Noble Wish
1st


【 6 】

 スマイルとリデルが初めて出会ったのは、リデルがまだ人間だった頃の話だ。18世紀のロココ時代。確かヴェルサイユ宮殿が完成した当初だっただろうか。そこまで確かなことをリデルは憶えていなかった。
 その時、リデルは既に病を患っていた。病の名をペスト、またの名を黒死病と呼ばれる代物だ。当時、治療法などなかった不治の病。リデルはそれを患っていたのだ。それがリデルを死に至らしめ、今のような肌にした原因。
 ある日、リデルは別荘に静養に来ていた。静養といっても、どこかへ歩きに行けるわけではない。あくまでもリデルの体はベッドに括り付けられているのだ。だが、リデルはその生活を苦だとは思わなかった。元々外に出るのはあまり好きではなかったので、部屋の中にいる方が好みだ。それに、面倒でかつ破廉恥なパーティーに誘われることもない。そして、この菌で汚染された体が外に出れば誰かが感染し、被害が拡大することが目に見えている。リデルは聡明な子どもだった。分かり切ったことに労力を費やそうとは思わなかった。その時、リデルは全ての洗濯物を己の手で洗い部屋の掃除をするという、下働きとそう変わらない生活を送っていた。
 リデルはその日も本を読んでいた。とりあえず最近の目標は近くにある本棚の本を全部読むことである。リデルは天蓋付きのフリルが満載されたベッドで、上半身だけを起こして集中して本を読んでいた。
 かたん。リデルは書から目を離した。しかし誰もいない。おそらくは屋敷で働く侍女の者だろうと、リデルはまた書に視線を移す。
 かたん。今度もまた音がする。やはり視線を巡らすも誰もいない。だが、今度の音は前回の音よりも大きい。しかもこの部屋でした音だと断言できる大きさだ。リデルは近くの机に分厚い書架を置いて、ベッドで居住まいを正した。
「誰?」
 リデルは問いかける。返答は聞こえない。いや、むしろネズミなどの可能性が高いというのに、何故問いかけるのだろう。リデルは不思議で不思議で仕方がなかった。ただ、何とはなしにそこにいるのは人間であると確信していたのだ。
「ヒッヒッヒッ…見つかっちゃった」
 そして、どこからか声が聞こえた。耳を澄ましても何の声も聞こえない。聞こえた声も小さなものだった為か、空耳かと勘違いしそうになる。だが、この紙をめくる音しか聞こえない部屋の中で声など聞き違えるはずもない。リデルは辺りを見回した。
「ここだよ。ここ」
 その声はリデルのすぐ隣から聞こえた。
 前方を向いていたリデルが振り向くと、そこには青い髪と青い肌、そして赤い瞳の包帯男、スマイルがいた。この時はまだコートを羽織っていなかった。
「…何の用かしら? ここは貴族の館よ、勝手に入るのは御法度ね」
 どこからどうやって入ってきた、ということは敢えてリデルは聞かなかった。聞いたら最後、何か恐ろしい答えが返ってきそうだからである。
「いや、何。僕はいつもそこから君を見てたんだけどねぇ…。どうにも暇そうだったから、遊んでやろうと思って」
 その言葉に胸が冷えた。リデルは己の隣にある、初対面の相手に向かって問答無用の容赦なしで平手打ちを食らわせる。そして強い視線でギンと睨みつけた。
「『遊んでやろうと思って』? ほざくな下郎。そのような同情は私には必要ないわ、同情する相手が欲しいなら他を当たりなさい」
 リデルの平手打ちの直撃を食らった相手は、ぽかんと目を丸くしてリデルを見た後、そのリデルの口上を聞いて何をするかと思いきや――――突然笑い出した。
「…え?」
 リデルは訝しげにスマイルを見る。スマイルはしばらく笑い転げたままだったが、呼吸を整えて次に体の包帯についた埃を払った。
「ヒッヒッヒッ…。いや、ごめんねぇ。今回は僕が負けたよ。ちょっとからかってやろうと思ったんだけど…根っからの貴族なんだねぇ」
「当然よ、私は貴族以外の何者でもないわ」
「うん…、それじゃ言い直すよ。そこのお姫様、僕と一緒に遊んでくれませんか?」
「…え?」

