Noble Wish
【 承 】
‐虚実の真ん中で‐


04.

 結局あの後悩みに悩み続けてリデルが為したことといえば、己に与えられた部屋に帰ってくることだった。
 与えられた部屋、といえどもこの部屋はリデルの生前の部屋をそっくりそのまま移してきたかのようにリデルの部屋に似ていた。クローゼットの中にある衣装も、ベッドの形も、壁に掛けられている絵画も。唯一違うのは壁一面を覆うようにある本棚がすべてなく、クリーム色の壁がその姿を現していることだけだろうか。
 その為か、リデルはこの城にやってきてからも酷く落ち着けていた。スマイルがいるということに加えて、この部屋は生前のリデルの部屋を連想させたからだ。
 今ではそれが酷く恐い。
 先ほどのユーリとの会話。そこでユーリがほのめかした言葉。スマイルはリデルが不死者アンデッドになることを知っていた? それは何故? だとしたのなら、あえてこの部屋はその為に生前のリデルの部屋とそっくりにさせた? 不死者アンデッドとなったリデルがこの部屋を使うことを計算に入れて。
 無駄なことばかりが頭の中で考えられていく。頭が痛い。ユーリの言葉のせいで妄想だと言い切れない。
「…これは多分、考えてはいけないことね」
 ベッドに腰掛け、リデルは静寂の空間の中一つ呟いた。
 そう、考えてしまったら。そして答えを見つけてしまったら。
 リデルはきっと、この城にいられなくなる。
 だけど同時に、それでいいのかと問う声がするのだ。
 本当にそれで良いのか、リデル・オルブライト。貴族の誇りはどうした。貴様も貴族であるのならば安穏と暮らすのではなく真実の一つくらい見つけてしまえと。
 だけど、あの時ユーリに言った言葉も嘘ではないのだ。
 スマイルのためならば命すら捧げようというあの言葉も、リデルの中では決して嘘ではない。
 そうしてしまえば、雁字搦めになってしまって身動きがとれなくなってしまう。スマイルの元を離れたくない。だけどリデルに対して秘密を持っているスマイルが恐ろしい。
 本当に――――どうすればいいのか、分からなくなっていた。
「…術の練習を、しましょう。ここでも、出来る筈だから」
 そしてリデルは――――逃げた。
 ユーリやスマイルの抱いている秘密を暴くことよりも、秘密を抱えていてもいいから傍にいることを選んだのだ。
 それは貴族として生きてきたリデルが初めて見せた逃げだった。この心地よい空間が失われることを恐れたのだった。
「…どうしようもない」
 だけど、それでも。自分のことをどうしようもないと自覚していながらも。
 リデルはそれでも、スマイルの傍にいたいと思っているのだ。
「まずは、精神を空にして…」
 いつものように精神を透明にさせて自分の純度を上げる。どこからか響く耳鳴り。ここまではいつも同じだ。何も変わりはしない。
 そして、ここから――――…
 次の手順は頭の中で構成されている。だけどリデルは次の手順を行うことが出来なかった。
 怖い。リデルは怖い。そして恐れている。――――自分の存在が変質してしまうことを。
 今までの自分ならば、リデルは簡単にスマイルやユーリに詰め寄っていただろう。満足する答えが得られなかったとしても、リデルは自分の足で真実を見つける。
 だがそれを今回はしなかった。できなかった。疑惑の念よりもスマイルを失う恐怖心の方が勝ってしまったのだ。リデルはそれが、怖い。変わってしまうのが、怖い。
『続けないの?』
 ――――その時、どこからか声がした。
 リデルは咄嗟に背後を振り返って現状を確認する。だがそこには誰もいない。この広い部屋の中、人間の気配はリデル以外に誰もいないのだ。
「…どなたかしら」
 問いかける必要などないことをリデルは知っている。リデルはその声を、よく知っているのだから。
 ――――そう、それは確かに。少し違うが確かに、
『私? 私は――――』
 ――――リデル・オルブライトの声だったのだから。
『シャリエ、シャリエ・オルブライト。貴方をこちらに引き込もうとした存在であり、貴方の二重存在ダブルよ』
 彼女は酷くあっさりと言ってのけた。
「オルブライト? では貴方は…」
『さぁ、それはどうかしらね、リデル。私と貴方の姓が同じでも、私たちが同じ血族であるとは限らないわ』
 確かにそうだ。だがリデルは既に確証を抱いていた。
 一瞬だけ見ることの出来た彼女の緩やかな金の髪。恐ろしいまでにリデルに似ている容姿。オルブライトの名。そのすべてが、あの肖像画に繋がっていく。
 そして脳裏によみがえる、その肖像画の周りにあった絵画達。その絵はすべて、同じ人物をモチーフに描かれていた。
「…どこから話しかけているのですか? 貴方は」
『貴方の影。私があの透明人間から逃げたとき、私は貴方の影を利用して影渡りをしたの。その時、貴方の影に私の影を一つだけ潜らせておいたのよ。貴方にいつだって声をかけれるように、ね』
