Noble Wish
【 転 】
‐you know.‐


01.

 恐れることなど何もないと思っていた。
 本当に何もないと思っていたのだ――――昔から。
 死が怖いと人は言う。その為に力を欲した。そうすれば他者に殺されることはなくなった。死ぬとすれば寿命か、それとも自殺のどちらかしか選択肢にはない。
 裏切られるのが怖いを人は言う。なら他者に期待をするな。期待をさせるな。
 大切な者を失うのが怖いと人は言う。ならば大切な者など作らなければいい。元より他者に対する執着は酷く薄い。家族というものは一番最初からいなかったから温もりなんて元より知らない。
 酷く消極的だと自分でも思う。だがそれは事実だろう。恐れてしまうくらいならば何もしなければいい。恐れてしまう要因を作らなければいい。そうして今まで生きてきた。
 だから恐れるものも、怖いと思うことも何もなかった。
 それがどうして――――君と出会ってからすべてが一転するのだろうか。
 君と出会って、君に触れ、君が今にも死んでしまいそうな身だと分かって、この身は初めて恐怖する。そうだと理解して近付いたにも関わらず、それでも恐怖するのだ。
 ああ、大切な者を失うのはこれほどまでに恐ろしい。
 他者に触れ合い、温もりを実感した今、ようやく人が言う大切な者を失うのが怖いという感覚を理解する自分がいる。
 ならばどうすればいいか――――。考えた末に、己は一つの賭に出る。
 それは誰も知ることのない賭。この胸の内に秘めておくだけの賭だ。
 こちらが賭に勝つならば良し、負けるならばそれも一興。その為に、己はこのか細く儚い、今にも消えてしまいそうな命を――――

