。彼女に愛情を与えて刷り込んだの」 まるで雛が生まれて初めて見るものを、同じ形をした者でもないのに親だと認識するように。 そうやって、スマイルもリデルに愛情を刷り込んだのだろうか。リデルに愛情を刷り込むためにわざとリデルの意見に同意した? リデルの中で疑問がする。…それは本当に? 答えを持っているのはスマイルだけだ。そのスマイルは沈黙を保っている。 「鍵 足下から火柱が立ち上がろうとしている。シャリエはそれを察知してすぐさま脳内に構築してあった術式を解放する。 「私は貴方を凍結する 立ち上がろうとしていた火柱をすぐさま凍結させたシャリエは言葉を続ける。 「その目論見は見事成功する。彼女は貴方を愛し貴方を光だと言った。…だけど貴方の誤算はこれから。彼女が貴方を愛したように、貴方も彼女を愛してしまったこと。でも貴方は二重存在 シャリエはようやくユーリに視線を向けた。ユーリは二人の戦いを手出しもせずに見届けている。ユーリは頷いた。 「その通りだ。それは一族の中で最も弱く生まれた者。本来ならば死ななければならなかった者を無理矢理生かし続けている代償だな」 当然のように、領主であるユーリは答えた。リデルはそんな話を知らない。当然だ。リデルこそがスマイルの二重存在 「そこで貴方は一つの賭に出る。貴方はリデル・オルブライトに近付く前に丁度一人の不死者 「そう、それが君だよ。シャリエ・オルブライト」 スマイルは皮肉そうに斜に構えた態度で口を開く。その口元には、やはり皮肉そうな笑みが浮かべられていた。 シャリエは肯定も否定もせずに話を続ける。だからこそまた、それが沈黙と同じように答えを浮き彫りにさせるのだ。 「不死者 …ああ、でも手を出そうとはしていたようね。魂の量がほんの少し減っている。可哀想に、まだ完璧に不死者 くつりくつりとシャリエは笑う。どこかに優しさを滲ませて、慈しむように。 …ああ、そういう意味があったのか。あの時のスマイルの口付けと性急な性交、それからその後の言葉に訳が分からず混乱していたがそんな意味があったとは。 こうやってシャリエが暴いてくれるまでリデルは何も知らなかった。…恐らく、知る必要もなかったことのだ。 「そして貴方はこの子を自らの手で殺して、この子の血族の誰一人に知らせることなくメルヘン王国のあの墓地に埋めた…。そして数百年が経過する。ここからが私の出番ね」 シャリエは内側にいるリデルに確認するかのように大仰な仕草で言う。リデルはその意図に気付いて頷いた。 そう、ここからは恐らくリデルが目覚めた後のお話。 「この子が目覚める少し前に、領主から私の元に依頼がやってきた。依頼内容は、これから一人の不死者 ゆるりとシャリエの視線がユーリに向けられる。ユーリは何も言うことなく視線をあらぬ方向へ向けるばかりだ。だが彼は彼なりに必死だったのだと、リデルは知っている。ほんの少ししか関わることは出来なかったが、彼はスマイルとはいい友人だった。 「いざ本人を見てみれば、その娘が私の二重存在 でも二重存在 でも最初から敵役として姿を現した私の前に、お姫様を助ける役として同じ二重存在 …そして、そこからはお前の知る通り」 だが今言ったことがすべての真実なのだとシャリエは言う。誰に語りかけるわけでもなく、ただ己の内側にいるリデルに語りかける。 何も知らなかったリデル。自分の裏でこんなことが繰り広げられているとは思いもしなかった世間知らずのお姫様。それがリデル・オルブライトの正体だ。 『…まだまだ、ということなのかしらね。私も』 「そうでもないとは思うけれど? 普通の人間はまず何かを隠されていることに気付かないわ。余程敏くはない限り、ね?」 リデルを慰めるようにシャリエは笑った。だがそれではリデルを慰めたことにはならない。 「…それで? 言いたいこと、それだけで終わり?」 「ええ、終りね」 先ほどから何を言っても変わらない表情のスマイルに、リデルとまるで同じ表情をしたシャリエが頷いた。 「じゃあそろそろ終わらないと。僕が勝ったらまた地獄を見せるような陵辱をしてあげるよ。甘く甘く溶かして、精神を壊してやる」 「…この体はリデルのものなのに?」 同じ容姿をしていても、シャリエとリデルの髪の色や瞳の色は決定的なまでに違う。そしてそれ以上に、その肌にはリデル・オルブライトである黒い斑点があった。 「…だから皮肉なんじゃないか」 そう言ってスマイルは、一瞬だけあの泣き出しそうな瞳に戻った。 「鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 …装填 「…私は無敵の盾を持つ 互いに戦いは止まらない。シャリエがスマイルの抱いている勘違いを止めない限り、戦いは終わることはないだろう。 だが何故、スマイルはリデルがここにいるのだと気付かないのだろうか。 ――――それはシャリエがリデルの存在を巧妙に隠しているからだ。 何故ユーリは、この二人の戦いに口を出そうとしないのか。 ――――それはこの戦いが二重存在 戦闘は、どちらともなく開始された。 「鍵 「私は貴方を凍結する スマイルが光で為された槍を虚空から生み出しシャリエへと撃つ。シャリエは凍結の名を為す術で大多数の槍の内何本かを元素へ返し無効化するが、それでも襲いかかってくる槍の数はそう変わりはしない。 それをシャリエは既に慣れたように回避していく。今度は盾に頼る必要もないようだ。足に狙いを定めるそれも、肩に狙いを定めるそれも関係なく、体を反らして微妙に狙いを外させて簡単に回避していく。 ――――シャリエは、リデルがつけ込まれたのだと言っていた。それは一体何に? スマイルの与えた愛情に? …本当に? 「鍵 シャリエが回避している最中に、スマイルは新たな術を紡ぎ出した。発生する鎌鼬。だがそれすらも光の槍から回避できるシャリエには容易いのか、あっさりとすべてを回避しきった。 その時、リデルの知った感覚が周囲を満たした。ぞくりと肌が泡立つ。ずきずきと頭が痛む。巨大な力を前に平伏せと言わんばかりの、そう、この感覚は―――― スマイルを取り囲んで青紫の陣が浮かび上がる。スマイルの感情に左右されてか、以前見たそれよりもどこかしら無機的だった。 ――――…本当に、本当にそうなのだろうか。スマイルはリデルにつけ込むためだけにリデルに愛情を与えたのだろうか。スマイルがそんな面倒なことをするだろうか。あのやらなくていいと思ったことはとことんやらない面倒くさがりのスマイルが。ただ己を食らうためだけに獲物に愛情を与えるか? 「鍵 先ほどの鎌鼬は囮か。まるで竜巻に巻き込まれたかのような暴風がこの部屋一帯に巻き起こる。現在は精神だけの存在であるリデルにはその凄まじさは視覚でしか捉えることは出来なかったが、石畳の石が浮き上がったことからかなりの激しい疾風だということが理解できた。 ――――それは否だろう。スマイルはそれを獲物や敵だと認識した途端に何の慈悲も与えずに牙を剥く攻撃的な性格をしている。リデルを初めから獲物だと認識していたのならば、愛情など与えない。 シャリエを取り囲むように守る盾がキシキシと軋みを上げていた。あまりの過負荷に術が限界を突破しようとしている。このままではそう遠くないうちに破壊されてしまうのが目に見えている。シャリエの額に初めて玉のような汗が浮かんだ。 地脈から力を引き上げる。引き上げた力をそのまま、盾に対する補助に使おうと術式を発しようとしたところ―――― 「鍵 無慈悲なるスマイルの術。 その盾そのものが掻き消されてしまったせいで地脈から引き上げた力が行き場をなくして暴れ回っている。 まだ加工されていない純粋な力でもう一度盾を作り上げるべきかとシャリエが一瞬だけ思考したその一瞬。 それすらも隙として捉えたのか、スマイルは未だ消すことなく周囲に存在させていた陣を青白く光らせた。 「鍵 これが最後と言わんばかりの。 