Noble Wish
【 起 】 ‐目覚め、再会、ところにより嘘‐ 04. 上質の、巨大な樫の扉が開く。 重々しく、荘厳に。重厚な音を響かせて徐々に開いていくその様は、どこか古く朽ちた教会を連想させた。 聖と魔。天使と悪魔。善性と悪性。相反するものであるが、どちらも総じてある種の神聖さを帯びているのは確かだ。 重厚、荘厳。どこからかパイプオルガンの音が聞こえてしまいそうなほどのそれ。この場所には、人を狂わせる何かがある。 「スマイル、ここに領主殿が?」 扉が完全に開ききる前に、リデルは背後にいるスマイルに問う。 「そうだよ。ここに領主はおわし、ここでこの地帯のすべてを見通している。…って言っても、見ることができるだけであんまり意味ないけどねー」 いつもの間延びした口調でスマイルは答える。そして「だからこそ僕らがいるんだ」と微かな呟きを漏らす。 それが、決定的な答えだ。何故スマイルがあの時、リデルが目覚めたときにやってきた理由。 「それで、ここに入ればいいのかしら?」 「そ、領主はお待ちだよ。でもリデルが美人でよかったー。ユーリさ、領主だから一応誰にでも優しいけど美人にはより一層優しいから」 「…そう、ありがとう」 とりあえず褒められているみたいなので礼を。今更スマイルに褒められてもあまり嬉しくは思わないが、それでも礼は言っておいた方がいいだろう。 そして扉が開ききる直前に、リデルは最後の問いをスマイルに渡す。 「スマイル、『ユーリ』とは、領主の」 「そ、領主の本名。ま、誰だって知ってることなんだけどね、こんなこと」 その瞬間、扉は完全に開ききった。 その部屋に入った瞬間。己の視界がぐにゃりと歪んだことをリデルは知覚した。 いや、視界など生易しいものではない。歪められたのは己の存在そのものだ。つい先ほどまで確かだった己の存在すべてが一挙に不確かな物へと塗り替えられた感覚。見れば肌はぞくりと泡だっている。 引くことはない鳥肌。知覚した殺気にも似た感覚。神経を鋭敏に尖らせてリデルは部屋を見渡した。 静かな部屋だった。 領主などという役職がついている程だ。どれほどの華美さを保っていると思いきや、そこはとても質素で静かな部屋だった。 確かに一つ一つの装飾は華美な物なのだろう。貴族として生まれ、そのような物に触れることが多かったリデルには分かる。だがそのすべてが統一性を持っており、互いが互いの華美さを相殺し、この部屋を質素で静かな部屋へと変貌させているのだ。 これほどまでに主の趣味嗜好が分かる部屋もないだろう。この部屋の主は必要以上に華美な物を求めない質素な性格だ。必要以上の派手さは求めずに、素材そのものの美しさを愛しているのだろう。 一足、二足。足を踏み入れる。背後からは続いてスマイルの気配。だからこそリデルは恐れることなく前へと進んでいく。 一足、二足。リデルが迷いなく進んでいけばいつの間にそこにいたのか。リデルと二、三間ほどの間を開けてそこに人影が立っていた。 立ち止まる。リデルが立ち止まれば背後のスマイルも立ち止まった。そしてその人影が何者か直感的に理解し、リデルは頭を垂れて口を開く。 「お初お目にかかります、吸血王。リデル・オルブライトと申します」 リデルは目の前の至上の美しさを持った、己よりも高位である者に恭しく礼をした。 月光に透ける白銀の髪、血よりも赤い真紅の瞳、日に透かせば本当に溶けてしまうのではないかと思うほどの白磁の肌。男性らしさも持ちながら同時に女性らしさを、だが不思議なほどに中性的さを感じさせない端正な容貌。身に纏っているのは最高級品と一目で分かる、見事なまでの天鵞絨で作られた黒衣。そして何よりも、その背に広がる赤い蝙蝠の翼。 絵画のようだ、リデルはそう思った。 しかしリデルの前にある絵画は圧倒的な存在感を持っている。その存在感が、目の前の絵画の美しさが絵画でないことを知らしめる。