***

『…そう、あの男が』
 スマイルのことを決して名前で呼ばないシャリエが深刻そうに言う。
 リデルは先日スマイルがリデルと交わした会話を、リデルの部屋でシャリエに尋ねてみた。当事者であるスマイルにその意味を聞くわけにはいかず、ユーリには尋ねてはならないと本能が告げている。ならば最後の選択肢はシャリエしかいない。
『もう限界ということね、つまり。それがあの男の呪いなのだから仕方がないのだけど』
「…呪い?」
 そんなものがスマイルにかかっているというのか。
『聞いては…いないでしょうね。あの男も意外とプライドが高いし、それに忘れていたというのもあるのでしょうけど』
「忘れていた?」
『ええ、お前と関わるのが面白くて忘れていた可能性もあるのよ。あの愚か者は』
 シャリエは情けないような口振りでため息を吐いた。まるでその口振りは身内に対するそれのようだ。
「…シャリエは、スマイルとユーリと親しいのね」
『…ええ』
 騙していてごめんなさい、とシャリエは謝罪する。その言葉もまた、事実の一つだ。
『だけど、私やスマイルがお前に生きていて欲しいと思っているのは事実よ』
「…知ってるわ」
 それは信じるに値する言葉だ。彼女の言葉もスマイルの言葉も、ただただ真摯にリデルに生きていて欲しいと思っていたのだから。
『だけど、それを願っていてもどうしようもないこともあるから。だからこそ――――』
 今まで脳に直接響いてきたシャリエの声が消えた。驚愕に目を見開くリデルだが、その時リデルの口が独りでに動いた。
 脳内で勝手に術式が組み上げられる。リデルが決して成功しない術式。リデルの魂と、誰かの魂を繋ごうとしている。だが同一の、左右対称シンメトリーの魂を感じてそれが誰の魂であるか感覚的に理解した。
 そしてあまりにも自然に組み上げられた術式に感嘆の声を上げながら、それでも自分の体を勝手に使われているという不快感に鳥肌が立ちそうになる。
 これは、そう。まるで認証の時にユーリに拘束されたあの時と同じ感覚。
 リデルの喉が声を発した。
私は貴方と繋がるI link you.
 組み上げた術式を地脈に叩きつける。リデルの編んだ術式は地脈という巨大な大河に飲み込まれるかのようにその存在を掻き消された。そして――――
 脳の中で何か、カチリと音がした。それと同時に脳に激痛が走る。あまりの痛みにリデルは上半身からベッドに倒れ込み、荒い息を吐く。
 まるで/脳を/ザクザクと/何千本もの/剣で/串刺しに/されているような/錯覚。
 痛みに近い、死に似た。ああでも、己はこの痛みをよく知っていた。
 リデルの記憶の中ではそう遠くない昔。だが恐らく現在では、かなりの昔になる出来事。
 これは/この痛みは/あの病に/似ている。
「…大丈夫?」
 ほんの少し、リデルの体温よりも少し冷たい、だがしなやかで柔らかい手がリデルの額にかかる髪を掻き上げて額に触れる。
「無理をさせてしまったわね。私と貴方の魂だから大丈夫だと思ったのだけど…軽率だったわ。ごめんなさい」
 柔らかな、女の声。初めてあったときとは声色が違う気がした。リデルの心に余裕が出来たからだろうか。今はリデルを心から心配している。
 リデルは痛みをこらえてシーツに押しつけるようになっていた顔を上げる。先ほどと何ら変わらない部屋。だが一点においてのみ、それは変わっていた。
 リデルの顔を覗き込むように、心配そうにこちらを見ているリデルによく似た女がいた。違うのは髪の色と瞳の色と、肌の斑点の有無。リデルの髪と瞳が水色と紅玉であるのに比べ、女のそれはすべて金で出来ている。
 それを見て、女の言葉の意味を理解する。『私と貴方の魂だから大丈夫だと思った』。ああ、やはり。あれはリデルの見間違いなどではなかったのだ。
 激痛に擬似的な死を体感する。だがそれを押しのけて、リデルは女を真っ正面に見詰めた。
「…やっぱり、」
 リデルが最後まで言い終わる前に、女は花のように笑ってリデル隣に腰掛けてリデルの頭を撫でた。
「ええ、貴方の想像通りの顔でしょう?」
 シャリエはリデルと同じ顔で、華やかに穏やかに笑った。
「…痛むのならお休みなさい、リデル」
「それを、したならば…お前は、ここで何をやるのか、分からないから」
 途切れ途切れになりながらリデルはシャリエの穏やかな労りの言葉を拒絶する。
 痛みに苦しむリデルをシャリエは見下ろして、ふと全く関係ない言葉を発した。
「…ねえリデル、貴方はあの男とどう出会った?」
 あまりに他愛のないことだったからか、リデルはあっさりと答えた。
「…雨の日に。スマイルが私の屋敷に偶然雨宿りにやってきたの」
「それは本当に偶然?」
 ――――ああ、やはり。そういうだろうと思っていた。
「…作為的なものがあったとでも言うの?」
「確率的にはかなり高い部類に入るわね」
「だとしたら――――何のために?」
 その言葉に、シャリエは笑った。
「その真実を――――、いえこの茶番劇の真実を教えてあげる為に来たのよ、私は」
 未だ体の疲れがとれないせいで仰向けに寝転んでいるリデルにシャリエは静かに口付けた。
「…ッ!」
 舌も入れられない。唾液が混じり合ったりもしない。愛欲など欠片もない、ただ子どものように触れ合うだけの口付け。だが確実にそこから何かが吹き込まれている。シャリエの唇からリデルの中に、何かが吹き込まれ浸食されていっている。
 そして同時に、リデルの背筋から確実に何かが抜け出ていっている。
「シャリエ…!」
 口付けを無理矢理離し、リデルは叫んだ。
「あの男ももう限界なのよ。そしてそれを私に伝えるようにしてきた。なら、やらなければならないことは決まっているの。
 でも流石に、私がここまでやるとは思ってはいないだろうけど」
 シャリエは苦笑した。頭がクラクラしている。意識が、失われようとしている。
「だからその為に、まずは貴方の体を私に明け渡してちょうだい」
 食われる。
 これが二重存在ダブルに食われるということかとリデルは改めて実感した。だがしかし、この背筋から何か出て行っているという感覚は――――以前にも覚えがあった。
 それはどこでのことだっただろうか。
 これは/確か/スマイルの――――?
 その記憶を確かめる前に、リデルは暗闇に呑まれた。

