Noble Wish
【 終 】
−始まってしまったお話−


00.

 それのことをとてもよく知っていた。当たり前だ、あれは己の二重存在ダブル。何れ己が食わなければならない存在だ。だからいつどのような行動をしたとしても把握できるように生まれたときから監視している。
 いつだって見ていた。赤ん坊が幼児になり、幼児が少女へと変貌し、少女が女に変わるところもすべて見ていた。
 そしてそれの人生をずっと見続けて思ったことは――――何が楽しくてこの人間は生きているのだろう、ということだった。
 まるで作業のように繰り返される日々。何か楽しみがあるわけでもない。同年代の子どもと喋っても彼らの価値観が理解できない。かといって大人と喋ってもみても、これまら彼らの価値観がさっぱり少女には理解できない。
 ただ本を読むことは好きなようだった。本を読むときだけ少女は少女らしく楽しげに顔を歪めていたり穏やかに微笑んでいたりした。だけどそれは本に対してだけで人間に対して向けられることはなかった。
 病に罹ったときも同じだった。それは少女にとっては特別騒ぎ立てるようなことでもなかったのだろう。普段と同じように作業のように日々を過ごしていった。それは家族に捨てられても変わることはなかった。
 ただ家族に捨てられてからの方が少女は安らいだ表情をすることが増えた。少女にとって家族――――いや己の周りにいる人間の人種こそが天敵のようなものだったのだろう。それがいなくなって酷く安心したようだった。少女は位としては貴族だったが、彼女は他の貴族との触れ合いを苦行としか思っていないようだったから。
 だけど作業のように過ごす日々は変わらない。定刻になったら起き、定刻になったら食べ、定刻になったら寝る。そして空いた時間はすべて読書に費やす。そんな、今までと何一つ変わらない日々。ただ他人との触れ合いが一切なくなっただけで少女の考え方はまるで変わらなかったのだ。
 外に出ればいい、と思った。最早彼女を阻む者は何もない。ここは彼女しかいないのだから。
 他に趣味でも見つければいい、と思った。そうすれば作業のような日々も何か変わるのではないかと。
 だけど少女は何もしなかった。ただ黙って作業のような日々を繰り返すだけだったのだ。
 少女はこの日々を無為に過ごすことを決め込んでいるようだった。趣味の読書も屋敷中の本をすべて読み切ってそれをもう一度繰り返し、そして三巡目を繰り返そうとするところで堪忍袋の緒が切れた。
 それが雨の日。あの日、己と彼女との出会い。
 あれが少女が己を初めて認識した日で、己が少女に対する認識を改めた日。
 その時に鬼ごっこやら隠れん坊やらをやったお陰で理解できた少女の本質。
 ――――負けず嫌いで、意外と世話好き。
 何だ、この少女はただ当たり前の人間との触れ合いを求めていただけだったのか。
 貴族の価値観は凝り固まった物が多い。だから彼らの常識は一辺倒にしかない。だが少女の価値観はあまりにもこの時代では柔軟すぎたのだ。それが少女を追い詰める物であることを知らずに。
 だから少女は貴族以外の人間との交流を求めていたのだ。だからこそこちらの屋敷では多少なりとも安らいだ表情を見せていたのだ。
 そして少女は自分と関わることで多少なりとも楽しそうな顔をしていた。少女の作業のような生活を、己が入り込むことで壊すことが出来るのだと分かった。
 ならば喜んで入ってやろう。そして少女の作業のような日々を掻き乱してやろう。それで少女の心が動かされるならば、自分はいくらでも――――
 その時には、己が何れ少女を食らわなければならないのだという事実をすっかり忘れていた。
 そのことを思い出したときにはもう後戻りは出来ないところまでやってきていて、少女にドップリとつかり込んでいた。
 どちらにしてもどう足掻いても、その少女は何れ死ぬのだというのに。

***

「リデル、準備出来たー?」
「ええっと…こんなものでいいのかしら?」
 スマイルが呼べば、リデルがおずおずと部屋から出てきた。その服装は普段のドレスではなく、それに近いがもっと軽装の――――この時代で言うならばゴスロリ、呼ばれる服装だった。
 上から下までリデルの服装を点検する。特別可笑しいようなこともない…だろう、多分。これなら街中を歩いていても大丈夫だ。
「んー、合格かな」
「そう、よかった」
 スマイルがそう言うと、リデルはほっと安堵の吐息を吐いた。

 あれから再び、一ヶ月が経とうとしていた。
 リデルは今、このユーリ城でアッシュ、スマイル、ユーリの三人と共に暮らしている。リデルには元より頼るところなどなかったし、リデルはスマイルの傍を何よりも望んだ。それ以外はどうでもよかったのだと彼女は笑いながら告げる。
 …だがその彼女にもたった一カ所だけどうでもよくない場所はあった。祖母であるシャリエ・オルブライトの元だ。彼女はこの一件が終わると元いた住処に帰っていった。今も昔のようにたまに依頼をこなしながら過ごしていると本人は言う。
 だが偶にユーリ城にやってくるということは、リデルのことはそこそこ気にしているようだ。それは素直にありがたかった。
 ――――スマイルは、もうリデルを食らうことはない。血による呪縛がその効力をなくしたからだ。
 あの呪縛は元々スマイルが弱者として生まれたからこそ効果を発揮した呪いだ。だが二重存在ダブルである彼女たちを何度も食らったお陰かスマイルの存在は有り得ないほど強大になっていた。流石にユーリには叶わないが、そこらの領主よりも強い自信はある。
 だとすると、この呪いはどうなるのか。結局はこの呪いをかけた人物よりも強者が解呪の術を唱えるだけでその呪は終わりを告げたのだ。
 それはあまりにも簡単で、あっけないものだった。だがこの呪いを解くにはリデルとシャリエを食らって力をつけなければならなかったのだからこれこそ怪我の功名と言うべきか。
 だが、その為にあんなことが起こるなんてもう二度と御免だと心の底から思った。もうこれきりにして欲しかった。己の最も大切だと思う物を食らわなければならないなんてどんな拷問か。
 だがもうこれであの日々から解放されたのだ。もうリデルを殺さなくて済む。嘘を吐かなくて、済む。
 それがスマイルにとっての一番の喜ばしいことだった。生まれてこの方、これほどまでに喜んだことはあっただろうかという程の喜びようだった。