無慈悲で、残酷で、そして何よりも冷酷で。 だけどその正体は泣いている迷子の子どもだ。 シャリエの表情が強張った。盾もないこの状況。スマイルはリデルがこの体の中にいることに気付くことなく、スマイルは確実にシャリエを殺すつもりで術を走らせている。 これでは死ぬ。確実に死ぬ。一度死んだこの身には死という概念はない。四肢をもがれてもいい。頭を叩き潰されてもいい。内臓を引き出されたって構わない。脳を食われても問題はない。だがこれは無理だ。そもそも存在ができない。不死者はその存在がひとかけらでも世界に残っている限り再生を続ける。だがそのひとかけらでも残さないとばかりに消去されてしまったら―――― 存在そのものの消去は死とは呼ばない。 「煉獄 最後のひとかけらが世界に向けて放たれた。 術式が完成する。 ああ、ほら――――やっぱり子どもではないか。 子どもで。面倒くさがりで。本当ならばやらなければならないことを一時の激情に任せてすっぱりと消し去って。後で後悔するのは分かっていても止められなくて。 ばかなこどもがここにいるのだ。そしてそれがスマイルなのだ。 「スマイル」 世界がスマイルの願いを叶えるその一瞬の差に、リデルは口を開いた。シャリエではなく、この体の持ち主であるリデルが口を開いた。 今この瞬間だけ、この場に立つのはシャリエ・オルブライトではなくリデル・オルブライトになる。 「…お前がリデル・オルブライトを愛したのは本当?」 問いかける。スマイルは一瞬だけリデルに視線を向けると、リデルを視線から外した。 「…信じるかどうかは君次第だけど」 たった一言。返された言葉はそれ以上続かなかったけれど。 ――――続く言葉をリデルは知っている。 リデルと初めて会ったときにスマイルにどのような心境の変化があったかは分からない。だがスマイルは頭ではリデルが獲物だと認識していながら、本能から認識することは出来なかったのだ。 何れ食らうものだと理解していても――――それでも、スマイルがリデルを何の打算もなく愛したのは本当なのだろう。 ああ、ならば。 それが分かっただけでもリデルには十分だ。それだけでこの心は隅々まで満たされた。 リデルは主導権をシャリエに明け渡す。シャリエはその主導権を無我夢中で受け取り、リデルがスマイルと会話をしていた一瞬の間で作り上げた術式を引き上げた力に叩きつけた。 「世界 先ほどまでのはリデル・オルブライトとしての術式。これこそがシャリエ・オルブライトの術式だ。 瞬間、スマイルの陣が淡く光を放つ。虚空から地獄の門が開かれようとしていた。いいや、それは地獄ではなく――――煉獄の門か。 リデルに目がけて炎が降る。スマイルの隣を擦り抜けてリデルに向かう、青白い炎はその名の通り煉獄の炎。この身のひとかけらも残さず魂すらも浄化し尽くす、その名の通りの炎。 それがリデルの目前で止まっていた。ギシギシと軋みを上げながら、それでも術は己の主を守ろうと必死になっている。 これもいずれは破られる。それも分かり切った結果だ。ならば次なる盾が必要だ。 もう一度地脈から力を引き上げる。ここならば地脈の枯渇など心配する必要はない。ここはこの一帯で最も力の強い地脈の上に立つ城。ここならば何一つ気にする必要などなく、どんどん引き上げることが出来る。 眼前に浮かぶ光球。偶然リデルが作り出した光球とは比較にならないほど巨大なそれにシャリエは触れ、そしてスマイルと同じように陣を浮かび上がらせた。互いが互いの陣を見る。それは色さえ違えども――――照らし合わせたかのように同じ形をしていた。 そしてシャリエは術式を紡ぐ。先ほどのそれと同系統でありながら、強さが格段に違う術式を。 「世界 すべてを眠らせ行動を遅らせ、そしてその間にすべての術式を停止させる術を。 パキンと一際軽い音がした。 そして世界を正視する。するとそこには術の気配など何もなかった。スマイルの生み出した暴風も煉獄の炎も、シャリエが生み出した盾の気配も、そして引き上げられた地脈の気配も――――何も、なかった。 「…あのさぁ」 何もなくなったからか、スマイルは自ら口を開いた。シャリエは興味深そうにスマイルを見る。 「君、何で防御しかしてないの?」 確かにそうだ。リデルもそれについては疑問を抱いていた。シャリエは優秀な術者だ。防御や補助専門ではなく、攻撃関連の術だって可能だろう。だが今回は彼女は攻撃関連のものを何一つとして使っていない。それは一体どういうことか。 「それは、とても簡単なこと」 シャリエはスマイルにだけではなくリデルにも聞かせるように答えた。ならばリデルが聞かないわけにはいくまい。 シャリエはリデルがそんな態度を取ったのを確認して続けた。 「貴方が傷つけば、この子が悲しむからよ」 「――――え?」 シャリエが何を言おうとしたのかスマイルはその言葉だけで理解したのか。思い当たった事実に間の抜けた声が聞こえて。 そしてそんな大きな隙を逃すシャリエでもなく。 「私は黒い水となる リデルがメルヘン王国にやってきてから一番最初に見た術をシャリエは構成し、その身を水と変えてリデルの影を渡る。そして出現した場所といえば―――― 「私は黒い刃を持つ 影を渡りスマイルの背後へと出現し、シャリエは術式を構成する。その手に握られているのは影で構成されたナイフ。それはあの墓地で再会したときにスマイルが持っていたナイフに似ていた。 「王手 シャリエは黒塗りの刃をゆっくりとスマイルの首筋に持って行く。スマイルも逃げるということはしない。影渡りをされて時点でその影は影縫いをされる――――リデルが目覚めたときにスマイルがシャリエに使った手のように。 「…逃げないのね」 「逃げられないし」 それは物理的な意味ではない精神的な意味だ。…いや、確かに物理的な意味も含まれているのだが、それはスマイルが自身の身を案じてのことではない。 先ほどのシャリエの言葉を正確に把握したスマイルにとっては、ここで術などを使って抜け出すことは自殺行為にも等しい。それではスマイルの体だけではなくリデルの体も傷ついてしまうだろう。 それをシャリエは計算していた。スマイルこの件について葛藤することも予想に含めてあの言葉を言ったのだ。 そしてそれの効果は言わずもがな。折り紙付きと言っていいほどの覿面さ。ああ、本当に――――スマイルはリデル・オルブライトを愛していたのだ。 「…愚かね、貴方たちは」 その愚かの中には勿論リデルも含まれている。 「そして、ならばこそ――――私がやらなければならないことも分かるでしょう? この子が平穏に暮らしていくために最も必要なこと」 「分かってるよ」 スマイルは笑っていた。酷く満足そうに笑っていた。笑っている? 笑っている。それは何故。 リデルが平穏に暮らすために必要なこと。必要なこと? それは本当に必要なことなのか? シャリエにリデルが食われたと思ったスマイルがシャリエを食らおうと殺し合いを始めたように、リデルが平穏に暮らすためにはスマイルを殺さなければならないのか。それが本当に必要なことなのか。 リデルが、平穏に暮らすこと。それはスマイルの望みか。だがリデルの望みではない。リデルの望みはこれからもスマイルと共にいることだ。リデルはスマイルと生きることを既に決めている。 確かにリデルの傍にスマイルがいれば、リデルはいつ食われてもおかしくないだろう。それがスマイルの血の誓約だ。彼は己の二重存在 だがそれでもリデルはスマイルの傍にいたかった。どれだけ危険な目にあっても、食われそうになっても、実際に食われてしまっても。それでもスマイルの傍にいたいのだ。 シャリエの刃が徐々にスマイルの首筋に食い込んでいく。ナイフに赤い血が伝って流れていく。それを見て、リデルの中で何かが切れた。 「私は私の影を射す 初めて、強い意志を持ってリデル ピタリと石像のようにシャリエの動きが止まる。