***

 雨が降っていた。
 暗闇の中、リデルは古い記憶を回想する。
 リデルの周りを取り囲む世界は静寂に包まれていた。巨大な屋敷の中にはリデル一人しかおらず、何かの喧噪を生み出すわけでもない。そこに朝から降り続く霧雨が世界と自分の間に薄いヴェールを作り出していて余計にリデルの周りは静寂に包まれていた。
 リデルはその静寂をものともせずに、ネグリジェのままベッドで上半身を起こし書を読んでいた。この書に目を通すのはもう三度目だったが、別に構いはしなかった。面白い物はいつ読んでも面白い物だ。それにこの屋敷にある書物はすべて読み切っている。あまり意味がないだろう。
 この屋敷にやってきてもうどれほどの時が経とうか。少なくともこの屋敷にある膨大な書架をすべて読み切り、ついでにもう一巡してしまう程だろうか。しかもその一巡も終わりを告げ、現在では三巡目に突入している。
 だが、ただ無為に時間を潰すという役割だけならば本を読むということは最も適しているだろう。新しい本など要らない、既に読んだ本を循環して読めばそれだけで時間は過ぎていく。古い本を循環して読んでも新しい本に比べて費やす時間が少し短いだけのことだ。あまり苦にはならなかった。
 朝は定時に起き、定時になれば三食分の食事を作り定時に食べ、定時になれば風呂の用意をして入り、そして定時になれば掃除や洗濯を為し、定時に寝る。それ以外の時間はすべて書を読むことにのみ時間を費やしてきた。
 そうすれば一日などすぐに終わる。こんな風に決められたように過ごしていれば、簡単に終わってしまうものなのだ。
 何の楽しみもない、つまらない日々だとは自分でも自覚している。だが仕方がないではないか。リデルが歩んでいるのは死出の道だ。ただそう遠くない死に向かって歩んでいく生など、楽しみがあるはずがない。だが自分はそれで満足していたのだ。
 ――――この身は病に冒されている。
 それはリデルを知る誰もが知っている事実であり、リデルの肌を見た時点で誰もが分かってしまう事実である。
 黒い斑点。この時、既に黒死病と呼ばれたこの時代では不治の病に冒されていた。この時代では決して治らない病。貴族であろうが平民であろうが神官であろうが王族であろうが、罹れば誰一人として生き残ることは出来なかった病。
 故に、世間では暗黙の了解ができあがっていた。
『体に一つでも黒い斑点の出た者は既に黒死病である。その者はどのようなことをしてでも隔離するべし』
 どちらかというとそれは早計ではないかとリデルは思うのだが、それも仕方がないことだろう。黒死病は誰にでもかかる病であり空気感染するとも言われている。それが真実かどうかなどわかりはしないが、そう恐れられているのならば隔離されるが道理だ。
 そうしてリデルも郊外にあるこの屋敷に隔離された。一応建前としては静養という名の元にだが、明らかに隔離としか言い様がない。
 だがリデルはまだいい方だと思う。リデルは貴族だからこそ屋敷が与えられたが、これが平民ならばどこかの山に捨てられていることだ。山にはそうやって出来た死体が溢れかえっているという。
 それにリデルにはこの屋敷にやってきた当初は数人の使用人がいた。その使用人は元の屋敷にいた頃、比較的リデルと仲が良かった者を選んでいたがそれでも黒死病に罹っているリデルに対する脅えは隠しきれなかったのでさっさと元の屋敷に戻ってもらった。その使用人が現在どのような扱いを受けているのかはリデルには知ったことではない。
 それに使用人が居なくても、リデルの生活はあまり困らなかった。元々食は細いので調子の悪いときは何も食べなくてもいいし、炊事洗濯掃除などは自力でやればいい。使用人とはいえ、あまり他者に何かをやってもらうことが好きではないリデルはすぐにそれらをこなすことが出来た。結局使用人などいてもいなくてもあまり変わらないのだった。
 そうしてリデルのこの屋敷での日々は構成された。元々この屋敷は殆ど書庫のような扱いを受けていた別荘だ。リデルは一等この屋敷が好きで、だからこそここはリデルの隔離場所になったのだろう。
 さらさらと絹のような滑らかな音を立てて雨が降る。
 霧雨だから気付きにくいが、恐らく相当の量の雨が降っていることだろう。リデルはベッドのすぐ横にあるガラス窓を見て思う。
 雨が気になるのかどうかは分からないが、どうも今日は本の集中できない。今までこんなことはなかったというのに珍しいことだ。リデルは諦めて本を閉じてベッド脇のチェストの上に無造作に置いた。
 しとしとという霧雨の中に、ぱたぱたという音が混じってきている。雨脚が強まってきているのだろうか。だがそれにしては…
「嫌に物理的ね…」
 雨音も確かに物理的だが、彼らのそれは何かにぶつかって水が弾ける軽い音だ。だがこのぱたぱたという音は、どことなく足音に似ている。
 いや、似ているというよりかは…
「足音そのもの…?」
 そうとしか考えられない音だ。雨音はこんなにもしっかりと地面を反射するような叩く音はしない。
 だがこの足音も妙に軽い音がしている。軽い…まるで存在そのものを感じさせないほどの軽い音。ふとそこでリデルは違和感に気付いた。存在そのものを感じさせないほどの軽い音ならば、何故リデルは気付いたのだ?
 だがそんなことを考えても仕方がないだろう。気付いたものは気付いたのだから仕方がない。それよりもこの不法侵入者をどうするかが問題だ。恐らくこの不法侵入者は雨宿りをしに来たのだろうが、この屋敷はリデル以外誰もいない。それに加えてリデルは黒死病に罹っている。黒死病は現在最も恐るべき病、この屋敷にやってきた者に移したくはない。
 この屋敷を立ち去るかどうか決めるのはやってきた本人だが、とりあえずリデルはその事実を告げに立ち上がった。
 …正直に言えばこの時、関わりたくないというのが紛う事なき本音であった。この肌を見たときの反応は大抵予想がついているし、そのように反応されるのも飽きているのだ。もう人と関わりたくないと思っていたのかもしれない。
 だけどそれでもリデルは立ち上がるのだ。それこそが彼女の本質であるが故に。彼女が彼女であるが故に。

