Noble Wish
【 転 】
‐you know.‐


04.

 リデルは答えずまま瞼を下ろし、己の深層に潜っていく。先ほどまでリデルがいた場所。まるで逆転したかのようにその暗闇の中に己の祖母がいた。
『…ごめんなさい、シャリエ』
『別にいいのよ、謝らなくとも。私はお前がどれほどあの男を大事に思っているか、少し見誤っていたようね。まさかあんなにも簡単に主導権を奪われるとは思わなかったわ。お前の霊的対抗度ゼロに近かったというのに』
 クスクスとリデルと同じ顔の祖母は笑う。
『…それは笑うところではないわ』
『そうかしら。でも私はとても面白いの。――――それで、どうすればいいのか分かっているわね? リデル・オルブライト』
 それはリデルも理解していた。だからこそリデルはここにいる。
『…ごめんなさい、シャリエ。私に術と真実を教えてくれたというのに、私は恩を仇で返すことしかできない』
『謝る必要はないわ。万事塞翁が馬、と言うでしょう? 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて地獄行き、とも』
『…聞いたことがないわ、どういう意味なの? シャリエ』
『東洋の諺でね、人生は何があるか予想がつかないということと、…後者はそのままの意味ね』
 ただそれだけの会話をしたというのに何かが可笑しくて二人して笑い合っていたら、いつの間にかリデルの手には先ほどの黒塗りの刃が握られていた。こんなもの、いつの間に握ったのだろうか。
 シャリエはリデルの手のひらの中に握られている黒塗りの刃を見て儚げに笑った。
『…それじゃあ、楽しいお話はこれにておしまい。お別れしましょう、リデル』
『…ええ、お別れね。シャリエお祖母様。
 会ってほんの少ししか会話をしていないけれど――――私、貴方のことがとても好きだったのよ』
 確かめてはいない。だけど確信を持って、最後の最後でリデルは最後の手向けとばかりに呟いた。きっと、本当に。スマイルとは別の意味でリデルはこの人のことが大好きだった。
 そうすると、シャリエは目を丸くしてこちらを見ていた。
『シャリエ?』
『…信じられない。リデル、貴方凄いわ。こんなところで私の長年の夢が叶うなんて思わなかった』
『……夢?』
 先ほどの会話の中に、特別なことは何一つとしてない。リデルは首を傾げる。
『ええ、私の夢。ずっと昔からの夢だったの』
 まるでその表情が少女のそれだったからか、それは何、とリデルは先を促した。
『それはね、孫にお祖母様って呼ばれることだったのよ』
 そう言って、そんな他愛のない夢が叶ったととても嬉しそうにこの人は笑うのだ。
『ありがとう、リデル』
『…それはこちらの台詞だと思うのだけれど』
『それでもありがとう。不死者アンデッドになったときから、私の夢はこれ一つだったから』
 いつか再びやってくるであろう同じ血族の不死者アンデッドに、ずっとお祖母様と呼んで欲しかったの。その為に、私は今まで生きていたのだから。
 美しい金の髪が舞う。嬉しそうに暗闇の空間を踊った。その黄金色の瞳と黄金色の髪は、光などないこの空間でもなお光り輝きまるで夜空に輝く星のよう。
『私、きっと誰かのためになりたかったのよ』
 黒塗りのナイフをしっかりと握る。決して離さないように強く握り込んで上段に構える。
『さようなら、リデル。貴方に会えてよかった』
『…さようなら、そしてありがとう、お祖母様。私も、貴方に会えてよかった』
 そしてリデルは己の同一存在にゆっくりと振りかぶり――――
 その魂を、食らった。