スマイルの首を刈ろうとするナイフの動きも止まり、リデルは思わず安堵の息を吐いた。 『…リデル』 己の内側から、己の名を呼ぶ声がする。 「…ごめんなさい、シャリエ」 小さく悔恨を込めて呟いた。だけど不思議と後悔はなかった。 ――――この身に、スマイルを殺すことなど出来はしないのだ。 そしてリデルがスマイル殺せなく、シャリエがスマイルを殺そうとするならば答えは一つしかなかった。 リデルは瞼を下ろした。己の中に潜っていくのは、酷く容易いことだった。 04. リデルは答えずまま瞼を下ろし、己の深層に潜っていく。先ほどまでリデルがいた場所。まるで逆転したかのようにその暗闇の中に己の祖母がいた。 『…ごめんなさい、シャリエ』 『別にいいのよ、謝らなくとも。私はお前がどれほどあの男を大事に思っているか、少し見誤っていたようね。まさかあんなにも簡単に主導権を奪われるとは思わなかったわ。お前の霊的対抗度ゼロに近かったというのに』 クスクスとリデルと同じ顔の祖母は笑う。 『…それは笑うところではないわ』 『そうかしら。でも私はとても面白いの。――――それで、どうすればいいのか分かっているわね? リデル・オルブライト』 それはリデルも理解していた。だからこそリデルはここにいる。 『…ごめんなさい、シャリエ。私に術と真実を教えてくれたというのに、私は恩を仇で返すことしかできない』 『謝る必要はないわ。万事塞翁が馬、と言うでしょう? 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて地獄行き、とも』 『…聞いたことがないわ、どういう意味なの? シャリエ』 『東洋の諺でね、人生は何があるか予想がつかないということと、…後者はそのままの意味ね』 ただそれだけの会話をしたというのに何かが可笑しくて二人して笑い合っていたら、いつの間にかリデルの手には先ほどの黒塗りの刃が握られていた。こんなもの、いつの間に握ったのだろうか。 シャリエはリデルの手のひらの中に握られている黒塗りの刃を見て儚げに笑った。 『…それじゃあ、楽しいお話はこれにておしまい。お別れしましょう、リデル』 『…ええ、お別れね。シャリエお祖母様。 会ってほんの少ししか会話をしていないけれど――――私、貴方のことがとても好きだったのよ』 確かめてはいない。だけど確信を持って、最後の最後でリデルは最後の手向けとばかりに呟いた。きっと、本当に。スマイルとは別の意味でリデルはこの人のことが大好きだった。 そうすると、シャリエは目を丸くしてこちらを見ていた。 『シャリエ?』 『…信じられない。リデル、貴方凄いわ。こんなところで私の長年の夢が叶うなんて思わなかった』 『……夢?』 先ほどの会話の中に、特別なことは何一つとしてない。リデルは首を傾げる。 『ええ、私の夢。ずっと昔からの夢だったの』 まるでその表情が少女のそれだったからか、それは何、とリデルは先を促した。 『それはね、孫にお祖母様って呼ばれることだったのよ』 そう言って、そんな他愛のない夢が叶ったととても嬉しそうにこの人は笑うのだ。 『ありがとう、リデル』 『…それはこちらの台詞だと思うのだけれど』 『それでもありがとう。不死者 いつか再びやってくるであろう同じ血族の不死者 美しい金の髪が舞う。嬉しそうに暗闇の空間を踊った。その黄金色の瞳と黄金色の髪は、光などないこの空間でもなお光り輝きまるで夜空に輝く星のよう。 『私、きっと誰かのためになりたかったのよ』 黒塗りのナイフをしっかりと握る。決して離さないように強く握り込んで上段に構える。 『さようなら、リデル。貴方に会えてよかった』 『…さようなら、そしてありがとう、お祖母様。私も、貴方に会えてよかった』 そしてリデルは己の同一存在にゆっくりと振りかぶり―――― その魂を、食らった。 *** こうなることは予想していたのかもしれない、とシャリエ・オルブライトは魂を食らわれる感覚を受け入れながらふと考えた。 シャリエはリデルを殺せない。それは彼女を初めて見たときに直感的に理解してしまったことだ。リデルは彼女の孫であり、その姿はまるで昔の彼女を見ているようだったから。 だからこそシャリエは誰よりもリデルの味方なのだ。吸血王が透明人間の味方について、リデルが生き残る術が殆どなかろうがそんなことはどうでもよかった。自分が彼女の味方になると決めたのだから、己は最後まで彼女の味方だ。 だからこそ、彼女が彼女の二重存在 自分には彼女の価値観を変えることは出来ないのだと理解していた。だがそれでいい。自分が彼女の味方なのであって、彼女が自分の味方でなくていい。彼女が価値観を変える必要などどこにもない。 そして――――だからこそリデルの生き延びる道を探していた。その為にスマイルを殺そうとしていた。 だけどリデルの体を借りたのが失敗だったか。ここでこうやって失敗してしまった。 …いや、どちらにしても関係がないのだろう。彼女はこちらがどう力を尽くそうと、彼女自身がその身を持ってスマイルを守り続けるのだろうから。 だからこうなったのは、きっと必然。己が彼女に食われるのも、また必然。 だったら、嘆く必要は何もないのだ。 …この魂が食らわれ尽くすのももう時間の問題だろう。 泣きながらこの魂を食らう彼女の姿を見るその前に、シャリエは意図的に意識を下ろした。 未来に生きる我が血統の子よ。貴方は後ろのことなど何も考えないで、前だけを進みなさい。犠牲になった者のことなんて何も考えないで、ただ前を生きなさい。 それが、私に対するただ一つの救いなのだから。 *** 頬に伝う涙で、リデルはようやく自分が深層世界から戻ってきたことを知った。 シャリエを、食った。 それはリデルにとっては吐き気の覚えることには間違いなく、ユーリが言うように己の力が上がったなどいう感覚はない。 ゆっくりと、その魂を咀嚼して。 食われているのだから痛まぬはずがないというのに、それでも笑いながらそれでも受け入れたあの人を、リデルはきっと忘れることは出来ないだろう。 吐き気がする。吐き気しかしない。恐らく今のリデルの顔を見ることが叶うのならば蒼白という言葉が今ほど似合う瞬間はないに違いない。 「シャリエ?」 その名を呼ぶな。それは今、リデルが食った人の名前だ。 進むはずのナイフが突然動きを止めたことを不審に思ったのかスマイルが不思議そうな声を上げる。だがリデルは答えない。 「…リデル?」 名を、ようやく呼ばれた。だがリデルは答えない。それが何よりの答えだと知っていたから。 「…スマイル」 互いに術によって動きを阻まれているために、互いが互いに動くことが出来ずにその場に立ち尽くしたまま。 リデルはぽつりとスマイルの名を漏らした。それが何よりの答えと言わんばかりに。 「…シャリエは?」 「…」 「……そ」 スマイルはそれ以上何も言わなかった。シャリエがどうなったなんて尋ねもしなかった。きっと気付いてはいるのだろうけれど、あえて言わないのがスマイルなりの優しさだ。 はらはらと両目から零れる涙を拭うことなくリデルは涙を流し続ける。それが悔恨の証であるかのように。 「…リデル」 スマイルが、己の名を呼んだ。 背を向けたままでは分からないが、きっと今その瞳を見ればさっきの続きをしようと言っている。 リデルは目を伏せた。目を伏せて、沈黙を保った。 「リデル」 もう一度、急かすようにこの名が呼ばれる。己の二重存在 「…解放 静かに己の動きを阻んでいた術式を解放する。弛緩していた体が動くようになり、気を抜けばいつだってこのナイフを進めてしまいそうで酷く恐ろしかった。 「リデル、」 この身を殺せとスマイルは言う。何の躊躇いもなしにそう言うのだ。…それはそうだろう。リデルだってスマイルと同じ状況に陥ったらスマイルと同じ行動を取る。 だがこの身はその為に彼女を食らったわけではない。決してスマイル殺すために彼女を食らったわけではないのだ。 *** 食らう前に、リデルは最後にもう一度謝った。 ごめんなさい、シャリエ。私にはこういう生き方しかできない。 すると彼女は言った。 何故謝る必要があるのかしら。私はお前が謝ることなんてないと思うのだけど。 でも、 お前の人生よ、お前の好きに生きなさい。私のことなんて気にしなくてもいいのよ。…未来を生きる者が、過去に成り下がる者のことなんて気にしなくてもいいの。分かった? リデル。 そう優しく言ってくれたその人がとても好きだと思った。 ちょっと前に知り合ってほんの少ししか会話を交わしていない。けれどすべてを受け入れてくれるその人が大好きだと思った。 そしてこれからその人を食らってしまう自分が、酷く嫌なものに見えてならなかった。 *** 黒塗りの、影で出来たナイフをスマイルの首筋から下ろした。そしてスマイルの影から体をずらした。これでスマイルの体を縛る影縫いは効果をなくした。 「ッリデル!」 途端にスマイルは慌てて振り向いてリデルを捉えた。その瞳は焦りを称えてリデルを見ていた。 「どうかしたの? スマイル」 焦るスマイルの反面、リデルは奇妙に落ち着いていた。これから為すことがもう分かっているからだろうか。そしてそれは、彼女を食らうことに比べればあまりにも容易い。 黒塗りのナイフを持つ。…深層世界で彼女の命を奪ったそれは、こちらでは誰の命を奪おうとするのだろうか。 しっかりと握りしめて、リデルは壁に寄りかかってすべてを見通していた吸血王を見た。 何故彼がこの戦闘に介入しなかったのか、今ならばその理由がとても理解できた。 ――――それはこの戦いが二重存在 それが己の肉体を明け渡しシャリエとスマイルが戦っているのをぼんやりと内側から見続け、最後にはシャリエの魂を食らったリデル・オルブライトだ。 そしてリデル・オルブライトはそうとは知らずにこの茶番劇の主役を踊り続けていた愚か者。ならば幕を引くのはこの身が相応しいだろう。 ユーリと視線が合う。初めて会ったときと同じように、今までの礼としてドレスの裾を摘んで優雅に礼をした。彼は確かにリデルに何も教えないようにしていたが、それでも優しくしてくれたのは本当だった。 そして今度こそスマイルに真っ直ぐと向き合った。 静寂だった。誰も何も言わない。誰も何も言うことが出来ない。それは恐らく、これから起こることを誰しもが理解しているからだ。 ああ、本当に――――何て、盛大な茶番劇。 誰しもが予想して回避しようと行動していた結末だというのに、誰一人としてその結果を変えられなかったなんて。 「…スマイル」 己の光の名を呼ぶ。 この男を光だと認識したのが一体いつのことだったか忘れてしまったが、それでもこの男はリデルのたった一つの光だったのだ。 口元に浮かんでいるのは確かに笑みだろうか。恐怖に歪んで無様な笑みになっていないだろうか心配だったが、今はそれも致し方がない。 黒塗りのナイフを胸に当てる。/スマイルの息を呑む音。 そしてそのまま、一気に貫いた。/その瞳は今にも泣いてしまいそうなほどの驚愕に濡れていた。 胸からぼたぼたと赤い血が流れる。とても痛かったけれどあの発作に比べれば耐えられないことではなかったので痛みをこらえて心臓の周りをザクザクと切り開いていった。 ザクザク。ザクザク。ザクザク。ザクザク。まるで無限連鎖のように響いていく音。自分の体だというのに容赦なく突き立てられる解放の刃。びちゃびちゃと床に落ちていく深紅の鮮血。ひゅーひゅーと漏れる掠れた音。脊髄と脳に直に突き刺さる痛み。 手始めに胸骨から開こうと思ったが堅すぎて止めた。まずは鎖骨の下の柔らかい部分から中心線を沿って真ん中に切り開いていき、見えてきた骨を肉ごと広げて心臓を見つけた。 脳が/チカチカと/光って/ 目の前が/真っ白に/ それが痛みで到来しているものなのか、それとも失血によって起こるものなのかリデルには区別が付かなかった。 強引に肉を押し開いていく事に痛みで気が狂いそうになる。 この作業を何のためにやっているのか分からなくなってしまいそうになる。だけどスマイルが泣きそうな目で自分を見ているから、何とか耐えて心臓を見つけた。 崩れそうになる足を無理矢理にでも耐えさせて、ナイフを持っていた方とは逆の手で心臓に触れた。 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!!!」 聞くも耐えない、無惨な悲鳴。今の痛みでナイフがこぼれ落ちて床に落ちた。カランという軽い音。そしてそのまま影へと戻っていった。 ――――ああ、残念。あの人の形見分けにでもしようと思ったのに。 だがこれから死のうとしているのだからそれも無理かとリデルは口元に笑みを浮かべ、作業を進めていく。 ――――シャリエは、スマイルに対するリデルの感情を刷り込みだと言った。雛が初めて見る者を親だと認識するように、リデルもそうなのだと。 痛むのは心臓に触れた最初だけだ。だから触れたと同時にこうやって一気に引っ張ればいい。 ブチブチと血管の千切れる音。獣の咆哮に近い悲鳴が口から漏れた。あまりの激痛に涙なんて出なかった。それでもその作業を止めることなんてしなかった。 ――――だけどただの刷り込みでここまで出来るのならば、それは。…それは最早確かな、そして紛う事なき愛情だろう? 心臓を外に取り出して、リデルは膝から崩れ落ちた。このままでは折角取り出した心臓が潰れると思っていたところを救ってくれたのはスマイルだった。 「スマ、イル」 荒い呼吸と揺動を繰り返しながら何とかその機能を果たしている喉。心臓を失ったからか、何れはその器官も機能しなくなることだろう。 そういえばシャリエもスマイルも言っていたことではないか。この身は長い間眠っていて不死者 …もしかしたら、もう無理かもしれない。未だ人間に近いリデルがこれだけの血を流せば、後は死が待っているのと同義だろう。他の不死者 「リデ、ル」 どうして、とその瞳が告げていた。 リデルはシャリエの手によって真相を聞かされたときからこうする予定だった。ユーリに告げた言葉に嘘はない。リデルはスマイルの為ならば命を捧げよう。それにリデルの命が必要ならばそれこそこの命すらも。 ならば命を差し出そう。こうして己の心臓を差し出そう。 ――――だってこうでもしないと、スマイルはリデルを食らわないだろう。 確信めいた何かが胸の中にあった。こうでもしないと、リデルがお膳立てをしてやらないとスマイルはリデルを絶対に食らわないということが直感的に理解できた。 …確かに、生きたいと思う。生きたいという執着はある。生きることが出来るのならば、リデルはその生に執着するだろう。リデルが生を諦めていたのは死ななければならないという運命だったからだ。 だがその執着とスマイルの生を秤に掛ければ、どちらに傾くかなど決まっている。 スマイルはリデルと共にいることで、リデルの生に対する執着を思い出させた。だがそれでもリデルのスマイルが大切だと思う心を変えることは出来なかったのだ。 それはリデルの生きる意味。指標。生きている内に唯一知ることが出来た輝かしい証。 それを否定することなど、きっともう誰にも出来ない。 取り出した心臓をスマイルに震える手で差し出す。もう目を開けているのも億劫で、差し出したついでに瞼を下ろした。 だがそれでも最後に言わなければならないことがある。リデルはその言葉を言うためだけに瞼をあげてスマイルに焦点を合わせた。 「わた…し、を、食ら、い…、なさい」 この身を、この魂ごと。それでお前が生きられるというのならば。 荒い呼吸。途切れ途切れの言葉。だけど言いたかったことは伝わったはずだ。 …本来なら言いたかったことはまだまだあった。でも今の状態ではこれを言うだけが精一杯で。 でも大切な、一番言いたいことは言うことが出来た。一番重要なことも知ることが出来た。だからもう十分だったのだ。 この身が食らわれるのも、もはや時間の問題だろう。 リデルは満ち足りた気分だった。だから後は、静かに瞼を下ろすだけだった。 ――――首筋に降り掛かる小さな雫に、気付かない振りをして。