それが己よりも優位種であることを本能的に理解させるのだ。 目の前の絵画が動く。銀の、魔という属性がこれほどまでに似合わないと思える程の神々しさを持った吸血王が、片手に持っていた書を閉じて無造作にその本を机に置き、書類に囲まれた机から立ち上がりこちらに歩いてくる。 王者の歩き方だ。リデルはユーリと呼ばれたその人が自分の元にやってくるという事実を確認し、一歩前に進んでスマイルの隣に立った。彼は尊大な態度でリデルの前に立ち、貴公子然とした容貌でリデルの指先を手に取り口付ける。 「ようこそ、ミスオルブライト。闇が属する世界であるこの地――――メルヘン王国へ。新たに生まれた貴方を、この地に仕える領主として心より歓迎しよう」 そして唇がリデルの指から離れた。大仰な仕草のそれは、本心なのかそれとも振りか。本心であるのならばかなりのフェミニスト。振りならば優しさと悲しさを持っている。だが、恐らくはその両方なのだろう。 ならばリデルもそれに値する行動を取ろう。真でありながら偽。八の真実に二の大仰さを交えてリデルは吸血王に答える。 「王である貴方様からの言葉を頂くことが出来るというこの事実を光栄に思います、吸血王。 この身は生まれたての赤子に等しい。その時点で貴方様の言葉を与えられると言うことは、この身は天にも昇る至福の淵にたゆたうことと同義の幸福です」 道化のように大仰に。微笑みながら礼を一つ。 そうすれば、吸血王は先ほどまでの貴公子然から目を丸くして驚愕を表して破顔した。 「…成る程。流石はスマイルの、と言ったところか」 「光栄です」 「しかし珍しい。最近はそのような反応を返すことは少なくなったと思ったが…ミスオルブライト、その口調と態度からして、生まれは宮廷時代のフランスかイギリスだな?」 「そのご聡明さには頭が下がる思いです、吸血王。宮廷時代、というのがいつのことかわたくしには理解の範囲外ですが、生まれは間違っておりません。わたくしの育ちはフランス。名がイギリス流なのは、わたくしがそもイギリスで生まれたからです」 「あの時代は国境そのものが曖昧だからな、移民も可能だったか」 「はい、元々あの地域は顔の差など些細な物。昔から様々な国同士の血が混ざり合ってきたのです、イギリス系の顔が一つや二つあったとしてもあまり変わりはしません」 軽口には軽口を返して。 吸血王との会話にリデルは久々に面白さを感じていた。そもそもこの会話は久々のスマイル以外の人との会話なのだ。しかも相手は己より上位の人間。次々に返ってくる答えにただの世間話だというのに止まらなくなってしまう。 スマイルとの話も楽しい。スマイルに初めて出会ったときはリデルの傍には誰もいなかった。だからスマイルとの会話はリデルの唯一の娯楽だった。 だが吸血王との会話はスマイルとの会話とは別種の楽しさが含まれている。スマイルとの会話は穏やかさを有しており、吸血王との会話は面白可笑しさを有しているのだ。 リデルは止まらないとばかりに口を開く。続きを、とばかりに開いた口が音として声を発するその瞬間。 「リデル、ユーリ」 ため息を吐いて、普段とは違う色を含んだ声でスマイルが二人の会話に口を挟んだ。 「お楽しみのとこ悪いんだけど早く『認識』してちょーだい。生まれ落ちてから今までの間が空けば空くほど、リデルの世界からの干渉度が高くなる」 それは冷えた声だった。酷く冷静で、それ以上に聞いているこちらの胸の芯から凍えさせてしまうほどの冷たさ。 どちらかというと、これは冷たいというか苛立っている時の声だ。特にリデルが無茶をしたときによく聞いていた声音。何故今それをここで聞く羽目になるのだろうか。 「世界からの干渉度…?」 思わずスマイルの言葉を反芻する。やはりその言葉が重要なのだろうか。『認証』、そして『世界からの干渉度』。それを為さなければ何があるというのだ? 「ほう? 