Noble Wish
1st 【 7 】 意識が浮上する。だるい体を起こし、辺りを見回した。満遍なくフリルと建築美術で溢れたこの空間、どうやらここはリデルの部屋らしい。 あの後、リデルとスマイルはすぐに果てて、続いて連続で2回程度はしたことを憶えている。それからの記憶がない。そして自分の記憶がないということは、どうやらそこで気を失ってしまったということだろう。そして体がすっきりしているので、スマイルが後始末を全てしてくれたに違いない、相変わらずこういうところは気配り上手であるとリデルは思った。 リデルは立ち上がって新しい服に着替えた。こちらにスマイルの気配はないことから、どうやら己の部屋か食堂かに行っているのだろう。リデルはさっさと着替え終えて、颯爽と闊歩して食堂へと向かった。 食堂には既にアッシュとユーリが席に着いていた。だが、スマイルはまだである。リデルは首を傾げた。いつもならばこの時間には席に着いているというのに、スマイルに何があったのだろうか。昨夜は己と性交しただけなのだが、それが耐えられないというわけでもあるまい。 アッシュとユーリがこちらに気付く。リデルはそちらに近付いて、先にスカートの裾を掴んで礼をして見せた。 「おはようございます、ユーリ、アッシュ」 「ああ、おはようリデル」 「おはようございます、リデルさん」 ユーリはおそらくは自分で入れた朝の紅茶を一杯飲みながら、アッシュはフライパンを片手に持ってリデルに声を掛ける。リデルは決して席に着かない。その様子に、口を開いたのはアッシュだった。 「リデルさん、スマは…」 「どうやら部屋に籠もっているようです。連れ出すのに長くなりそうなので、申し訳ありませんが朝食は要りません」 思わずリデルはため息を吐いてしまう。確かに昨日はスマイルに抱かれただけで、こちらからの言葉は何一つ伝えられていない。身勝手だと思うが、何か伝わってもいいではないかと思ってしまうのだ。人間とはすれ違いの生き物だが、やはり言葉にしないと伝わらないのがもどかしくて面倒で堪らない。 早速、スマイルを連れ出しにリデルは踵を返す。だが、その前に聞かなければならないことが数点あるのだった。リデルは食堂の方向を向いて口を開いた。 「申し訳ありませんが、少々お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか」 「ああ、構わないが」 「あ、いいッスよ」 アッシュはフライパンを置いて態度を改めて、ユーリはやはり紅茶を飲みながら肯定の意を示した。リデルはまずユーリに尋ねた。 「それではユーリ。この城の客室に、使う相手の居心地のいい空間を勝手に作り出すのだという能力はございますか?」 「いや、そのような能力はない。そんな能力があったならばこちらが欲しいものだ」 「では、わたくしのあの部屋は何故わたくしが気に入るような物ばかりなのでしょうか。偶然ですか、それとも何か策略がおありなのでしょうか」 ユーリはティーソーサーにカップを置いて、ポットで紅茶を継ぎ足した。そしてその香りを楽しんでから答えた。 「あれはスマイルがやったことだ。数百年程度前からか、突然明らかに少女趣味の物を買ってきたのでな、理由を問えば『目覚めたときに少しでも過ごしやすい空間を作っておきたい』とあまりにも嬉しそうに言ったからな。放置しておいた」 「…つまり、やったのは全部スマイルですね?」 「ああ、その通りだ」 リデルは現在このユーリ城で使用している客室と、己が生前使用していたスマイルと共にいた寝室の両方を思い出す。恐ろしいまでに共通点ばかりでどうしようかと思ったのだが、成る程スマイルが作ったのならば納得だ。リデル以外であの別荘の寝室にスマイルほど長く居座った者はいないのだから。 「もう一つ。アッシュ、スマイルは夜ごとどこかへ出かける習慣がありませんでしたか?」 「え? そーッスねー…あったッスね、何かあったとしても毎日夜だけはどこか散歩に出かけてたッス」 アッシュはアッシュらしく、両腕を組んで長考しながら少しずつ言った。リデルはその答えに眉根を寄せる。 「…それは何時からで?」 「えーっと…オレが来たときにはもうやってたんで…」 「数百年前だ、大体スマイルが様々な物を収集し始めた頃と同じ時期だな」 リデルは考える。数百年前と言われてもあまりにも大雑把すぎて分からない。リデルはもう少し細かく尋ねることにした。 「その数百年前とは、もしかしてスマイルが十字架をあしらったコートを着始めた頃ですか?」 「……ああ、そういえばその時期からあのコートを着始めたな。確かその時期の筈だ」 眼球が飛び出すかと思うほど驚いたのは、多分この時が初めてだろう。リデルはそう思った。リデルは生まれて初めてこんなにも驚いた。 そして、こんなにも激しく相手を怒鳴りつけたいと思ったのも同時に初めてだった。 『リデル』 聞こえてきた声。確かにそれはスマイルの声だ。リデルは情報をくれた礼も言わず、スマイルの部屋へと駆けだした。 駆けている間、様々なスマイルの言葉が脳内で響いていた。ぐるぐると回る声の中、たった一つの言葉だけが強く自己主張をしていた。 『未練とか、やり残した事ってないの?』 