***

 こうなることは予想していたのかもしれない、とシャリエ・オルブライトは魂を食らわれる感覚を受け入れながらふと考えた。
 シャリエはリデルを殺せない。それは彼女を初めて見たときに直感的に理解してしまったことだ。リデルは彼女の孫であり、その姿はまるで昔の彼女を見ているようだったから。
 だからこそシャリエは誰よりもリデルの味方なのだ。吸血王が透明人間の味方について、リデルが生き残る術が殆どなかろうがそんなことはどうでもよかった。自分が彼女の味方になると決めたのだから、己は最後まで彼女の味方だ。
 だからこそ、彼女が彼女の二重存在ダブルであるスマイルを至上の存在としている限り、きっとこんな結末になることは予想していた。
 自分には彼女の価値観を変えることは出来ないのだと理解していた。だがそれでいい。自分が彼女の味方なのであって、彼女が自分の味方でなくていい。彼女が価値観を変える必要などどこにもない。
 そして――――だからこそリデルの生き延びる道を探していた。その為にスマイルを殺そうとしていた。
 だけどリデルの体を借りたのが失敗だったか。ここでこうやって失敗してしまった。
 …いや、どちらにしても関係がないのだろう。彼女はこちらがどう力を尽くそうと、彼女自身がその身を持ってスマイルを守り続けるのだろうから。
 だからこうなったのは、きっと必然。己が彼女に食われるのも、また必然。
 だったら、嘆く必要は何もないのだ。
 …この魂が食らわれ尽くすのももう時間の問題だろう。
 泣きながらこの魂を食らう彼女の姿を見るその前に、シャリエは意図的に意識を下ろした。
 未来に生きる我が血統の子よ。貴方は後ろのことなど何も考えないで、前だけを進みなさい。犠牲になった者のことなんて何も考えないで、ただ前を生きなさい。
 それが、私に対するただ一つの救いなのだから。

***

 頬に伝う涙で、リデルはようやく自分が深層世界から戻ってきたことを知った。
 シャリエを、食った。
 それはリデルにとっては吐き気の覚えることには間違いなく、ユーリが言うように己の力が上がったなどいう感覚はない。
 ゆっくりと、その魂を咀嚼して。
 食われているのだから痛まぬはずがないというのに、それでも笑いながらそれでも受け入れたあの人を、リデルはきっと忘れることは出来ないだろう。
 吐き気がする。吐き気しかしない。恐らく今のリデルの顔を見ることが叶うのならば蒼白という言葉が今ほど似合う瞬間はないに違いない。
「シャリエ?」
 その名を呼ぶな。それは今、リデルが食った人の名前だ。
 進むはずのナイフが突然動きを止めたことを不審に思ったのかスマイルが不思議そうな声を上げる。だがリデルは答えない。
「…リデル?」
 名を、ようやく呼ばれた。だがリデルは答えない。それが何よりの答えだと知っていたから。
「…スマイル」
 互いに術によって動きを阻まれているために、互いが互いに動くことが出来ずにその場に立ち尽くしたまま。
 リデルはぽつりとスマイルの名を漏らした。それが何よりの答えと言わんばかりに。
「…シャリエは?」
「…」
「……そ」
 スマイルはそれ以上何も言わなかった。シャリエがどうなったなんて尋ねもしなかった。きっと気付いてはいるのだろうけれど、あえて言わないのがスマイルなりの優しさだ。
 はらはらと両目から零れる涙を拭うことなくリデルは涙を流し続ける。それが悔恨の証であるかのように。
「…リデル」
 スマイルが、己の名を呼んだ。
 背を向けたままでは分からないが、きっと今その瞳を見ればさっきの続きをしようと言っている。
 リデルは目を伏せた。目を伏せて、沈黙を保った。
「リデル」
 もう一度、急かすようにこの名が呼ばれる。己の二重存在ダブルの名を、スマイルが呼ぶ。
「…解放Release
 静かに己の動きを阻んでいた術式を解放する。弛緩していた体が動くようになり、気を抜けばいつだってこのナイフを進めてしまいそうで酷く恐ろしかった。
「リデル、」
 この身を殺せとスマイルは言う。何の躊躇いもなしにそう言うのだ。…それはそうだろう。リデルだってスマイルと同じ状況に陥ったらスマイルと同じ行動を取る。
 だがこの身はその為に彼女を食らったわけではない。決してスマイル殺すために彼女を食らったわけではないのだ。