***

 屋敷の中を歩き回る。この屋敷はリデルが幼い頃から避暑としてよくやってきていた場所だった。幼い頃はこの巨大すぎる屋敷で兄妹達と共に鬼ごっこや隠れん坊をしたものだ。
 故にこの屋敷にリデルの知らぬ場所はない。リデルはこの屋敷の構造をすべて把握しており、隠れん坊の鬼をさせたら全員を確実に見つけてしまうので一時はリデルの鬼は禁止になったほどだ。
 だというのに、それほどまでの実力を持ったリデルだというのに。
「…追いつけない、ですって?」
 どうやら足音はリデルと違ってこの屋敷を散策しているらしい。絶えず移動を続けている足音はそこらに立ち止まったり歩調を早めてみたり遅めてみたりと興味津々とばかりに歩き続けている。
 足音がリデルに気付いた様子はない。それはそうだろう。リデルは現在裸足でこの屋敷を歩き回っている。床はすべて絨毯が敷かれており、足音をすべて絨毯が吸収する。足音を立てる要因がまるでないのだ。
 だというのに、リデルは追いつけない。それはリデルとの歩幅が違いすぎるからか、それともただの偶然か。どちらかは分からないが、リデルは相手を捕まえなければ。
 ひたひたという水が滴る足音と、殆ど無音、だが確かにとたとたという軽い足音が屋敷の中で交差する。雨の音ではなく互いの足音だけが聞こえる。
 繰り返し続く足音。リデルはそれを追いかける。そしてリデルの足音も繰り返される。
 まるでこれでは兎を追いかけるアリスのようだ。行けども行けども追いつけない、盛大な鬼ごっこか隠れん坊。
 そこでリデルはふと気付いた。自分が追いかけている足音がいつの間にか一定間隔を保っている。あまりにも一定間隔を保ちすぎている。この歩調は人間では不可能のそれだ。元々そのような歩調ならばリデルも納得するが、先ほどの足音は様々な物に目移りしていた主の気まぐれさが現れている。
 リデルは立ち止まる。これでは疑ってくれと言わんばかりの足音。ならば疑ってみようではないか。正攻法で相手の気配を辿るのをやめる。それだといつまで経っても追いつけない。目で見ようとはしない。感覚のみを訴える。
 視覚など不要と瞼を下ろす。ひたひたとどこからか足音。それは一定のペースを保っている。保ちすぎているのだ。動物の足はそんなにも一定のリズムをとりながら歩けるものではない、本人が一定と思っていてもどこか不規則であるのが道理。リデルはそれを知っていた。だから聴覚を放棄した。
 視覚を放棄し、聴覚を放棄し、リデルは相手の気配のみを辿る。
「……」
『……』
 遠くから聞こえている足音と、何故かリデルの物とは違う気配がこの場にある。おかしなことだ。ならば遠くからのあの足音は何だというのか。
 だがリデルは自分の直感を信じている。己の感覚と知識を信じているからこそ、このような行動に移すことが出来る。
 リデルの手が動く。中空を掴んで空回りする。そこで誰かの笑う気配。
 ――――ほら、やっぱり誰かいた。
 先手を打っていて正解だったようだ。リデルは確信の笑みを浮かべてもう片方の手をその声が聞こえてきた方に動かした。
「…捕まえた」
 今度こそリデルの腕に確かな感触。だけどそれは何故かぐっしょりと湿っていた。だがそんなことは構うものかとリデルはその腕をしっかり掴んで、下ろしていた瞼をあげ冷ややかな眼光で言った。
「姿を現しなさい。お前は何者? 何用でこの屋敷に? 危害を加えるためだというのならば、私はお前を殺すことも辞さないわ」
 恫喝するように声を低くして睨み付ける。この目にはただ廊下の風景しか映さないが、この手には誰かの腕を掴んでいる感覚があるのだから。そこにいるのだという確証はある。
 …すると相手はリデルが拍子抜けする程あっさりと姿を現した。いや現していた。
 リデルの掴んだ腕の先にまるで初めからそこにいたかのように、青い肌と赤い瞳、青い髪の毛の、全身ずぶ濡れな包帯男。あっさりと捕まえられたのが不服なのか、不満そうに頬を膨らませていた。成る程、掴んだ腕が奇妙に濡れていたのはこれだったか。
「…お前、雨宿りに来たの?」
 ぐっしょりと濡れている包帯男にリデルは問う。包帯男はそうと頷いた。
「朝から雨降ってたデショ? 雨宿りできる場所探してたんだけどいい場所なくて…歩いてたらいつの間にかここまでびしょ濡れになっててさァ。そこでこの屋敷を見つけて、中入ってみたんだけど誰もいないみたいだけど妙に綺麗だし。だからちょっと探検させて貰いました」
 ごめんなさいと男は言う。素直に反省しているようだから別に己としては構わないが――――
「…お前、私に対して何か言うべきことはないの?」
「へ? だからごめんなさいって」
 謝ったよ? と子供じみた仕草で首を傾げる男にリデルの思考は止まりそうになった。
「…それだけ?」
「思いつく限りはそれだけだよ」
 それは、何の化粧もしていないこの肌を見ていてなお言っているのか。
「この肌を見ても、何も言わないの?」
「肌? あー、斑点かァ。黒死病の証だねェ」
 男はリデルがそう言ってから初めてリデルの肌にある斑点に気付いたかのようにまじまじと見て、別に何の感慨もなさそうにそう言いきった。
 別に同情するでもなく、かといって恐れるわけでもなく。ただその事実を受け入れる、ただそれだけの視線だ。