 それで今は、スマイルはリデルをDeuilのコンサートに連れ出そうとしているところだった。
 以前、約束をした。
 自分たちの人間界での副業のことを話したときに、『いつか見せてあげるよ』と。
 そうしたらリデルは『楽しみにしている』と笑ったのだ。
 その約束を果たすのに一年と一ヶ月もかかってしまったが、自分がリデルを待っている時間に比べたらこの程度短い物だ。むしろこの程度の眠りで良かったと思う。
 それでスマイルはリデルと出かけようとしたのだが…流石に普段リデルが来ているドレスで外出、というのは戴けない。一応これから行く場所はコンサートなのだ。しかもクラシックではなく、ヴィジュアル系バンド。対極…とまでいかないが、大きく違うのは間違いない。
 そこで今はリデルによってのファッションショーが開かれているという訳なのだ。リデルは普段からドレスを着ているが、それはドレスが好きだからではない。生前はドレスしか着ていなかったからその服装しか知らなかっただけなのだ。
 その言葉を聞いたときには妙に納得してしまった。だからスマイルが生前リデルの屋敷を訪ねるとき、リデルはいつだってネグリジェだったのかと。
 だからからか、リデルもこのファッションショーには乗り気だった。自分の気に入る物を探してやろうと躍起になっている節もあるが、それでも楽しそうだったのだ。
 その姿を見ていると、あの雨の日を思い出す。スマイルを追いかけながら、それでもどこか楽しそうだったリデル。あの日のリデルは今のリデルと同じ瞳をしていた。
 そうやって、もっと楽しいことを知っていけばいいと思う。スマイルのせいで面倒な茶番劇に巻き込んでしまったが、これからはもうそんなことはないのだ。
 日々を作業のように生きてきた少女。その瞳が、その表情がくるくると変わっていくのに魅せられたのはいつのことか。
「スマイル? どうかしたの?」
 着替えの終わったリデルがスマイルに問いかける。スマイルは首を振って何でもないと言った。
「じゃ、行こうかリデル。コンサートまで大分時間あるし、ちょっと街中を散歩しよーよ」
「…お前、確かリハーサルとかいうものをやるんじゃ……」
「そのもっと前に街に出ようって言ってるんだって。行こうよ、リデル」
 スマイルが手を引けば、リデルが目を見開きながらもその瞳を好奇心で濡らして付いてくるのだ。
 スマイルはリデルの白い、シミ一つない手をしっかりと握りしめた。
 彼女の体に出来ていた黒い斑点。それはスマイルの呪いが解呪されたその時から徐々に消え去っていた。今ではその肌に黒い斑点があったという名残すらない。
「行こう? ね?」
 悪戯好きな子どものように瞳を輝かせてリデルに問う。
「…仕方がないわね」
 ため息を吐いて、だけどその瞳は言葉を裏切り興味と好奇心で満ちあふれている。これからスマイルが何をしてくれるのかと、期待している。


 世界にはもっと楽しいことがいっぱいある。
 二重存在の君よ。君が楽しいと思うことが僕も楽しいと思えればいい。君が悲しいと思うことは僕も悲しいと思えればいい。
 同一の心霊遺伝子を持つ君よ。君と出会うのは必然だった。
 楽しいことをしよう。美しい物を見よう。未知なる物を知ろう。
 そうやって生きて、そうして――――
 いつか離れるときがやってきても、この身はきっと後悔しないだろう。
 そしてそれまで片時も君の側から離れないことを、この身は己の魂に誓おう。

 そしていつか、今は言えないけれどいつか。
 君にとある真実を伝えよう。
 きっと誰もがこの茶番劇の首謀者は吸血王だと思っているけれど、本当はあの茶番劇の首謀者は己なのだと。
 吸血王を利用して、こんな茶番劇を開いたのは自分。
 そしてそれは、ただ君に生きてほしいとそんな純粋な願いから始まった茶番劇。
 世界に対して諦めを抱いていた君に、作業のように日々を過ごしていた君に、そして己が話しかけると興味がない振りをしておきながら子どものように爛々と瞳を輝かせた君に、世界にはもっと楽しい物があるのだと見せたかったのだと言えば、その時君は怒るのだろうか。それとも笑うのだろうか。
 だけど君は今生きてくれているから。あの時、生きることを選んでくれたから。
 己はもう、何も言うことがないのだ。
 その時の君の怒りも甘んじて受け入れよう。


「スマイル?」
 動き出さないスマイルにリデルが首を傾げて覗き込む。
「何でもない。じゃ、行こーか、お姫様?」
 握りしめた手に口付けを一つ落として、スマイルはリデルを引っ張って歩き出す。


 その存在に感謝を。
 美しき君が変わっていくのを、己は傍で見ていよう。

 二重存在の君よ。同一の心霊遺伝子を持つ君よ。
 君に出会えて良かった。
 君が生きていてくれて、とても嬉しい。



Fin.