Noble Wish
【 起 】
‐目覚め、再会、ところにより嘘‐


02.

「スマイル、お前、何故ここに――――」
 リデルは高い位置にあるスマイルの顔を見上げた。スマイルはいつもの皮肉げな笑顔を浮かべてリデルを見下ろしている。リデルよく見知った笑顔、何一つ変わっていない。あぁ、これはスマイルだ。
「それは後でね、今はコッチの方が先決でしょ? リデル」
 スマイルはコートを翻した。リデルに背を向け、驚愕に固まっている女と対峙する。コートの中に滑り込ませた手は月光に反射されて煌めく銀の光を持っていた。あれはおそらく先ほど女を狙った投擲ナイフと同種類だ。
 スマイルは指の間に挟ませた数本の投擲ナイフを女に向けながら口を開く。
「しつこいよ、君。君こそ不死者アンデッドなら習わなかったの? 交渉は一度。その一度で契約を結べなかった場合、その時は必ず引かなければならない。闇に属す者の鉄の掟だ、知らなかったとは言わせない」
 女は反論しようとした言葉を喉の奥に飲み込んだ。スマイルの言うことは確かに事実のようだ。人間は正論で攻撃されるとどんなに強気な人間でも途端に弱くなる。己に非があるとなると尚更だ。
 女は予想外の乱入者の登場に、今は機が悪いと踏んだのかジリと後ろに下がる。しかしそれも叶わない。女はスマイルを睨みつける。スマイルは笑顔を保ったまま女を見下ろした。
「あぁ、動けないよ? さっきのナイフで影縫いしといたからねェ。これは君の失策だよ、満月の夜なんかに契約を結ぼうなんて考えたんだから」
 スマイルの嫌みったらしい声。だが女が動けないと分かっていても、スマイルはリデルから離れようとはしなかった。リデルは女とスマイルを見比べる。リデルにはこの流れの方向性が全く見えてこなかった。だがどうやらスマイルの方が優勢のようだ。おそらくリデルが口を開けば立ち位置が反転するかもしれないだろう。リデルを庇うスマイルも敵になるかもしれない。故にリデルは沈黙を選んだ。
「…どうやら貴方は我らという種族を侮っておいでのようですね。喩え我らが貴方に比べれば低位の種族であろうとも、影縫いなど幾らでもすり抜けることができるということ、お分かりでしょうか」
「いいや、侮ってなんかないよ? だから僕は君に近づかない。君こそ分かってないよねェ、そういうトコ」
 音もなく、空気が凍結するのが分かった。殺気と殺気が満ち溢れていて、呼吸をする度に刃のように空気は喉を突き刺す。息をすることも困難だ。それすらもこの張り詰めた空気を壊すものとなる。
「…一つ問います。貴方は何故この場を知り得ているのですか? この場は我らしか知らぬ場所。何故貴方がここにやってきたのかが不思議で仕方がないのです。
 いいえ、むしろ――――、ここは元々貴方の土地だったのですか?」
 女の問いに、スマイルが笑った。嘲るような楽しんでいるかのような、不思議なチェシャ猫のような笑みを緩やかに浮かべた。
「そうだ、って言ったら?」
「その時は非礼を詫びましょう。数十年前にこちらにやってきた時はどうやら誰の残り香もしないようなので、今現在は我らが使わせていただいております、と。
 それで、貴方はどちらなのでしょうか。青い肌の透明人間」
 …女の殺気はこれ以上ないほど強くなっていく。女はきちんと、スマイルの言った場合にはという仮定としての話を聞き逃すことなく尋ね返した。
 スマイルはそれに笑みを深くする。緩やかに、深くする。
「そうだねぇ…、どっちだと思う?」
「我らを愚弄しますか、貴方は」
「いいや、別に? ただちょっとからかっただけだってのに、大袈裟だねぇ。
 …まあいいや、教えてあげるよ。僕がここを知っているのは僕が偶然ここを見つけた…からではなく、ユーリに教えてもらったんだよ。この区域の領主であるユーリから直々に、ね」
 ――――罅が入る。
 この張り詰めた空気、殺気に満ち溢れて今にも崩壊しそうな空気が、益々増大した女の殺気に耐えきれずについに罅が入った。
 肌に突き刺さる殺気が次第に形を露わにする。女の瞳が金色に光る。それと同時に、女の周囲に金色の霧にも似た光が集まるのが見えた。
 リデルは咄磋にスマイルを見た。スマイルは先ほどと変わらぬ様子で佇んだままだ。あの奇妙な笑みも変わってはいない。それはおかしい、限りなくおかしい。あれは途轍もなく途方もなく危険なものだ。不死者として目覚めたばかりのリデルの本能が警鐘を鳴らすほどの。だからスマイルが笑ったままでいるのはおかしい。もしかしてスマイルにはあの光が見えてはいないのだろうか。そう思えば俄然納得がいく。
 そう考えている内にも、女の周囲に光は集まり続ける。ぞくぞくとリデルの肌が粟立つ。あの金色の瞳を見ていると心の臓が凍る。
 あれは、あの光はあれ以上集めさせては駄目だ。
 女が光を集めるのを止めてスマイルに視線を向けた。そして、問いかけをする。
「一つ、問います。
 ――――貴方は、領主の犬ですか?」
 スマイルの唇が、笑みを象る頬が、まるで心からの笑みを浮かべているかのように動いた。
「そうだよ」
 スマイルの言葉が耳を打ったのと同時、リデルの肌が一際粟立った。
 女の光が、ついにその鎌首をもたげる。あれは誰にも防げない圧倒的な破壊力を持った暴力だ。あれに触れたが最後、きっと紙屑の如くその体は消し飛んでしまうに違いない。そして、その指向性がスマイルに向いているのを確かに分かって、