 茶目っ気たっぷりに、まるでウインクでもついていそうな口調にリデルは眉を潜めた。自分たちは一応敵同士ではなかったか?
「…貴方は私を、自身の組織に引き入れようとしていたのではなかったの?」
『色々と事情があるのよ、こちらにも。貴方を引き入れようとすることはなくなったから安心して』
 そういって、彼女――――シャリエは笑ったようだった。
「…ならば、いいのだけれど。それでは貴方は一体何故私に接触しようとしたの?」
『貴方が術を使おうとしていたから。教えてあげようと思ったのよ』
「…それは、何故?」
『あら? 親切はいらない?』
 猜疑心を現したリデルを、シャリエはそんなことはないと彼女の猜疑心を笑った。
「…確かに必要だとは思いますが、一度敵だと認識した者から施しを受けるのはどうかと思います」
『そうかしら。昨日の敵は今日の友、と言うわよ?』
「…? どういう意味ですか? それは」
 どこかの言葉だろうが、大量の書を読んでいるリデルもそんな言葉は知らない。
『そのままの意味よ。東洋の言葉で、今まで仲が悪かった人もきっかけ一つで仲良くなるっていうこと。でもこの言葉を知らないとは思わなかったわ。貴方、あの屋敷にある本を読み切ったのでしょう?』
 その言葉で確信を強める。やはり彼女はあの屋敷の主か。
「…その言葉に偽りはないのでしょう?」
『ないわ。もしも私が貴方を利用しようとしている場合は、貴方が私を食らっても構わない。二重存在ダブルの法則を知らないわけではないでしょう?』
 それは確かに知っている。先刻ユーリに教えられたばかりだ。
「貴方は私を食らうつもりはない、と?」
『ええ、私には食らうつもりはないわ。だって私にはもう力なんて必要がないから』
 そうしてもう一度、シャリエは鈴のように笑った。…少なくとも、彼女の嘘をリデルは見抜けない。これが本当に嘘ならば、それを見抜けなかったリデルが悪いのだ。
「…私も、貴方を食らうつもりなんてない。だから貴方が二重存在ダブルであろうとなかろうと構わないわ。だけど、その言葉に嘘がないのなら。
 私は貴方を、信じるわ」
『ありがとう、リデル』
 彼女は柔らかく微笑んだようだった。その表情は見えなかったが、気配で理解できた。
「それで、術を教えてくれるのかしら?」
『ええ。貴方が頑張っているのは分かっているのだけど、何が駄目なのかさっぱり分からないの。それが分かればどうにかなると思って』
「…私は、スマイルに教えられた通りにやっているのだけど」
 そう告げれば、彼女はため息を吐いたようだった。
『あの男…、教えているのならきちんと最後まで責任を持ちなさいよ。こんな状態なら私が手を出したくなるって分かっているでしょう』
 シャリエはもう一度ため息を吐いて、ついでに舌打ちまでしたようだった。声を聞く限りでは理知的で穏やかに感じる彼女には珍しい。
「…スマイルと知り合いなのですか?」
 スマイルを知っているような口振りに、リデルは思わず尋ねた。シャリエは多少口を渋ったようだが、諦めたように話す。
『…ええ、古い知り合いよ。ついでに吸血王とも、ね』
 シャリエは苦笑を滲ませながらそう言うが、明らかに声は不満がありありと覗いていた。そんなに嫌なのだろうか。
『まあ、そんなことはどうでもいいわ。それで、地脈を引き上げるところまでは出来ているのでしょう? どこでおかしくなったと感じるの?』
「おかしくなった、とは感じないのですが…地脈から力を引き上げた後に術式を解放した場合は、その光球は暴発するかのように暴れたり…するのですか?」
 リデルがそう呟けば、空間にピシリと罅が入ったような音がした。
『それは術式の構成方法が間違っているか…それとも術の構成言語が違う可能性が高いわ。使用している言語は何?』
「『Code:』ですが」
 空気に暗黒が混じってくる。脳に直接響いてくる声がどんどん沈んでいく。
『…あの男の構成言語ね。ならば失敗するのも当然でしょう、基本的に術の構成言語も術式の構成方法も一人一人違う。あの男に習わなかった?』
「…聞いていませんね」
『あんの男…! ああもう、後で殴っておきましょう? リデル。あんな男見捨てて私と術練習に励んだ方が貴方の身の為よ?』
「…確実に、その方が身のためのようですね」
 少なくとも、リデルは彼女の言う知識をスマイルから聞いたことはない。
『それじゃあ、まず自分に合った構成言語を見つけましょう。それを見つけないと術式を構成しても世界に叩きつける術がないから。
 じゃあ早速――――始めましょう?』
「ええ、よろしくお願いします。シャリエ」
 リデルは礼をした。シャリエは静かに笑ったようだった。
『ええ、こちらこそよろしくお願いします。リデル』

