Noble Wish
【 転 】 ‐you know.‐ 02. 「――――リデル?」 地下室に到達すれば、この体の持ち主の名前を呼ばれた。シャリエは一応とばかりにそちらを向いて微笑んでやる。 そこに立っているのは青色で構成された透明人間。この一帯の代理領主。領主が何らかの状態で不在、もしくは眠りについた場合など領主に代わって指揮を執る希有な存在。 そして、この茶番劇の立役者だ。 「どーかしたの? こんなところで」 「あら、いつもの通り訓練をするのではないの? スマイル。…吸血王もいらっしゃったのですか?」 シャリエは精一杯『リデル・オルブライト』の振りをしてスマイルとの会話を続ける。本来ならば吐き気がしそうなものだが、今回は孫のために一肌脱いでやると決めているのだ。ならばこんなところでへばっているわけにもいかないだろう。 だがこれは本当に驚いた。本来なら彼はこの時間帯は執務室で仕事をしているはずだ。こんなところにいるとは思わなかった。だがこれも手間が省ける。 「それは良かった。『私』が二人に用があったの。聞いてくれるかしら」 微かに変わった口調。変化した雰囲気。さて、この場の二人はこの変化に気付くのだろうか。 「リデルじゃない…。シャリエ?」 「シャリエ・オルブライトか?」 二人とも簡単に見破ってくれてあまり面白くない。舌打ちをしそうになったところを無理矢理押しとどめた。これは一応リデルの体なのだ。 「あら? 気付いていたの? …まあいいわ、私はシャリエ、シャリエ・オルブライト。リデル・オルブライトの二重存在よ」 ドレスの端を小さく摘んで優雅に礼を。この礼はリデルの時代のそれと共通しているようであり、その様は端から見ればその人物がリデル・オルブライトだと錯覚してしまいそうなほどシャリエはリデルのようだった。 当然だ。シャリエはリデルの、そしてリデルはシャリエの二重存在 だが今のシャリエの体は、間違いなくリデルのそれであった。 「…貴様がここに来たことなど気付かなかった」 ユーリが不覚を取ったとばかりにぼやいて舌打ちした。己の不出来を責めているのだろうか、だがそれは違うだろう。 「この場合はご自分をお責めになっても仕方がないことです、領主。私をこの場に招いたのはリデルの体を乗っ取った私自身。ですが体はリデルであるが故に、吸血王にはリデルが術式を構成したのだとお思いになったのでしょう。彼女は毎日術式の練習をしていましたから。 恐らくお気づきにならなかったのは、リデルが貴方とそこの男に気付かれないようにと術式を直接地脈に叩き込んだが故。大河に紛れれば一滴の魔力など些細なものでしょうとも。不死者 張り付いた仮面のような笑顔で、そして何故か聞いているこちらの方が空恐ろしくなる冷えた口調でシャリエは説明していく。 領主、この男がこの茶番劇を作り上げた張本人。シャリエを巻き込み、リデルを巻き込み、ただスマイルのためだけに―――― スマイルともユーリとも、シャリエは古い知り合いだ。だが情などないに等しい。ここで二人とも殺しておいた方がいいのではないだろうか。 「…でも、それではあの子が泣いてしまう」 リデルはこの男がどのような存在だろうが、リデルを傷つけようが、それでもスマイルを傷つけることはしたくないのだと言うのだから。 「それで? 何のようでここまで来た。リデル・オルブライトの体まで使って」 領主が問う。シャリエに問う。 ああ、そんなことは決まっているのだ。 「そうですね…真実を確かめに、でしょうか」 そしてそれは、この体の持ち主に真実という名の事実を教えるための。 「…ねぇ、君はリデルの二重存在 スマイルがようやく口を挟む。…何か痛みをこらえるようなその表情を、シャリエは冷えた眼差しで見ていた。 「さぁ? それはお前の方がよく分かっているでしょう? ――――ねぇ、私たちのもう一人の二重存在 *** 「ねぇ、私たちのもう一人の二重存在 その言葉を、リデルは暗闇の中で奇妙な感覚で聞いていた。 ああ、何だ。そういうことだったのか。今まで何故自分とスマイルが意図的に出会わなければならないのかと不思議に思っていたのだが、そういうことならば納得が出来る。 二重存在 惹かれ合う二重存在 だが二重存在 いや、確かにスマイルは誤解するような表現をしていたが二重存在 そう考えれば、彼らの言葉には誤解を招く表現があるだけで嘘は言っていないことに気付く。