それは寒い冬の日。 人気のないアクアリウム。冷たい潮風。 強い風の日。 潮風のせいで部品が錆びないかと心配だったあの日に。 オレは彼女と出会った。 鼻につく磯の匂いと、肌に感じる重たい潮風。日光は燦々と照らし続け、アスファルトを冷たく焦がしている。感じる気温はあまり暑くはない、今は冬場なのだから当然だ。だが、オレは全てを振り払うように、エンジンを吹かした。 その日、オレはバイクで海沿いの道をツーリングをしていた。先日、整備が終わったバイクの試運転を兼ねてのツーリング。そういう場合はあまり長く運転するものではないのだが、長い間バイクに乗ってなかったせいと、アイツらにバイクを悪戯されなかったせいか、どうも羽目を外しているらしい。そのついでに、バイクの部品を買いに行った。休みの日ならではの出来事だ。オレは自嘲して潮風を切った。 潮風を切るのは心地よい。この瞬間がとても好きだと思う。まるで自分が風になったような感覚。だが、今はその感覚に酔っているわけにもいかないだろう。オレが今抱えているのは部品だ。それが錆びるのでなるべくならさっさと去ってしまうのが無難であろう。それに、レストアしたばかりのバイクが潮風で錆びるのも痛々しい。 そう思い、オレはもっとスピードをあげようとした。アクセルを回す、オービスはいない、最高速度を出すのには絶好のチャンスだ。だが、この腕は動かない。何があったのだろうか。オレは不審に思い、辺りを見回した。何か気になるものでもあったのだろうか。 それは遠くの浜辺。海の青と砂の色の中に、何か別なものがある。 オレは遠くの浜のまた遠く、岩礁に見える何かを見た。幸いなことに一本道、しかも自分以外に誰も走っていないし走ってくる気配もない。少しくらいよそ見をしていても許される範囲だ。 まず理解できたのは、潮の中の白だ。多分、服の色。 それから、赤い髪。仰向けになって浮かんでいるから、こちらから見えるのが赤い髪だけだ。 そんな小さな子どもが、潮の中に仰向けで浮かんでいた。 「…え?」 自分でも間の抜けた声だったと思う。だが、この時はその声しか出なかったのだ。 ブレーキを限界ギリギリまで握る。それでもアクセルを回し続けたバイクはそのスピードを一挙に全ては殺しきれない。ハンドルを右に傾け、突き出した片足で軸を作り円を描かせる。アブナイ音を立てながら弧を半円に描かせて、ようやくバイクは止まってくれた。 後から考えれば、アクセルを回さずに離せばよかったのだが、この時はそんなこと思いつきもしなかった。人間、動揺していればそんな思考回路になってしまうのだと、その時になって初めて分かった。 タイヤがかなりすり減ったなと頭のどこかでぼんやりと思うのだが、今はそんなことを考えている状況ではない。今すぐあの子どもの所へ行かなければ。 バイクを安全な場所に置いて、一刻も早くとガードレールを飛び越えて砂浜へと飛び降りあの子どもの元へと駆け寄る。 あの子どもの状況は、誰がどう見たって溺れている状況だ。早く病院に連れて行かなければ生命の危険の可能性がある。 道路から見たときと全く変わらない様子で、子どもはそこにいた。全く変わらない、それは意識が昏倒しているか、下手をしたら死んでいるということだ。ソレは危ない何よりも回避しなければならないことだ。オレは子どもを水から引き上げた。 「大丈夫か!?」 子どもは目を丸くして何度も瞬きをして、こくりと頷いた。オレの剣幕に押されたような形になってしまったが、無事ならばそれでヨシ。どうやら溺れていたわけではないようだ。 「こんな所で一人で泳ぐんじゃない。浅瀬でも、君みたいな子どもを攫うくらいの力はあるんだからね」 とりあえず叱って地面に降ろそうとすると、子ども…女の子は、目に見えて嫌がるようになった。説教が気にくわなかったのだろうか。だが、これはこの子にとって必要なことなので嫌がられてもどうしようもない。 いや、この嫌がり方は普通じゃない。説教されたくらいで、ここまで嫌がる子なんて稀だ。それに、この子はそれくらいでは怒りそうにない、素直で大人しそうな子どもに見える。じゃあ、何にそんなに嫌がっているのだろう。 不思議がっていると、けほんと女の子の喉が鳴った。