 いつの間にか、リデルはスマイルの後ろから駆けだしていた。

「ッ! リデル!」
「…え?」
 スマイルの慌てた声。女の呆けた声。それら全てを無視して――――、

「お止めください」

 女の首を掴んだ。リデルは瞬時に女の後ろ側に回ってすぐにでも女の首の骨を折ることができるように、静脈と動脈を的確に押さえて女の動きを封じる。
「貴女はわたくしをそちらに引き入れるためにやってこられたのでしょう。ならばここで戦闘に入るのは無意味です。ここで戦闘に入った場合、この場で一番死亡確率が高いのは目覚めたわたくしです。わたくしをむざむざとここで殺すことは貴女にとってあまりにも惜しいことではないのですか?
 …それに、わたくしはこれを傷つけられた場合、それが誰であろうと即座に敵に回ることにしておりますので、どうぞよしなに」
 女は急所を押さえられているというのに抵抗することなくリデルを背後にいる見下ろしていた。ただ静かに、リデル・オルブライトという人間を見ていた。
「…それは、脅しと受け取っても?」
「それを決めるのは貴女です。貴女の行動の決定権は全て貴女にあるのですから。わたくしには何も申し上げることができません」
 存外に、逃げたければ逃げればいいとリデルは言う。拘束しているリデルの手首を折ってでも、女の周りに集まるその光を使ってリデルを殺してでもいいから逃げたければ逃げればいいと、暗にそう言う。
「貴女の心に天秤をかけ、傾いた方に従えばいい。ただそれだけのことです。わたくしが言うべきことなど何一つとしてございません」
 ふと、リデルは女の周りを漂っていた光が消えているのに気づいた。だが女の首にかけられた手を離すことはない。
「…根性は据わっているし、度胸は一級品。このような状況においてパニックを起こさず冷静、その冷静さを最後まで欠くことなく慎重。ここで外すことなく急所を狙うのも素晴らしい。そして、数百年ぶりの純粋な不死者アンデッド…、確かにここで殺してしまうのはあまりにも惜しい」
 女の声が途切れた。リデルは女の言葉を見守る。
「…では、」
「ええ、貴女のその全てに敬意を示し、ここは引きましょう」
 女は茶目っ気のある、だが先ほどとは違い穏やかな口調で返した。
「ありがとうございます、わたくしもそう言っていただけで嬉しく思います」
 リデルは当たり前のように礼を言う。そこで、女の唇が動いたのが分かった。
「…この茶番劇の主役を張るのは十分のようね」
 その言葉はあまりにも微かすぎてリデルの耳に届くことは叶わなかったが、一瞬だけ女はリデルに哀れみのような瞳を見せた。
「それで、貴女はこれよりそこの透明人間の下に身を寄せるのですか?」
「…そうですが、何か」
 リデルが素直に答えれば、女はスマイルに挑むような視線を向けたがすぐさまリデルに微笑みかけた。視線を向けられたスマイルは何の行動もしていない。
「…いいえ、何も。それでは失礼します、リデル・オルブライト。次に会う時はいい返事を期待しています」
 そう言うと、女は瞼を下ろして一言呟いた。
「ああ、その前に」
 女は微笑んだままリデルに囁いた。月に濡れて光る女の金の髪が揺れた。フードを被った女の容姿をリデルは一瞬見た。
 ――――それはリデルの見間違いかもしれない。だがその容姿は、まるで双子かと見違えてしまうほどリデルのそれと似通っていたのだ。
「…あの透明人間には気をつけなさい。あの犬は、何れ貴方をその魂まで食らうわ」
 それは今までの中で最も親しみが籠もった声で、リデルは思わず女を見た。だが女は素知らぬ顔をしている。そして、女は最後の一言を呟いた。
私は黒い水となるI am the shadow.
 リデルが捕らえていた女は本当に黒い水と化してリデルの腕からすり抜けた。リデルは必死に掴もうとするが水では何も掴めない。腕にかかった水がリデルの服に吸い込まれることなくリデルの影に落ちていった。

