Noble Wish
1st


【 3 】

 そして、この地の領主がおわすこの城へと、スマイルに連れられてやってきたリデルがまず通されたのは昔のリデルの部屋ほどの大きさの客室だった。どことなく昔のリデルの部屋を彷彿とさせる。
 スマイルはこの部屋にリデルを通してからリデルを上から下まで眺め、このままの状態で領主の元に通すわけにはいかないので、とりあえず体の汚れを落としてくれと言うだけ言って消えた。その点はリデルとしても願ったり叶ったりだ。今の自分の状況といえば、泥だらけの顔に泥だらけの髪、泥だらけの服と体だ。こんな体で領主に会うことなど、誰が許しても自分が許せない。
 未だスマイルの気配が部屋の中を留まっていたが、気にすることはなくリデルは部屋から繋がっていた風呂に入り体を洗った。そして裸のままで部屋から出ると己が着れる服を探す。服はあまりにも簡単に見つかった。クローゼットの中に下着からコルセットまですべて揃っていたのだ。
 クローゼットの中にはリデルの好きな系統のドレスが綺麗に整列されている。リデルは遠慮なくそれを着ることにした。ドレスに手を延ばす。延ばした腕に黒い斑点が幾つも点在していた。
 クローゼットの中には大きな鏡が一つ。鏡の中に黒い斑点だらけで真っ黒な体。白い肌に黒い斑点のそれは穴ぼこの虫食いだ。腰を越す薄青いウェーブの髪もそれを増長させている。その姿があまりにも醜くて、胸に詰まった。
 延ばした腕、体のみならず、この体に黒い斑点がない場所はない。だからこそ、なるべくなら肌を出さない服を選んだ。服を首までのものにし、指はレースの手袋。靴下は膝までのものにする。本来ならば、このようなことを気にしなくともいいのだろう。だが、それはリデル自身が嫌だった。
 己は誇り高い貴族である。貴族の娘として生きたときから、それはリデルの中でいつまでも根付いている矜持だ。それを捨て去ることはできない。故に己よりも上位の者に会うときは必ず盛装をするように己に義務付けている。それは己の中の醜い部分を隠すことだと、己でも気づいていながら止めることはない。何故ならば、この身は貴族だからだ。誇り高い矜持を持っているからだ。
 醜い己を晒す。それはリデルにとって死にも近い拷問だった。
 息が詰まる生き方だ。それはリデルも自覚している。だが、自分がこうにしか生きることができないとわかっている。だから貴族は友人や愛人を求めるのだろうか。己の中の醜い部分を見せてもいいと思える相手が。
 だが、それは違うのだろう。貴族の中でもリデルのように誇り高い人物はあまりいない。確かに市民に比べては多いほうだが、リデルのように誇り高い人物は滅多にいない。
 それを理解しているからこそ、リデルはそれ以上思考を回らせることはしない。
 リデルは手に持っていた服を、下着から順につける。身につけ終えたところで鏡で己の姿を見直す。おかしいところはない。リデルは鏡の前でくるりと回る。どうやら大丈夫なようだ。リデルは辺りを見回した。スマイルの気配はある。
「スマイル」
「用意はできたかい? お姫様」
「ええ、案内よろしく頼むわね」
「りょーかいしました。んじゃ、レッツゴー…!」
 スマイルはリデルを連れて部屋を出る。リデルはその前に己の服と部屋を見直した。己の着ているこのドレスや内装はすべてリデルの好みなのだ。これは一体どういったことなのだろう、これは偶然かそれとも何か作為があるのか。リデルには分からなかった。後で領主と呼ばれる存在に尋ねてみようと思い、リデルは部屋を後にした。
 紆余曲折を経て、スマイルとリデルは領主がいる部屋へとたどり着く。城に来た当初は分からなかったが、どうやらこの城の構造は複雑極まりないらしい。この城に慣れたスマイルに着いてこなければ、リデルは今頃迷っていただろう。スマイルが案内してくれてよかったと、この時ばかりはリデルは心からそう思った。
 リデルの身長の3倍の高さの重厚な扉を開き、スマイルに連れられて遠慮なしに部屋の中に入った。但し、部屋に入る前には礼儀としてきちんと礼をすることを忘れずに、だ。