あるとも、己にだってやり残した事程度あるとも! 死にたくないと、このままでは死にたくないとどれほど思ったことか! まだスマイルと一緒にいたい、スマイルの言う様々な世界の美しい場所に行きたいと、本当にどれだけ思ったことかどれほど祈ったことか! だがそんなことはできないと分かっていた! そんなことは不可能だと分かっていた! 病魔に蝕まれた体にそんなことはできない! 病魔を撒き散らすわけにはいかないから己からベッドに縛り付けた! でも本当ならば子どものように遊びたい! スマイルと一緒に遊んでみたい! 普通の子どものように! 年頃の子どものように! スマイルと一緒に! 歯を食いしばる。零れそうになる涙を己の誇りを掛けて押し止める。走りながら、リデルは全身で、今まで貴族の誇りに邪魔されて言えなかった鬱憤を訴えていた。 そんなことは出来ないのだ! そんなことは不可能なのだ! もしも私がアンデッドになったとしても、その頃にはスマイルは私を忘れている! そして私は街を徘徊するグールにしかなれない! それは嫌だそんなのは嫌だ。己の誇りに掛けてそんな自分は阻止してみせる! ならばこうするしか方法はない! 自分では諦めるしかないのに! なのにスマイルは諦めない! 私が諦めてスマイルが諦めないのならば、それに私も賭けたくなってしまった! 部屋の前に辿り着く。ドアノブを回して駆け込んだ。 「スマイル!」 あぁ、私はスマイルがいなければこんなにも孤独で。そして私はこんなにも希望を捨てていなかった。 部屋の中にスマイルはいない。だが、気配はあるから今は姿を消しているのだろう。リデルはスマイルのいる方向に真っ直ぐ向かっていく。 『…リデル?』 部屋の中から声が聞こえる。声は部屋の中で拡散していてどこから聞こえているのが分からない。だが、それでもリデルは真っ直ぐにスマイルのいる方向に向かう。リデルはベッドの上に座る。きちんと別の物に変えたらしいシーツは清潔だった。リデルはベッドの端に上半身だけ起こして座っているスマイルの前に座った。 『リデ…』 スマイルの声を遮る乾いた音。透明で目には見えないながらも、リデルの平手は間違いなくスマイルの頬に直撃した。 「この愚か者!」 頬を張ってそう叫べば、リデルは堰を切ったかのようにその瞳から涙を零した。誰もいなかった目の前にスマイルが現れる。だが、そんなことは知ったことではない。 「…リデル? 見えるの?」 スマイルが驚愕の表情でリデルを見た。だがそれも今のリデルには知ったことではない。 「お前のことなんて見えない! 何一つ見えない! でもお前なんて気配だけでどこにいるかくらいは分かるわよ!」 スマイルが目を丸くした。滅多にない驚愕の表情を、今のリデルは見ることはできない。俯いたまま、今スマイルに伝えなければならないことを全て伝えるのだ。 「ずっと一緒にいられると思っていた?! そんなの不可能に決まってるでしょう私だって以前とは違うお前だって違うでしょうスマイル! 以前の私は自らをベッドに縛り付けておくしか出来なかった! でも今の私は違う! 自由があるやりたいことがある自分の欲望がある!」 そう、欲望がある。以前は全てを諦めるだけで、それだけで終わってしまったリデルという名の少女の短い一生だ。 そして、諦めるだけしか能がなかった少女に希望を、絶望を、そして孤独を与えたのは自らを道化師と笑ったスマイルなのだ。 「私は孤独で! たった独りで! 私の側には誰もいなくて! そしてお前もそうでしょう!」 リデルは叫ぶ。己でひた隠しにしてきた事実を赤裸々に叫ぶ。そして、これは自身だけの事実ではなくスマイルの事実でもある筈だ。 スマイルは何も言わない。何も言わないまま数秒間止まったままだ。それは肯定を表していた。だが、同時に捨てられた子犬を連想させた。 リデルは待った。スマイルに肯定して貰うための時間を待った。だが、それでも何も言わないスマイルに焦れたリデルは、古びたコートの胸ぐらを掴み上げ、至近距離でスマイルの目を見て言った。 「だから、お前は私を求めたのでしょう!」 スマイルはまた何も言わない。常とは違うリデルの様子に圧倒されている。だが、今のリデルにはそれに気付く余裕すらない。 「私はお前を求め、お前は私を求め! 私たちは互いに孤独で、その質量も質もすべて同一でありながら解け合うことはなくて! だけどだからこそ! 互いにたった一人と呼べる相手を捜して!」 必死に叫んだ。何も言わないスマイルに届くようにと、必死で叫んだのだ。その叫びがまるで悲鳴のようだと、いつもの冷静な部分の己がそう思った。リデルは呼吸を整える。呼吸を整えて、いつもの冷静な己に戻る。 「…私は、あのスカウトの話を受けようと思うわ。お前は、どうするの?」 リデルはスマイルを見た。そして左手を差し出す。スマイルはその手を見て一つため息を吐いて、「…うん」と呟いて頷いた。そして、穏やかな、本当に穏やかな笑みを浮かべて、スマイルはその手を掴んだ。 しかし、 「――――え?」 スマイルが掴んだリデルの左手の中指三本の指先が崩れた。肉がぼとりとスマイルの手のひらの中に落ちて、白い骨が己でもよく見えるとリデルは思った。 |