それは二人ともだ。だが、それはどんな嘘よりも見抜きにくい嘘であり、どんな嘘よりも悪質な嘘だ。それは確かに真実のであるのだから。 「そんな御託は聞きたくない。君は、リデルを食ったの。食ってないの。それだけを答えて」 ――――スマイルの底冷えするような眼差しがリデル…いや、シャリエに向けられる。リデルはあのような視線は向けられたことがない。 「…貴方には分からないのですか? あの子が食われたかどうか、なんて。本当に」 「分からないよ。だからさっさと言えって言ってる!」 今にもシャリエに掴みかかりそうになっているスマイルに、シャリエが嘲笑を浮かべた。所詮その程度かと明らかな侮蔑を称えて。 大仰な仕草でシャリエは両腕を広げた。そして自分を抱き締めるかのように両肩を抱く。 「…あの子は、ここに。この、中に――――」 陶酔しきった表情で、甘い声で愉悦の笑みを浮かべる。 オマエニデキナイコトヲヤッテヤッタゾ。シャリエは笑った。 それは聞きようによってはリデルがシャリエに食われたかのような言葉。事実を知らぬ者にとっては誤解しか生み出さないことを知っていて、シャリエはこんな発言をする。 「食わない、つもりなんじゃなかったの? シャリエ」 「ご馳走を目の前にして食べない馬鹿はいるの?」 そうしてシャリエは嘲笑のように笑った。確かにそれは真実だ。 「…私を信じすぎるなと、言ったでしょう? スマイル。こんなことだからこそ私につけ込まれるのよ」 シャリエの言葉は、確かに嘘ではない。ただ前提条件を間違えさせるような言葉を吐いただけで、嘘は言っていない。…リデルに対する彼らと同じように。 「私とあの子が血族であることを、貴方は知っていた。知っていて、血族同士は血によって言葉を交わせることを知っていて、貴方はそれを無視した。私がこの子を食らうはずがないと私のことを信じすぎた」 現にリデルは今も食らわれていないが、恐らく食らおうと思えばいくらでも食らうことが出来たのだろう。ただあまりにも何も知らないリデルを思って、シャリエは行動に出たのだ。 スマイルは、何も言わない。シャリエは畳みかけるように次なる言葉を吐く。 「そして、あまりにも隠しすぎたのがすべての敗因でしょう。この子に最初から事情を話して、要請を求めていればこんなことにはならなかった。貴方の願いならばこの子は間違いなく叶えるでしょう、それがどのような願いであろうとも。 ――――何かを隠されていると知っていながら何も行動を起こさない程、この子は甘くはない。あまりにすべてを隠しすぎた反動が、ここに来て一気にやってきたようね」 冷静に事実を告げる。確かにそれはリデルの思考をそのまま現していた。――――それはリデルのことを理解しているのか、それともリデルの器に入っているからなのかは理解に苦しむが。 「今やこの子は私の中にいる。それを貴方にどうこうする術はない。 ――――残念ね、スマイル。あの子を食らえなくて。貴方はあの子を食らうその為だけに、あの子を不死者 それは初めて聞く言葉だった。 スマイルがリデルを不死者 答えはない。だがその沈黙が答えというものを如実に浮かび上がらせていた。 「…確かに、僕にはない。 でも、だったら、」 スマイルが俯く。俯いて、小さな羽音のような呟きを漏らす。 「だったら君を食らえばいい。リデルを食らった君を食らえば…何もかも、予想の範囲内だ。 僕は力を手に入れる。失ってしまった恐怖を否定するために」 スマイルが俯いていた顔を上げる。そこには暗く澱んだ暗澹とした瞳と、表情がごっそりと抜け落ちた人形のような顔があった。 失ってしまった恐怖を否定するために。失うことは怖いから。 まるで迷子の子どものようなその瞳に、その表情に。リデルは確かに覚えがあった。 「…私はあの子と違って、そう簡単には食われないわ」 「知ってる。じゃなきゃ面白くも何ともないじゃないか」 スマイルは狂笑を口元に浮かべた。ただその瞳は笑っておらず、まるで泣いているように見える。 ――――その表情を、その瞳を、リデルは知っている。確かに見覚えがある。 それは、それは。 …喉が焼けるように熱かった、あの時。 *** 喉が熱かった。口からはひゅーひゅーと木枯らしのように掠れた音が漏れている。 喉も、体も熱かった。ネグリジェが汗でべったりと体中に張り付いていて不快感を煽っている。 