女の子は突然息苦しそうに苦しみだして、両手で喉を掻きむしりだした。口はぱくぱくと開いていた。まるでその様は呼吸が出来ない魚を連想させる。 これは真剣に病院に連れて行かなければならない。何の症状もなく無事だと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。それか多分、何らかの疾患が現れたのだろう。見るからに体が弱そうなこの子のことだ。何かあってもおかしくはない。 しかし、オレがそうしようという時に限って、この子は一際大きく嫌がる素振りを見せるのだ。どうやら口のきけない女の子は口は必死に何かを訴えているのだが、オレに読心術なんていう高度な技術はない。読みとれるのは、母音の"い"と"う"という音だけ。だが、時折視線を下に向けたり、指を潮に向けたりすることで、オレはようやくそれが水を示しているのだということが分かった。 「水?」 彼女は頷いた。飲みたいということではないだろう、塩水なのだから。そうではないのならば、離せということなのだろうか。 「水に浸けろって?」 女の子は何度も頷いた。その様子が必死だったからか、今度はオレがその剣幕に押されて浅瀬に女の子の体をゆっくりと沈めていく。女の子は自分の体が沈んでいくごとに心地よさそうに目を閉じていた。 そして数秒後、女の子の体が完全に水に浸かった頃、女の子はついさっきの苦しみなど嘘のように健康体だ。何が何だか分からないオレを取り残して、女の子は非常に気持ちよさそうに波に揺られている。 そこで目に付いた、尖った耳。まるで魚のソレ。 ここは浅瀬の海。 そして、先ほどの苦しみようと、連想した魚。 「さか…な?」 女の子は最初首を傾げていたが、やがて自分のことだと分かったのか一度頷いた。あぁナルホドと納得する。そうだとすれば、この子の全ての行動が理解できるというものだ。 「ゴメンな、てっきり溺れてるんだと勘違いした。苦しかっただろ」 女の子はゆるゆると首を振った。顔だけを潮から出して首を振る姿は可愛らしいが、先ほどの様子を見ていれば痛々しさしか感じられない。 呼吸が落ち着いた女の子は、透明な瞳でオレを見ている。感情のこもっていない、幼子の無垢な瞳。女の子の腕が動く、オレに向かって差し伸べている。何だと思って近づけると、女の子の手はオレの頭の上に乗っかっていた。 頭を撫でられている。 先ほどのことは気にするなとばかりに、心配そうな表情で女の子はオレの頭を撫で続けている。 心のささくれが取れていく。後悔とか、そういったものと一緒に洗い流されていく。 「…うん、ありがとう」 オレは笑った。女の子は顔を明るくさせて、オレの頭から潮で濡れた冷たい手を静かに引いた。 優しい子だな、オレは静かにそう思う。 ついさっきのことは明らかにオレに過失があるというのに、それを気にしないようにと言ってくれた。とても、優しい子だ。 だから、 「…その声は昔から?」 女の子は無言で頷いた。なら、余計にだろう。 「あまり人が出るところに近付いちゃダメだよ。君みたいな子は、人間に捕まったら商品に出されてしまう」 商品? 女の子の口がそう動いたような気がした。オレは売り物のことだと説明する。 「海が好きなんだろ?」 女の子は頷いた。 「なら、捕まらないようにしなきゃな」 女の子は目を丸くして、戸惑いながらも大きく頷いた。 それを見て、オレは立ち上がる。もう、二度とこの子にも会うことはないだろう。この子はオレの忠告を聞いて、海の底で仲間と一緒に暮らしていく。そう考えると、何故だろう。少し残念な気がした。 だが、この子が捕まってショーウィンドウの中にいるよりかはいい。 「それじゃ、オレは行くよ。勘違いして悪かったな、捕まらないようにしろよ」 今度はオレが女の子の頭を撫でてやる。女の子はじっとオレを見つめていた。 指を離して、振り返ることなく歩き出す。バイクの元まで戻ってくる。ふと海を見れば、あの子はまだオレを見つめたままだった。 声は聞こえないだろうから、バイバイと手を振ってやる。女の子はぎこちなく手を振り返した。 フルフェイスのメットを被って、バイクを動かす。先ほどの無茶な動きでどこかイカれているかと思ったが、どうやら大丈夫なようだ。 そしてオレは帰路を急ぐ。