貴様がそこまで必死になるのも珍しいな、スマイル。やはりミスオルブライトだからか」 「誰が必死になっているってのさ、ユーリ。いい加減なこと言ってるとはっ倒すよ?」 「…素直ではないな、全く。その姿が必死以外の何だと言うのだ」 「そんなこと知らないよ。で、そんなことどうでもいいから早くリデルの認証。世界からの干渉も心配だし、それについさっきの戦闘がどんな影響をもたらしてるかわかんないんだから今日はさっさと寝かしときたいの」 スマイルが冷えた声色で噛みつくように吸血王に問いかける。普段とは違うスマイルを吸血王がからかって遊ぼうとするも、スマイルにそれだけの余裕がなく噛みつくばかりだ。先ほどのスマイルの答えを反芻させるかのようにこれ見よがしに吸血王はため息を吐いた。 「まあ確かに、久々の面白い会話だったからな。少しばかり時間を取りすぎたか。…存在そのものが揺らいできているな」 ついと無造作に吸血王の視線がリデルに向けられた。開いた瞳孔、本来ならば先ほど見たように赤いはずの瞳は今だけは金色に変化していた。 だが変化した瞳のことよりも、リデルは視線と同じように無造作に投げられた言葉に反応した。瞳の色のことなどどうでもいいと言わんばかりに眉をひそめて問いかける。 「それは、どのような意味とでしょうか。吸血王」 その言葉の意味を問う。それはリデルがこの部屋に入ったときからずっと感じている、己の存在そのものが不確かになった感覚に関係しているということなのか。 視界が歪められる。足下が覚束ない。外界の音を上手く判別できない。そんなものではない。これは己の輪郭そのものが不確かであり、その輪郭の外皮の一枚ずつが砂となって大気中に消えていってしまうような、そんな恐るべき感覚だ。 いや、そもそも。この感覚そのものが己の存在そのものが揺らいできているということなのか。 くらくらと視界が揺れる。背筋が震える。感覚がぶれる。その感覚は熱病に似ていた。だが輪郭が砂と化して消えていく感覚だけが確実に熱病とは一線を画していた。 「今はそれどころではないのだ、ミスオルブライト。先に貴方の認証を行わなければならない。そうでなければその輪郭は十分もしないうちに消えてしまうだろうな」 「ですから、どういうことなのだと問うているのです」 己が再び消えるかもしれない状態だというのに、リデルは普段と同じ口調で吸血王に問う。 特別熱くもならず、かといって冷めてもいない不思議な感覚だ。だがそれは道理だろう、リデルは元より生に対する執着は捨て去っていた。…いや、先ほどまで己が死んでいたということに喜びすら抱いていたのだ。その喜びをもう一度味わいたいと思っても不思議ではないだろう。 それに本来ならば不死者という種族は生前に未練を残していた者がなるという。だが先ほどの戦闘での会話を聞く限り、リデルはどうやら何かやり残したことがあるのではなく無理矢理不死者にならされたタイプのようだ。もしくはリデル自身が気付いていない未練があるのか、どちらなのかリデルには理解できなかった。 理解できなかったが――――それは一体何に反応したのか。一瞬だけ融けていく輪郭が、本当に一瞬だけ一つに収束し自分の手足を形作ったのだ。 「…?」 吸血王から視線を外し、リデルは手足を見た。それはあくまでも一瞬の出来事で再びあの融けゆく感覚に戻ったのだが、その一瞬がどうしても気になってリデルは両手を握ったり開いたりを繰り返している。それでも再びあの収束された感覚には戻れなかったのだが。 「リデル?」 リデルの様子に気付いたのか、スマイルが不思議そうに尋ねてくる。そこには先ほどの苛立った色はないとは言えなかったが、吸血王に対してのものよりかは幾分か抑えられているようだった。 「何でもないわ、ありがとうスマイル」 いつもの微笑みを見せてスマイルに礼を言う。そうすると、「そっか」と安心したようにスマイルもいつもの笑みを浮かべて頷く。 