***

 そして、リデルは昼はスマイルに術を教えてもらい、夜はシャリエに再び術を教えて貰うという二重生活を送るようになっていた。
 彼女の存在を、ユーリやスマイルが気付いているのかいないのかは分からない。ただ何も言ってこないということは、気付いていないのか黙認しているのか。リデルにはその点は理解できなかった。
 それからシャリエに基礎から丁寧に教えられて初めて分かったことなのだが、スマイルのそれも決して間違ってはいないのだ。ただ少し難解で、感覚的かつ実践的であった為に初心者であるリデルには理解できなかっただけで。
 そういった点を補修してくれるシャリエの教えは初心者向けで非常に分かりやすかった。彼女の言葉ははっきりと明確で分かりやすく、かつ丁寧に基礎理論から教えてくれるために構造の把握が掴みやすかったのだ。
 そしてリデルがリデル自身の構成言語まで発見した後、それでも術を失敗し続けるリデルに彼女はぽつりと漏らした。
『構成も、構成言語も、術式も間違っていない。…ならば、後は考えられることは一つね。
 ――――リデル、貴方には強い願いというものが存在しないのね』
 強い願い。確かに術式を構成するときは何らかの願っているが、それは強いとは言い難いものだった。
『強い願いが存在しない貴方は、未だ生きたいという欲求すら薄い。…それは、あの男といても変わらない?』
 そう、なのだろうか。この城にやってきて、少しの時間が経った。確かにリデルには相変わらず三大欲求というものが薄いことに加え、…生きたいという欲求も少しあやふやだ。
 三大欲求は生物が持っている『生きよう』とする欲求の総称のことを言う。食う、寝る、子孫を残す。この三つが欠如している人間というのは、それはもう生きる意志すらない。
「…よく、分からないわ」
 生存欲求。本能からの叫び声。リデルの内には、人間である限り誰にだって一人はいる獣の声が聞こえないのだ。
 苦々しげに呟かれたリデルの言葉に、シャリエは苦笑したようだった。
『…今日は、いえ、お前がその欲求を取り戻すまではしばらく術の練習はお休みね。せっかく来たのだから――――お話でもしない? リデル』
「…気晴らしにはなるでしょう。ええ、お受けしますシャリエ」
 リデルは頭の中で響く声に恭しくかしずき、そこらにあった木製のチェアに腰掛ける。
『何故、スマイルがお前に術を教えているか分かる?』
「…生きていて欲しいから、と言われたわ」
 生きていて欲しい。生き延びて欲しい。それが術を教える前にスマイルが言った掛け値なしの本音。
『そう、そしてそれは私もよ。私も、お前に生きていて欲しいの』
「…それは、何故?」
 恐らく彼女の中にあるのは、この血統に対する古くからの怨恨だろう。なのにそれを抑え込めてどうしてそんなことが言えるのだろうか。
『…分からない?』
「ええ」
『どうしてかしらね? 聡明なお前が、どうしてこんな簡単なことに気付かないのかしら。ひょっとして、気付いているの?』
 シャリエはからかうように笑い声を上げる。
 リデルもその理由には気付いている。恐らくこうではないかという仮定ならば、ある。だがその理由に行き着く経緯に思い当たらないだけだ。
 ――――何故ならば、彼女は、
 リデルの脳裏に古い記憶が甦る。それは彼女の肖像画の周囲に取り囲むようにしてあった絵画。そこに並べられていた絵画に描かれていたのは――――
「…シャリエ、貴方は何故」
『だって恨んでも仕方がないことなのよ、リデル。私を辱めた人たちは既に、この世の者ではないのだから』
 ――――それは、裸婦画だった。精密に緻密に、毛の先一本まで丁寧に描かれた絵画。それだけならば良かった。だが周囲にある絵画はそんな生易しい物だけではなかった。
 絵画の中の大半の物は性交の最中を描かれた物だった。女性はたった一人、シャリエ・オルブライト一人だけ。そして男性はいつだって大抵複数人で、絵画によって描かれた男性はいつだって違っていた。
 真っ当な性交をしていたわけでもなかった。描かれてある絵画はすべて体位が違っていたり、描かれる部分が違っていたり、時には自慰をしている場面も描かれていた。
 そしていつだって描かれている彼女の苦悶の表情から、それが自ら望んだ物ではないというのが一目瞭然だった。
 ――――そして、彼女がこの行為によって死亡したということですら、子どもの目から見ても明らかだったのだ。
「…私には、お前の方こそよく分からないわ」
『そうかしら。…ああ、そうかもしれないわね。だってお前は恐怖や嫌悪感ですら、強く抱いたことはないものね』
 リデルのそれは、すぐに消えてしまうものだから。だから感情が風化していく感覚も分からないだろうとシャリエは笑う。
『でもね? リデル。私がお前を大切に思っていることは本当なのよ? 私はあの男とはあまり気があったことはないけれど、お前に関することだけは別だから』
 お前が大切で、生きて欲しいから。シャリエは慈愛を含ませた声でそう言って、たおやかに笑った。

