Noble Wish
【 序 】 −終わってしまったお話− 00. ――――ふと、目を覚ました。 瞼を開ければ、見えたのは深淵の闇。目を凝らせば、確かにそれは闇だった。どうやら未だ自分は失明することなく物を見ることが出来ているようだと、リデルはぼんやりとベッドに横たわったまま思った。 ひゅ、と喉が鳴る。酷い音をしている。口は体内の水分が全て枯渇してしまったかのように渇いていて、響く音は捉えようによっては酷く無様だ。 ひゅうひゅうと、まるで隙間風のような声。だが、それはそうだろう。夢現のこと故にぼんやりとしか憶えていないが、ベッドに横たわっていながらも感じられるあの奇妙な浮遊感と落下感。そして、灼熱と極寒と激痛が同時に襲ってきた、今にも事切れてしまいそうな、むしろ自ら命を絶ちたいと思ってしまうほどの地獄の責め苦。それをリデルは何度も味わってきた。 あれの後は大抵こんなものになってしまう。あの発作が一度起これば、体中の水分は全て汗となって排出され、身体の内に灼熱の太陽を飼うことになる。 それは、リデルの病だった。救われることはないリデルの病。誰一人として助けられる者などいない、ただ一人で立ち向かうべきリデルの病だ。 腕や顔にある黒い斑点。それがリデルの病。誰一人治せない、治すことの出来ないリデルの病。だが、リデルはそれを悲観しようとは思わなかった。悲観してしまえば、全てがお終いだ。リデルの誇りも何もかも、終わってしまう。 だが、そろそろ寿命だろうかとリデルは冷静に考えた。悲観的にでも何でもなく、客観的に事実を捉えたが故の観念だ。リデルの寿命もここまでだろう。最初は緩やかにやってきた発作も、最近では短くなってきた。最初は我慢していた痛みも、その痛みに耐えていたリデルの身体も、そろそろ限界を超えようとしている。 それが自分でも分かっていた。理解できていた。むしろ、よくもこの身体で今まで生きていられたものだと逆に感心してしまう。 だから、別に未練はない。何時死んだって、いい。そう考えることが出来た。 だが、今回はその機会ではなかったようだ。生き延びることができた。生き長らえることができた。それが幸福なことなのか、それとも残念なことなのかは分からないが。 だがしかし、何故だろう。普段の病では痛まぬところが今は痛かった。喉が、酷く痛む。灼熱のように熱く、だけどどこかしら冷たい。それだけならまだしも、錯覚かどうかは分からないがどこか外圧のように物理的に痛みを感じた。まるで首を絞められたかのような。 だがそれはないだろう。大体この誰もいない屋敷の中で誰がリデルの首を絞めるというのだ。それに少し考えればこのような痛みは以前からもあった。違うのは、ほんの少し痛みが強いことだけ。それだけでそんな錯覚をしてしまうなんて、ついに頭まで壊れかけているのか。リデルは皮肉げに笑った。 そんなことを考えながら、あまり動かすことの出来ない身体で、目だけで辺りを見回した。夜の闇の中、それはまるで光を求める行動にも似ていた。 この部屋に光などないことなど知っている。目覚めたとき、リデルはいつも一人だった。いや、この屋敷にはリデル以外誰も住んでいないのだから当然だ。それでもリデルは焦点の合っていない虚ろな視線を辺りに彷徨わせた。 「――――リデル」 ふと、目の端に光を感じた。 名を呼ばれる。そちらを向いた。蝋燭が暖かな灯りを灯していて、その傍に一人の男がいた。青い肌と青い髪の包帯男。スマイルだ。いつもの青いメイクに包帯を巻き付けていて、いつも通りの、だけどどこかほっとしたような姿でリデルの隣に座っていた。 光だ。リデルはそう感じた。 リデルがたった一つ求めていた光。冷たいリデルの肌を暖めてくれる光。そこでリデルははたと思い出した。そうだ、この家には、この屋敷にはリデル以外にこの男も住んでいたのだ。 だが、そのリデルの光であるスマイルは酷くほっとしたような表情のままリデルを見下ろしている。どうかしたのだろうか。リデルは喉を動かすのだが、唇が動いただけで声が音を通さない。発作の所為で声帯が多少壊れているようだ。治るかどうかも分からないだろう。 リデルのその様子に気付いたのか、スマイルは痛々しい表情に変わって、だけどそれでもその痛々しさを凌駕するほど酷く嬉しそうな表情を浮かべた。そしてその指がリデルの病に侵食された黒い頬に触れて、愛おしげに唇に触れた。 本当にどうしたのだ。リデルは久々に戸惑った。