そこで気付いた。何故リデルが特別生にも死にも執着できないのか、本来ならば生物として当然のように備わっている生を謳歌し死を忌避する本能が欠如している理由がもう一つ分かってしまった。 勿論、一つは病の存在だろう。あの病は抱えた者に生きることを諦めさせる病だ。そうしてリデルも同じように生を諦めていった。 そしてもう一つ、リデルには一度目の死の体験を覚えていない。 最後の記憶はスマイルがリデルを外に連れ出したところで途切れている。そこからリデルの意識は先ほどの目覚めに繋がっており、その間にあるはずの死の記憶がまるでない。 だからこそ、これは生前の続きだと認識しているのだ。意識下ではリデルが死んだということをリデル自身がきちんと認識している。だが死んだという割にはリデルにはその死の記憶がない。眠っていたらいつの間にか死んでいたという感覚なのだ。それに、 リデルはちらりとスマイルに視線を向けた。リデルが視線を向けたのは一瞬だけだったが、スマイルは目敏く気付いて笑いかけてきた。リデルはそれを気付いていながら無視する。 ここにはスマイルがいる。スマイルは恐らくリデルにとって生前との唯一の関わりだろう。そのスマイルが生前だろうが今だろうが変わりなくリデルに笑いかけてくるので、リデルはここを生前だと認識してしまうのだ。恐らくリデルはスマイルが傍にいる限りその意識が変わることはないだろう。 リデルにとって、生前の記憶の中で色褪せない物はスマイルとの記憶だけだった。後はすべての色が褪せてしまっている。もうその時自分が何を考えていたのかすら思い出せないのだ。 だからリデルはこんな風に生にも死にも執着しない。リデルの記憶はスマイルに出会った頃――――病に冒された頃の日々のみはっきりと思い出せる。病に冒された後の日々はそれこそ地獄だ。生に対する執着はいつやってくるか分からない死によって放棄せざるを得なかったことに加え、死に対する忌避はいつだって死を身近に感じていたせいでまるでなくなっていた。そうでなくとも人間ならばいずれ死ぬのだ。忌避する必要もなかった。それよりも、何よりも生きることに疲れていた。それは今も同じだった。 「ミスオルブライト」 吸血王の声が耳に届く。焦点の定まらなかった瞳はそれだけで金色の瞳へと変貌した吸血王を映した。 「思考中のところ申し訳ないと思うが、認証を行わせてもらおう。そのままでは本当に消えてしまうからな」 「ですから、吸血王」 それが何かわからないのであれば受けたくないのは道理だ。それが己にとってどのような作用をもたらすのかまるで分からないのだから。 説明を求めようとしたリデルの声を遮るように吸血王は言う。 「本来ならば本人が消えてもいいというのならば認証は行われない。だが今回はそこの馬鹿がいるのでな、強制的に行わせてもらおう」 ついと吸血王の視線が一度だけ動いて再びリデルに戻された。一瞬だったが動いた視線の先には確かにスマイルがいた。 もう一度瞳を捉えられる。吸血王の金色の瞳に視線を合わせていれば、いつの間にかその瞳から目が離せなくなるような錯覚を抱いてしまい―――― 「え?」 思わず声を上げたリデルだが、既に時は遅い。 瞳が反らせない。吸血王の金色の瞳から、視線を逸らすことができない。それと同時に体の動きも制限されていることに気づいた。 「これ、は…」 声すら出すのが制限される。喉が、舌が、声帯そのものが機能を損なわれてしまったかのようだ。それは確かに自分のものなのに、他者に支配権を移行されてしまったかのような感覚。 「吸血王…!」 辛うじて搾り出した声で、明らかな原因である吸血王の名を呼ぶ。原因はその中でも逸らすことのできないこの金色の瞳だろう。あれが、魔眼と呼ばれるものか。 「動くな、リデル・オルブライト」 静かな声だった。だがそれは王の命令だった。