Noble Wish
【 起 】 ‐目覚め、再会、ところにより嘘‐ 03. 初めてそれに出会ったとき、リデルは一人だった。広い屋敷にたった一人。リデルに罹った病に感染するのを恐れて、皆この屋敷から出て行ってしまった。 取り残されたのは己のみ。侍従も誰もいない、今まで貴族として生きてきた者が病に冒され捨てられたという最悪の状態で生き残ることなどできはしないのは自明の理だと誰もが考えていたのだが―――― 彼らの思惑とは異なり、残念なことに己は生きていたのだ。 貴族でありながらも庶民らしいことが誰よりも好きだった自分、貴族らしさよりも合理性を優先させ、それでいて高い矜持を持っていた己は、侍従などおらずとも苦もなく人間として生きていけるレベルまで達していたのだ。 広い屋敷にたった一人。そこは誰もいない孤高の牢獄を感じさせた。 だがそれでも孤独だったわけではない。孤独だったのだと勘違いしてはならない。そもそも己は人間が苦手だ。平民から税を搾り取るだけ搾り取って後は捨て置く貴族が嫌いだ。…己もその貴族の一員だと認識していながらも、リデルは貴族が嫌いだった。 両親も、兄妹も、一族も。皆が皆、そういう考えではないのだろうけど、リデルは彼らが苦手だったのだ。同時に彼らもリデルが苦手だったのではないかと思う。リデルはそのときの貴族が決して持ち得ない考えを持っていたのだから。 彼らにリデルは理解できず、リデルは彼らの考えを理解していながら全く別の生き方を選んだ。 言うならばそれは孤独だ。一族血縁者がそろう中、リデルはいつも独りで迫害に近い生き方をしていた。 若い者は価値観のまるで違うリデルを『自分たちとは違うモノ』と判断し嫌悪し隔離した。年老いた者はリデルの存在そのものを恐れているようだった。リデルの容姿は彼らにリデルとうり二つの容姿の古い者を呼び起こし、だからこそ恐れているのだと。 若い者が自分を隔離するのは分かる。確かに違うモノならば隔離するのが当然だろう。だが古い者が何故この容姿を恐れるのか、己と同じ容姿を持った者に何があったのか。昔、それを調べたことがあった。…その理由も、今では覚えていないが。 そうしてリデルは隔離されていった。様々な人間にリデルは隔離されて生きたが、リデルはそれを隔離とは思わなかった。別にそれでもよかったのだ。 それこそが孤独と言わずなんとする。孤独は世界にただ一人いるから孤独なのではない、大勢の中でたった一人だからこそその孤独は孤独と認識し、孤独であると光るのだ。 だからこそ、今の状況は孤独ではない。孤独を経験したリデルにとっては今の状況はぬるま湯のようなものだ。確かに誰一人としていないということは多少不便ではあったが、寂しさなど感じたことはなかったのだ。 いや、それは以前からだったかもしれない。大勢の中でこそ光る孤独。そうは言ったが、リデルはその中ですら寂しさを覚えることはついぞなかった。 感情が摩耗しているわけではない。嬉しいときは笑うし、苛ついたときは怒る。ただ、寂しいとは思えなかっただけなのだ。 そんな時、リデルはそれに出会った。青い肌、青い髪、巻き付けられた包帯、見えない片目、茶色のコート。青色の透明人間。 そう、現在ではリデルの光たる透明人間。――――スマイルに。 *** 「リデルー? 準備できた?」 「ええ、できたわ。すぐにそっちに行くから、そこで待っていなさい」 「りょーかい」 一通りの準備を済ませ、リデルは扉の向こう側に立っているであろうスマイルに声をかけた。 現在のリデルの格好は、先ほどの墓場での泥だらけではない。真新しい黒色のドレス、緩くウェーブのかかった長い水色の髪、赤い瞳、頬や髪にこびり付いていた泥はすべて丁寧に落とされ、そのせいか先ほどは目立たなかった黒い斑点がところどころ見えていた。 リデルの肌は白い。だがそれがその斑点の異常さを際だたせることになった。 クローゼットに取り付けられている巨大な鏡で己の姿を確認する。特別何かおかしなところはない。生前とまるで同じ姿だ。だからなのか、独白は思わず口をついて出ていた。 「…相変わらず醜いわね、私も」 「そうでもないけど?」 響いたのはスマイルの声。思わず振り返るも、そこには誰もいない。それはリデルも理解していた。だからこそもう一度鏡で己の姿を確認して、ため息をついて振り返るのだ。 「…いつから覗いていたの? スマイル」 今はリデルの目の前で、リデルの姿を覗き込んでいるだろうスマイルに問いかける。呆れたような眼差しを向ければ、スマイルはすぐに姿を現した。 「んー? ついさっきから。大丈夫だよー、着替えとかは覗いてないからさ。ヒッヒッヒッ…」 「…お前のその笑い方も相変わらずね」 その嘲笑にも似た独特の笑い方。聞いているこちらとしては本来ならばあまり良い気分にはならない筈なのだが、何故だか不思議と嫌な気分になったことはなかった。 「お姫様も相変わらずだよねー、姿を消しててもすぐに僕のこと見抜くんだもん。変わってなくて安心したよ、ホント」 「変わっていないのはお前でしょう、スマイル」 今まで死んでいたリデルの時間は停滞している。故にリデルが変わる道理はない。だがスマイルはリデルが死んでいた間も生きていた。これで変わらないというのは恐ろしいことだ。それだけ自己が確立されているとも言えることだが。 「それで、準備できてるよね? リデル」 「ええ、できているわ」 もう一度繰り返されたスマイルの問いに、リデルは同じ言葉を返す。