【 結 】
‐最後の舞台‐ 01. そうして、リデル・オルブライトは永い眠りから目覚めた。 「ここ、は…?」 横たえられていたベッドから上半身のみを起こして辺りを見回した。 …窓から穏やかな日の光が射し込まれている。引かれたカーテンのせいでよくは分からないが、今恐らく朝ではないかと判断した。 …ここは、どこだろう。吸血王の城であるということは分かる。あの地脈の上にいる感覚は、他ではそうそう味わうことがないから。だがこの部屋はどこだろう。 少なくともあの時リデルに宛がわれた部屋ではない。リデルに宛がわれた部屋はリデルの為に用意されたとしか思えないほど、リデルの生前の部屋を再現していた。 ここは、ただ白で構成されていた。白く、簡素な調度で構成されているこの部屋は無機質で病的で、その白さと相まってどこか病院を連想させた。 かちこちと時計の音が響く。だがリデルの目の届く範囲にないのか、静寂の包まれた部屋には時計の音しか響かない。 「今…は、いつで。何時…なのかしら」 思考回路が未だ上手く回っていないのか、呂律が回っていない。頭も霧がかかったかのようにボンヤリとしている。 本当に自分はいつまで眠っていたのか。思考が纏まらない。ぐるぐると同じことの繰り返しをしている。不死者 「…あ」 そこでリデルは思い出した。 ――――シャリエ・オルブライト。リデルの祖母であり、リデルが食らった人。ほんの少ししか傍にいなかったが、リデルはその人が大好きだと思った。 リデルの内側にあるはずのその人の魂を確認する。その存在は既になかった。確かにリデルはその魂を食らったが、…彼女の存在がどこにもないことがほんの少し悲しかった。 そして、スマイル。シャリエを食らってまで、リデルが選んだその人。 「スマイル…?」 名を呼ぶ。だが反応するものはなく、ただ静寂にリデルの声が響き渡るだけ。 …誰もいない。この部屋全体ではなく、この城自体に誰一人として存在していない。気配を探ればすぐに分かった。地下などには有象無象が勝手に棲み着いているようだが、リデルが探しているのはそんなものではない。 スマイルがいない。そしてユーリも不在のようだ。何か所用があって城を不在にしているのだろうか。だが領主は基本的に城を空けることはしないのに。 「…」 リデルはこんな知識を教えられてはいない。こんな知識を持っていない。これは己が食らった魂の人の知識だ。 「…シャリエ」 もう一度、ごめんなさいと言おうとして止めた。彼女は過去の人間である己のことを気にしなくてもいいと言ったのだ。ならばこれ以上謝るのは失礼に値するだろう。 ――――すっかり失念していた。リデルがこの世界に存在しているのは前提条件が必要だ。リデルはあの後恐らくスマイルに食われたことだろう。そういう風にし向けたのだから当然だ。あの時スマイルがリデルを食わなかったら、あそこまでお膳立てして食わなかったとは何事かとこちらから怒鳴り込んでやる。 己の心臓をくり抜いて、スマイルに差し出してやったリデル。あの時既にリデルの体は限界だった。未だ人間に近かったリデルの体は心臓をくり抜くことになど耐えきれず、いつ死んでも可笑しくはない状況だった。 そして、シャリエは言っていた。 『この子は今食われたら容易くその存在を消してしまうことでしょう』 その言葉を真実正しく受け止めるのならば。つまり、スマイルは―――― 「…あそこまでのお膳立てをしてやっていたのに、何をやっているのかしら。あれは」 呆れてしまえばいいのか、それとも笑えばいいのか、もしくは泣けばいいのか。リデルはどの感情を優先させればいいのか分からなくなった。 リデルが生きていて、スマイルがこの場にいない。スマイルは二重存在 「…愚か者。幕を引く役目を持つのは私でしょう?」 それはリデルがそう勝手に思っていたことだが、確かに真実だったのではないか。少なくともユーリもシャリエも幕を引くのは主役であるリデルの役目だと考えていた。 盛大なる茶番劇。そういえば、何故それが行われたかなどという理由すら、リデルは知らない。 だけどそれは、きっと単純なことだと思う。始まりはきっとスマイルがリデルを愛してしまったときだ。そしてリデルを不死者 だがスマイルはそれを誰かに言ったことがあったのだろうか? 恐らくは、ない。多分友人であるユーリにさえ言っていないだろう。シャリエは推測で物を申していたが多分それが一番正しい。 それがすべての計算を狂わせたのだと思う。スマイルは誰にも言うことなく一つの賭を為した。そしてそれに勝ったはいいが、ユーリに何も言わなかったせいでその後の計画に誤差が生じてきた。 スマイルは、リデルを食らうつもりだった。しかしそれは完全な不死者 ユーリは、スマイルがリデルを食らうのを見届け、時に手伝ってやるつもりだった。それはリデルが不死者 そも、ユーリはリデルがスマイルの大切な人間だと言うことを知っていたのだろうか。恐らくスマイルはそれすらも告げていない。そこから互いの感覚に齟齬が生じた。この計画はユーリの協力が必要不可欠だったというのに、認識に齟齬が生じてしまえば計画も不安定になるのが当然だろう。 その不安定な計画に巻き込まれたシャリエ。彼らが食らうはずの二重存在 …スマイルはいない。シャリエも失われてしまった。頼りに出来るのはユーリだけだが、彼はスマイルの友人だ。スマイルの死を悼んでリデルに会いたくないと言う可能性だって高いだろう。ならばリデルはこれからどうすればいいのか。 麻痺していた思考が正常な動きを取り戻していく。最初に比べたら回転数も上がっていることだし、体は正常に活動を始めている。 ならば、リデルは早めにこの城を出て行った方がいいだろう。リデルはベッドから下りて立ち上がる。ユーリには迷惑を掛けるが、書き置きを一つしておけば大丈夫だ。その為にまず、リデルは紙とペンがないかと見回した。すると、 「あ、お目覚めっスか!」 酷く明るい、リデルが知るこの城の誰とも違う声色を持った人の良さそうな声がした。 ユーリの声は静かで深みがあり彼の人の知性が窺える色。スマイルの声は斜に構えて人を食ったような口調で話しかけるが、それでもどこか当人の孤独を知らせてしまう色。 この声色は、酷く人のいい、純朴な青年。人間が好きだと全身でアピールしている声。この城の誰とも違うタイプだ。 声がしたと同時に軽い音を立てて扉が開き、外から声の主が入ってくる。 まず目に付く茶色の大きな犬耳。緑の髪に、前髪が長くて隠れがちだが双眼の色は赤。一目で狼男と分かる容姿をしているが、本人の口調と表情はリデルが目覚めたことに喜んでいるのか酷く嬉しそうだった。が、立ち上がっているリデルの姿を見て顔が強張った。 「ってリデルさん! 何で起き上がってるんスか!? 駄目っスよ、安静にしてなくちゃ!」 …本当に人好きするタイプだ。殆ど見も知らぬ人間をこうやって心配できるのだから、かなりのお人好しなのだろう。しかし何故安静にしていなければならないのだろうか。 「何故ですか? 体調に関しては十全です。動かしていなかったせいで多少体が軋みますが、それも動かしていれば慣れると思いますが」 そう、体中の間接がギシギシと軋みを上げている。この感覚はそう、不死者 「病人は安静にしてなくっちゃ駄目っスよ! そうでなくてもリデルさんは一年も眠り続けてたんスからね!」 「一年…!?」 流石のリデルもそれは驚いた。確かにリデルは数百年の時を地中で過ごしたが、不死者 「そうっスよ! 何かオレが里帰りから帰ってきたらユーリがいきなり『色々とあって眠り続けている。こちらで世話をするぞ』とか言ってリデルさんの世話を任されるし、リデルさんはリデルさんで懇々と眠り続けてるし!」 