Good Night.

[ 3 ]

 ………記憶が混濁している。彼女は思った。
 確かに彼女はクルミが好きだ。クルミは生で食べるのが一番だが、クルミのクッキーは美味しくて食べやすくて好きだと思っている。だがそれは先ほど見たものから由来するものではない筈だ。
 いや、そもそも―――あれは自分の記憶ではないはずだ。自分が見たものではないはずだ。
 だから違う。違う筈―――なのに。
「本当に大丈夫っスか? あ、それともクルミのクッキー好きじゃなかったっスか!?」
 だけど先ほどのそれは確かに己の記憶だと自身が告げる。この声を聞いて、確かにそうだったのだと告げるのだ。
 故に彼女は小さく首を振った。変わらず好きだと言うと、青年は嬉しそうに笑った。
「そうっスか! 良かったっス」
 その笑顔を見ていると思い出すことが沢山あるような気がしてくる。先ほど見た二つの光景とはまた別に、思い出さなければならないような。なんだか懐かしい気分になる。
「あ、紅茶冷めるっスよ」
 言われてからようやく、彼女は自分の分の紅茶があることに気づいた。彼女はカップを手に取って紅茶を一口飲む。多少さめかけていたそれは、それでも確かに美味だった。
「クッキーもどうぞ」
 カップをソーサーに置いた時点で、青年は見事なタイミングで彼女にたくさんのクッキーの乗った皿を差し出した。色とりどり、多種多様なクッキーの中で彼女は迷わずに何の飾り気もないクルミのクッキーを摘み上げる。
 口に含めば、やはり懐かしい味がした。まるで何度も何度も食べたかのような懐かしさ。その素朴さは郷愁を思い出させる。
「美味しいっスか?」
 尋ねられれば、彼女は素直に頷いた。
「ありがとうっス! そう言われたら俺も■■ルさんも嬉しいっスよ!」
 そうですよね、と青年が少女に話を振る。
「そうね、■■■ュ。私も■■■ュも作った甲斐があるというものね」
「はい!」
 嬉しそうに笑い合う二人。この城の調理班である二人は、基本的に料理に関して何かを言われたことがないから(それだけで既に感想になっていると言えるのだが。主に■■王など)、こうやって口に出されるのが嬉しいのだろう。
 そう言えば、偶にキッチンなんかで愚痴を言われたことがある。あれはどちらからだったか、と『私』は考えて―――

 カチャン。カップをソーサーに置くその音は、やけに大きく『彼女』の耳に届いた。

「―――■■■ル」
 少女は音を立てた無粋を咎めるように青い肌の青年を見る。だが青い肌の青年はそれを「ごめんねぇ、■■ル」などと軽く流して彼女を見る。
 青年のその視線―――それこそ正に咎めるソレ。まるで彼女があることについて考えることを咎めるかのような。
 何故、と彼女は思う。
 何故そのような目を向けられなければならないのか。何故考えてはならないのか。
 考えても答えは導き出されない。答えを導き出すには、判断する材料が少なすぎた。
 だが何とはなしに分かるような気がした。この青年は誰よりも秩序を厭っている割に誰よりも秩序を尊ぶのだ。それは秩序というものがどういうものかよく分かっている彼ならではなのだろうが。
 そして今、この不思議な空間を保つ為には『私』が何かを思い出さないことが鍵なのだろう。
 改めて彼を見れば、彼は顔に薄く笑みを引いていた。その通りだとその瞳は語っていて、そして彼は名前の通りの笑顔で笑った。

***

 彼はあまり城にはいない。
 だからこそ、私は彼がここにやってきたことに対して酷く驚いた。
「何でそんなに驚いてるの?」
 それは貴方がここにいるからだ、と答えた。
 貴方はこの城にはいない。いたとしても母のような水色の髪の彼女の傍にいることを常としているのに、どうしてここにいるのか。ここに彼女はいない。
「知ってるよぉ。でも僕がここにいちゃいけない理由もない」
 それは確かにそうだ。私は頷いた。
「それを言うならキミもだけど? ■■■ちゃんの傍にいないなんて珍しい」
 それは、今は彼の大切な彼女と一緒にいるからだ。だから■■■に危険はない。つまりは私は傍にいる必要はない。
 私は■■■が一人の時こそ傍にいるのだから。
「僕も同じ理由だよ」
 彼はその名の通り笑いながらそう言う。その笑いはやはり道化のようだった。
 だからといって何故ここに来る必要があるのだろう。白日の下で見る彼は少し違和感を覚える。彼は生粋の夜の人間なのだから。
 その問に答えるかのように、彼は頷いた。
「■■■ちゃんが探してたよ?」
 それは何故だろう。■■■には私の声は届かないけれど、ちゃんと私がいつもの場所にいることが分かっているはずなのに。
「不安なんだってさ」
 不安? 何が不安だというのだろう。彼女は不安なんて覚えなくてもいいのに。
 ―――それに、私は上手く隠せている筈だ。
 彼は私にとっていつもの場所―――即ち城の庭で一番巨大な樹の枝に腰掛けて、枝の先に止まっている私を見て、嘲るような表情を見せた。
「…最近、飛んでないみたいだねェ?」
 ぎくり、とした。
「臭うよ、最近。―――いつからそこにいたの?」
 いつから―――それは、いつからなのだろう。
 問われて初めて、私はその疑問に思い当たる。その疑問の答えを返すことが出来ないほど、私はこの場所に立ちすぎていた。
 正確なところを把握しているのは■■王くらいしかいないだろう。
「あの子は人間にしてはその匂いに敏感だ。だから不安になってる」
 ―――そういえばそうだった。
 青年が言ったとおりに、彼女はその匂いに対して本当に敏感で。私が今まで幾ら覆い隠したところで、僅かな匂いも嗅ぎ分けて彼女はそれを見つけ出してしまうのだ。
 だから今まで彼女は一人だった。だからこそ、彼女は孤独だったというのに。
「■■リは知ってるの?」
 むしろ彼しか知らないのではないか。この場所に長い間いることは不可能だというのに、それを可能にさせてくれたのは■■王の力だ。
 そして今、この匂いを他人が見つけることが出来るのはこの場所に立つ必要がなくなったということだ。
「■■■ちゃんが寂しくなくなったから? でも、キミが■■■らあの子は悲しむよ」
 それは知っている。だか彼女は孤独ではなくなった。
 ここならば、傷を癒すにも十分だろう。
 私がそう答えれば、彼は仕方ないとばかりに小さくため息を吐いた。
「キミもこっちに来ればいいのにねェ。そうしたら、誰も悲しまないで済む」
 それが出来ればどんなにいいか。
 だが仕方がないではないか。私は、生物としての私の生涯を気に入っているのだから。

 そして、彼女を生涯かけて守り通すに相応しい方を、他ならぬ彼女こそが既に見つけてしまっていたのだから。