***

 それから戻ってくるのは静寂と平穏だ。張り詰めていた空気が消え、リデルは一つため息をついた。ようやくこれで楽に息が吐ける。
「リデル」
 ああ、そうだスマイルがいる。リデルは俯けていた顔を上げた。するとそこにはスマイルの――――、
「なぁにやってんの! キミは!」
 至近距離での怒鳴り声に耳がキンキンと鳴り響く。リデルは思わず肩を竦めた。突然何だというのだ。
「何かしら、スマイル」
「何じゃないでしょ! 何であそこで飛び出してああいうことをしてるのさキミは! 危険だってことは分かってたんでしょ?!」
「ええ、危険だということは分かっていたわ。あの女があの光を解放すれば、私なんてたちまち塵芥になるということも。
 でも、あそこで私が飛び出すのは当然じゃない」
 そう、それはリデルにとっては当然のことだ。どうしようもないほどに、己の危険など省みないほどに。
 だって、スマイルが危険なのだ。スマイルが命を落とすかもしれないのだ。あの凄まじいまでの破壊力を持った光の方向性は確実にスマイルに向かっていて、スマイルが死ぬかもしれないというその事実を見た瞬間、リデルはいつの間にか飛び出していた。そんなのは駄目だ、そんなのは嫌だ。スマイルの危険とリデルの危険を秤にかければ、どちらに傾くかといえばそれは当然スマイルの方だ。
「私にとって、私が傷を負うこととお前が傷を負うことは、決して等価値ではないのよ」
 だから私はお前を守っただけ。リデルは声無き声で呟いた。
 すると、微かな嘆息が聞こえた。リデルのものではないから、必然的にスマイルのものとなる。
「相変わらずだねぇ、リデル。その僕至上主義なトコ、どうにかなんない?」
「お前至上主義というわけではないけれど。…そうね、きっと無理ね」
 きっとリデルには無理だ。スマイルを自らの光としたリデルには、きっとどんなに拒んだところで最終的にはスマイルの意志を優先させてしまうに違いない。
「でも、あのままだったらお前が危険だったのは事実よ。私はあの女の周りに集まっていた光が何か分からないけれど、あれがお前に向けられて解放されていたらお前が塵芥になっていたでしょう。
 それに、私はあの女に仲間にならないかと持ち掛けられた。そんな人間を殺すことなどあり得ない。これでも勝算はあったのよ」
 だから心配するなと暗にリデルは言う。だがスマイルはもう一度溜め息をついて首を横に振った。
「いや、僕が言いたいのはもう危険なことはするなっていうことなんだけど。
 それにリデルに守ってもらわなくても、きちんと不死者対策は練ってきてるから。今まで何回も彼らとは戦ってるし、術対策なんて今更だよ」
「…そう」
 リデルは目を見開いた。不覚にも素直に驚いてしまった。ああ、そうか。意外にもこの慎重派であるスマイルがあそこまで無防備に敵の前に姿を現しているということはそういう挌繰があったのか。
 驚いていればスマイルがくつりと笑って、途端に居住まいを正した。
「それよりもね、リデル。挨拶が遅れた。
 ――――歓迎するよ、リデル・オルブライト。不死者として新たにこちらの世界に生まれたキミを、先達である僕とこの土地を治める領主が歓迎しよう」
 スマイルが優雅に一礼する。まるで貴族のようなその動作に、リデルも生前と同じように一礼して呟いた。