威圧をされているわけでもない、激昂されているわけでもない、ただたった一言を言われただけだ。だがそれは従わなければならないと本能が叫ぶほどの強制力を持っていた。 特にリデルは貴族として育ってきた。貴族にとっては王の命令は絶対だ。王の命令は誰よりも何よりも優先させなければならないもの。貴族にとって、絶対のもの。そして魔の者にとっては、彼の命は何よりも優先させねばならない絶対の命令。 「貴様が魔の者である限り、この声には絶対の服従を誓わねばならない。その意味を理解せよ」 体が拘束される。まるで細い糸を体中に巻き付けられたような錯覚。これが、吸血王の言葉の意味。彼が王と呼ばれる意味か。 「私は、『認証』とは何か、知りたいだけなのですが」 「その暇すら惜しい。…今度は声まで封じてほしいか?」 「…いいえ」 きっと彼の掛け値なしの本気だ。吸血王は恐らくこちらが口答えをしたら確実に今度は喉まで封じるだろう。終わったのならば説明はしてくれるはずだろうが。 リデルは沈黙する。彼女とて吸血王の本気を見通せないほど愚かではない。 …スマイルの声が聞こえない。 身体を束縛され己の自由を拘束されたこの状況で、何を考えるかと思いきやリデルが考えたのはスマイルのことだった。 スマイルの声は聞こえないが、スマイルは一体何をしているのだろうか。スマイルは、今ここにいるのだろうか。 恐らく、いることはいるのだろう。気配はリデルを除いてきちんと二人分。いるのならば恐らく背後。ただリデルの視界に入らないだけだ。リデルの視界は今吸血王の瞳から離せないのだから。 スマイルの声が聞きたい。 それは本当に自然に出てきた、純粋な思いだった。 「リデル」 スマイルの声。背後から頭の上に何かが置かれた。大きな手のひらが一つ、リデルの頭の上に乗っかっている。スマイルの手はいつも手袋を填めているからだろうか、ほんの少しその手が重く感じられた。 だけどその微かな重みが、何故これほどまでに心強く感じられるのだろうか。 「大丈夫。リデルに危害は加えない。ユーリが何かしてきたとしても絶対に危害は加えさせないから、安心して」 リデルを安心させるような声色。手のひらの感覚。きっとスマイルは微笑んでいることだろう。リデルを安心させようと笑っているだろう。 「…分かったわ、私はお前を信頼する。だから安心して盾になりなさい」 「うん、ありがとーリデル」 いつもの間延びした口調。そうだ、それでこそスマイルだ。 リデルは微笑みながら眼前の吸血王に意識を向けた。吸血王はリデルとスマイルのやりとりを見ていたのか、同じく微笑みを返した。危害は加えないと柔らかく微笑みながら。 この王はとてもいい人なのだろう。リデルに対するこの所業も、恐らくは本当にリデルのためを思ってのことなのだろう。スマイルがこの部屋にやってきた頃、吸血王にそう急かしていたことからして結果は明らかだ。ただリデルが信用できなかっただけなのだ。 そう、リデルが信用できなかっただけ。もとより初対面の人間は信用できない性質だから仕方がないというべきなのだろうが―――― そこで、ふと違和感に気付いた。今、何か。何かが、違った。 「リデル・オルブライト」 己の内に籠もりかけていたリデルを、吸血王の声が引きずり上げた。リデルはもう一度吸血王に意識を向ける。 眼前に広がる金色の瞳はいつの間にか赤色に染め直されており、そして吸血王の指先からは赤い血が流れ出していた。その血を見て、やはり人間だろうと妖怪だろうと血の色は変わらないのだなとリデルは奇妙に感動した。 「スマイル」 「りょーかい」 吸血王が命じ、スマイルが応じる。二人はリデルを挟むようにして立っている。 「鍵:収束 スマイルの声。声が音となったと同時に、世界を響かせるように大気を震わせた。背後のスマイルから巨大な力の迸りを感じる。まるであの黒衣の女が放とうとしていた一撃のように強大な力。 