 頭上には星屑。堕ちるは奈落の底。くるくると堕ちていく星。
 その何気ない、たった一つの言葉で、リデル・オルブライトはその男を受け入れることを決めたのだ。

「…同情して欲しいの?」
 何も言わないリデルに男は問いかける。口元にある笑みはどこか嘲笑に歪んでいた。
「――――まさか。侮らないで欲しいわね」
 嘲笑に歪む唇には嘲笑で返してやる。同情など欲しくない。そんな無意味な物は必要ないだろう。
 その意図を込めて視線を投げかける。そうすると同じような視線が返ってきて、何故だか分からないが笑ってしまった。
「…それで、お前が私を恐れないのならば付いてきなさい。雨が止むまでの宿くらいは貸してあげるわ」
 リデルは男の手を離して、男から若干距離を取って問う。だが男の答えを待つ前にリデルは歩き出していた。
 この屋敷を一晩の宿にするのならば付いてくるだろうし、リデル――――黒死病を恐れているのならば今すぐ立ち去るだろう。…あの男の態度を見る限り恐れてなどいないだろうが。
 背後から続く足音。明らかにこちらに向かって歩いてきている。リデルは振り向いて男を見た。最後の忠告をするのを忘れていた。
「…黒死病が移っても知らないわよ」
「移らないよ、人間じゃないし」
 男は当たり前のように言った。
「それで? 君は僕のこと怖くないの? 一応これでも人間じゃないんだけど」
 何を当たり前のことを言っているのだ。
「怖くないに決まっているでしょう。――――行きましょう、この屋敷にいるのは私一人だけれど、お前一人分くらいならば私一人でも訳はないでしょう」
 そしてリデルは前を向いて歩き出す。男もリデルの後ろについて歩く。
 そこでリデルはふと気付いた。そういえば――――
 リデルは振り返ることなく男に問いかける。
「そういえば、お前の名は何というの?」
「僕? 僕はスマイル。そっちは?」
「――――リデル。リデル・オルブライトよ。よろしく、スマイル」
 リデルは花のように笑った。

 それから本来は旅人である筈のスマイルという名の透明人間は、何故か一晩の宿である筈のこの屋敷に長く滞在することとなった。
 スマイルとリデルは互いの性質がとてもよく似ていたせいか、当然のように仲良くなっていった。それは生前、死ぬまで思っていた事実だ。

 それはとても他愛のない出会い方。偶然としか言い様がないそれ。
 だけどそれが偶然ではなく何らかの策略があるとすべてを知っているらしいシャリエから言われてしまえば――――リデルはどうすればいいのだろうか。



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