誰もいない海辺の道を、一人行く。 ―――女の子は、じっとオレを見たままだった。 そうして、オレはあの女の子と出会い、別れた。 女の子はオレの忠告を聞いて、海の底で仲間と一緒に平和に暮らしていく。オレの中ではそういう予定だった。 そういう予定だったのだ。なのに、 それなのに、 そんな彼女が、何故オレの前にいるのだろう。 それは、寒い冬の日。 オレはユーリさんの城へ向かった帰りだった。 今、オレは整備士と同時に、ユーリさんの城の修理工をやっている。元々バイクの関係で知り合ったアッシュと付き合いがあったのだが、ユーリさんの城にある物は古い物が多いせいかよく壊れ、それの修理を頼まれるようになってから、いつの間にかこんなことになってしまったのだ。 まぁ、オレにとってはいいお得意さんだし、向こうも喜んでくれるのでいいとは思うのだが。 そして、オレは今日も今日とてユーリさんに呼び出され、いつものように修理して帰ってきたのだ。ついでにバイクの部品も欲しかったところだ。それも終えて、いつもと違う帰り道でオレは帰宅していた。 誰もいない、人気のない夜道を歩く。ふと、視界に見慣れない青色が入り立ち止まった。 目の前には巨大なアクアリウム。ゆらゆらと揺れる海草、泳ぐ熱帯魚たち。ガラス張りの水槽の中、海の底と変わらない風景がそこにある。 確か、これは巨大な観賞用だったか。どこかの企業が作ったアクアリウム。だが、場所が悪いのかここに人がいることは滅多にない。オレはここのことを随分前から知っているが、それでも人がいることはほとんどなかった。 この巨大な街の片隅に、人知れずあるアクアリウム。たった一人きり、泳ぐ魚たち。 それを見て思い出すのは、あの時の女の子のことだ。海で出会った赤い髪の、オレの勘違いで苦しめてしまった魚の女の子。彼女は人間に捕まらずに、海の底で平和に暮らしているのだろうか…? そこに、一つの歌が響いた。 夜の海を彷徨いながら 泳ぐ エンジェルフィッシュ 明日を 今日を 見つめ続けてる 目を閉じないでほしい 人気のない場所。辺りには誰もいない。それでも歌い続ける声。それでも響き続ける美しい声。 オレは胸に抱えていた部品と腰に差している工具を確認して辺りを見回す。人を惑わすネレイデスか、セイレーンか。誰にしても何にしても恐怖を誘う。だが、やはり誰もいない。 どこか遠いところでの歌声かと思ったのだが、これはそんなか細い声ではない、近くでの声だ。だが、ここは路地裏への道も見あたらない、普段から静かな場所だ。死角はない。だというのに、視力のいいオレでも見つけられない。 オレは不可解なことが起こって少し混乱していたのだと思う。だから、こんなにも唖然としてしまったのだ。 オレは一度アクアリウムを眺めた。精神を落ち着けるためだ、アクアリウムには人を落ち着ける力があるという。 そこ、に。 その中、に。 彼女がいた。 赤い髪の、白い服の、魚の女の子。彼女が歌っているエンジェルフィッシュのような女の子だ。あの海で出会ったときとまったく変わらない姿で、彼女はそこにいた。 歌っている。彼女が歌っている。 水の、丁度水槽の中央で。目を閉じて、上を向いて、祈るように歌っている。 その瞳にオレは映っていない。彼女はオレにすら気付いていない。 泣いているの? 泣いているよ その一節を聞いた途端、水の中なのに彼女の眦に涙が浮かんでいたように思えたのは、気のせいか否か。 オレは分厚いガラスの壁を叩いていた。 一度目、コンコンと軽い音。彼女は気付かない。 二度目。そこでようやく彼女はオレに気付いて、酷く驚いた顔をしていた。 オレの元までやってくる彼女。やはり眦に涙はなかった。オレ達は互いに驚いた表情をしていることだろう、だがこれでは驚くしかないではないか。 女の子はオレの忠告を聞いて、海の底で仲間と一緒に平和に暮らしていく。オレの中ではそういう予定だった。 だというのに、何故彼女がこんなところにいるのか。答えは分かっている、捕まったからだ。だが、これはそんなものを通り越した程の苛立ちだ。 だが、それを彼女にぶつけるのは筋違いだろう。オレはとりあえず彼女に向かって声を掛けた。 「久しぶり」 外れた言葉だとは思う。だが、彼女は嬉しそうに頷いた。 