春待吐息
「嫌いになれたらいいのに」 ぽつりとかごめは呟いた。囁きはリデルと二人きりの図書室に吸い込まれて溶けた。 珍しい、とリデルは思った。基本的にこの子どもはあまり感情を表さない。だというのに今のこの呟きは余程のことだ。適当に流し読みしていた本から顔を上げると、リデルは尋ねた。 「それは誰のこと?」 「…ユーリ」 だがだからこそ、対象となる相手が非常に分かりやすくもあるのだが。 リデルは読んでいた本を閉じて元あった棚に返した。 「嫌いになってみればいいわ。私だってずっとスマイルと一緒にいるけれど、長く連れ添ってきた分だけあれを嫌いになったこともあるのだから」 かごめは首を振る。湛えている表情は悲痛で、リデルの言葉など既に思案していたらしい。 「…だめ。私がユーリを嫌いになったらそれこそユーリの思う壺だもの。ユーリは私がユーリのことを好きなことをよく思ってないから」 「それはどうかしら」 よく思っていないことはないだろう。今この城でかごめのことを一番溺愛しているのはくだんの吸血王だ。好かれるのならばそれだけで生きていくことが出来るほど溺愛しているあの方が恐れているのはきっとそんなことではない。 「ユーリはひとりだから。ひとりで生きてひとりで死んでいこうとするひとだから。 だから私は邪魔なのよ」 「邪魔ではないと思うけれど」 「でも連れていってもくれないわ」 「それは、」 かごめは近くにある窓を開け放ち、普段は鳥籠の中に収まっている青い鳥を呼び寄せた。 「寄り添わせてはくれるのに連れていってくれないなんて、中途半端な優しさを与えられるよりも辛い。 ユーリは残酷よ」 鳥はかごめの手の中にある。まるで慰めるようにかごめの手に顔を擦りつけている。 リデルは小さくため息をついた。確かにそれは残酷だが、残酷よりも強いどうしようもないほどの優しさからくるものなのだ。 きっと二人に足りないのは分かりあうための時間と言葉なのだろうとリデルは思う。だがあの老成した吸血王は多くを語ることはしないだろうし、年若きかごめはあまりの少ない情報からそれを察することは極めて困難だろう。 ならば自分が一肌脱ぐしかないではないか。 リデルは吸血王も目の前の子どもも、同様に等しく愛しているのだから。 「その鳥」 リデルはかごめの青い鳥を指さす。 「その鳥は貴方よりも先に死んでしまう。この事実は変わらないわ。それは分かるわね、かごめ」 「…ええ」 かごめは悲痛そうに頷く。リデルが今言っていることは生物としての当然の末路だった。 「貴方はその鳥に死んでほしくないと思う?」 「勿論」 即答だった。それはそうだろう。その鳥は子どもがこの城にやってくる前からの連れ合いだ。愛も情も生まれているはずだ。 「例えば」 リデルは一区切りおいた。 「例えばその鳥が今にも死んでしまいそうで、そして貴方はその鳥の死を回避する術を持っている。貴方はその方法を行う?」 「勿論よ」 意志の強いはっきりとした声だった。予想通りの答えにリデルは頷いた。 「だけどそれには代償が必要よ。そしてその代償はとても大きく、その代償は貴方ではなくその鳥に払ってもらうことになるわ。 それでも貴方はその鳥の死を回避することを望むかしら」 かごめが息を飲む音が聞こえた。 かごめは逡巡する。その時間はリデルにとってはあまり長くはなかったが、かごめにとっては悠久の時より長く感じられただろう。 他者の命を自分が握る。これほどまでに恐ろしいことはないだろう。それはリデルにも覚えがあった。そのときは自分は握られる方であったし、握っている方も己がよく知っているスマイルだったのだからそう恐ろしくはなかったが、だがその時のスマイルの気持ちを考えるとそれは恐ろしいことだったのだ。リデルがその事実に気づくのはそう長くはなかった。ならばかごめも気づくだろう。 悩んだ後にかごめが口を開く。手の甲にいる鳥を苦しそうに見て、だが決意したように答えた。 「…この子が望めば。 私はそれを叶えるために努力するから」 理想的な答えだ、とリデルは思う。だからこそこの子どもはは吸血王の考えを理解できるはずなのだ。 「吸血王も同じなのよ、かごめ」 「…分かってる。でもどうして、あの人は私に聞かないの」 かごめは俯いた。今にも泣き出しそうに暗い表情は、悲しみを堪えるにしては怒りを湛えるかのように激しい表情だ。 リデルは仕方がないとばかりに苦笑する。お互いに言葉足らずなのだからどうしようもない。それが意図しているかしていないかの差異があるが基本的にはその差も多少だろう。 「あの方は臆病な方だから。愛することは出来ても愛されることが出来ないの。 話し合ってきたらいいわ。きっとそうすれば、もう少し近くにいくことが出来るから」 そう、きっと必要なのはそれだけだ。 かごめはハ、と顔を上げる。リデルは微笑んでいて、かごめはその表情を見ると頷いて図書室から駆け出すのだった。 残されたのは不死者と青い鳥と小さな気配だけ。 リデルは先ほどまでかごめの手の甲に止まっていた鳥を自分の手の甲に止まらせて、小さな気配に語りかける。 「そういうことですので、お逃げにならないようにお願いします」 『…余計なことを』 「そうは言われましても。私はあの子が可愛いだけです、吸血王」 シャリエの気持ちが分かりました。 そうリデルが語りかけると小さなため息が返ってきた。呆れたのだろうか。だがそれ以上に何の返答もないのは、きっとかごめがたどり着いたからだろう。その事実をリデルは知っている。 リデルは手の甲に止まっている鳥に向かって苦笑する。 「…貴方の主も大変ね」 だがその苦労もきっと報われる時がくることをリデルは、いやこの城の誰もが知っている。認めないのは主である王だけだ。 ピィと、まるで肯定するかのように小さく鳥が鳴いた。 小さな声。小さな気配。小さなため息。 王はあの子どもの前では決してありのままの姿を見せないだろう。だが先ほどの小さなため息は。 「分かりやすい方ね、あの方も」 それは春を待つ雪の息吹だった。 |