 スマイルは遠慮というものをお首にも出さず、目に見えて高価だと分かる赤い絨毯をずかずかと踏みつける。リデルはその後にしずしずと着いて歩く。イギリス生まれのリデルには分からないが、おそらくこの絨毯はメルヘン王国のこの地方における稀少な動物の皮に違いない。領主の私室などそのようなものだ。
 スマイルが立ち止まる。その背後にいたリデルも立ち止まる。スマイルの長身のせいでこちらからはどのような人物かは判明しないが、スマイルはその人物に手を振っていた。あれが領主なのであろう。
「やっほーユーリ。連れて来たよー」
「ああ、ご苦労だったなスマイル」
 壁一面に張り巡らされた書架を背に、その男性は机に腰掛けて読んでいた本を閉じてこちらを見た。
 絵画のようだ。リデルはそう思った。
 銀の髪と深紅の瞳。肌の色は踏みしめられていない新雪の白。背から生えているのはこれまた深紅の蝙蝠翼。着ている服は、素材に関しては詳しく分からないが上質な物であることは見て取れる。職人と呼ばれる人間が一本一本丁寧に針を通した作品だ。
 そして、その圧倒的なまでの存在感。そこにあるだけで感じられる威圧感。強大すぎる存在感が殺気とまでなってリデルの肌を突き刺した。
 規模が違いすぎる。これは自分のようなアンデッドが対面していい相手ではない。リデルは最初から全面降伏をしていた。だが、その中でも彼女の観察眼と冷静な視点は生かされていた。先ほど領主の口から見えた牙。背にある赤い蝙蝠羽。それから察するに、彼の正体は――――
 その人物は長い足を優雅に組んで腰掛けた机に本を置き、これまた優雅にリデルに近寄った。
 王者の歩き方だ。リデルはユーリと呼ばれたその人が自分の元にやってくるという事実を確認し、一歩前に進んでスマイルの隣に立った。彼は尊大な態度でリデルの前に立ち、貴公子然とした容貌でリデルの指先を手に取り口付ける。
「初めまして、ミスリデル。この土地の領主であるユーリだ」
 ユーリはよろしく、などとは言わなかった。当然のことだ、彼にとってはリデルなど数あるうちの新参者でしかない。ここで出会い、そして別れて永遠に会わない筈の存在だ。そのような人間に社交辞令といえどもよろしくなどと言ってどうするのか。
 どうやら、この人物はスマイルとは違って誠実な人柄であるらしい。だが、あくまでも彼はスマイルの友人である最後まで気は抜けない。
 リデルは細心の注意を払い、相手が気を悪くしないようユーリの手の中にある己の手を取り返す。そして半歩下がって相手と一定の距離を作り、ドレスの裾を摘んだ。
「お初お目にかかります、吸血王ロードヴァンパイア。わたくしはリデルと申します、以後お見知りおきを」
 相手の威圧感に負けることはなく、リデルは堂々といつものように言い切った。例え最初から相手に全面降伏していたとしても、リデルが怯むことなどないのだ。この身は貴族である。己よりも上級の貴族にはあまり会ったことはないが、それでもこのようなことには手慣れている。
「…ほう?」
 感心したとばかりのユーリの声。礼をしているのでどのような表情をしているのかは分からないが、それでもユーリの興味を引いたのは間違いない。
「…成る程。女の趣味はいいようだな、スマイル」
「でしょ〜? ヒッヒッヒッ…」
 スマイルもユーリも同等の立場で言い合っている。吸血鬼も透明人間も大した格差はなく位は高い。だからこそできることであろう、ただの成り立てアンデッドの自分のできることではない。
「でもいきなり君主ロードとはねー。僕は公爵デュークかと思ったんだけどねぇ…。まぁ、お姫様の目利きは信用できるからいいけど」
「ああ、なかなかの目利きだ」
「お褒めに預かり光栄です、吸血王。この身は貴族として生きた身、目利きには多少心得があります。しかしわたくしがスマイルの女というのは訂正して頂きたい、わたくしはスマイルの愛人でもなければ恋人でもないのですから」
 リデルの毅然とした言葉にユーリとスマイルは二人して虚を突かれたような顔をして、スマイルはチェシャ猫笑いを、ユーリは感嘆とした表情を浮かべた。
「へえ…、そんじゃ君と僕の関係は一体何だい?」