そうすれば、リデルに差し出されたのは包帯だらけのスマイルの手。 「じゃ、行こうか。領主殿は首を長くしてお待ちだよ」 リデルはその言葉に返す答えを持ち得ない。差し出された手を掴んで部屋を出る。長い廊下に敷き詰められた赤い絨毯を二人して踏みながら歩いていく。 *** リデルが今歩いている場所、ここは領主の城だ。 領主。 それはこのメルヘン王国には当たり前の存在の、闇に属すを統べる者の名である。 新しく生まれた者には生誕の祝辞を述べ、問題が起これば時には人間や天使の間に立ってもめ事を解決する、闇に属する者でありながら中立者として生きることを義務付けられた、生まれながらにして高貴なる者。 それが領主という存在だ。領主は地方ごとにその土地を治めており、その地帯の闇に属す者を管理している、まさしく『領主』なのである…らしい。 らしいというのは、リデルにはあまりよく分からないからだ。この言葉も先ほどこの城に連れてこられる最中にスマイルに説明されたばかりの付け焼き刃な知識で、領主と呼ばれる者が本当はどのような者であるかよく分からないのであった。 「スマイル」 己の手を取って、目の前を歩く透明人間にリデルは声をかける。振り返ることはなく止まることはなく、進み続けたままスマイルは答える。 「んー? 何? リデル」 「ここの領主はどのような方なのかしら」 そう尋ねれば、先ほどまで迷いもなく進み続けていたスマイルの体がピタリと止まる。リデルは不審そうに眉をしかめた。スマイルはどのようなことでも基本的に迷うことはしないのに。 「どうかしたの?」 「いや、別にどうもしてないんだけど…」 だったら何故歩を止めるのだ。スマイルの青い気配が珍しく揺らいでいる。それからスマイルは数十秒考え込んで、それから振り返り、リデルを見て情けなさそうな表情を浮かべて口を開いた。 「うーん…リデルと、結構似た者同士かもね」 「…私、と?」 「うん、リデルと。 プライドが高くて、冷静で、情に厚くて、綺麗で。争いは好きじゃないし、自分からは絶対に手を出さないけど手を出されたら返り討ちにして、ついでに二倍三倍返しをしたり。 そういうとこ、似てるし。それに、――――なんていうか、貴族なんだよね、二人とも」 まあ、ユーリは貴族っていうか王なんだけどね、と茶化すようにスマイルは付け加える。 「…王?」 「そ、貴族って言うよか、王様。領主だから仕方がないんだけど、命令し慣れている王様みたいな感じかなー。ここらあたりじゃ、ユーリは吸血王って呼ばれてるよ」 「吸血王、それでは」 「うん、ユーリは吸血鬼だよ」 あっさりと頷いてしまうスマイル。それには流石にリデルは眉をひそめてしまう。 「…そんなにも簡単に言ってしまってもいいの? 本来ならば、本性など隠すためにあるのでしょう。 お前が透明人間であるという本性を隠すために、体中に包帯を巻き付けているように。吸血王も、何かに擬態しているのではないの?」 「あ、それはないよ」 間髪を入れずにスマイルが答えた。リデルは顔をしかめてしまうばかりだ。それではスマイルに教えられた知識に矛盾が生じてしまう。 元々、リデルはこちらに対してそこそこの知識は仕入れていた。それは生前、スマイルがリデルのために聞かせてくれた寝物語が大本で、そこでは魔物の本性は隠すべきだとスマイルは言っていたのに。 「ユーリが…っていうか、領主が特別なだけだよ。領主はすべてに対して中立で公平。自分の種族とか、そういう隠さなければならないことも全部公開しなきゃならないんだよ。そうじゃなきゃ、誰からも信頼されないしね」 「他者の信頼を得るために、誰よりも誠実でなければならないということかしら」 「そうだね、多分そういうことだよ」 「…成る程」 それはとても分かりやすい理屈だ。領主は公平であり、中立であり、誰からも信頼されなければならない。そうでなければ領主ではなくなってしまうから。 「でも、ここの領主が吸血鬼であるということは、人間には恐れられているのではないかしら。吸血鬼は人の血を吸わなければ生きられないのでしょう?」 リデルがふとした疑問を口に出す。スマイルは一瞬躊躇するかのような表情を見せた。 「…それはまた、後で。今はユーリが待ってるから、急ごう」 止めていた歩を進める。ここから吸血王の待つ部屋はそう遠くはなかった。 そういえば、とリデルはスマイルに手を引いて貰いながらふと疑問に駆られた。 スマイルは透明人間だ。しかし魔の者はその本性を本当に信頼できると自らが断じた者にしか教えない。故にスマイルも透明人間であるということを隠して、普段は包帯を巻いてミイラの真似事をしているのだと言っていた。…まあ、それが今ではただのファッションに成り下がってきていた、と笑ったのもスマイルであったが。 だが、何故。 先ほどの女がリデルの脳裏によぎる。先ほどの女は、スマイルとは初対面であろう。二人とも、以前に互いが互いを認識していたという素振りはなかった。 だというのに、何故。 『青い肌の透明人間』 あの女は、スマイルのことを透明人間だと断ずることができたのだろう? 「リデル?」 考え込んだリデルにスマイルが訝しげに問いかける。 「いいえ、何でもないわ。行きましょう、スマイル」 己の疑問を疑問のまま蓋をして、胸の奥底に仕舞い込んでおく。 …今は、まだ。 その問いが氷解し、答えが現れるのは今ではなく、恐らくずっと先のことだろうから――――。 |