「どうしてこんなところにいるんだ? 捕まったのか?」 彼女は大きく頷いた。 「何時からここにいるんだ?」 魚にまともな時間感覚があるのかは分からない。だが、一応尋ねてみた。オレの問いに彼女は答えにくそうにしたが、ゆっくりと彼女の指が2と3に動いた。 「2、3? …二日から三日前?」 彼女は首を振って否定した。 「それじゃ、二週間から三週間前?」 それでも彼女は首を振った。 オレの思考が停止する。嫌な予感、オレはおそるおそる口を開いた。 「…もしかして、二ヶ月から三ヶ月前?」 彼女は頷いた。 「ずっと歌ってたの?」 頷く。是の意。 「泣きながら?」 目を丸くして彼女はオレを見た。それは何よりも強い肯定の意志。次いで、彼女は頷いた。 …あぁ、そうか。彼女は自分の存在を見て欲しくてずっと歌っていた。でも、ここは立地条件が悪いから見物人なんて誰も来ない。来たとしても業者の人間だ。彼女の歌も、人がいる場所に響くには遠すぎる。聞こえたとしてもか細すぎて気付かないだろう。だから、怪談話にもならずに彼女の存在は知られないままだったのだ。それが彼女の悲しみを増長させた。少しくらい人が集まってもよさそうなのに、誰も集まらないのだから、彼女は淋しかったんだ。 しかも、二、三ヶ月。彼女と会ったときは冬の始め、寒くなり始めた頃だった。今はそろそろ冬も終わりかけというところ。もうそんなに経ってしまったのか。 考え込んでしまったオレの顔を彼女が不思議そうに覗き込んでいる。何でもないよとオレは笑った。 しかし、どうすればいいのだろうか。久しぶりにあった彼女、なるべくなら海に帰してやりたいところだが、オレにはそんな力はない。しかも、彼女本人の意思はどうなのだろう。こちらがいいと言うかもしれないし、海の方がいいと言うかもしれない。 「あのさ、」 彼女はオレの言葉に首を傾げた。 そんな時に限って、タイミングを計ったかのように鳴り響く電子音。オレの携帯の音だ。ディスプレイを見れば親方からだ。オレはゴメンと謝って携帯に出る。 「はい、何でしょうか」 聞けば、終業時刻はとっくに過ぎているのだからさっさと戻ってこいとのこと。オレは親方の言葉に相づちを打ちながら、整備中にはつけていない時計を見た。確かに終業時刻を20分は過ぎている。 ユーリさんの城から整備場まで充分間に合う時間だと思ったが、どうやら彼女に会って話していたことで意外と時間をとられていたようだ。 「はい、はい、…分かりました。はい、それじゃあすぐに戻ります」 着信を切る。目の前の彼女はガラスの壁に触れて、不思議そうにオレと携帯を見ていた。 「ゴメンな、ちょっと用があって行かなきゃいけないんだ」 彼女は見るからに悲しそうな表情になった。オレは言葉に詰まる。確かに二、三ヶ月ぶりに会った人から離れたくないのは分かる。確かに分かるのだが、こちらにもこちらなりの事情があるのだ。 彼女は悲しそうな、だけど透明な無垢な瞳でオレを見ていた。あの時の、最初に俺と出会った時と同じ瞳。 オレは一息呼吸を吐く。もしかすると、それはため息に似ていたかも知れない。そして笑った。 「また来るよ」 彼女の表情に喜色が宿った。 「また明日。…そうだな、多分今くらいの時間に来ると思う」 彼女の手がガラスに触れている場所を、オレはコンと一つ叩いた。 「それじゃ、また」 それだけを言うと、オレは手を振って帰り道を急ぐ。そういえば前に会ったときもこんな感じだったかと、思い出しては少し笑えた。 また明日と言った時の彼女の嬉しそうな表情。嬉しそうに頷いた表情が、胸に残って離れなかった。 次の日も、また次の日も、そしてそのまた次の日も、オレは彼女の元にやってきた。 彼女は悲しそうに伏せている顔を、オレがやってくる度に嬉しそうにする。そして帰ろうとするときには必ずもう一度悲しそうに歪めるのだ。結局、オレは「また明日」という約束を残して去る。そうすると彼女が笑う。その笑顔が見たいから、次の日もオレは来る。つまりは当然の循環というわけである。 彼女は自分から話しかけることはなかった。彼女が歌っていたことからして声が出るのかと思ったのだが、どうやらそれは歌うとき限定らしい。普段は声は出ないようだ。本人からも確認済みである。