こんなスマイルは、短いながらも濃密な時間を過ごしてきたリデルとて初めて見た。別にリデルに発作があっただけではないか。特別スマイルが喜ぶようなことは何一つない。 しかしよくよく見ていれば、メイクの所為で青い、スマイルの指先が透明へと変化していた。そこに指先があると分かるのは、今リデルの頬に触れているという感覚と、体中に巻き付いている包帯が輪郭を現しているからだ。 何故こんなことになっているのだろうか。しかも、どうやらスマイルとリデルの近くにあるチェストには水桶が張っていた。どうやらあれがスマイルの指先のメイクを落とした張本人のようだ。 そうこう考えている内に、スマイルはリデルの頬から離れた。しかも手には何か持っている。闇とぼんやりと赤い炎しか光源がないせいであまりよく見えないが、どうやらあれは白い布のようだ。リデルも気付いていなかったが、額に置かれていた重みが消えていた。スマイルはそれを水桶に浸して絞る。 それを見てようやくリデルもスマイルの指先のメイクが取れていた理由に思い立った。スマイルはリデルを一晩中看病していたのだ。愚かな選択だ。リデルの病は決して治るものではない。それをスマイルも知っている。ならば放っておけばよいのだ。…だが、その愚かさが、今はありがたかった。 終始嬉しそうなスマイルを、いつまで経っても合わない焦点でぼんやりと眺めた。スマイルは先ほど絞った布で、汗まみれになったリデルの顔を丁寧に拭いていく。いつもながらに手慣れた行動だと思う。スマイルがこの屋敷にやってきてから、動けなくなったリデルの世話をしているのだから当然といえば当然なのだが。 顔の次は胸を。次いで右腕、それから左腕。リデルの身体を起こして、汗でびしょ濡れになったネグリジェを丁寧に脱がして、リデルの身体を丁寧に拭いていった。リデルはそのことに対して嫌悪感を抱いてはいない。別に一番最初にスマイルにそんな行動に出られた時も、リデルは何も変わらなかった。元々貴族はあまりそう言ったことに嫌悪感は抱かない。この時代の貴族は皆、そんな風に生きている人間だ。他人に触れられることなど慣れている。 リデルはスマイルのこの愚かさがありがたいと思った。だけど、何時までもこんな無駄なことをさせるわけにはいかないだろう。リデルはいつか、そう遠くない内に死ぬ。そう考えると、スマイルの行動は全て無駄だ。だからリデルは届かないと分かっていながらもゆっくりと唇を動かした。 『…私はもうすぐ死ぬのだから、こんなことをしなくてもいいのよ。スマイル』 自分でも思った以上に気怠げな口調だった。だが、これはリデルが素直に思ったことだ。スマイルも分かっているのだろう。合理的な考え方をするスマイルだ、すぐに止めるはずだ。リデルはそう考えていた。 だが、そのリデルの考えは見事に外れた。リデルがそう唇を動かし終えた瞬間、スマイルの瞳がすっと細められた。透明な瞳。先ほどの嬉しそうな表情のまま、だけど瞳に現れていた感情を全て消し去って、スマイルはリデルを覗き込んだ。透明で、見るだけで切り裂かれてしまいそうな瞳。 ぞくりと、リデルの背に震えが走った。 まるで刃を喉元に当てられたよう。いつ引き抜かれてもおかしくないほどの、だけど殺気とは呼べない、怒り。 怒っている。どうやらスマイルは怒っているようだ。だが何故だろう。リデルは事実を言ったまでだ。それで何故怒る必要があるのだろう。スマイルもリデルの世話など無駄なことだと分かっている筈だ。事実、リデルは死ぬ。スマイルが怒る理由など、リデルには思い当たらなかった。 「…ソレ、本気で言ってるの? リデル」 『…勿論本気よ。私は冗談ではこんなことを言わない。知っているでしょう、お前も』 怒気を含んだ、スマイルの声。こんな声は聞いたこともない。スマイルがリデルに対して怒りを見せることなど滅多にない。いや、今まで見たことがなかった。だが、リデルはそれに恐れを抱くことなく明確に答えた。 「じゃあ、僕のしてることは無駄?」 『ええ、無駄ね』 明確に突き放す意図を持って、リデルは頷いた。無駄と、これは無駄なことなのだと思わなければ困る。リデルはスマイルに臨終の時まで看取って欲しいわけではない。そんなのは幸福すぎる。幸福すぎて泣いてしまいそうで、ついでにどうでもいいことまで思い出してしまいそうだ。 遠い昔に捨て去ってしまった欲を、忘れてしまった孤独を、その、純粋なる願いを思い出してしまいそうで――――、それこそリデルは恐れていたのだ。 お願いだからそっとして置いてくれはしないものか。