 そうだ、突然のスマイルの登場で全てを忘れていたがようやく思い出した。そうだ、リデルは問いつめたいことがあったのだ。
「…スマイル」
「何? リデル」
 スマイルはにこやかに笑ってリデルをのぞき込んだ。リデルは確認する色を強く漂わせて問う。
「私は死んだの?」
 一番重要なこと。本来なら一番最初に問わなくてはならないこと。
 女の説明でリデルが一度死んで不死者として生き返ったことは分かる。だがそれはあくまでも間接的で直接的ではない。リデルははっきりとした言葉が聞きたいのだ。そう、そしてそれは他ならぬスマイルの口で。
 スマイルもそれを感じ取ったのか、瞳を伏せて頷いた。そして言う。
「死んだよ。リデル・オルブライトは18で確かに死んだ。僕はその時のことを知らなくて、僕が行った時はもう既にここに埋められた後だった。
 …死んだ時のこと、覚えてない?」
 スマイルはこちらの様子を伺うかのようにおずおずと尋ねてくる。リデルは首を振った。死んだ時のことなど一切覚えていない。
「覚えてないわ。私の記憶は、深夜発作が終わった私をお前がどこかに連れて行こうとする場面で途切れてる。
 今の私は、その時の記憶の延長線上でしかない。そのせいかこちらで目覚めた時は酷く驚いたわ。私はスマイルに連れて来られたはずなのにスマイルはいないし体中は泥だらけだし。身に纏っていた服も違う。それに突然出てきた女には私は既に死んでいると言われ、これは一体どういうことかと思ったわ」
 落ち着いた今ならば、女の言っていた意味も分かる。リデルの服が泥だらけだったのはリデルが不死者として目覚めて、棺桶から土を掘り進んで出てきたから。スマイルがいなかったのは、そもそもリデルが知る記憶の続きではないからだ。
 身に纏っている服は葬式の時の死装束だろう。死装束は死んでから服を着替えさせ、化粧をさせられる。死んでいたリデルが覚えている道理もない。
「あれでも内心は混乱していたのよ。お前もあちらもそうは見えなかったでしょうけど」
「…あれで?」
「ええ、これでも上辺だけ取り繕うのは得意だもの」
 貴族の女を嘗めないでほしいわね。得意げに笑ってリデルは後ろ髪を手で掬った。髪に指を通せば泥のせいで絡まって、途端眉をしかめる。髪に泥がこびり付いている。頬も服も同様だ。これ以上放置していれば大変なことになってしまうだろう。
 スマイルはそんなリデルの様子に気づいて手を伸ばしてきた。
「言いたいことは山ほどあるけど、今ここにこれ以上いても埒があかない。それにリデルの髪がなくなるのも忍びないし、場所を変えよう。
 領主ユーリもそこで待ってるから」
 スマイルが手を差し伸べてくる。リデルは、それを何の躊躇いもなしに掴んだ。
「着いたら髪を洗うの、手伝ってくれるのでしょう?」
「了解しました。髪だけとは言わず体中綺麗にするから、安心して」
「そう、ありがとう」
 そして二人は歩き出した。リデルはスマイルに手を引かれ、何処とも知れぬ闇の中、星の下を歩いていく。
 その時には、女の謎の言葉などリデルの頭からはすっかり抜け落ちていた。



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