 それが、スマイルとリデルの出会いであった。

 スマイルは次の日もそのまた次の日もやってきた。初めて会った日に己はペストにかかっているのだからもう来るなとリデルが言っても、スマイルは根気強くリデルに会いに来た。
 それを毎日繰り返していても、全く堪えていないスマイルに対してリデルが疲れてきたのだ。現在の時点で、既にスマイルを諦めさせることは不可能だと分かったリデルはもう忠告はしていない。スマイルを素直に出迎えるだけだ。
「これは、何?」
 その日、スマイルはリデルに様々な絵画や写真を見せていた。リデルは貴族であり、館の外に出ることはあまりない。基本的に広い庭の中か、パーティーの中。市制の様子など知りもしないのだ。だから、特に市制の中の様子に関してはリデルの興味は高かった。
「あぁ、それは道化だよ。わざと巫山戯た格好して、わざと巫山戯たことやってみんなを笑わす役だよ。まるで僕みたいにねヒッヒッヒッ…」
「…そう、これは?」
「それはこの街の一番高い家の屋根から撮った夕日の風景だよ」
「これは?」
「南極のオーロラ。そーゆーのもあるもんだよ」
「じゃあ、これは?」
「砂漠のオアシスと蜃気楼。世界は不思議なことがいっぱいだからねぇ…」
「…そう、不思議なことがいっぱいね」
 リデルは写真や絵画をじっと見たままだった。
「世界はこんなにも、美しいもので溢れていたのね」
 その事実が、やけにリデルの胸に響いた。
 窓から冷たい風が吹き抜けてきた。ここは暖炉があるから暖かいものの、外は相当な厳しさだろう。そう考えると、リデルはスマイルのことが気になった。
「…そういえば、お前、コートはどうするの?」
「コート? ああ、流石に寒くなってきたからいるねぇ。でも、僕は透明人間だから必要ないよ、お姫様」
「そういう問題ではないわ、コートがなければ風邪を引くでしょう」
 リデルはため息を吐いて、己のクローゼットの中に一つだけ紛れ込んでいた茶色で十字架をあしらった真新しいコートを取り出した。リデルはそれを無造作にスマイルに放って、そしてまたベッドの中に戻る。
「あげるわ、写真のお礼よ」
「…うん、ありがとう」

 そしてある日のこと、スマイルはリデルのやった十字架をあしらったコートを身に纏って口を開いた。
「そういえばさぁ…未練とか、やり残した事ってないの?」
「ないわ」
 リデルはスマイルの言葉を意図的に一刀両断する。これ以上話を続かせないためであろう。だが、一刀両断されたスマイルも、リデルの考えに気付いていながらへこたれない。スマイルはリデルを覗き込んだ。
「本当の本当に?」
「本当の本当に、よ。私にやり残した事なんてないわ。今まで幸福だった、やりたいこともやった。…これだけで充分でしょう」
「本当に?」
「本当に」
 彼女の目が鋭い眼光でスマイルを捉えた。その目は堂には入ったもので、それが彼女の掛け値なしの本気であるということが手に取るように理解できた。スマイルは口の端を歪める。静かに頬を上げて、皮肉げであるような挑発しているかのような小馬鹿にしているような、見る人によって種類を変える笑みを浮かべた。
「…じゃあ、賭けてみるかい?」
 リデルは眉をひそめた。普段のスマイルがこんなことを言うような人物ではないことを分かっているからだ。少なくとも、人の生き死にに関してはいつも真面目な人物だ。
「何を?」
 そんなスマイルを不可思議に思いながら、リデルは話を先に進めた。
「君がアンデッドになるか否か、だよ。お姫様」
 アンデッド。
 それは強い未練を持った死人が、何十何百年と眠り続けて不死者へと変貌した者の総称。俗称はゾンビである。
 それに自分がなるというのである、スマイルは。リデルは今すぐスマイルを殺したい気分でいっぱいだ。だが、それを抑えてリデルはスマイルに殺気を飛ばすだけで済ませた。
「…いいわ、賭けましょう。お前は私が生き返ることに一票、私は私が生き返らないことに一票。但し、約束があるわ」
「約束?」
 スマイルは訝しげに尋ねた。
「そう、アンデッドは大抵は意志がない者が多いと聞くわ。意志がある者は何百年と眠り続けなければならないことも。そして、もしも私が生き返って、その時に私の意志がない場合は、今すぐそれを土に返しなさい。
 私は、私でなければ意味がないわ」
「…成る程ねぇ。じゃ、僕からも約束」
 交換条件ね、スマイルは明るく笑って言った。
「何?」
「僕がお姫様の名前を呼んだとき、すぐに僕の側に来てよ」
 リデルは目を丸くした。それは約束した賭とは全く違う話である。
「…それは、この賭とは関係のない話でしょう?」
「いいや、この賭と関係はあるよ。これは君が甦った後で果たされるものだからねぇ」
「まるで、私が負けることが確定しているようね」
「いやいや、そうでもないよ。確率は半々…、どっちがどうなるか、見物だよ」
 そして話は別のことへと移行する。後は明るい子ども達の声が響くだけだ。


 そして、その数日後、リデルは確かに死んだ。
 高熱で朦朧とした中で、憶えているのはスマイルの笑顔だった。