***

 食らう前に、リデルは最後にもう一度謝った。
 ごめんなさい、シャリエ。私にはこういう生き方しかできない。
 すると彼女は言った。
 何故謝る必要があるのかしら。私はお前が謝ることなんてないと思うのだけど。
 でも、
 お前の人生よ、お前の好きに生きなさい。私のことなんて気にしなくてもいいのよ。…未来を生きる者が、過去に成り下がる者のことなんて気にしなくてもいいの。分かった? リデル。
 そう優しく言ってくれたその人がとても好きだと思った。
 ちょっと前に知り合ってほんの少ししか会話を交わしていない。けれどすべてを受け入れてくれるその人が大好きだと思った。
 そしてこれからその人を食らってしまう自分が、酷く嫌なものに見えてならなかった。

***

 黒塗りの、影で出来たナイフをスマイルの首筋から下ろした。そしてスマイルの影から体をずらした。これでスマイルの体を縛る影縫いは効果をなくした。
「ッリデル!」
 途端にスマイルは慌てて振り向いてリデルを捉えた。その瞳は焦りを称えてリデルを見ていた。
「どうかしたの? スマイル」
 焦るスマイルの反面、リデルは奇妙に落ち着いていた。これから為すことがもう分かっているからだろうか。そしてそれは、彼女を食らうことに比べればあまりにも容易い。
 黒塗りのナイフを持つ。…深層世界で彼女の命を奪ったそれは、こちらでは誰の命を奪おうとするのだろうか。
 しっかりと握りしめて、リデルは壁に寄りかかってすべてを見通していた吸血王を見た。
 何故彼がこの戦闘に介入しなかったのか、今ならばその理由がとても理解できた。
 ――――それはこの戦いが二重存在ダブル同士の戦いであると理解しており、二重存在ダブル同士の戦いであるが故にこの戦いに介入できるのがたった一人しかいなかったからだ。
 それが己の肉体を明け渡しシャリエとスマイルが戦っているのをぼんやりと内側から見続け、最後にはシャリエの魂を食らったリデル・オルブライトだ。
 そしてリデル・オルブライトはそうとは知らずにこの茶番劇の主役を踊り続けていた愚か者。ならば幕を引くのはこの身が相応しいだろう。
 ユーリと視線が合う。初めて会ったときと同じように、今までの礼としてドレスの裾を摘んで優雅に礼をした。彼は確かにリデルに何も教えないようにしていたが、それでも優しくしてくれたのは本当だった。
 そして今度こそスマイルに真っ直ぐと向き合った。
 静寂だった。誰も何も言わない。誰も何も言うことが出来ない。それは恐らく、これから起こることを誰しもが理解しているからだ。
 ああ、本当に――――何て、盛大な茶番劇。
 誰しもが予想して回避しようと行動していた結末だというのに、誰一人としてその結果を変えられなかったなんて。
「…スマイル」
 己の光の名を呼ぶ。
 この男を光だと認識したのが一体いつのことだったか忘れてしまったが、それでもこの男はリデルのたった一つの光だったのだ。
 口元に浮かんでいるのは確かに笑みだろうか。恐怖に歪んで無様な笑みになっていないだろうか心配だったが、今はそれも致し方がない。
 黒塗りのナイフを胸に当てる。/スマイルの息を呑む音。
 そしてそのまま、一気に貫いた。/その瞳は今にも泣いてしまいそうなほどの驚愕に濡れていた。
 胸からぼたぼたと赤い血が流れる。とても痛かったけれどあの発作に比べれば耐えられないことではなかったので痛みをこらえて心臓の周りをザクザクと切り開いていった。
 ザクザク。ザクザク。ザクザク。ザクザク。まるで無限連鎖のように響いていく音。自分の体だというのに容赦なく突き立てられる解放の刃。びちゃびちゃと床に落ちていく深紅の鮮血。ひゅーひゅーと漏れる掠れた音。脊髄と脳に直に突き刺さる痛み。
 手始めに胸骨から開こうと思ったが堅すぎて止めた。まずは鎖骨の下の柔らかい部分から中心線を沿って真ん中に切り開いていき、見えてきた骨を肉ごと広げて心臓を見つけた。
 脳が/チカチカと/光って/
 目の前が/真っ白に/
 それが痛みで到来しているものなのか、それとも失血によって起こるものなのかリデルには区別が付かなかった。
 強引に肉を押し開いていく事に痛みで気が狂いそうになる。
 この作業を何のためにやっているのか分からなくなってしまいそうになる。だけどスマイルが泣きそうな目で自分を見ているから、何とか耐えて心臓を見つけた。