「せいぜい友人がいいところでしょう、本来ならばそれすらも当てはまらないのだけど」
 絶句して声も出ないスマイルに比べ、リデルはいささか面白そうだ。昔の会話のテンポが戻ってきたようだ。今ならリデルは幾らでも毒舌を吐くことができる。
 ユーリは二人の会話を聞いて、目を細めてクツクツと笑っていた。
「成る程、本当に見る目はあるなミスリデル」
「光栄です。それから、わたくしのことはリデルとお呼び下さい吸血王」
「ならば君も私のことをユーリと呼べばいい。私は君に名を呼ぶことを許そう」
 笑いが止まらないと言わんばかりにクツクツと笑ったまま、ユーリは言った。リデルは目を見開く。スマイルは笑っていた。
「…よろしいのですか? 吸血王ロードヴァンパイア
 貴族やそれに準ずる者は、己よりも格下の者に名を呼ばせることを決して許しはしない。呼ばせるとしたら、それは余程気さくな人物か余程気に入られたかだ。もしくは何かの策略という可能性もあるが、この場合ではそれは考えられないだろう。そして、目の前の人物の場合は気さくということは考えられない。
「ユーリだ、次からはそう呼べ」
「…了解いたしました、ユーリ」
 ユーリはその返事に気をよくしたのか一度朗らかな笑みを見せ、次いで真剣な表情へと変化させた。リデルも気持ちを改めてユーリの言葉を待つ。
「さてミスリデル。次からの私の言葉は領主としての言葉だ。よく聞いて己で行動するように頼む」
 ユーリはリデルに確認の意の視線を向けた。リデルは頷いて話を促す。
「まず、今の自分の状況は把握できているか?」
「ええ、わたくしが死したのは18世紀。現在はおそらく21世紀ですね。その間、今までは大地の中で眠っていた状況でしょう。現在のわたくしはアンデッド、つまりゾンビと呼ばれる存在ですね」
「その通りだ。今日目覚めたばかりとは思えない洞察力だな。
 そこまで分かっているのならば話は早い。領主は生まれたてや成り立てに一から事情を説明せねばならないという義務があるのでな、面倒なことは手早くすませたいものだ」
「ユーリユーリ、論点ずれてるよ〜?」
 ユーリは面倒くさそうにため息を吐いた。論点がずれてきたと分かったスマイルが方向を修正させる。
「ああ、すまない。それで、まず我ら闇に属す者が行ってはならないことが一つだけある」
「それは?」
「他者の権利を侵してはならない…つまり、人間のみならずあらゆる他人に迷惑を掛けないことだ。だが、これは貴方にならば説明する意味もないだろう、ミスリデル。貴方は貴族の誇りを己の誇りとしている、ならば他者に迷惑をかけるなどという行為は出来ない」
 ユーリは断言する。さすがは長く生きているということだろうか、それとも位の高さからか、彼の他人を解す能力は一流だ。この短い間にリデルという人物をよく理解している。こういう言い方をされれば、己が必ずこのようなことを為さないだろうという事実に基づいた言葉。
「…了解しました、吸血王ロードヴァンパイア。肝に銘じましょう」
「そうしてくれれば嬉しいものだがな。それと、私たち闇に生きる者は人間界への出入りが自由だ。つまりは人間に関わることも自由。私達のように人間界で職を持つことも可能だ」
「…職?」
 リデルは首を傾げる。生まれながらの貴族であった彼女にとって、職を手に働くというそのことが実感として掴めない。
「ああ、今私はこの城に住んでいる者で『Deuil』という名のバンドを組んでいる。一度見てみるか?」
「あ、はい。それはありがたく…ではなく、わたくしたちは職を持たなければならないのですか?」
「勿論だ、それはこの世界の摂理だろう」
「…かしこまりました、吸血王。わたくしも職探しに奔走いたしましょう」
 そう考えれば、少し面倒なことが出来てくる。どうやって自分に適正のある職業を探すべきかと悩んでいた最中、ユーリが口を挟んだ。
「それに関してだが、成り立ての者には執行猶予が加算される。人間は生きているときには滅多にこちらにやってくることはない。故に、人間界出身の者はまずはこちらの世界であるメルヘン王国について慣れて貰わなければならないのだ。その間、成り立ては位の高い者に保護されることになる」
