今はただ、安らかな眠りを
ふと、目を覚ました。 ベッドから体を起こす。視界が暗い。見れば、今は夜だった。窓から見える月は満月。このユーリ城から見える月はいつだって赤い。 そう、まるで、血のような赤。 赤い月。そして、満月。 かごめは立ち上がる。そして裸足に黒いスリップドレスという薄着で駆けだした。構いはしない、このユーリ城はいつだって暖かい。それはユーリの力だ。ユーリによって与えられたかごめの加護だ。 駆け出す。人目など何も気にせずに、足音など気にせずに駆ける。 全てが寝静まった夜の中、ぱたぱたと響く小さな足音。 行かなくてはならない。かごめは行かなくてはならないのだ。こんなにも赤くて丸い月の下、あの人が泣いているから。 「ユーリ」 ユーリの部屋の扉を開く。ノックなんて要らない。どうせあの人はきっと起きている。 「ユーリ」 もう一度声を掛ける。ユーリからの声はない。だけど起きている。あの人はいつだって領主の仕事で忙しくて、どんな時間だって起きていた。それはかごめの子どもの頃から変わらなかった。こんな風に幼いかごめが目を覚ました時、子守歌を歌って慰めてくれたのはユーリだ。 今だって同じだ。ユーリの部屋には機械的な冷たい光ではない、蝋燭のほのかな暖かみを持った灯りが満ちていた。 いつも、いつも、かごめがここに来ればユーリは子守歌を歌ってくれた。机の上を書類で一杯にして、疲れ切った顔で書類に埋もれて書類と格闘しながら、それでもやってきたかごめを見つけて笑って受け入れてくれるのだ。 だが、それも満月の日は違う。 満月には力がある。人間でさえ、満月の日は本能を増幅させる日。ならば、吸血鬼であるユーリは――――、 「ユーリ」 かごめはユーリを見る。ユーリは苦しそうに、愛用している上質な樫の机に顔を埋めていた。返事が返ってこないのは分かっている。かごめも、この状況のことを分かっていた。ユーリは吸血鬼だ。吸血鬼が満月の夜に血を好むことなど、誰でも知っている事実。それは魔族としての血が為す、本能の増幅。だが、ユーリは領主という立場に縛られて充分に血を吸えない。 ユーリが苦しんでいるのは血が吸えないからだ。美しい処女の、汚れていない純潔の血を吸えないから。分かっている。だから、かごめはここまでやってきたのだから。 かごめは容易くユーリに近付いた。それから、顔を伏せているユーリの身体を後ろから抱きしめた。恐らく、ユーリは今かごめがこの部屋にやってきたことに気付いていない。いや、気付いていながら気付かない振りをしている。気付いてしまえば、かごめの血を吸いたくなってしまうから。気付いてしまえば、本能を抑えられなくなってしまうから。 「ユーリ」 「…かごめ、か」 ユーリの赤い瞳が、かごめの黒い瞳を捉えた。赤い瞳がまず宿したのはまず拒絶の色。ユーリは近寄るなと低く呟いた。かごめは首を振って拒絶の意を示す。 「…血を吸うぞ」 低く、呻くような掠れた声。いつもの玲瓏たる美しい声は聞こえない。本能を押し殺すことで精一杯なようだ。 「吸えばいいわ。私はいつだって構わないと言うのに、いつだって拒絶するのは貴方なのよ」 真っ直ぐにかごめはユーリを見返した。数秒の邂逅、だがその視線に耐えきれなくなったのか、ふとユーリは視線を逸らす。かごめは未だ背中から抱きしめたままだった。 「こうやって、貴方に近づく人はいなかったの? ユーリ」 尋ねる声。返ってくる言葉はないだろう。その沈黙こそが、何よりも雄弁に答えを物語っているのだから。 「…かごめ、離れろ」 平静を装ったユーリの声はそれだけを告げる。かごめは離れない。離れるわけがない。ユーリが大切だと思うのなら、離れるわけにいかないのだ。 「私の血を吸えばいいのよ、ユーリ」 そうすれば、貴方はこんなにも苦しむ必要はない。 それがどれほどユーリを絶望させるか、かごめは十分知っていながら言う。 ユーリの視線が戸惑いに揺れた。向かう先はかごめの首筋。薄いスリップドレスしか身に纏っていないかごめの、剥き出しの肌、血液。今にも食らい尽くしたい筈なのに、ユーリは強靱な精神力でそれを防ぐ。 ユーリの長い牙を知っている。見たことがある。ユーリの体のパーツは一つ一つが至高の美で溢れているが、かごめのお気に入りはその牙だった。 その牙がこの身を貫けば、それはかごめにとってどれほど幸福なことだろうか。 だけどユーリは永遠にそれをしない。かごめはそれを知っている。かごめはそれを分かっている。ユーリがかごめと一緒にいたいと考えるが故に。彼がかごめを愛した故に。 「…溶け合えてしまえたらいいのにね」 微かに響いた声。その声は、ユーリに届いただろうか。 きつく、きつく抱きしめたまま、眠るように、かごめは瞼を下ろした。 貴方が苦しむその傷が、いつか私の傷になればいい。 |