リデルは今更そんなものはいらない。例え必要だったとしても、今の状況で何が出来るというのか。リデルはもうすぐ死ぬ。リデルはもうすぐ死ぬのだ。呪文のように暗示のように己に言い聞かせてきた言葉は確かに真実。もう何も望んではならない。なのにスマイルはリデルに忘れていたものを思い出させようと必死なのだ。 スマイルと関わると、リデルの胸が必要以上にざわりと波立つ。こんなものは必要ない。スマイルは確かにリデルの光だったが、リデルはその光に救われたいとは思わなかった。 光は生きていく上で必要なもので、だけど、だからこそ今のリデルには必要のないものだった。 「…そう」 ふと、スマイルの視線が和らいだ。斬りつける視線は霞に消え、今はどこか優しげな目線。そしてスマイルの透明な指先が、水か汗か分からないが張り付いた前髪をくしゃりと掻き上げた。 「でも残念だねェ。僕はリデルから離れるつもりなんて毛頭ないよ?」 だからゴメンね、と全然詫びらしくない言葉がリデルの鼓膜に響いた。 『…スマイルッ!』 一瞬だけ思考が停止していたリデルがようやくスマイルの名を紡げば、スマイルは既にリデルの身体の汗を拭き終えて、いつもの普段着であるドレスへと着替えさせ、次いで何故かいつもスマイルが着ているコートを被せて、リデルを抱き上げた。 『私は――――』 「僕はねぇ、一つだけ疑問があるんだ」 リデルの文句を遮るように、スマイルはリデルを抱え上げたまま、リデルの顔に皮肉気な笑みを浮かべた口を寄せて問う。スマイルの言葉を遮る手段を持たないリデルの言葉は勿論消えた。 「どうしてこの口からは、今の今まで『死にたくない』って言葉が出てこなかったの?」 それは、諦めていたからだ。 「僕が人間以外のモノだっていうことは知ってたのに、リデルの寿命を引き延ばすことくらいは簡単に出来たのに。何で僕に乞わなかったの?」 生きることに疲れていたからだ。人間がどれだけかかっても背負うことの出来ない地獄の責め苦を絶えず味わわされ続けていたせいで、リデルは生きることに疲れ切っていた。それをスマイルが分からないとは思わなかった。何の意図があるのだろうか、この質問に。 スマイルは窓を開放して、窓枠に足を掛けた。窓の外は深く暗い闇。スマイルはこの闇に投じようとしている。別に不安は感じてはいないが、どこに行くのかと尋ねようと、リデルはスマイルの指を掴んだ。だがスマイルからの反応はない。 『下ろしなさい、スマイル…!』 光。 リデルの、光。 だから、スマイルにはリデルの死に水を取ってほしくはなかった。リデルのせいでその身体に死臭を纏ってほしくはなかった。スマイルにリデルのことを憶えていてほしくはなかった。 だが、幾ら抵抗してもスマイルはリデルを離そうとしない。スマイルの手が触れた場所はぎしぎしと音がしそうな程の痛みを訴えていた。元々リデルとスマイルでは力が違う。振り払うことなど出来はしないと分かっていながら、リデルはそれでも抵抗を続ける。 『スマイル…!』 「…黙って!」 声を荒げたスマイル。リデルの耳に届いた、確かな焦り。スマイルの、焦りだ。リデルはスマイルに視線を向けた。確かにその表情にも焦りが見えていた。 珍しい、と思う。スマイルはいつも飄々としていて、掴み所がない。こんな風に焦っている所など見せたところがない。 だから、もういいと思った。抵抗する身体を緩めた。不審に思ったスマイルがこちらに向いたが、リデルは視線をやることなく瞼を下ろす。 スマイルは幾ら言っても止まりはしないだろう。きっと、止まりはしない。だから、もういいのだ。リデルは止めない。恐らくスマイルの言うとおりにすれば最後に一つだけ、いい夢が見ることは出来るだろう。 「――――大丈夫」 スマイルの、声。 そう言いたいのはこちらだ。焦りを隠せないほど不安を胸に巣くわせている癖に、何を言っているのだろうか。そう言うのであれば、きちんとその不安を完璧に覆い隠して言え。 「――――大丈夫」 まるで、リデルにではなくスマイル自身に言い聞かせるような、その声音。だから、リデルは逆に絶対に届くことはない言葉を胸に残す。 ――――大丈夫。焦らなくても、いい。 リデルは先ほどの衰弱の後に瞼を下ろしたからか、眠くなっていく身体のそのままの欲求に従いながら最後に一つ呟いた。 大丈夫、焦らなくてもいい。私の時間は有限で、だけどそれ故に無限にあるのだから。 そして、リデルはスマイルに連れられて夜の闇へと飛び出した。 |