Noble Wish
1st 【 1 】 重い瞼を上げて、見えたモノは闇だった。 暗闇。それ以外は何一つない空間。それから感じたのは狭さだった。 狭い。明らかに狭い。そして視界が狭い。体を動かすことが億劫になりながらも、両腕を伸ばして周囲を確認する。触れれば、指先に木の感触。叩けば腐蝕が進んだものの、確かに木の音だ。体を仰向けの状態のままで、指を木に沿って這わせた。 そこから分かるのは、どうやら自分は木箱の中にいるらしいということだ。 私は納得して、何故自分がこんな所にいるのかを思い出そうとする。いい加減、持ち上げるのが疲れてきた瞼を下ろして静かに思考を回す。 しかし、思い出せない。私の脳は素晴らしいまでに白紙であった。ということは、これは俗に言う記憶喪失なのであろうか。今のところ、私は己をそのように納得させた。こんな所で混乱に陥っても仕方がないのだ。記憶がないというのに、非常に非情なまでに冷静な私に、別の私が首を傾げた。別の私を無視して、私は思考の回転数を上げる。 さて、現状確認はすんだ。次はどうするかである。私は周囲を見回す。相変わらず暗闇しかない。 私は今、木箱の中にいる。何故ここにいるのかは分からない。だが、あまり焦ってはいないということは私はここを馴染みの場所と思っているからだろうか。そんなわけがない、普通であればこのような不自由極まりない場所に馴染んでいるとは思えない。それは普通ではない。異常であるはずなのだ。 私は疲れを感じてきた腕を、当然の処置として一端下ろそうとする。しかし、腕は私の命令を聞かずに、箱の蓋の部分をメキメキと音をたてさせて引き剥がそうとする。 驚いた。何故この腕は私の命令を聞かないのだろうか? いや、それ以前の問題で私の力ではこの蓋を開けることが出来ない。動かすことも困難だ。私はそれを知っている。木箱を叩いたときに反響の具合で分かった、四方八方全てが何かに埋まっている。 そして私は少女だ。私は記憶がないのでそれが正しいということは分からないが、私の認識では少女であるはずだ。その少女の力で、この状況を解決できるはずがない。 だが、そんな私の予想は当然のように破られた。 メキリという音。私の腕は私の意志とは反して、あっさりとその蓋は破られ、剥がされ、丁度私の胴体が通るくらいの穴を開けた。 暗闇の先にあるのは、また同じように深い暗闇だ。空気としての暗闇ではなく、物質的な暗闇。視界は闇に潰されていて、暗闇の正体を捉えることは困難だ。私は勝手に動く腕の指先に感覚を集中させる。どうやら指の感覚に頼るならば、物質的な暗闇の正体は泥であるらしい。四方八方に敷き詰められた泥。さて、私の腕は何をしようとしているのだろうか。慌てることもなく、私は体をここで休ませていた。 そのつもりだったのだが、ついには体も自由意志を手に入れたのか、それとも脳からの指令を受け付けなくなったのか、命令違反の常習犯となった体は、その指でその泥を指で掻き出して道を作り、その身を闇に沈めた。 あまりのその手慣れた動作。もしかして私はここから何度も脱走を図っていたのではないだろうか。私は思わずそう思ってしまうほど、私の動作は手慣れていた。 その証拠とばかりに、私の体は惑いなく暗闇の中を進む。指は絶えず泥を掻き出しており、少しずつ少しずつ進路が出来上がりその度にこの身は上へと進んでいく。泥が顔に当たる。汚いと思っているも、振り払うだけのスペースはここになどない。私の胴体がようやく通るだけの隙間だ。私の体は私の欲求を無視して先に進む。 しかし、私は何故ここにいるのだろう。そして何故こんなことをしているのだろう。私は誰? ここはどこ? 何故私は泥の中に埋まっている? 私は私のことを何一つ知らない。何一つ憶えていない。 ただ、ここからでなければならない。それだけはわかるのだ。 それは、狭いとか、苦しいとか、そういうことではない。 この身を突き動かしているのは、そんな本能ではない。 両手を交互に動かして、前方への道を作る。指で一定の進路を作り、その分前に進んで、また泥を指で掻き出して進路を作る。それを何十往復と繰り返した時、右手が空を切った。 