奇妙な浮遊感と落下感。そして、灼熱と極寒と激痛が同時に襲ってきた、今にも事切れてしまいそうな、むしろ自ら命を絶ちたいと思ってしまうほどの地獄の責め苦。 今日も発作があったのか。リデルは特に感慨もなく思った。最近では発作の間隔が短く、しかも回数も多くなってきていてリデルも少し慣れてきたのかもしれない。…それでも発作が起きたという事実を受け入れることには慣れても、その痛みに慣れることは出来なかったが。 動くことも出来ずにベッドに横たわっていれば、リデルはベッドの隣に何者かの気配を感じた。この屋敷にはリデルとスマイルしかいないのだからそこにいるのはスマイルだろう。リデルは唇を動かしてスマイルの名を呼ぶ。だが声は音として発音されることはなかった。 スマイルが痛ましげな表情でリデルを見ている。リデルはそれを見て不思議に思う。こんなのはいつものことだろう。何をそんなに苦しむことがあるのか。 ひゅーひゅーと漏れる呼吸音。スマイルの指先が迫ってくる。手袋を外し、包帯も取り、そして青いメイクも落としたそれはリデルに視認することは出来なかったが確かにこちらにやってきているのだと分かった。 手はまずリデルの頬に触れた。…冷たい、冷たくて気持ちがいい。まるで一度水に浸したかのよう。 「気持ちいい?」 問う声に返事を返すことは出来ない。だから小さく頷いてやれば、そっかと嬉しげに笑った。 「…リデル」 名を呼ばれた。虚ろになりかけていた焦点を無理矢理合わせて、リデルはスマイルを映す。 瞳だけで何、と問いかけた。 「……ごめん、ね」 呟かれた言葉は本当に微かで――――次の瞬間、リデルの頬にあった筈のスマイルの手はリデルの首に掛かっていた。 スマイルの手は標準より少し大きい。そのせいか細いリデルの首はすっぽりとスマイルの両手に収まってしまい、ギリギリと容赦なく締め上げられてしまう。 痛い、苦しい、熱い。でも、冷たい。 色んな感覚がごった煮でリデルは感覚を制御しきれない。優先すべきものなどないのだけれど、何かを優先させなければと感覚が暴走している。 ギリギリと、喉が熱くて、苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。…だけどこの苦しみは、普段の発作で慣れていた。 あの発作は、普通の黒死病とは少し違う。リデルの罹っている病は黒死病であり黒死病ではない何か。どちらかといえば遺伝病に近いのだろう。祖父母の代にも一人、同じ病に罹った人がいたと聞いた。 スマイル、と呼びかけようにも唇を動かすことすら困難だった。首を締め付けるスマイルの手は時間が経っていく事にどんどん力を増していく。せめて逝くのなら一気にという心積もりなのか。 意識が徐々に遠のいていく。意識を暗闇に手放せば、恐らく二度と帰ってこれないだろう暗闇に足を踏み入れることとなる。 ふと、そんな時。 何故だか少し前に交わした会話が思い出された。 『お前、どうして私と一緒にいるの? お前は旅人で、ここには雨が止むまでという約束だったでしょう』 『約束なんてした覚えないけど…まぁいいや。あのさぁリデル、僕がリデルの傍を離れないのはリデルと一緒にいたら楽しいから。それだけでいいと思うんだけど?』 『よくないわ。私はもうすぐ死ぬのよ』 『だったら死に水くらい取らせてよ』 『嫌よ。…死ぬときくらい一人で逝かせなさいよ、お願いだから』 その会話を反故にしようとするかのように、スマイルは今リデルの首を絞めている。ギリギリと絞めている。 スマイル、ともう一度だけ呼んでみた。だが反応はない。 顔と喉が熱い。血管を締め上げているせいか血液が循環せずに顔と首で留まっている。熱くて痛い。脳の血管が堰き止められているかのように痛い。 遠のいていく意識の中、リデルは最後にスマイルを見た。 表情がごっそりと抜け落ちた、人形のような面。かといって本当に人形であるわけがなく、瞳だけは泣いてしまうかのように不安定で。まるで迷子の子どものよう。 リデルはスマイルを安心させるために、精一杯の力を使って笑みを浮かべさせた。それで寿命が幾ばくか縮んだのだろうが、別にどうでもいい。 そうすれば、スマイルは狂笑を口元に浮かべた。でも相変わらずその瞳は笑っておらず、泣いているようにしか見えない。 それが、リデルが生きている間に |