 崩れそうになる足を無理矢理にでも耐えさせて、ナイフを持っていた方とは逆の手で心臓に触れた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!!!」
 聞くも耐えない、無惨な悲鳴。今の痛みでナイフがこぼれ落ちて床に落ちた。カランという軽い音。そしてそのまま影へと戻っていった。
 ――――ああ、残念。あの人の形見分けにでもしようと思ったのに。
 だがこれから死のうとしているのだからそれも無理かとリデルは口元に笑みを浮かべ、作業を進めていく。
 ――――シャリエは、スマイルに対するリデルの感情を刷り込みだと言った。雛が初めて見る者を親だと認識するように、リデルもそうなのだと。
 痛むのは心臓に触れた最初だけだ。だから触れたと同時にこうやって一気に引っ張ればいい。
 ブチブチと血管の千切れる音。獣の咆哮に近い悲鳴が口から漏れた。あまりの激痛に涙なんて出なかった。それでもその作業を止めることなんてしなかった。
 ――――だけどただの刷り込みでここまで出来るのならば、それは。…それは最早確かな、そして紛う事なき愛情だろう?
 心臓を外に取り出して、リデルは膝から崩れ落ちた。このままでは折角取り出した心臓が潰れると思っていたところを救ってくれたのはスマイルだった。
「スマ、イル」
 荒い呼吸と揺動を繰り返しながら何とかその機能を果たしている喉。心臓を失ったからか、何れはその器官も機能しなくなることだろう。
 そういえばシャリエもスマイルも言っていたことではないか。この身は長い間眠っていて不死者アンデッドになった割に、未だ人間に近いのだと。だからスマイルもまだ食べなかったのだと、そう。
 …もしかしたら、もう無理かもしれない。未だ人間に近いリデルがこれだけの血を流せば、後は死が待っているのと同義だろう。他の不死者アンデッドならばともかく、リデルは未だ新参者だ。こういうこともあるのではないか。
「リデ、ル」
 どうして、とその瞳が告げていた。
 リデルはシャリエの手によって真相を聞かされたときからこうする予定だった。ユーリに告げた言葉に嘘はない。リデルはスマイルの為ならば命を捧げよう。それにリデルの命が必要ならばそれこそこの命すらも。
 ならば命を差し出そう。こうして己の心臓を差し出そう。
 ――――だってこうでもしないと、スマイルはリデルを食らわないだろう。
 確信めいた何かが胸の中にあった。こうでもしないと、リデルがお膳立てをしてやらないとスマイルはリデルを絶対に食らわないということが直感的に理解できた。
 …確かに、生きたいと思う。生きたいという執着はある。生きることが出来るのならば、リデルはその生に執着するだろう。リデルが生を諦めていたのは死ななければならないという運命だったからだ。
 だがその執着とスマイルの生を秤に掛ければ、どちらに傾くかなど決まっている。
 スマイルはリデルと共にいることで、リデルの生に対する執着を思い出させた。だがそれでもリデルのスマイルが大切だと思う心を変えることは出来なかったのだ。
 それはリデルの生きる意味。指標。生きている内に唯一知ることが出来た輝かしい証。
 それを否定することなど、きっともう誰にも出来ない。
 取り出した心臓をスマイルに震える手で差し出す。もう目を開けているのも億劫で、差し出したついでに瞼を下ろした。
 だがそれでも最後に言わなければならないことがある。リデルはその言葉を言うためだけに瞼をあげてスマイルに焦点を合わせた。
「わた…し、を、食ら、い…、なさい」
 この身を、この魂ごと。それでお前が生きられるというのならば。
 荒い呼吸。途切れ途切れの言葉。だけど言いたかったことは伝わったはずだ。
 …本来なら言いたかったことはまだまだあった。でも今の状態ではこれを言うだけが精一杯で。
 でも大切な、一番言いたいことは言うことが出来た。一番重要なことも知ることが出来た。だからもう十分だったのだ。
 この身が食らわれるのも、もはや時間の問題だろう。
 リデルは満ち足りた気分だった。だから後は、静かに瞼を下ろすだけだった。
 ――――首筋に降り掛かる小さな雫に、気付かない振りをして。




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