「…どうか落ち着いて」 一年前の状況を思い出したのか突然熱く語り出した青年をリデルは宥める。すると今の自分の状態に気付いたのか青年は「すみません」と謝った。 しかし流石だ、ユーリ。スマイルの友人なのだから何か欠点があるだろうとは思っていたが、リデルの世話を丸投げするとは。しかもこの状況では今も彼にリデルの事情を話してはいないだろう。 「とりあえず、そんなこと何で寝ててくださいよ、リデルさん。一年寝続けたんですから何があるか分からないっスよ!」 「ええ、そういうことならば仕方がありません。大人しくベッドに戻ることにします」 力説をする青年を横目に、苦笑を浮かべてリデルはベッドに戻っていく。だが恐らくはこの青年が出て行ったと同時に外に飛び出すことは間違いないが。 だが青年はそんなリデルの気配を感じ取ったのかリデルの隣の椅子に座り込む。どうやら監視も兼ねて、リデルの話し相手になってくれるようだ。 「すぐにユーリも戻ってきますから安心してください。今日はちょっと人間界の方で仕事があったんで全員そっちの方に行ってたんスよ。すいません」 「別に謝ることではないでしょう? 仕事があったのならばそちらを優先させる方が道理です。 …ですが、本当に人間界で仕事をしているとは」 確かにスマイルに聞いて知ってはいたが、改めて言われると少し困惑してしまう。 「確か…バンド、でしたか?」 それもスマイルに与えられた知識だ。 「そうっスよ! …あれ? ユーリの言い方じゃリデルさんはこの時代のこと何にも知らない筈なんスけど…意外と知ってるみたいっスね」 「基本的には何も知りません。でも、…バンドをやっているとは聞いていたので」 今は亡き人。リデルの光。 「スマに聞きましたか?」 びくりと肩が震えた。そんなに簡単に、あっさりとその名前を出さないでくれ。お願いだから。 「…何故、そう思うのです?」 「だってリデルさんはスマの大切な人でしょう? ユーリにそう聞きましたし、スマもそう言ってたっスよ?」 それは、リデルが不死者 リデルは苦い笑みを口元に湛えて、はぐらかすようにこの青年の名を尋ねた。 「…それで、失礼ですが貴方は……?」 「うあっ! そういえば言ってなかったっスね! すみません! 狼男のアッシュって言います。まあこれ見てもらえりゃすぐに分かるんですけどね」 これ、とアッシュは己の大きな耳と尻尾を指さして見せた。まるで本当に犬のそれだ。今はすまなそうにシュンと耳が垂れている。 アッシュの素直すぎる反応に先ほどの苦い気分が一掃された。リデルは思わず微笑みながらからかうように問いかける。 「…アッシュ、失礼ですが吸血王に犬と言われたことは?」 「いっぱいありますよ! ユーリだけじゃなくスマにだって言われてるんスから!」 またその名前だ。 もういい、もういいから止めてくれ。スマイルを殺したのはリデルだ。結果的にそうしてしまったのはリデルなのだ。アッシュはその件を知らないだろう。昔のリデルと同じく知る必要すらないだろう。だがそれだからこそその純粋な言葉はリデルの胸に突き刺さるのだから。 「…リデルさん?」 リデルの持つ空気が変わったのを感じ取ったのか、俯いていたリデルをアッシュは心配そうに覗き込んできた。 「アッシュ、スマイル、は」 途切れ途切れになる言葉。リデルは続けて、己が殺したのだ、と言おうか言うまいか逡巡して―――― 「スマっスか? 今日一緒に仕事しましたよ?」 「――――え?」 そのあまりの無垢な言葉に、拍子抜けするのだ。 「今日は三人一緒での仕事だったんで一緒に仕事しましたよ? で、今日はオレが一番早く帰れたんでさっさと帰ってきましたけど。ユーリはいいからさっさと帰れって言うし、スマイルも寄らなきゃいけないとこが出来たって言ってどっか行っちゃいましたけど。ユーリがオレにさっさと帰れって言ったの、こういうことだったんスね」 リデルは目を丸くして眼前のアッシュを凝視する。なんと言った? 今なんと言った? 生きている? スマイルが生きているだと…!? 「そんな、まさか…?」 「まさかって言われても…今日オレ、ほんとーにスマと仕事してきましたよ? ユーリも一緒に。それに昨日も一昨日もその前も一年前もずーっとスマはこの城にいたんスけど」 アッシュの続けられる説明にリデルはぴたりと動きを止めた。 「――――ユーリ」 そうだ何故その可能性を失念していた。スマイルにはユーリがいる。吸血王ならばスマイルを生かすことなど簡単にできるではないか…! 「恐らく、考えている通りだろうな。リデル」 こつりと自分の存在を主張するかのように、いつの間に入ってきたのやらその扉を開ける気配もなく入り込んできたユーリは当たり前のようにそう言い放った。 「ユーリ、驚かせないでくださいよ」 「…では、貴方がスマイルを?」 「その通りだ…と言いたいところだがな、あれが生きているのはあれ自身が選択したからだ」 リデルとユーリは綺麗さっぱりアッシュの言葉を無視して会話を続ける。 「何を…ですか?」 問いかける必要はない。本当はもう分かっている。 「食うか食らわぬか、だ」 普段のユーリならばここであっさりと固有名詞を出してしまうのだが、今回に限って出さないのはこの場に当事者ではないアッシュがいるからだろうか。 だが一年前ユーリがアッシュを里帰りさせた理由がよく分かる。この青年は純朴すぎるのだ。純朴で、魔に属する者だというのに日向の香りがしている。だからこそこちら側には足を踏み入れて欲しくないのだ。 だからこそリデルもユーリも無視する。ここからは立ち入ってはならない領域だと示すために。 「ですがどちらにしてもどちらかがいなくなっていたことは確実でしょう。それを――――」 「そこから先は、役者が揃ってからだ」 役者。あの茶番劇に登場していたすべての人たち。 だがそれは不可能なのだと、決してあり得てはならないことなのだとリデルは知っている。 「吸血王、シャリエは――――」 「おっまたせー!」 聞き慣れた声が辺りに響いた。今日は妙にテンションが高いのだとたった一言聞いただけで理解できるくらいに聞き慣れた声。 リデルが死んでしまったのだと錯覚してしまった声の持ち主。 「スマイル」 スマイルは片手を上げてベッドに横たわっているリデルに近付いてくる。 「おはよ、よく寝たねェリデル。まだ寝ぼけてる?」 「…寝ぼけていない、筈なのだけど。これが現実だという確証がないから寝ぼけているのかもしれないわ」 「何で?」 「だってお前がいるのだもの」 そう、だってスマイルのがいるのだ。どちらも欠けることなくいるのだ。リデルはスマイルに身を捧げたというのに、それで死ぬつもりで挑んだというのに、これは一体何だ? 信じられないものを見たように、リデルは目を見開いたままスマイルを見た。スマイルはそんなリデルの様子を見届けた後、いつもの嘲笑ともとれる笑い声を上げた。 「じゃあ、そんなリデルにもう一回夢を見させてあげよっか。 ただし、これは覚めない夢だけど」 パタンと扉の閉まる音がした。誰かが入ってきたのだろうか。リデルはそちらに意識と顔を向ける。 するとそこにいたのは―――― 「…シャリエ?」 リデルと同じ顔。同じ姿。違うのは髪の色と瞳の色だけ。後は身長も体重も体型も全く同一の、双子よりそっくりな己の同一存在がいた。 「ええ、お久しぶり、リデル。もうお祖母様とは呼んでくれないの?」 その穏やかな口調と表情。柔らかな母性。ああ、これは紛れもなくシャリエだ。 「…どうして……」 彼女は確かに己が食らったのだ。なのにどうしてそこでそうやって立っているのだ。 「つまりは、そういうことなのよ」 シャリエは笑った。晴れ晴れとした笑い方だった。一度ユーリを見て、それからスマイルを見た。二人は二人で頷きあっている。首を傾げているのはアッシュとリデルのみだ。 