***

 リデルは考える。相変わらず発動しない術式を構成しながら、リデルは思考する。
 シャリエは自分に生きて欲しいと言っていた。スマイルも自分に生きて欲しいと言っていた。
 リデルを生かすためにこの術を習わせているのだと言った。そしてスマイルがリデルに術を教えているという事実を知ったとき、驚愕の表情を現したユーリ。
 そしてユーリとスマイルは古い友人であると言いながら、リデルが目覚めたとき初対面の振りをした二人。
 …きっと、これを繋ぎ合わせれば真実という物が見えてくるのだろう。だがそれでもリデルは――――
「…スマイル」
 リデルは背後で己を見守っているスマイルに声を掛ける。スマイルはん? と反応を見せた。
「お前、私に生きていて欲しいんでしょう?」
 確認の色合いが強いのは、スマイルを怒らせたくないからだ。以前あれほど「生きていて欲しい」と言われたのにも関わらず、再度聞くのは気が引けるからだ。
「…何回言わせれば気が済むの?」
「きっとこれが最後よ」
 確認できればそれでいい。リデルは発動させようとしていた術を拡散する。シャリエの話が正しいのならば、リデルは今術など発動できないらしいのだから。
「…あのさ、リデルは生きたくないの?」
 スマイルもシャリエと同じことを考えたのかそうリデルに問いかける。リデルの答えもシャリエに返したものと同じだった。
「…分からないわ」
 スマイルと一緒にいられることは、嬉しい。それを望んでいると言っても過言ではない。その為にリデルは真実から目をそらし続けているのだから。
 だけどそれが生きたいという願いに繋がるのかは分からないのだ。
「…でも、きっと。私が生きたいと思っていても、きっとお前の命を優先させるという事実は変わらないわ」
「そーだろうねぇ、僕もそう思ってた」
 スマイルは酷く悲しそうな表情と声色でそう言った。
「…ねえ、リデル。リデルは色々と、知ってる事実があるよね? なのにどうして、この茶番劇に付き合うの?」
 スマイルは静かに言った。リデルが目をそらしていた事実を、あえてスマイルから問題を提示してきた。
「それは、」
「まだ事実が足りない? 足りなくてもそこは想像力でカバーしてるでしょ、リデル。…どーして気付いてるのに律儀に付き合うのかなぁ、ほんとーに」
 まるでそれは、リデルがその茶番劇から逃げることを望んでいるかのような。
「逃げればいい。その為に伏線を張ったんだから。そしてその伏線と君は関わった。だから、君なら逃げられるはずなのに。逃げてくれると…」
「思っていたと、本当にそう言うの?」
 リデルにはスマイルの言葉の意味をすべて把握しきれない。いや殆ど把握していないだろう。だが、リデルがこの城から――――スマイルの側から離れるということはそれこそ有り得ないことだろう。
 スマイルもその点について思い当たったのか、苦笑を浮かべて首を振った。
「…ううん、思ってなかった。リデルが逃げるなんて、そんなの有り得なかった」
「分かったならいいのよ、愚か者」
 そう言って、愚か者は本当はどちらなのか、それはリデルにも分からなかった。



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