むしろ、何故水の中なのに声を発することが出来るのか、それ自体が不思議である。 だけどオレが話しかけることに頷いたり否定したり、喜んだり驚いたり、色々な反応を返してくれた。それだけでオレは充分だった。 素直で無垢な、くるくる変わる表情。嫌なことは嫌だと言い、嬉しいことは嬉しいと素直に告げる子どもならではの行動。 オレの一挙一動で、一喜一憂する彼女。 バイクは好きだ。乗るのは勿論、いじることだって好きだ。だからこそ整備士になったのだから。物言わぬ彼らに触れるとき、自分がとても透明な気分になった気がする。バイクで風を切っている時は、自分が風になったような気分になる。 でも、彼女と一緒にいる時間はそれとはまた別の意味で楽しい。オレと一緒にいてくれるだけで喜んでくれる彼女、驚く彼女、オレがいなくなるときに悲しんでくれる彼女。オレが何も言わなかったら、心配そうな表情でオレの隣にいる彼女。オレはソレがとても心地よいと思う。 彼女は幼くて、彼女は素直で、彼女は優しい寂しがり屋。 そんな彼女の隣にいるのが、オレはとても好きだと思ったのだ。 最初は同情だった。可哀想だから彼女の側にいた。だけど、いつの間にか他の誰と関わるよりも彼女と一緒にいることが好きになっていた。 だから、オレは彼女に問うた。忘れていた彼女への問いと同じく。 「…海に還りたい?」 彼女は小首を傾げた。オレは更に問いかける。 「ここが好き?」 小難しい顔をして、彼女は首を振った。 「それじゃあ、海が好き?」 彼女は虚をつかれたような表情をしてオレを見た。先ほどよりも難しげな、それよりかは苦しそうな表情で考え込んでいる。それが今まで棲んでいた世界があまり心地よくなかったのだということを、暗に示していた。 それではどこがいいのだろう。海に還してやろうと思ったのだが、本人があまりいい環境ではないと告げているのだからどうしようもない。彼女にとっての心地よい空間に移動させてあげることが一番だというのに。 考え込んでいれば、とんとんと水中から彼女のガラスを叩く音。オレは顔を上げる、彼女が何か言おうとする合図だ。オレも器用な方だからか、彼女と関わっていくうちに簡単な読唇術くらいなら出来るようになった。 彼女はオレを指さして、唇を動かす。"あ"と"あ"の文字を形作り、そこで彼女はハッとしたような表情になって口を閉ざした。 オレとしては戸惑うばかりなのだが、彼女がぱたぱたと手を振って何でもないと言っているのだから、事実何でもないのだろう。 「それじゃあさ、何か願い事とかはある? 一つくらいなら多分叶えてあげられるよ」 彼女は首を傾げた。オレの言っていることの意味が分からないようだ。 「お願い事。叶えてあげるよ、オレが。あぁ、でもなるべくならオレが叶えられることにしてくれれば嬉しいかな」 どうして、彼女の唇が動いた。驚きを通り越して驚愕に塗り潰された表情は、不安そうにオレを見ている。何故オレがこんな事を言いだしたのか分かっていない様子だ。 勿論、オレも分かっていない。分かっていないけど、こんな事もあってもいいと思うのだ。 「オレは君が心地よいと思う所へ連れて行ってやれないから、せめてお願いくらいは叶えてやらないと思って」 白い、まるで壊れ物のような柔らかい指がオレの目の前のガラスに触れる。彼女は、 彼女は、泣きそうな目で、泣きそうな顔でオレを見ていた。 真っ赤な顔。泣きそうな、今にも涙がその瞳からこぼれ落ちてしまいそうな。 今度はオレが驚く番だ。オレは何か言っただろうか、慌てふためいてパニックを起こしかけているというのに、精神は落ち着いたもので勝手に動いていた。 コン、オレの手が彼女の指が触れている場所のガラスを反対側から叩く。 「…泣けばいいよ」 それでも、彼女は泣かなかった。 真っ赤になった顔を俯かせて、彼女はそこに佇んだままだった。 それが数日前のことである。 あの後、オレも彼女も何一つ喋らずに別れた。だが、その沈黙は決して気まずいものではなかったような気がする。昨日行っても、彼女はいつもの彼女だった。 しかし気になるのは、やはりあの日の彼女の態度だ。オレは彼女に何を言ったのだろうか、彼女はオレの何にあんなに傷ついたのだろうか。オレには分からない。