そして同時に、周囲を漂っていたらしい何かが収束されている。背後のスマイルの元に自ら集まっており、それは数秒もしないうちに集め終えたのか大気が動くことはなくなった。 「こっちは大丈夫だよー? じゃ、あとまだリデルから零れ続けてるのはお願いするよ? ユーリ」 「了解した。…では、認証を始める」 だがその前に、と吸血王はリデルから視線を外すことなくたった一言呟く。 「Κiνηση その言葉が何を言っているのかは理解できなかったが、意味は理解できた。何故ならば視界の端で机の上から紙が一枚こちらに動いてきているのが見えたからだ。 紙はそのまま吸血王の手の中に収まる。それは上質な羊皮紙であった。上質かつ高級なそれに一片たりとも価値など見出せないとばかりに無造作に、先ほどから流れ続けている血を遠慮なく染み込ませる。 血液はじわじわと染み込んでいく。それは誰しも同じことなのだが、おかしいのはこれより先のこと。それはある一定の部分まで浸食したところで突如としてその活動を停止し、停止したかと思いきや浸食されていない残りの部分を一気に染め上げたのだ。 リデルが驚愕する間もなく、吸血王はリデルに命ずる。 「これで準備は整った。汝の名を告げよ、リデル・オルブライト。 汝の名を、汝が口で、汝が声で、汝が為に、汝の生命を、汝の存在を世界に認識させる為に。 汝の名を告げよ、リデル・オルブライト。さすれば、我は汝に新たな生を与えん」 赤く染まった羊皮紙を宙に浮かせた。羊皮紙はリデルの視線の高さと同等の位置に漂い、リデルの視界は今度は羊皮紙のせいで真っ赤になった。 名を告げよ、と吸血王は命じた。さすれば新たな生を授けるのだと。 それが認証ということか。世界にリデル・オルブライトという存在を認めさせるための行為。何故このようなことをなさねばならないかは理解できないが、それを為さねば確実に存在から消えてしまうだろう。 だが、リデルは別にどちらでも構わないのだ。元より生にも死にも執着はない。執着できない。そもそもリデルは生きることに疲れている。スマイルの存在も確認できたことなので、リデルとしてはこのまま消えても構わなかった。 だから名を紡ぐことに躊躇がある。このまま生きて、本当にいいのか。厄介ごとには既に巻き込まれている。消えた方が楽に事態を終結させることが出来るのではないか。 「…スマイル」 だが、吸血王は無理矢理にでも認証をさせると言っていた。その理由はスマイルの為だと。 「何? リデル」 融けてしまったリデルという存在をかき集めて、スマイルは答える。恐らくその顔に浮かんでいるのは笑顔。そうであればいいと思った。 「お前、私に消えてほしくない?」 リデルを心配し、リデルのために認証を早めようとしたスマイル。ここでリデルが否と言えば、スマイルの労力は無に帰すだろう。 それは、嫌だ。リデルのことなどどうでもいいが、リデルはスマイルの為したことが無に帰してしまうのは嫌だ。 だから間髪入れず返ってきた言葉に微笑んでいたのは仕方がないことだろう。 「何言ってるの、リデル。当たり前のことでしょ」 薄情なお姫様だとスマイルは茶化したように嘆く。ああ、だったらいい。 だったら、リデル・オルブライトは生前と同じようにスマイルのために生きよう。 「我が名はリデル・オルブライト。世界よ、汝に我が認識を求む。汝の世界において、我が存在することを許し給え」 その瞬間、己の魂の欠片が抜け出ていく感覚をリデルは捉えた。先ほどまでの砂となって大気中に融けていく感覚とはまるで違う、塵と化し世界へと還っていくのではなく、己の魂が己の魂の形を保ったままこの体から出て行った。 その形が、赤く染まった羊皮紙に緩やかに溶け込んでいく。魂は羊皮紙に溶け込んだのか、そこから新たに排出されることはなかった。 そしてそれと同時に赤い羊皮紙に、自動的に白い文字が浮かび上がる。記されたのは先ほど告げたリデルの名前だ。