シャリエはリデルに近付いて耳打ちをする。微かに呟かれた言葉は酷く納得できるものだった。 「お前の想像通り。お前が私を食らって、スマイルがお前を食らって。そして最後には吸血王がすべての片をつけてくれたのよ。…それも不死者 不死者 不死者には既に一度死んでいるから死の概念がない。 だからこそ例えもう一度死のうが魂がある限り何回でも蘇生できることや、魂は多少混じったところでそう問題はなくすぐに切り離せること。人間に必要な器官を一つ失おうが自己修復する。 そして片をつける、ということは。 「…意外なことにね、ユーリはこの場にいる全員のことを気に入っているらしいのよ?」 だからこそあの時、シャリエにこの依頼が舞い込んできたのだと。 「どう? 茶番劇の最後には相応しいでしょう?」 シャリエが耳元から離れてくるりと回った。スマイルと同じく彼女も上機嫌のようだった。二重存在 そして、すぐ傍で佇んでいる吸血王をリデルは見た。彼自身はそっぽ向いているが、リデルは笑顔で吸血王を迎える。 「身内に甘いのですね、ユーリ」 「…人のことを言えた義理か? リデル」 「いいえ、わたくしのは甘いとは言いません。あれは愛と呼ぶのですよ」 そう、あれは愛だ。愛という名の執着であり、愛という名の欲望だ。 「…愛のためにあそこまでするのか?」 「します。わたくしのそれは、厳密には愛ではありませんから」 きっぱりと言い切る。愛と言うには欲に濡れすぎたそれは、もはや愛とは呼べないところまでやってきているのだろう。だがリデルはそれを愛と呼ぶ。愛と呼ばなければならない。 「――――リデル」 そしてようやく、その男が名を呼んだ。 スマイルは先ほどまでアッシュが座っていた椅子に腰掛けて横たわっているリデルを見下ろした。 「…私の生前を思い出すわね、この体勢は」 「そうだねぇ、こうやってよくリデルの世話をやってたよ。もう数百年前のことだけど」 「そう、そんなにも経っているのね」 互いが互いに核心に触れない他愛のない話をする。それが二人のいつもの手順だ。 「…生きていたのね、お前」 「リデルがあそこまでしてくれたからねぇ。無駄にするわけにはいかないって思って」 だからその肉を食らったのだとスマイルは声にならない声で言う。魂は蘇生できるように保管して、ただ肉だけを食らったのだと。 「…最後まで残さず食べなさい」 今になってリデルは不平を漏らした。スマイルがそうしてくれなければリデルは今存在もしていなかったのだが、今になって呟かれる不平はただの冗談と同じだ。 「って言われても、ねぇ?」 スマイルもそれを知っていてさらりと回避する。互いが互いに際どい軽口をたたき合う。 そういえば昔もこうやって、リデルはベッドに横たわって、スマイルはその隣の椅子に座って軽口をたたき合っていた。その時のことを思い出してしまってほんの少し笑えた。 「…リデル」 スマイルが名を呼んだ。リデルは笑みを浮かべながらスマイルに顔を向けた。――――そこに浮かんでいるのは、滅多に見られない穏やかな微笑み。 ぐ、と強く引き寄せられる。小柄なリデルの体はすっぽりとスマイルの胸に納まり、リデルはスマイルの胸に顔を埋めた。スマイルも同じようにリデルの肩口に顔を埋める。 「…スマイル?」 リデルは問う。問う必要もないのに問う。きっとリデルは、続く言葉を知っている。 「――――君が生きていてくれて、とても嬉しい」 それは小細工なしの、普段の斜に構えた態度でもない、スマイルの掛け値なしの本気の言葉だった。 *** 後にスマイルから詳しいことを聞けば、ユーリが二人を蘇生するために必要な手順はこうだったという。 まずリデルに魂を食らわれたシャリエ。幸いなことにシャリエはこの城に実体でやってきていたお陰で、リデルの魂からすぐに引き剥がして己の魂の器に入れ直されたのだという。 それでも蘇生するのに半年はかかったようだ。彼女は半年間眠り続けた。 だがそれ以上に問題だったのはリデルだ。あの時のリデルの体は人間に近かった。だというのに心臓を引きずり出すなどという荒技をやってのけたのだ。体の消耗は激しく、生きているのが不思議なほどだ。 それを修復するのに一年もかかった。その一年間、不死者 それだけ危険だったということをリデルは改めて認識する。だがそれでもあの時の自分の行動に間違いはないと思うのだ。きっとどれだけやり直してもリデルは同じ行動しか取らないだろう。 そのことを素直に告げれば、スマイルとシャリエに集中砲火を受けた。特にスマイルだ。シャリエは人のことを言えた義理でもないのだと思うのだが、どうなのだろうか。ユーリも外で聞いていたようだがどことなく怒りを身に纏わせている。 リデルは集中砲火を受けながらも思う。今こうしていられるのは生きているお陰なのだ。スマイルと一緒にいることが出来るのも、今生きているからで―――― 幸せだ、とリデルは思った。生きていて良かったと思った。今ならば生前とは違って、心からそう思うことが出来た。
【 終 】
‐始まってしまったお話‐ 00. それのことをとてもよく知っていた。当たり前だ、あれは己の二重存在 いつだって見ていた。赤ん坊が幼児になり、幼児が少女へと変貌し、少女が女に変わるところもすべて見ていた。 そしてそれの人生をずっと見続けて思ったことは――――何が楽しくてこの人間は生きているのだろう、ということだった。 まるで作業のように繰り返される日々。何か楽しみがあるわけでもない。同年代の子どもと喋っても彼らの価値観が理解できない。かといって大人と喋ってもみても、これまら彼らの価値観がさっぱり少女には理解できない。 ただ本を読むことは好きなようだった。本を読むときだけ少女は少女らしく楽しげに顔を歪めていたり穏やかに微笑んでいたりした。だけどそれは本に対してだけで人間に対して向けられることはなかった。 病に罹ったときも同じだった。それは少女にとっては特別騒ぎ立てるようなことでもなかったのだろう。普段と同じように作業のように日々を過ごしていった。それは家族に捨てられても変わることはなかった。 ただ家族に捨てられてからの方が少女は安らいだ表情をすることが増えた。少女にとって家族――――いや己の周りにいる人間の人種こそが天敵のようなものだったのだろう。それがいなくなって酷く安心したようだった。少女は位としては貴族だったが、彼女は他の貴族との触れ合いを苦行としか思っていないようだったから。 だけど作業のように過ごす日々は変わらない。定刻になったら起き、定刻になったらこれをやり、定刻になったら寝る。そして空いた時間はすべて読書に費やす。そんな、今までと何一つ変わらない日々。ただ他人との触れ合いが一切なくなっただけで少女の考え方はまるで変わらなかったのだ。 外に出ればいい、と思った。最早彼女を阻む者は何もない。ここは彼女しかいないのだから。 他に趣味でも見つければいい、と思った。そうすれば作業のような日々も何か変わるのではないかと。 だけど少女は何もしなかった。ただ黙って作業のような日々を繰り返すだけだったのだ。 少女はこの日々を無為に過ごすことを決め込んでいるようだった。趣味の読書も屋敷中の本をすべて読み切ってそれをもう一度繰り返し、そして三巡目を繰り返そうとするところで堪忍袋の緒が切れた。 それが雨の日。あの日、己と彼女との出会い。 あれが少女が己を初めて認識した日で、己が少女に対する認識を改めた日。 その時に鬼ごっこやら隠れん坊やらをやったお陰で理解できた少女の本質。 ――――負けず嫌いで、意外と世話好き。 何だ、この少女はただ当たり前の人間との触れ合いを求めていただけだったのか。 貴族の価値観は凝り固まった物が多い。だから彼らの常識は一辺倒にしかない。だが少女の価値観はあまりにもこの時代では柔軟すぎたのだ。それが少女を追い詰める物であることを知らずに。 