当然だ、誰か、気に入っている人や友人の心を傷付ける時は必ず無意識であると相場が決まっている。 それに、オレは彼女の願いを聞いていない。昨日行った時に再び聞いてみたのだが、何かを諦めたかのような、子どもらしからぬ静かな表情で首を振っていた。つまりは何かあるということだが、彼女は言うつもりはないらしい。 オレには出来ない願いなのか、そう問うと彼女は勢いよく首を横に振った。 それじゃあどうして? そう尋ねれば、そこからは数日前の焼き直し。彼女は顔を真っ赤にさせて俯いてしまった。 そんなことがあったので、オレはこの話題を打ち切りにした。 だが、オレはまだ彼女の願いを聞きたいと思っている。 何故、オレはそんなにも彼女の願いを聞きたいと思っているのだろうか。それはオレにも分からない。だが、そう思っているのは真実だ。何故、たった一度会ったきりの女の子にここまで肩入れするのかも分からない。分からないことだらけだ。 ただ、彼女の力になりたいと思った。 整備場での休憩中、つらつらとそんなことを考える。右手は勝手にくるくるとスパナを回している。 だが、オレはそう思っていても、彼女はどうなのか。彼女の願いが何なのか知らないと、オレはどうしようもないことを知っている。 視界の端では黄色とオレンジ色の二人が黒い豆粒みたいな四人と遊んでいる。トビーズとぐるっぱ〜だ。 少し前からオレに悪戯を仕掛けてきたトビーズは、いつの間にかここに住み着いている。ぐるっぱ〜は以前オレが雪の中で埋もれているのを保護してやり、ここに連れてきた。そして何が気に入ったのかは分からないが、以来ここはこいつらの遊び場となっている。 トビーズとぐるっぱ〜は休憩中のオレに気付いて駆け寄ってくる。 『どした?』 人とはまた違う声で、トビーズは語りかけてくる。トビーズはあまり表情が変わらないから分かりにくいが、隣のぐるっぱ〜は言っていることが理解できない代わりに表情が雄弁だ。心配そうな四人が四人とも心配そうにオレを見ている。 「いや、何でもない。ただの考え事だ」 『そんな風には見えないぞ』 そんなに酷い顔をしていたのだろうか、オレは。オレは苦笑する。 「大丈夫だよ、本当にただの考え事だ」 右手でスパナをくるくると回す。考え事をする時はいつもスパナを回しているような気がした。 クルクルトン、クルクルトン。 一定のリズムを刻んで、空中で舞ったスパナはオレの手に戻ってくる。 クルクルトン、クルクルトン。クルクル… そう悠長に考えているのも束の間、スパナはオレの手に戻ってこなかった。取り落としたのだ。 そしてスパナは重力に従って地面に落下する。高い物に傷がつくな、そう無感動にオレは眺めていた。 しかし、反射的に体を動かした。一足大きく踏み込んで中空でスパナを受け取る。オレは安堵のため息を吐いた。 スパナの落下地点には、丁度トビーズがいた。オレは肩を落として息を吐いた。 「お前らなぁ…、ちょっとは避けるとか考えろよ」 『だって受け取ってくれるの知ってたし』 『なぁ』 ぐるっぱ〜もそれに同意する。間髪入れずに返ってきた答えに、オレは思わず赤面しかける。 オレは基本的に【兄】なのだ。だから頼られるのは嬉しいし、こういう風に言ってくれるのも恥ずかしいが嬉しい。 だから、彼女の願いをこんなにも躍起になって叶えようとするのだろうか。ふとその思考に思い付くのだが、それは少し違うような気がする。確かに彼女に頼られるのは嬉しいだろうが、それとはまた別のような気がする。 『おい』 『お詫びに何があったか話せ』 「…強引だな、お前ら」 『勿論だ』 『そうじゃなければ言わないし』 こいつらに何を言っても仕方がないだろう。言っても何も変わらないことを分かっている。だが、気分転換にはなるかもしれない。 オレは要点のみを簡単にまとめて聞かせた。 オレの話を黙って聞いていたトビーズとぐるっぱ〜は、話を聞かせたオレのことなどてんで無視してオレには分からない言葉で話し出し、ぐるっぱ〜は我得たりとオレとトビーズを残して整備場から駆けだしてしまった。 オレは唖然としてぐるっぱ〜が駆け去ってしまった方向を見ていた。 「…どうしたんだ?」 『心当たりがあるらしいぞ』 「は?」 心当たりとは何のだろう? オレは首を傾げた。 |