その下に、新たな文章が浮かび上がったと同時、吸血王がその紙を摘み上げた。 「リデル・オルブライト」 赤い羊皮紙から視線を上げ、吸血王がリデルの名を呼ぶ。 赤い羊皮紙と、吸血王の冷たい視線、背後からはスマイルの穏やかな眼差し。向けられた視線は冷徹そのもので、リデルはその視線を見る度に何故だか体が軋むのだ。 「認証は為された。だが…」 珍しく吸血王が言いよどむ。何かあったのだろうか。 「二重存在 「え?」 吸血王の口から零れた言葉はリデルにとっては理解が出来ない未知の言葉で、リデルは思わず目を見開いた。 「二重存在 「二重存在 吸血王の言葉をスマイルが引き継ぐ。眼前の説明を邪魔されて吸血王は明らかに不服そうであるし、背後のスマイルは上機嫌を隠しもしない。 「スマイル…貴様、後で覚えておけよ」 「ユーリにばっかり良いところは見せられませーん」 子どものようにはしゃぎ合う二人にリデルとしてはどうすればいいのか分からないが、とりあえずはコツリと静かにヒールの踵を鳴らしてみた。これで注意が向けばいいのだが。 幸いながら二人とも一応はリデルの方に意識が向いたらしい。話を進めるためにリデルは二人に問う。 「それで、その二重存在 「心当たりはあるか?」 リデルの問いをさっぱり無視して、吸血王は問いかけてくる。 「…ありませんが、何か」 「そうか、ならばいい」 いったい何なのだ。心当たりはあるかと言われても、リデルには心当たりなど微塵もない。自分に似た容姿を持った人間など見たこともないのだ。 …ああ、そういえば。たった一人だけそんな人間を知っている。先ほど出会った、何故かリデルに親愛の情を向けていた金の髪の彼女。 だがリデルはそれを告げない。リデルが彼女の容姿を見たのは一瞬であり、それがリデルの見間違いである可能性も高いのだ。 「吸血王、それは一体…」 「ユーリ、説明不足ー」 リデルが口を開いたところで、スマイルも口を挟んだ。 「きちんと説明はする。だからそう急くな」 吸血王はため息を漏らして鬱陶しそうにスマイルを見た。説明を乞うリデルに対してはそのような視線を投げかけられないのは、やはりフェミニストだからだろうか。 「二重存在 「それは可笑しいことなのでしょうか」 「今まで起こった例としてはな。だがそこに一つの前提条件を加えてみよう。もしその二重存在 「出入りすることの出来ない者…?」 その前提条件に当てはまる者など限られた数しかいない。 そう、それは例えば―――― 「妖怪の下級種。天使の下級階級。もしくは別世界に存在する者」 スマイルの声が響いた。 「人間界に出入りするには相当の力が必要だからねェ。僕らみたいな上級種か、それかそれ専用に力を持った輩じゃないと無理無理。ま、上級種が力添えしてるって言うのなら話は別だけどさ」 「その通り。だがそうすると少し面倒なことになってくる」 「何がです?」 問うリデルに、吸血王は皮肉気にため息を吐いた。 「その二重存在 リデル・オルブライト、貴女はこの世界で不死者 ここは妖怪の住まう国、メルヘン王国。いつ二重存在 突然の言葉に目を丸くしてしまう。確かに姫のように守って貰うつもりはなかったが、ここで再び新たな敵の発見となってしまうと唖然としてしまう。 これがメルヘン王国。スマイルの故郷なのだ。 「…一度退出しても宜しいでしょうか、吸血王。様々なことを詰め込まれすぎたせいか、上手く思考回路が働いておりません」 「ああ、正直私も詰め込みすぎたと思う。今は休め、リデル・オルブライト。詳しいことは明日の朝にでも再び話し合おう」 「…朝、ですか?」 リデルは吸血王の言葉に目を丸くする。 「何か可笑しいか」 「はい、吸血王は朝にも活動なさるのですね」 「元より睡眠を必要としない体だからな」 何故だか、そんな些細なことに少し笑えてしまった。 ほんの少しだけ、緊張がほぐれたような気がした。 |