だから少女は貴族以外の人間との交流を求めていたのだ。だからこそこちらの屋敷では多少なりとも安らいだ表情を見せていたのだ。 そして少女は自分と関わることで多少なりとも楽しそうな顔をしていた。少女の作業のような生活を、己が入り込むことで壊すことが出来るのだと分かった。 ならば喜んで入ってやろう。そして少女の作業のような日々を掻き乱してやろう。それで少女の心が動かされるならば、自分はいくらでも―――― その時には、己が何れ少女を食らわなければならないのだという事実をすっかり忘れていた。 そのことを思い出したときにはもう後戻りは出来ないところまでやってきていて、少女にドップリとつかり込んでいた。 どちらにしてもどう足掻いても、その少女は何れ死ぬのだというのに。 *** 「リデル、準備出来たー?」 「ええっと…こんなものでいいのかしら?」 スマイルが呼べば、リデルがおずおずと部屋から出てきた。その服装は普段のドレスではなく、それに近いがもっと軽装の――――この時代で言うならばゴスロリ、呼ばれる服装だった。 上から下までリデルの服装を点検する。特別可笑しいようなこともない…だろう、多分。これなら街中を歩いていても大丈夫だ。 「んー、合格かな」 「そう、よかった」 スマイルがそう言うと、リデルはほっと安堵の吐息を吐いた。 あれから再び、一ヶ月が経とうとしていた。 リデルは今、このユーリ城でアッシュ、スマイル、ユーリの三人と共に暮らしている。リデルには元より頼るところなどなかったし、リデルはスマイルの傍を何よりも望んだ。それ以外はどうでもよかったのだと彼女は笑いながら告げる。 …だがその彼女にもたった一カ所だけどうでもよくない場所はあった。祖母であるシャリエ・オルブライトの元だ。彼女はこの一件が終わると元いた住処に帰っていった。今も昔のようにたまに依頼をこなしながら過ごしていると本人は言う。 だが偶にユーリ城にやってくるということは、リデルのことはそこそこ気にしているようだ。それは素直にありがたかった。 ――――スマイルは、もうリデルを食らうことはない。血による呪縛がその効力をなくしたからだ。 あの呪縛は元々スマイルが弱者として生まれたからこそ効果を発揮した呪いだ。だが二重存在 だとすると、この呪いはどうなるのか。結局はこの呪いをかけた人物よりも強者が解呪の術を唱えるだけでその呪は終わりを告げたのだ。 それはあまりにも簡単で、あっけないものだった。だがこの呪いを解くにはリデルとシャリエを食らって力をつけなければならなかったのだからこれこそ怪我の功名と言うべきか。 だが、その為にあんなことが起こるなんてもう二度と御免だと心の底から思った。もうこれきりにして欲しかった。己の最も大切だと思う物を食らわなければならないなんてどんな拷問か。 だがもうこれであの日々から解放されたのだ。もうリデルを殺さなくて済む。嘘を吐かなくて、済む。 それがスマイルにとっての一番の喜ばしいことだった。生まれてこの方、これほどまでに喜んだことはあっただろうかという程の喜びようだった。 それで今は、スマイルはリデルをDeuilのコンサートに連れ出そうとしているところだった。 以前、約束をした。 自分たちの人間界での副業のことを話したときに、『いつか見せてあげるよ』と。 そうしたらリデルは『楽しみにしている』と笑ったのだ。 その約束を果たすのに一年と一ヶ月もかかってしまったが、自分がリデルを待っている時間に比べたらこの程度短い物だ。むしろこの程度の眠りで良かったと思う。 それでスマイルはリデルと出かけようとしたのだが…流石に普段リデルが来ているドレスで外出、というのは戴けない。一応これから行く場所はコンサートなのだ。しかもクラシックではなく、ヴィジュアル系バンド。対極…とまでいかないが、大きく違うのは間違いない。 そこで今はリデルによってのファッションショーが開かれているという訳なのだ。リデルは普段からドレスを着ているが、それはドレスが好きだからではない。生前はドレスしか着ていなかったからその服装しか知らなかっただけなのだ。 その言葉を聞いたときには妙に納得してしまった。だからスマイルが生前リデルの屋敷を訪ねるとき、リデルはいつだってネグリジェだったのかと。 だからからか、リデルもこのファッションショーには乗り気だった。自分の気に入る物を探してやろうと躍起になっている節もあるが、それでも楽しそうだったのだ。 その姿を見ていると、あの雨の日を思い出す。スマイルを追いかけながら、それでもどこか楽しそうだったリデル。あの日のリデルは今のリデルと同じ瞳をしていた。 そうやって、もっと楽しいことを知っていけばいいと思う。スマイルのせいで面倒な茶番劇に巻き込んでしまったが、これからはもうそんなことはないのだ。 日々を作業のように生きてきた少女。その瞳が、その表情がくるくると変わっていくのに魅せられたのはいつのことか。 「スマイル? どうかしたの?」 着替えの終わったリデルがスマイルに問いかける。スマイルは首を振って何でもないと言った。 「じゃ、行こうかリデル。コンサートまで大分時間あるし、ちょっと街中を散歩しよーよ」 「…お前、確かリハーサルとかいうものをやるんじゃ……」 「そのもっと前に街に出ようって言ってるんだって。行こうよ、リデル」 スマイルが手を引けば、リデルが目を見開きながらもその瞳を好奇心で濡らして付いてくるのだ。 スマイルはリデルの白い、シミ一つない手をしっかりと握りしめた。 彼女の体に出来ていた黒い斑点。それはスマイルの呪いが解呪されたその時から徐々に消え去っていた。今ではその肌に黒い斑点があったという名残すらない。 「行こう? ね?」 悪戯好きな子どものように瞳を輝かせてリデルに問う。 「…仕方がないわね」 ため息を吐いて、だけどその瞳は言葉を裏切り興味と好奇心で満ちあふれている。これからスマイルが何をしてくれるのかと、期待している。 世界にはもっと楽しいことがいっぱいある。 二重存在の君よ。君が楽しいと思うことが僕も楽しいと思えればいい。君が悲しいと思うことは僕も悲しいと思えればいい。 同一の心霊遺伝子を持つ君よ。君と出会うのは必然だった。 楽しいことをしよう。美しい物を見よう。未知なる物を知ろう。 そうやって生きて、そうして―――― いつか離れるときがやってきても、この身はきっと後悔しないだろう。 そしてそれまで片時も君の側から離れないことを、この身は己の魂に誓おう。 そしていつか、今は言えないけれどいつか。 君にとある真実を伝えよう。 きっと誰もがこの茶番劇の首謀者は吸血王だと思っているけれど、本当はあの茶番劇の首謀者は己なのだと。 吸血王を利用して、こんな茶番劇を開いたのは自分。 そしてそれは、ただ君に生きてほしいとそんな純粋な願いから始まった茶番劇。 世界に対して諦めを抱いていた君に、作業のように日々を過ごしていた君に、そして己が話しかけると興味がない振りをしておきながら子どものように爛々と瞳を輝かせた君に、世界にはもっと楽しい物があるのだと見せたかったのだと言えば、その時君は怒るのだろうか。それとも笑うのだろうか。 だけど君は今生きてくれているから。あの時、生きることを選んでくれたから。 己はもう、何も言うことがないのだ。 その時の君の怒りも甘んじて受け入れよう。 「スマイル?」 動き出さないスマイルにリデルが首を傾げて覗き込む。 「何でもない。じゃ、行こーか、お姫様?」 握りしめた手に口付けを一つ落として、スマイルはリデルを引っ張って歩き出す。 その存在に感謝を。 美しき君が変わっていくのを、己は傍で見ていよう。 二重存在の君よ。同一の心霊遺伝子を持つ君よ。 君に出会えて良かった。 君が生きていてくれて、とても嬉しい。 Fin.
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