不思議に思って、自由意志を失った右手を上下左右四方八方様々に動かすが、手に触れる感覚は何もない。あれだけ私の進路と視界を遮っていた泥がない。どうやら、ここが終着点らしい。今度は左手で進路を作らなければならないと、一通り動かした右手を泥の中へ引っ込めようとした。 ―――――その手を、しっかりと誰かの手が掴んだ。 何か布に包まれているが輪郭で分かる、大きくて骨張った男性らしい手。しっかりと、離すものかとばかりに私の手を握りしめている。どこかで感じたことのある感覚。懐かしいもの。酷く懐かしい人のぬくもりだ。 しかし、何故私はそんなことを思ったのだろうか。己の記憶は飛んでいる。記憶も感覚も、信頼を得るには足らないのだ。 そんな風に考えていると、土の上で私の腕を掴んでいた人が笑った、気がする。 見なくとも分かる。気配だけで分かる。いつもの独特の笑い方ではなく、唇の端をゆるりと上げる静かな笑み。私が慣れ親しんだ、それ。 「 」 そして、全てを取り戻した。 世界に色が戻る。暗闇は闇ではなく、泥としてきちんとした暗い茶色を取り戻し、己自身が暗い色なので分かりにくかったが己の身に纏っている服や肌の色までもきちんと確認できた。 私が誰か。私が何故ここにいるか。出身は何処で。どの様に生まれ、どの様に育ち、どの様に生きてきて、そしてどの様に死んだか、その細部一片残らず全てを思い出した。 そう、私の腕を掴んでいるこの人との関係。どの様に出会い、どの様に関わり、どの様に日々を過ごし、どの様に別れたかも全て。それに関わる全ての過去をも思い出した。 私の右腕に力が加えられ地上へと引っ張り上げられる。思わず目を閉じて泥から眼球を守って、腰の辺りまで引っ張り上げられたところでようやく瞼を上げた。 月が輝いていた。頭上には雲一つない空に巨大な満月。大きさは私の生きた時代とそう変わらない。月光が照らす薄闇の中、並び立つ墓石がぼんやりと青く発光している。私は視線を移す。 それは満月に輝く青い色の包帯男。肌は青、髪も青。片方だけ覗いている瞳はかろうじて赤。深紅の血の色だ。私のような闇に身を置く者は必ず赤で血を連想させる。見に纏う物は十字架をあしらった年代物とは聞こえはいいが、結局はボロボロのコートと、相反するかのように真新しい包帯。 変わらない。この男は何一つ変わらない。変わったところといえば、あの頃よりも全体的に少し成長したことと、老成した雰囲気であろうか。 包帯男はその長身と怪力で、軽々と私を片手で地上に引っ張り上げ、私と彼の身長差のせいで地に足がつかない私をそのまま地に下ろした。その様はワルツの一行程を連想させる程に優雅だ。 「やぁ、久しぶり」 ヒッヒッヒッ…、彼は独特な笑い方をする。私はあえてそれを無視する。 包帯男と視線が合う。彼も同じことを思ったのか、口元に刻まれた笑みはより一層深くなった。彼は道化師のようにおどけてみせて、一歩下がって礼を見せて左手を差し出した。男性がワルツを誘う時のポーズだ。 私は泥にまみれたドレスの裾を掴む。ただそれだけだ。そうしただけで、私は彼の誘いにはまだ了承していない。それに、社交界に生きてきた身として、男性からの言葉がない限りその誘いを受けることはない。それは私の誇りが許さない。 私は彼の言葉を待つ。 包帯男は視線を合わせる。彼の視線は笑みに満ちており、答えを知っているのにも関わらず答えないというのが分かりきっていた。 私は冷たい視線を返す。彼はいつものチェシャ猫じみた笑みを見せる。 「Shall we dance?」 「Yes,sure」 私はドレスの裾を開いて礼をする。女性の了承の意。私は彼の手を取る。 彼は右も左も分からぬ私を連れて、静かに歩き出す。彼は私を見ずに言った。 「賭は僕の勝ちみたいだねぇ…」 「…そうね」 思い出した。目の前の男と私の関係。どの様に出会い、どの様に関わり、どの様に日々を過ごし、どの様に別れたかも全て。それに関わる全ての過去をも思い出した。 そして、あの賭も。 私はその重い事実を胸に秘め、彼に導かれるままに歩き出した。 その前に、私は一瞬前にいた場所を振り返る。 そこには墓地の中のたくさんの墓石の一つがある。 『Liddell』 墓石には、そう刻まれていた。 |