「つまり、その間は職探しをしなくともよいと?」
「その通りだ」
 リデルは頬の筋肉一つ動かさずに、内心では高速に思考を回転させながら瞼を下ろした。微かに眉根が動く。
「わたくしを保護する方はどちらの方で?」
「私だ」
「…え?」
 即答された答えに不意を突かれて、リデルは呆けた声を出す。
「それは、いつ、どなたがお決めになったことで?」
「今、私が決めた」
 何か文句があるのかとばかりの態度。リデルは絶句しながらも首を横に振った。そうであるならば願ったり適ったりの状況だ。メルヘン王国にやってきたばかりで慣れない自分が他者と生活できるわけがないと、リデルは冷静に判断していた。
「ユーリ、ほんっとーにお姫様のこと気に入ったんだね」
「なに、目の前で女性が困っていれば誰であろうとそうもなるだろう。それに、彼女と話すのは楽しいのでな。お前たちといると忘れる貴族らしさを取り戻す」
「ユーリは僕らと一緒にいるときは全然貴族っぽくないもんねー。僕久々に貴族っぽいユーリを見たよ?」
「それはそうだろう、お前たちと一緒にいるのに何故貴族らしさが必要なのだ」
「確かに必要ないかもねぇ。僕は今更ユーリが貴族らしさを見せたら大笑いするよ、ヒッヒッヒッ…」
 目の前で繰り返される会話の応酬に着いていけず、リデルは目を白黒とさせながらその会話が途切れるのを待った。
「すると吸血王ロードヴァンパイア。わたくしはこの城で住むということになるのでしょうか」
「ああ、そういうことになるな」
 返された返答。リデルは頷いて礼をする。
「ここまでの重ね重ねのこのご恩、わたくしは忘れることはないでしょう。何れきちんとお返しします」
「何、部屋数は余っていたのでな。気にすることはない。それに、言っただろう? 己の気に入った者が困っているときに手を差し伸べるのは当然だと」
 ユーリはシニカルな笑みを浮かべた。リデルはそれに淡い微笑みで返す。
「領主からの言葉は以上だ。執行猶予はあまり長い時間ではない。その時間を有効に使うことだな、リデル」
「ご忠告、しかとこの胸に焼き付けました吸血王。それでは失礼します、ユーリ」
 リデルはドレスの裾を摘んで頭を下げ、退室の礼を取る。ユーリは微笑んだまま頷く。それを退室の意ととったリデルは、そのまま扉に向かって踵を返す。スマイルはそのリデルについて歩く。
「僕も行くよー?」
「ええ、お願いするわ」
 私一人ならば迷ってしまうから、続けてそう口に出してリデルは扉の外に出る。そこで振り返ってもう一度ドレスの裾を摘んで礼をして、そしてその場から離れた。
 そういえば、あの部屋について尋ねることを忘れてしまったのだということに気付くのはしばらく経ってからだった。思い出したついでに、隣を歩くスマイルに尋ねる。スマイルもユーリには勝てないが長くこの城に住む者だ、その程度は知っているかもしれない。
「私のいたあの部屋は、内装から置いてある服まですべてが私好みだったのだけど、それは何故?」
「あぁ、ユーリ曰くこの城そういう風に出来てるんだってさ。この部屋を使う相手の居心地のいい空間を勝手に作り出すんだって。僕なんてびっくりしたよー? 今の部屋さー、ギャンブラーZがたーくさん…」
「…そうなの」
 ギャンブラーZが何かは分からないが、世の中には不思議なことがいっぱいだ。リデルは素直にそう思う。だが、ここは人間世界ではなく人間以外の者が住むメルヘン王国。その中でも闇に属す者が住む地。そして、ここはその土地を統べる領主の城。早く慣れてしまおう、リデルは思った。
「そういえばさぁ…」
 頭上から降るスマイルの声。二人しかいない廊下に、スマイルの声が反響する。リデルはスマイルを見上げた。スマイルはいつものような笑みを浮かべながらも、瞳の奥は真剣そのものだった。
「ユーリ、気に入った?」
「ええ、勿論」
 リデルは即答する。つい先ほどの数分しか会っていないのに、リデルはユーリが好きだと自覚している。恋愛感情には発展しないタイプの好きだが、気に入ったことには間違いない。
「…そう、よかった」
 スマイルはそう言って、滅多に見せない芯からの微笑みを見せた。